第四話
理科喫茶の閉店時間は午後五時半だ。いつも閉店まで入り浸っているから、よく知っている。午後七時というのは、閉店後。マスターのプライベート・タイムのはずのその時間に、理科喫茶まで来いというのは尋常ではない。すくなくとも、マスターと客という関係を逸脱している話だろう。そもそも、メールアドレスなんて交換している時点で、客を逸脱した、個人的な友人なのだとも言えるが。
午後七時。店の前には、見慣れないバイクが一台だけ止まっていた。暗くなってからこの店に来たことというのは、今のところない。
ドキドキしながら扉を開けると、カララン……とドアベルの音がした。
中にいたのは、マスターと……もうひとり。
背の高い、黒スーツの男だった。
「あ、あなたは……角砂糖の!」
うっかりそんなふうに言ってしまったが、そう……目付きの悪い黒スーツの男。角砂糖を大量に入れ、アメリカンコーヒーを注文していた例の男である。
「角砂糖の、だってよ! 匡くん、覚えてもらえててよかったねえ」
「やかましい、黙れ」
けらけらとマスターが笑ったのに対し、男が怖い目で睨みつけて一喝。
マスターのテンションはいつもどおりで、まったく変わらない。が、閉店後に呼び出しておいて、知らない人が一緒にいるというのは……なんだかヤバい感じがする。ほんとうに応じてよかったんだろうか?
……『だからさ、あきら。それっぽい人を見ても近寄ったりしちゃダメよ。危険な目にあってからじゃ遅いんだから』
ふと、ルチカの言葉を思い出した。
黒いスーツに、怖い目つき……まんま、当てはまっているじゃないか。
近ごろ、トッテム・タウンにやってきたという『やくざ』に!
まさかこれ、やくざの会合なんだろうか。
なんかよくわからないけど怖い!帰りたい!
そんなわたしの動揺を知らないマスターは、あっさりと本題に入りはじめた。
「ごほん。さて、きょうきみに来てもらったのは他でもない。この町で、いま、大変なことが起きている」
「あのゼリー状の化物の話ですか?」
と、おそるおそる尋ねてみたが、マスターは肯定も否定もしなかった。
「まあ、それもある」
それもある、とはどういう意味なのだろう。それ以外にも『大変なこと』が起きているということか?
「単刀直入に言おう。あのゼリー状の化物はね、異変の前兆にすぎない。これからもっと恐ろしいものがこの町へやってくるんだ」
「もうちょっとだけ単刀直入な感じに言ってくれませんか?」
「このあいだ、ぼくは言ったね。『緑色のスーツのヒーローに会ったことがある』と」
「言いました」
「あれは、半分ウソだ」
マスターはあっさりとそんなふうに言って、ウインクをかましてきた。
いつものノリだけれど、言っていることは意味がわからない。
「半分、とは?」
「いやあ、改めて言おうと思うと、どう説明したものかわからんのだがね。『緑色のスーツのヒーロー』というのは、このぼくがつくったものなんだよねえ」
「は?」
ロイドめがねの奥の目が、きらりと光った。そして、彼はわざわざ店の奥まで歩いていき、白くてふわっとした布きれのようなものを取ってきた。よくよく見ると、どうやら白衣のようだ。
「じゃ、じゃ、じゃ、じゃーん!! あるときは、理科喫茶のマスター! またあるときは、女子大学生の陽気なお友だち! その正体は……なんと!!」
白衣を急いで羽織ってひらひらと翻し、彼はこう宣言した。
「マッド・サイエンティストのミスター余儀!! このトッテム・タウン随一の天才科学者とは、このぼく、余儀博士のことなのだ!!」
…………。
いや、肝心の知りたい情報がまったくないんですけど。
あいだをすっ飛ばしすぎだ。
どこが単刀直入なんだ、どこが。
まあ、マスターはいつもこんな感じだけれど……。
「まったく、これだからバカ科学者は困る」
非常にシンプルに、ざっくりと切り捨てたのは黒衣の男だ。
彼はつづけて、こう言った。
「おれが代わりに『単刀直入』に言う。天牛あきら、きみは狙われてるんだ。それは、身を持ってわかっているだろう」
「……!」
わたしは、ゼリー状の怪物に、二回襲撃されている。
それは、この町が異常だからだ、と思っていた。
「わたしが、狙われてる……?」
「ああ、そう言った」
とても、腑に落ちる結論だ。
どうしていままでそう思わなかったのか、ふしぎなくらい。
狙われてるのはトッテム・タウンじゃない。
わたしなんだ。
黒衣の男は満足そうにわたしを見つめて、こう提案した。
「だからわれわれがきみを護衛したい」
「護衛……ですか? あなたが?」
「おれでは不満か」
不満か、とかそういう問題ではなく……。
この人は、何者なのだろう?
マスターの代わりに説明をしてくれると言っていたはずだが、まだなにひとつ、この人のことを聞いてない。
「おれの名は、西所匡」
「ニシトコロ、タダシさん……」
「きみを助けた『緑色のスーツのヒーロー』とは、おれのことだ」
わたしは、そう言った彼の姿をまじまじと見つめる。真っ黒いスーツに身を包み、目つきが異様に鋭い。背はかなり高い……2メートルくらいあるんじゃなかろうか?
この彼が、『緑色のスーツのヒーロー』。
ピンとくるような、こないような……。
きつねに化かされているような気持ちが消えない。
「あなたの、お仕事はなんなんですか。なぜ、ヒーローを?」
「…………」
わたしが反射的に問いかけると、彼は気まずそうに目をそらす。その仕草に、なんとも言えない違和感があった。ただだれかを守りたいという人にしては、なにかを隠しているような感じがあったのだ。
わたしの命を助けてくれたのは、たしかにこの人なのかもしれない。
でも、ただ善行のために助けたのなら、こんな顔はしない。
「もしかして、やくざ屋さんじゃないんですか」
もうちょっと言葉を選ぶべきだったかもしれないが、思わずそう言ってしまった。
ルチカの悲しそうな顔が目に浮かぶ。
彼女はあれだけ警告していた。
わたしには、そんな彼女に応える義務がある。
西所はどうやら、わたしが疑念を抱いているのを見て焦ったようだった。やはり、ただ『護衛』したいというよりも、わたしを『利用』したいのではないだろうか、と思わせる。
「ちょっと待ってくれ。おれはきみを守ろうと言っているんだぞ。やくざかどうかは関係ないじゃないか」
「関係ないなら、正々堂々としていればいいのではないんですか。どうして、そんなつらそうな目を、気まずそうな顔をするんですか」
図星だったらしく、彼は押し黙ってしまった。となりにいるマスターも困ったように黙っている。
「わたしはいま、あなたたちを信用できないかもしれないと感じてます。目的は『護衛』ではないのではないのですか」
震える体を押さえながら、わたしはそんなふうに言葉を紡いだ。
「目的は『護衛』ではない、ね。たしかにそうかもしれない」
と不敵に笑ったのはマスターだった。
「オッケー、あきらちゃん。長いおとぎ話を聞いてほしいんだけど、いいかな」
+++
とは言ったものの、なにから話したらいいんだろうね、匡くん。あ、いま、目をそらしたね。
そう……まずは、この世界についてかなあ。
この宇宙の人間は、世界というものがたったひとつしかないと思いこんでいるようだが、実は違うんだ。その証拠に、匡くんは別の世界から来たんだからね。
別の世界の人間たちは、この世界を『陽光の季節』と呼んでいる。ちなみに匡くんがいた場所は『竜巻の季節』と呼ばれていたね。
『季節』という呼び方は変に思うかもしれないが、きみたちのいう『世界』という意味だと思ってくれればいい。いまのところはね。
この『陽光の季節』では、『台風』や『大雪』といった異常気象があるだろう?
それと同じように、『季節』には異常現象が起こることがある。
え、なにが同じなのかよくわからない?
まあ、わかろうとしてわかるもんでもないし、ぼくは説明が下手だから、フィーリングで察してくれよ。質問ならあとで受け付けるから。
異常現象の代表例として、『渦巻き』が挙げられる。
『渦巻き』といってもピンとこないだろうが、『特異点』とでも言い換えればわかるかな?
この『渦巻き』というのは、天候の異常ではない。ひとりの人間に与えられる呼称なんだ。この人間の周囲には争いや時空の歪みが頻発する。まあ、言ってみれば超弩級の『不幸体質』だね。
この人間だけが不幸になるのなら放っておけばいい話なんだが、この『渦巻き』という存在は、厄介なことに、放っておくと『季節』が崩壊してしまうということが観測されている。
超絶不幸な人間がひとりいるだけで、世界は滅ぶ。これはもはや確定事項でね、いままで数多の『季節』が滅んでいった。
お、いま、びっくりした?
そう。
匡くんの『竜巻の季節』はね、『渦巻き』による時空の歪みのせいで消えてしまったんだよ。跡形もなくね。
生き残った人間たちは知恵を絞って考えた。
そして、『渦巻き』を監視し、その力を無効化する方法を研究しはじめた。『渦巻き』は他人の管理下に置かれなければならない。滅びを呼ばないために、『不幸』を統括しなければいけないんだ。
さて、ここまで来ればオチは察してくれてもいいと思うんだ。
あきらちゃんは賢いから、なんとなくわかるんじゃない?
天牛あきら。
きみが、この『陽光の季節』を滅ぼす災厄。
『渦巻き』なんだよ。
怪物に襲われたのも、異空間に引きずり込まれたのも、
ぜんぶきみが『特異点』だからだ。
ぼくたちふたりが守りたいのは、きみではない。
この世界、そのものなんだよ。
きみがぼくたちに抱いた不信感、これで払拭できたかな?
+++
マスターの話はそこで終わりのようだった。
わたしはあんぐりと口を開けたままで、数分はなにも言えなかった。
「…………うそ、ですよね」
「そういう反応をすると思ってた。でも、きみはうそじゃないって、なんとなくわかってるでしょう」
西所匡がやくざかどうかとか、マスターたちに護衛の意志があるかどうかとか、そういう細かい部分がすべて吹っ飛んでしまうほどのインパクトが、マスターのおとぎ話にはあったと思う。だって、その話がほんとうだとしたら……わたしは……。
わたしのせいで、トッテム・タウンが。
この地球が……いや、宇宙そのものが。
なくなるかもしれないということなのか?
その先、ふたりとどんな話をしたか、よく覚えていない。
たぶん、護衛をお願いして、おとなしく帰ったのだろう。
あまりに現実味がないせいで、記憶にすらとどめることができなかった。
マスターの正体はマッド・サイエンティストで。
マスターの相方は無愛想でおっかないヒーローで。
そしてわたしは……世界を滅ぼす災厄。
そんなコメディみたいな話、信じられるわけがない。
朝起きたら、すべてが夢だったと判明するはずだ……。
そう思ってベッドに入ってみたのだけれど、どうにも頭のなかが整理しきれず、一睡もできないまま夜が明けた。
また理科喫茶へ行って、マスターに今後について相談するべきだろうか。
それとも、この異常事態について、あの風変わりな友人に意見を求めてみるべきか。
昼すぎまで、そのふたつの選択肢をいつまでも手のひらの上でもてあそんでいた。
マスターに現実を突きつけられるのも、ルチカにこのことを伝えるのも、怖くてしょうがない。
結局、わたしはこの日、家から出なかった。
家から出なければ、怪物に襲われることも、不幸に見舞われることもないと思っていたのだけれど……ふと立ち上がった拍子に、部屋にあった花瓶を落として割ってしまった。
『ぜんぶ、きみが特異点だからだ』
花瓶の破片をちりとりで集めているあいだ、ただただマスターの言葉だけがリフレインしつづけていた。
20181210