第七話
『ロード・ロード・リロード』で買ったアイスを食べながら通学路を歩いていると、背後から声をかけられた。
「よっ、あきらちゃん。おつかれさま」
「相模! 久しぶり」
そこにいたのは相良相模。どっちが名前でどっちが名字なんだかわからない響きの、わたしの古くからの友人だ。線が細く、流れるような美男子だが、どこか飄々としていてつかみどころがない。高校時代、クラスメイトに彼のことを聞いてみても、
「そんなやつ、いたっけ」
などと一蹴されたりしたこともある。見た目の美しさに反して、影が薄いようだ。
しかし、わたし自身は、彼のことを忘れたことは一度もない。
「最近、会ってなかったね。どう? なにか変わったことある?」
ふわりと長めに伸ばした茶色の前髪をかきあげて、相模はそう尋ねた。
……変わったことなら山ほどあるが。
彼に言ってもいいものだろうか?
すこし前のわたしなら躊躇せずに言っていただろう。が、わたしが『特異点』であり、命を狙われているということを踏まえると、言わないほうがいいような気がした。
相模を危険に晒すかもしれないからだ。
「……相模は、ヒーローって信じる?」
「ひーろー? なになにマンみたいな?」
「まあ、そんな感じ」
相模は質問の意図を推測するように首を傾げつつ、
「信じないかな」
と答えた。
「どうして?」
「逆に、あきらちゃんは信じてるの? 人を無償で助けるヒーローなんていないよ。みんなだれかに利用されてるだけ。世の中、腐ってるからね」
このシニカルさが彼の持ち味だった。懐かしいな、とわたしは思う。
わたしが、二度もヒーローに助けられたと知ったら、彼はどう思うのだろうか。
「わたしは……信じるよ。ヒーローはいる」
「ふーん?」
ま、気をつけなよ。
と相模はつまらなさげに言った。
いつまでたっても全然変わらない彼の姿に、ひどく安堵した。
++++
『ヒーローはいる』。その言葉には根拠がある。例のふたりのヒーローとは関係なく、ヒーローというものを信じざるを得ない理由が、わたしにはある。
というのも、わたしがこの世で最初に見たヒーロー的なものは、相良相模だったのだ。
高校の頃、下校中に信号を無視した車にはねられ、骨折したことがある。その後、しばらく入院していた。怪我は治り、無事に復帰できたのだが、単位の取得が危うかった。
気づけば、『あと一日』休んだら留年、という不可抗力の糸に絡め取られていた。
なのに、冬のある日、うっかり寝坊をしてしまう。
この頃から、そういうギリギリの緊張感や当事者感覚のようなものが非常に薄かった気がする。緊張感がないから、当たり前のように寝坊する。留年一歩手前という事実に気づいてから、猛烈に焦り、家を出て、全力で走った。しかし、その程度で間に合う寝坊ではない。
「もうこれ、歩いてたら間に合わないじゃん……」
と気づいた頃には、もう通学路の半分程度を歩いてきてしまっていた。車で送ってもらえる人もいないし、もはや留年か土下座しかない。と観念した。道路にうずくまり、頭を抱えた。留年かぁ。友だちはみんな別の学年で、知らない子ばっかりのクラスで、みんなよそよそしいんだろうな。同級生なのに敬語使われちゃったりして。
「よ、あきらちゃんじゃん」
軽やかに頭上から声が降ってきて、わたしは空を見上げた。
留年の妄想が途絶える。
目の前にあるのは、青い空と、相良相模。
快活に笑っている彼は、自転車に乗っていた。私服だった。
「どうした? 遅刻しそうなの?」
と彼が問うので、わたしはテンパりながら答える。
「留年……しそう」
わたしがそれ以上の説明をする前に、相模は真顔で自転車から降りた。
「これ、乗りなよ。いいギアついてるからさ」
「え、いいの? 相模はどうするの?」
「ぼくはきょう、サボりで遊んでるだけだから。アイスでも食べて、歩いて帰るよ」
長い前髪を風に揺らして、相模はそのまま、『ロード・ロード・リロード』へ向かって去っていった。どうやらほんとうにアイスを食べるつもりらしい。
相模の自転車にまたがると、わずかにつま先が浮いた。そうか、相模のほうが身長が高いんだ。そんなことをぼんやり思いながら、わたしは学校までの道のりを、自転車で駆け抜けた。『いいギアついてる』と彼が言ったのはどうやらほんとうらしく、なめらかにペダルを漕ぎ続けて、無事、始業に間に合うことができた。
それが、数年前のこと。
相模は、そんな些細なことはたぶん覚えていないのだろう。
彼は友人に自転車を貸しただけだ。
でも、わたしは忘れない。
粗忽なわたしが、彼の優しさによって救われたことを。
どんなヒーローよりも、ヒーローらしいと思ったことを。
+++
コーヒーを飲み干した瞬間に西所が入ってきたので、余儀はついついおかわりを要求しそうになった。余儀の研究ルームには、きょうもコーヒーの香りが立ち込めている。
西所は空いている椅子に座り、長い足を組んだ。そうしていると、ほんとうにヤクザのようで様になっている。
余儀は手元でのデータ入力作業をやめることなく、画面に目を向けたまま問いかけた。
「やあ。なにかわかった?」
「……なにも。だが、なにもわからないということが妙だ」
西所には天牛あきらの身辺捜査を頼んでいる。
彼女が特異点である以上、その周辺には完璧に気を配らなければならない。どんな些細な異常が致命的な破壊につながるか、予想ができないためだ。むろん、これまで失敗したことなどないので心配には及ばないのだが。
西所は淡々と報告をつづける。
「相良相模。年齢不詳、性別不詳。見た目は男性だが詳細なデータなし。天牛あきらの同級生としてふるまっているが所属不明。驚くべきことに、大学に置いてあるデータはダミーだ。実体がない。そもそも、この名前も借り物かもな。いかにも嘘くさい名前だし……きな臭いぜ」
余儀は手を止め、軽く振り向いて笑った。
「ここからは、天才・余儀の分析。彼そのものが『異変』である可能性はかなり低い。見た目が無害すぎるし、破壊の意思を感じない。でも、ここまで不透明な存在は怪しすぎるので無視はできない」
「要経過観察、ってところか?」
「健康診断の結果みたいな言い方は解せないけど……それで合ってる。様子見だね。おそらくぼくらには関係ないと思うけど、一応見張っておいてくれ」
「了解」
と言って右手を振りつつ、西所はあらためて話を切り出した。
「とはいえ、危険な人物である可能性はゼロじゃない。一応、彼女にも伝えておこうかと思うんだが……」
余儀は表情を変えた。
それまでの笑顔を、一瞬途切れさせ、意図的な真顔に。
数秒置いて、また笑い直す。いびつに。快活に。
「いやいや。なに言っちゃってるの。匡くん、きみらしくもない。ダメに決まってるでしょ」
「は……?」
西所はそんな返事は予想していなかったというように、首をかしげた。
余儀は小学生に相対するように説明を開始する。
「特異点を揺るがすようなことをするのが一番危険だ。なにが起きるかわからない。彼女には適度に不安がりながらも、安定した精神状態でいてもらわないと。現在、彼女の精神は非常に安定しているんだ、不確定な不安要素の情報を与える必要はない」
「しかし、あのままあの男と会いつづけて、万が一」
「万が一も億が一もない、ぼくがルールなんだよ。余計なことをするな」
西所はぐっと言葉に詰まった。
余儀は思う。この男の『天牛あきら』への執着は少々危険ではないか?
いつもならば、こんな情がわいたような対応はしないはずなのだが……。
「ね、匡くん。どうしたの。あきらちゃんは、きみにとってそんなに特別な存在?」
「……否定はしない。だが……」
本題はそこではない、と言いたげに、西所の視線が虚空をさまよった。
「今回、おれが気になるのは、天牛あきらではなくて……相良相模だ。おまえは直接会ったことがないからわからないのかもしれないが……」
「が?」
「……異様だ」
ほかに言葉が見つからない、と付け足した。
その表現は、余儀には信じられなかった。
というより、適切なものとは思えなかった。
「あきらちゃんに変なムシがついてるのが許せないだけじゃないの?」
相良相模。たしかに経歴が不透明なのは気にかかるが、余儀には危険な存在とは思えない。ヒーローをこれだけ長くつづけていれば、危険なものと危険でないものの違いくらいはすぐにわかる。彼は無害である。超能力を身に着けていたり、ほかの『季節』出身だったり、そんなオーラはまったくない。経歴不明なのも、どこかから現実的な圧力が働いているせいに違いない。せいぜいやくざの若親分とか、政治家の隠し子とか、そんな次元だろう。
「……だといいんだが、な」
交渉決裂。互いに結論は譲れない。
となれば、話は終わりだ。
ふたりの意見が分かれるのは珍しいことではないので、とりあえず無視しておく。
とりあえず無視、というのは余儀のなかでは画期的な方法だ。なんといっても、精神にいい。夜が明ければ、西所も自分の愚かさを反省して余儀に賛同するかもしれない。
そろそろ寝るか、とふたりが同時に思った気配がした。
「ぼくは研究室でこのまま寝る。じゃあ、また明日」
「ああ」
ドアを開けながら、西所は意味ありげに一度だけまばたきをして、
「明日があれば」
と別れのあいさつをした。
余儀はそれに心のなかでこう答える。
明日がないなどということはない。ありえない。
この余儀がこの世にいる限りは。
20191118