こうのとりさんとぺんぎんさんのはなし
「紀貫之ってネカマだよね」
と、なぜかそのときぼくは言ってしまった。彼女は怪訝そうな顔をすることなく、
「でも、わたしはなんとなく気持ちわかるなあ。自分は男なのに女の子のふりをして、『男がするという日記というものを、女のわたしがしてみようと思うんです』、なんて言いたくなっちゃう気持ち」
くるくるくる、と彼女が指に自転車のキーを引っ掛けて回すのを、ぼくはぼんやりと眺めていた。
「なんだかそういうのって、わくわくしませんか?」
ぼくには理解できなかったが、彼女の笑顔があまりにも純粋で、純粋すぎてどこか日常から浮いているものに思えて――とても、わくわくした。
ぼくが軽音楽部に入ったのは、オタクである自分が嫌いだからだ。
自分は汚い、という過剰な意識は、きっとぼくがオタクであるという事実に起因して生まれている。汚い自分を汚い殻で隠して、生きている。いつからかはわからないけれど、そんな自意識はぼくの奥底で育ち続けている。
オタクが集まっている部活に近づいてしまうことは自分の汚れを加速させることにつながるような気がして、とても怖かった。軽音楽部はいわゆる『リア充』と呼ばれる人たちでいっぱいで、まぶしすぎて近づけないくらいにみんなきらきら輝いて見えた。だからこそ、ぼくはそこに入ろうと思った。きらきらときらめいている人たちと一緒にいれば、自分も綺麗になれるかもしれないから。
しかし、そんなに事態は単純ではなかった。
なぜなら、そこには彼女がいたからだ。
明るい笑顔で、きらきら輝いているくせに、なぜかぼくと同じものを背負った、謎めいた少女。
彼女は、周囲から『ペンギンちゃん』と呼ばれていた。
彼女の本名を、ぼくはまだ知らない。
出会いはたぶん、偶然だった。軽音楽部とは全く関係のない出会いだったはずだ。
彼女は公園に倒れていた。男ならともかく、女の子がそんなところで倒れているなんて、異常事態だった。
周囲の人間が遠巻きに彼女を見ている中、ぼくは彼女に話しかけた。
根暗で暗鬱なオタクであるぼくがそんな行動をとった理由は不明だ。ただ、なんとなく。
「大丈夫?」
声をかけて少し身体を揺らしてやると、彼女は眼を覚ました。その瞬間、すべてが始まったのだと思う。
「うわあ……」
と彼女は声を漏らす。彼女はきらきらの目でぼくを見上げていて、その目は曇りがなく、透き通っていた。
「なんだか、とっても、すてきかも」
彼女が恍惚としてそんなことを言った。
何がどう素敵なのか、ぼくには全然わからなかった。
「立てる?」
と尋ねてみると、彼女はゆっくりと立ち上がった。
「じゃあ、えっと、ぼくはこれで」
なんだか気まずくなってきてしまった。
何を言ったらいいのかもわからないし、もう限界だと思った。さっさとこの場からいなくなりたい。そもそもこの行動はぼくには荷が重すぎたのだ、と思う。ぼくは彼女の方をちらちら見ながら、公園の外へ歩きだす。彼女はしばらくそこにたたずんでいた。
「ありがとう」
彼女はぼくに向かって大きく手を振った。
「ほんとーに、ありがとう!」
それで物語は終わるはずだった。彼女はぼくの人生の途中で一瞬だけ登場して去っていく通行人Aだったし、彼女にとってのぼくも同じだったはずだ。次の日には顔すら忘れているような、そんな存在だった。
でも、終わらなかった。
結論から言うと、ぼくが初めて軽音楽部に見学に行ったとき、部室で漫画を読んでいたのが彼女だった。
先輩なのかと思ったがそうではなく、彼女は入部したての一回生で、ぼくは二回生だった。
「あーっ!」
と同時に二人が声を発し、
「昨日はありがとう! 軽音楽部の人だったんですか?」
彼女はそう声をかけてきた。
「いや、違うけど。見学に……」
「わたしもさっき入部したところなんですよ。奇遇ですよね!」
なんだかぼくも当然入部するような流れになっていた。
もともと様子見ではなく、今日入部しよう、とは思っていたのだけれど。
「昨日は、なんで」
なんで公園で倒れていたの?なんて聞けないだろう。ぼくはそこで黙る。
「ちょっとおなかがすいたんです」
「おなかが?」
「いや、嘘ですけど」
表情を変えずに彼女が淡々と告げ、
「はぁ」
とぼくは相槌を打つしかない。彼女はやはり表情を変えないまま話す。
「あそこで倒れていたら、白馬の王子様が来るような気がしました」
「はぁ?」
「これも嘘です」
「はぁ」
次の手が読めない。
あまりにも何を考えているのかわからない。
まるでブラックボックスみたいだ。それが第一印象だった。
「セーラームーンでさあ、ポニーテールの子いるじゃん。ああいうかんじ」
軽音楽部に入部して少し経ったその日、部活内のギャル数名とギャル男数名は、昨日合コンで会ったかっこいいオンナノコ、という、非常に象徴的ともいえる、いかにもギャル系な会話を交わしていた。ぼくも一応、その輪の中にいた。
「セーラームーンって」
「うげー、そういうのわかんないしー」
ぎゃははは、きゃははは、といくつかの笑い声。たぶん、彼女たちがオタクだったら語尾に「wwww」くらいはついていただろう、それくらい嘲笑に近い笑い方だった。
あーあー、ここはいづらい場所だな、とぼくは思っていた。普段は別にいいけれど、こういういかにも「オタクって気持ち悪いよね」みたいな会話をされると、オタクとしてのぼくが心の隅でダンボールをかぶって震えているような気がする。もちろん、「それはセーラージュピターだよね」というようなことは絶対に言わない。わかっていても、黙っていなければならない。しゃべったら全部終わってしまう。
しかしながら、この空気を読めない人間が、ここには一人存在していた。当たり前のことだが、ぼくではない。
「それは、まこちゃんですよねー。木野まこと」
にこにこにこにこと、純度百パーセントのほほ笑みで、人さし指をぴんと立て。あの日公園で倒れていた『ペンギンちゃん』がそう言った。
ああ、そんなことをしたら空気が凍る――と身構えてしまったが、そんなことはなく、
「あれー、ペンギンちゃんはそういうの詳しいのお?」
「幼稚園の頃、見てましたー。変身ごっことかよくしてました」
「あ、あたしもヨウチエンの頃はたまに見てたかもー。もうすっかり忘れちゃったけど」
なんと、何の問題もなく会話が流れていくではないか。これはどういうことなのだろう。
そのときぼくは、氷が融けていくビジョンを見た。いや、最初から氷なんかなかったのかもしれない。ぼくが勝手に氷を自分の周りに積んで、勝手に凍えて、勝手に怯えていただけだ。氷のせいで周囲はぼやけて見えて、それが余計に不安を加速させて、暇ができたらまた氷を積んで、思い出したように凍えて。そんな繰り返しはいつ頃始まったのかわからないけれど、きっとこのときに終わった。気づいてしまえば何ということはない、でも、気づくまでは凍えつづける。
もしかするとぼくは、身体が冷えたまま、眠り込んでしまうかもしれない。そのときは誰も起こしてくれない。なぜなら、ぼくが氷を積んだからだ。ぼくの姿は周囲からは見えない。そんな終わりが来る可能性もあった。そうならなかったのは偶然だ。ぼくは唐突に、氷を積むのはやめることにした。
このとき、ペンギンちゃんが明るい笑顔でセーラージュピターの話をしたから。
理由としてはばかばかしい部類だ。しかし、この出来事はわりと劇的だった。
まあ、この後に起きた出来事がさらに劇的だったので、このことはしばらく忘れていたりしたのだけれど。
「コウノトリ先輩」
彼女はぼくのことをそんな風に呼ぶ。ぼくの名前は「高野」と書いて「タカノ」と読み、断じて「コウノ」ではない。また、当然、下の名前は「トリ」ではない。しかし、彼女は別にそういうことは関係ないとでも言いたげに、この呼び方を変えることはない。
「コウノトリ先輩、もしかしてオタクなほうですか?」
夕暮れの帰り道。周囲には誰もいないその道で、歩いていたぼくに追いついたペンギンちゃんは、ぼくの一番ヤバイ秘密をその鋭いくちばしで突き刺したのだった。
「なんでそう思うわけ?」
と答えたぼくの言葉は冷たかっただろう。さすがのペンギンちゃんも、ちょっとだけひるんだようだ。
「さっき、わたしがしゃべったとき、先輩がびくってしてた気がして」
「……ああ」
なんかもう、なんかもう、なんかもう、終わりだ……とぼくは脳内で反復し始めた。
そんなにわかりやすい反応をしていたとしたら、他の部員も気づいたんじゃなかろうか。ぼくは自分でも気付かないうちに、オタクな自分を露呈していたわけだ。ああ、気持ち悪い。もう気持ち悪いなんて単語はとっくに形骸化してなかったことになっているというか、もともと「気持ち悪い」がどんな意味の言葉だったか思い出せない、そんな部類の単語ではある。だが、やはり、気持ち悪いという心情は変わらない。自分は気持ち悪い、オタクは気持ち悪い、ずっと黙っていなければならない、なぜなら気持ちが悪いから。ぼくがしゃべると気持ち悪さが伝染する。これは思い込みじゃない。経験に基づいた、事実だ。だからこそ軽音楽部に入ったんじゃないか。気持ち悪くない人たちに、その「気持ち悪くなさ」を分けてもらうために。
「大丈夫ですよ、たぶん、そんなことを気にしているのはわたしだけなので」
彼女は下からぼくを見上げながらそう言った。
「ほんとう?」
そう言った僕はとても弱気だった。というか、ぼくは励まされているのだろうか。そんなに暗鬱な顔をしていたのだろうか。だとすると本当に気持ちが悪い――あれ、もしかすると思考がループしている?
ぼくはたぶん、混乱している。キャパがオーバーしている。それも大幅にだ。
「ほんとうです」
「ほんとうに?」
「ほんとうにほんとうです」
ならばよかった、と言うべきなのだろうが――ここで、ぼくは疑問に気付いた。
「なんで、君はぼくのことを気にしてたりしたの?」
普段なら、そんな自意識過剰な自分は気持ち悪い、という思考に至っていたかもしれない。でも、今の言葉は聞き逃せないだろう。彼女はぼくのことを気にしている。他の部員が気づかない秘密にうっかり感づいてしまう程度には、気にしているのだ。
「先輩は同じ新入部員さんですし、あの日助けてもらった恩もあります。それに……」
と、彼女は一瞬戸惑うように目を伏せたが、またぼくの方を背伸びするように見上げた。
「わたしも、オタクですから」
ことん、とビー玉が落ちる音が聞こえた。幻聴だった。
彼女はいわゆる御同類、らしい。しかしこの自己申告は鵜呑みにしない方がいいだろう。「わたしオタクだから」と言いつつまったくオタクじゃない人間というのも世の中には存在するのだし、そういう人間に限って本当のオタクを見ると引いていったりするものだ……というのはこれもまた、ぼくの経験談だった。
「えっと、それはその……どの程度の?」
我ながら意地の悪い質問だった。こんなことを聞かれて喜ぶ人間はいないだろう。しかし、ペンギンちゃんは臆することがなかった。
「うーん、わたし、機械が好きなんですよね。パソコンとか自作したり、ネットとかするのも好きです。アニメとか特撮は広く浅く、いろいろ見てますね。深夜とか休日の朝とか、暇なので」
どうやら本物のお仲間らしい。ちょっとだけ胸が高鳴ってきて、それを自覚してから危険さを意識する。こういう気分になると歯止めが利かなくなって、自分が露出されてしまい、そこから破滅が始まる。
ダメだ、この流れは。
しかし今更ここで「あはは、じゃあぼくはこれで」とか言いながら去るわけにもいかず、ぼくも自分のオタクっぷりを説明しなくてはいけなくなった。
「ぼくもネットは好きで、ネット上で友達とかも多少いて、えっと、アニメとか特撮とかゲームとか、そういうのも、好きかな」
具体的な作品タイトルを挙げると地雷を踏む可能性があるので、あえて言及を避けてみた。わりと無難な受け応えだ。そこで会話が切れ、彼女は話題を転換する。
「どうして、軽音楽部に?」
また彼女はそのくちばしでぐさぐさとぼくの心を刺したのだった。もうペンギンじゃなくてキツツキか何かなんじゃないのか、と思ったが、それはぼくの勝手な八つ当たり……というか、こういう会話になるのは当然だった。ぼくが、明らかに具体的な趣味の話に踏み込むのを恐れているからだ。それを敏感に察したペンギンちゃんは、気をまわして話題をそらしてくれたのだ。共通の話題は大学のことと軽音楽部のことくらいしかなく、どの授業がかぶっているのか、どこの学部なのか、そんなつまらない話よりも部活の話に流れるのは当たり前だ。
「えーと……」
「オタクの部活に入ったら自分がダメになるから」「オタクは気持ち悪いから」といった過激かつ自意識過剰すぎる理由をぶちまけるわけにもいかず、しかし「音楽に興味があるから」と嘘をつくわけにもいかず、ぼくは「なんとなく」と言った。それだけで終わるのも何なので、
「君は?」
と尋ね返してみた。
「わたしは、機材をいじらせてもらえると思ったから。でも、そんなに機材の仕事って回ってこないですよね」
彼女はそつなく受け応えをする。こういう社交性というものがぼくには欠けている。また、彼女には機械を好きだというしっかりした意思やら夢やら願いやら目的やらが感じられ、なんだか自分が下等な生き物に思えて気持ちが悪い。ああ、また気持ち悪いって言ってるぞ、ぼく。この際、「気持ち悪い禁止令」くらいは出してもいい気がしてきた。もちろん、その命令はぼくの脳内で執行され、ぼくの脳内でひっそりと朽ちていくわけなのだけれども。
「あ、わたしはここらへんで」
と、そこで彼女は角を曲がろうとした。ぼくの下宿もそちらにある。けれど、なんだか会話を続けるのが怖かったので、彼女とはそこで別れることにした。角を曲がらずに道を歩いた先にはコンビニがある。そこで漫画の立ち読みをして、アイスでも買って帰ろう。ぼくは彼女にぎこちなく手を振りつつ、道を歩いて行った。
高校時代の話をしよう。高校は私服だった。ある日、誰かに笑われた気がして服を変えた。ファッション雑誌も買った。もしかしたら体臭で笑われたかもしれないので、香水をつけた。オタクだと思われるのが嫌で、ゴールデンタイムのお笑い番組を見るようにもした。興味のない流行音楽も聞いた。高そうな美容院にも行った。
本当のぼくから逸脱した偽りのぼく。そんなものが形成されていくにつれ、本当のぼくはぼくから遠ざかっていった。そうすれば安心感が得られると思っていたし、もしかするとオタクを卒業できるかもしれない、自分が嫌いで気持ち悪い、という圧迫感から逃れられるかもしれないと願ってもいた。
しかし、そんなことはなかった。誰かに笑われているような気持ちはずっと残っていて、定期的にぐるぐると脳内を回っていた。オタクをやめられることもなく、オタク的なものから離れることはできなかった。あたふたと周囲に媚びるぼくを、少し上からずっと黙って見ているもうひとりのぼくは、何も言わない。何も話さないことで、彼は彼の存在をアピールしているのかもしれなかったが、何も言わないのでいまいち伝わらない。何を考えているかもわからない。ぼくはいつしか、彼のことを忘れてしまった。
夢や願い、目的。ぼくにそんなものがあるとすればそれは、オタクな自分からの脱却、もしくは自分を肯定することだ。気持ち悪い、という自分の声が届かない場所へ行くことだ。
とてもくだらない目的だと思う。それこそペンギンちゃんの、機械が好きで、パソコンを組み立てるのが好き、というような前向きな夢はどこにもない。だからこそ、ぼくには彼女がまぶしく見えて仕方なかった。
そんな経緯を経て大学に入り、軽音楽部に入部したぼくに、奇妙な現象が起こり始めていた。
ペンギンちゃんが、ぼくへと猪突猛進するかのように接近を開始したのだ。
二人で帰り道を歩いた日以来、彼女は部室でぼくの隣に、いつのまにか自然に、座っていることが多くなった。
「コウノトリ先輩は、どう思いますか?」
なんて雑談を頻繁に振ってくる彼女は、まったくもってブラックボックス、何を考えているのだかわかりづらすぎる。
悪い気はしないのだが、彼女には何か別の目的があるのでは、なんて心配になったりもする。だって、彼女がぼくに近づく理由なんて、それこそ同じオタクだから、という曖昧なものしかなく、他に利点も見当たらない。理由がわからない好意は、不安の種だ。
帰る方向が同じせいなのか、二人とも飲み会にあまり出席しないせいなのか、一緒に帰途をたどることも増えた。
いつのまにやら「あの二人付き合ってるんじゃない?」的なうわさもちらほら流れ始め、不安と嬉しさを半分半分に入り混じらせながら、ぼくはペンギンちゃんのことを徐々に知っていった。
たとえば、彼女の機械に対する異常なほどの情熱。何かに取りつかれているんじゃないかと思うほど、彼女は機械の話になると人が変わった。何かを好きになるということはそういう風に変わることなのだ、とぼくは思った。ぼくはそういう風にはなれない。羨ましいと感じた。
たとえば、彼女の成績がとてもいいこと。彼女は工学部では有名な秀才で、高校時代も周囲から特別な存在として扱われていたらしい。
他にも、好きな食べ物とか、好きなアニメとか、高校時代の友達のこととか、いろいろなことを話した。もちろん、ぼくの方も、ぼく自身の情報を彼女に伝えるようになっていった。コミュニケーションというのは常に手さぐりで行われるもので、暗闇の洞窟を探索しているような心もとない気分だった。しかし、彼女が懐中電灯で少しずつ道を照らしてくれたから、ぼくはちょっとずつ歩みだせた。
でも、彼女は時折寂しげに笑うことがあった。
そのときのぼくは、なぜ彼女がそんな風に笑うのかよくわかっていなかった。
ただなんとなく、もっと楽しげに笑ってほしいと思った。わざとおどけてみせたり、急に話を変えたり、ぼくは一生懸命道化になった。そんなぼくの空回りな努力を、彼女はたぶん知っていたと思う。
「コウノトリ先輩は、どうしてそんなにオタクであることを隠したがるんですか?」
彼女がそう問いかけてきたとき、ぼくはどう答えたらいいのかよくわからず、「恥ずかしいから」と答えた。まあ、間違ってはいないだろう。
「わたしも隠したいこと、あるんです。だから、わかります」
彼女は真剣な顔で、そう言った。隠したい、と言っている以上、それについて詳しく聞くのは避けた方がいいのかと思ったのだが、「なんだと思います?」と逆に尋ねられてしまった。
「恥ずかしいことかな」
……と、ぼくは精一杯無難な答えを言ってみた。が、なんだかこれはセクハラじみた言葉だ。慌てて訂正しようとする前に、彼女に否定された。
「別に、恥ずかしくはないです」
「……そう」
それ以上の何を言えば、気の利いた言葉になるのかわからなかった。
「それは、隠したいけど、隠せないことなんです」
わたしは普通になりたいんです――とそのとき彼女が言い、ぼくは一瞬凍りついた。
「昔から、天才、変人、って言われてきました。友達からも、親しくされるより、すごいねー、って言われることの方が多かった」
ペンギンちゃんが顔を少し伏せる。彼女のまつ毛はとても長い、と思った。
「でも、それってとても寂しいことです。わたしは、褒めてくれるより、本当の友達になってほしかった」
彼女はそこで、ぼくの方を見た。
「コウノトリ先輩は、普通だと思います。悪い意味じゃなくて、わたしの憧れる、理想の、普通、っていう意味です。わたしは――」
彼女が「その言葉」を発する予感がして、ぼくは息をのむ。
「先輩と一緒にいれば、普通になれる気がしたんです。これが、わたしの秘密。隠したいこと」
その言葉、その願い、その響き。
全部、そっくりそのまま、ぼくの気持ちと同じだった。
「公園で助けてもらった日は、わたし、ちょっと嫌なことがあって、しかも体調最悪で、もう自暴自棄でした。どうにでもなれー!!って思いながらばたーん!って倒れたら、先輩が声をかけてくれたんです。先輩はとっても理想形で、普通でした」
ぼくは、軽音楽部に入れば、普通の人間になれるような気がしていた。
彼女は、平凡なぼくといれば、平凡になれると願っていた。
求めていたものは同じで、考えていたことも同じ。
唐突に、彼女との出会いがとても運命的で劇的で、すごいことのように感じられてきてしまった。
「ペンギンは、氷がないと生きていけませんよね」
ぼくが立ちつくしながら思考を停止させている中、彼女は話を変えた。
「わたし、自分の周りにある氷が融けて、陸地がなくなっていくのが怖かった。周りは冷たい海ばっかりで、みんな、わたしをわかってくれない」
「氷が、融ける――」
それもまた、形は違うけれど、ぼくの持っていたイメージと似たものだった。
「氷はどんどん融けて、いつのまにか消えてしまって、わたしは海の中に投げ出される。たぶん、そのときに助けに来てくれるのは、コウノトリなんです」
「……ぼく?」
彼女は手をピストルの形にして、ぼくを撃ち抜くようなそぶりをした。
「ペンギンは飛ぶことができないけれど、コウノトリはどこまでも遠くへ、飛んでいきます。わたしのことも、きっと、遠くに連れて行ってくれる。氷のある場所へ、連れて行ってくれる」
まあ、そんな妄想です。
彼女はそう締めくくって、にっこり笑った。
ごまかすように、照れ隠しのように、笑った。
そんな彼女の手を無理矢理に握って、発作的にぼくは走り出す。
彼女も、戸惑いながら黙って走る。そのまま、ぼくたちは並んで走った。
海の見える場所へ行こう、とぼくは言い、彼女は頷きを返した。
大学から海の見える岬まではバスで一本。そう遠くはない距離だった。
バスから降りると、誰もいない夕方の海が見えた。
海はほのかにオレンジ色に染まっていて、どこか日常から浮いたものに思える。
「あの海の向こうに、ペンギンがいるんだ」
ぼくはそう語りだした。
「ペンギンは、温暖化で氷が融けて、困ってる。陸地がなくて、居場所がなくて、とっても不安がってる」
「はい」
彼女はぼくの話を、真剣な顔で聞いている。
「その近くを、コウノトリが飛んでる」
ぼくは、オレンジ色の空の中に、一羽の鳥の姿を配置する。
「コウノトリは、自分がどうして飛んでいるのかわかってない。なんとなく空を飛んでみてはいるけど、なんかしっくりこない。でも、海で困っているペンギンを見つけて、コウノトリは思うんだ」
ぼくは淡々と、こう告げる。
「このペンギンを助けて、一緒に空を飛ぶことが、コウノトリの使命だったんだって」
「一方、ペンギンはきっと、こう思っているんですよ」
彼女はおどけた調子で言った。
「コウノトリさんは自分のことをよくわかっていないようだ。長い旅が終わるまで、空を一緒に飛びながら、教えてあげなきゃなあ」
ぼくらはどちらからともなく笑い始め、
「ぼくらって、似た者同士っぽいね」
「同じ鳥類ですからね」
というようなくだらない応酬で、さらにくつくつと笑ってしまった。
しばらく、ぼくらは夕日が沈むのを眺めていた。
そのうち、ぼくはかばんの中からデジカメをとりだして、彼女に渡した。機械に詳しい彼女は、カメラの扱いもうまい。
腕を精いっぱい伸ばしてカメラを遠ざけ、いわゆる「自分撮り」の形態で、彼女はぼくと自分を写真の中に収めた。
その写真の中には、ぼくが見ているぼくではないぼくが映っていた。
写真のぼくは、どこかいつもと違うものに見えた。濁ってもいないし、気持ち悪くもない。見落としているわけではない。ただ、ぼくを観察する角度が変わっただけ。
人間は角度によって、汚水にも見えるし、透き通った上質な水にもなる。
ぼくは自分をずっと、泥水みたいに濁った汚い水だと思っていた。しかし、彼女から見たぼくは、彼女の手が撮影したぼくは、そんなに汚すぎる水でもなかった。綺麗な自分。気持ち悪くない自分。そんな自分は、わざわざ作り出さなくても、もうすでにぼくの中に存在する。心の隅っこに姿を隠して、『彼』は誰かに見つけてもらうのを待っている。ようやく、そのことに気付いた。
「コウノトリさん、わたしの本当の名前、教えてもいいですか?」
「ぜひ、聞きたいかな」
「大宮、ましろ。ひらがなみっつで、ましろ」
「ペンギンちゃん、っていうのはどこから生まれたニックネーム?」
「親の旧姓が、『辺銀』って言うんです。それを話したら、軽音の先輩が、ペンギンちゃんだって」
「ぼくの名前は――」
と、ぼくが言おうとするのを、ペンギンちゃん……いや、ましろは自分の人さし指をぼくの口にあてて止めた。
「ストップ。やっぱり、教えちゃだめです」
「どうして?」
ぼくの問いに、彼女は意地悪げに笑って見せた。
「なぜなら、コウノトリさんは、どんな名前であっても、コウノトリさんだから」
「なんじゃそりゃ」
ぼくは呆れて笑ってしまったが、彼女はあくまでもまじめに、こう問いかけてきた。
「わたしを、氷のあるきれいな陸地まで、エスコートしてくれますよね?」
「……喜んで」
「それでこそ、わたしのコウノトリさんです」
ぼくらは青い空を飛んでいく二羽の鳥だ。彼女の入ったふくろをくちばしに下げ、ぼくは飛んでいる。
種族は違うけれど抱いた夢は同じで、空の青さははるか下に見える海の青さに似ている。
ぼくがくちばしを離したら、彼女は海に落ちて、そのままぼくらは出会えなくなるだろう。彼女がぼくを離れていったら、ぼくは空を飛ぶことの意味を見失って、まっさかさまに落ちて、海で溺れてしまう。だから、どれだけつらくても、ぼくは彼女とつながるくちばしの力を抜かないまま、羽ばたく。
羽をばたつかせて、綺麗な青色のトンネルの中を、飛んでいく。
飛んでいくことの意味を、彼女と共に語り合いながら。