蜘蛛の意図

 カンダタが目を覚ますと、地獄が終わっていた。
 さらさらと静かに吹き抜けていく風は青く、確かに現世のものである。
「助かった……のか?」
カンダタが身を起こしながらつぶやくと、「ええ、わたくしが助けたのでございます」と誰かが言った。
 彼の前に行儀よく座っているのは、一人の女であった。長い前髪で額を隠した女は、無言でゆったりと笑む。
「誰だ?」
「かつて、あなたに助けられた者です」
カンダタは、記憶の中を探ってみた。自分が誰かを助けた記憶は、少なくとも今のカンダタにはなかった。誰かを殺したことならたくさんあるのだが、他人のためになることをしたことは一度もない。そんな人間だからこそ、地獄に落ちたのだ。そのことは、自分が一番よく知っている。
「貴様、誰だ。何のつもりで俺を助けた」
カンダタは尖った声で言う。女が嘘をついている、と彼は思った。しかし、女は答えなかった。
「ああ、風が吹きます」
女が独り言のように、そう言った。そのとき、確かに風が吹いた。風は女の髪をなびかせ、前髪をさらりとかきあげて空間を通り抜け、その額にある六つの目をカンダタに見せつけた。人間の目ではなかった。奇妙な色をした単眼が六つ、狭い額に蠢いていた。彼をじっと見ているその目が笑ったような気がした。カンダタは身震いして、硬直する。そんな彼をあざ笑うがごとく、女の腰のあたりから生えた手足が動いた。よくよく見ると、手足も人間のものではない。人間の手足は、八本もない。
「化け物か」
「化け物ではございません。これがわたくしの、本当の姿でございます」
「何が目的だ。俺はどうすればいい」
女の堂々とした態度に、カンダタはすっかり縮みあがってしまった。額を汗が伝っていくのを感じる。
「わたくしの望みは一つ。あなたと添い遂げることでございます」
「嫌だと言ったら?」
女は白い手で前髪を左右に分け、その異形の瞳をあえて晒してから、こう答えた。
「この世界、あなたの元いた現世ではありませぬ。ここにいるのは、わたくしのごとき、蜘蛛の精のみ。あなたにとってはみな化け物でありましょう。それでもよいのなら、どこにでも行ってくださいまし」
そんな世界なら、地獄の方がましだったのではないだろうか。人間がいないのでは、悪さも落ちついて出来はしない。カンダタにはもう、選択肢がなかった。
「わかった。おまえと暮らそう」
「ありがたや。わたくしは、カンダタ様を愛しております。何が起きても、ずっとお慕いしております」
蜘蛛女と口づけを交わしながら、カンダタは怖気を感じていた。彼女の口づけは巧みで、まるで人間そのもののように官能的な味わいである。だが、カンダタの体を抱きしめる彼女の手はカンダタの手よりもずっと多い。まるで捕獲された兎のように身を縮ませて、カンダタは彼女に抱きとめられている。それが妙に落ち着かないものに思えて、カンダタはもう一度身震いした。



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