マグロ -ある患者のカルテ-
わたしは基本的にひきこもりだ。理由は、太陽の光が苦手だから。部屋から見える下り列車を眺めているのが好きで、でも列車に乗ったことはほとんどない。
趣味は女装と、ネットゲーム。ゲームの中でももちろん、女子のキャラを使っている。ゲームよりも他のプレイヤーと会話するのが楽しい。顔も名前も知らないのに友達になることができる、不思議な空間だ。これと同じ理由で、たまに風俗店にも行く。ぼくが外に出るのは常に夜だ。風俗も、顔も名前も知らない人間との恋人ごっこ。気楽で不思議なコミュニケーション。
そんな風だから、俺には特定の友達や恋人というものはいない。いることにもできるし、いないと言えば瞬時にいないことにもできる。彼らには顔がない。個性がない。愛着がない。一緒に過ごせるなら誰だっていい。いくらでも替えが存在する。一夜だけを共に過ごし、語り合い笑い合うその事象をコミュニケーションと呼ぶのなら、その誰かは一晩だけオレの友達だと言えるのかもしれない。
個性や愛着やアイデンティティが見いだせないのは私自身に関しても同じことで、ボクの中には確固たる自分自身というものがまるでないのである。おれ自身も不思議だと思う。肉体は男であっても、自分が本当に男であるのかどうか、よくわからない。俺、僕、わたし。さまざまな一人称で自分を呼んではみるものの、どれもいまいちしっくりこない。女装するのが楽しい、といってもその姿に安心を覚えられるわけではない。ただなんとなく、胸がすっとするだけ。一瞬心が宙に浮かんで、そこに溶け込んでいくような錯覚があるだけ。知覚されるすべてのものは錯覚で、どれも本物ではない。自分すらも偽者で、世界に在るすべてのものが幻想だ。
死にたいという明確な願望はない。その代わりに生きたいという願望もなく、そのことに対する絶望すら存在しない。
俺の肉体はからっぽで、内に精神を宿していないのではないか――そんなことを考えることもあったが、今はそれすらも遠い絵空事のように思える。すべてのものが遠い。手の届くところにあるものは何もない。思考も、感情も、感覚も。
ここには何もない。
いつでも手放してしまうことができるものしか、手には入らない。
友情も感情も劣情も、拒否した瞬間に簡単に消えていく。
おそらくはこの肉体すら、わたしが存在を拒否すれば簡単に消え失せる。
そうするときの方法はもうわかっている。部屋から見える下り電車。軽やかに線路を渡っていく電車。あの踏切に飛び込めばいいだけだ。単純で明快で、一番確実な方法。肉体は体を失ってただの肉になる。ゴミになる。廃棄される。生きる理由がないなら死ぬのに理由は要らない。逆もまたしかり。
劇的な変化など訪れるはずもなく、僕は今もひたすら退廃的な生を歩んでいる。
終わりのビジョンはもう明確に目の前にある。
きっと明日にでも、私はあの踏切で飛び散って赤くなってゴミになる。
そのときは黒いドレスを着ようと決めているし、くるくると人形のように美しく回っていようとも決めている。
毎日、夢想する。もしかしたら、その瞬間には劇的な変化が起きて、この何もない生を打破してくれるかもしれない。何も起きないまま全部終わるかもしれない。どちらにしても、得るものも失うものがない。すべてはただの必然で、周囲の人間は「魔が差した」くらいにしか思わないだろう。実際魔が差しただけなのだとも思う。
頭の中でシミュレートする終焉の瞬間と、実際のそれとはまったく差がなく、ぶれがない。
脳内で何度も死に続ける自分自身は、きっと現実の世界でも同じように簡単に死んでしまうだろう。
その瞬間に起こる奇跡を望みながら、くるくると華麗にステップしながら、その場所で肉になるだろう。
誰も悲しまない。自分ですら悲しむことができないものを、誰かが悲しむはずがない。
何もない人間のその死は、誰かに何かを与えることができるのだろうか?
もしそれが不幸であったとしても、何もないよりはマシだと思ってしまう。
何も与えることのできない、何も与えられたことのない、そんな俺だから。
その瞬間に誰かの精神に干渉することができたなら、それはそれで重畳なのだ。
踏切の前で立ち止まるたびに、ぞくりと背筋が粟立つような気がするのはおそらく――その「誰か」の存在を望んでいるからだ。
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その日、黒いドレスを着た少年が踏切に飛び込んで死んだ。くるくる狂ったようにステップを踏み、質量のあるスカートをなびかせたその姿はどこか現実離れしていて美しかったという。彼の死によって変化したものは、表面上は何もなかった。彼を轢き殺した電車の中に、世にもまれな「鉄道病」の患者の精神が宿っていたことは、二人の患者の担当医だったわたしのみしか知らない。わたしの患者の精神が偶然にもわたしの患者の肉体を轢き殺した、という事実はある意味においては奇跡であるし、ある意味においては限りなく気味の悪いめぐり合わせである。
この事実は公表すべきなのだろうか、と悩んだこともあるが、おそらく誰にも信じられることはないだろうと思い、こうしてカルテに残しておくだけにした。このカルテはいずれ不要になったら捨てられてしまうだろう。死んだ患者のカルテ――それも、今後の研究の参考にならない――は要らないのだ。わたしにとっては必要な経験だったかもしれないが、それらのカルテはわたし以外の誰かが必要としているものではない。
ただ、この二人の少年の存在を思い返すたびに、人間の精神というものが、人間の理解を超えた代物であるということを思う。そのたびにぞっとするのだ。人間は、自分自身の構造すらまともに把握できない。精神は迷宮だ。肉体の構造は理解されても、精神というもののメカニズムが完全に理解されることは未来永劫ないのではないだろうか――そう思いながら、今日もわたしは往診のためにカルテとペンを手に病室へ向かう。このカルテは他のカルテの山に埋もれ、誰の目に触れることもなくこの世から消えるだろう。おそらく、それで構わないのだ。こんな事実を知っても、誰も幸せにはならないのだから。