白と黒の奏でるセカイ 第三話 女の子を殴ったことがある。 しかも、わりと本気で。 言い訳なんてしようもない。どんな理由があれ、男が無抵抗の女を殴るなんて最低中の最低なのだから。 でも、そのときのぼくはとても必死で。常識なんて見えないくらいに必死で―― 思い出すだけで震えてしまうくらいに、がむしゃらだった。 幼い、何も知らなかった頃。両親と見たテレビ番組がすべての発端だった。 「それ」はそれまでの狭い世界を鮮やかに改革した。 画面の中で鮮やかに音を奏でる「それ」の名を、母は優しく教えてくれた。 黒と白の織りなすコントラストを、幼いぼくは網膜に焼き付けた。 黒と白でできた長い道を、肌色の細い指が駆け、跳ね、戻る。 不思議だと思った。 これは魔法だ。 人の心を狂わせる魔法。 「あなたにも買ってあげる。練習すれば――きっと、うまく弾けるようになるわ」 あまり親に物をねだることがなかったぼくに、両親は「それ」を買い与えてくれた。 ぼくにも魔法を奏でることはできる。 そう知った瞬間、嬉しくて目の前がチカチカした。 家にグランドピアノが運ばれてきたときも、「ピアノの先生」に初めて会ったときも、ドキドキが止まらなかった。 ぼくにもあの魔法を、生み出すことができる―― ただそのことだけを夢見て、ぼくは楽譜と向き合う生活を始めた。 それまでの人生なんて、どうでもいいことだったとすら思えた。あんなのはここへ至るまでの前奏のようなもので、ここからが本当のスタート。 ぼくはモノクロの大地に降り立った。 七色の魔法の世界が始まると信じて。 人生でたった一度の運命だと感じた。ピアノが……そして音楽が。これしかない、という確信があった。きっとこれを逃したら、もうぼくには何もないのだと。 それだけは思い違いでも思いあがりでもなく、本当の気持ちだった。 幼いぼくは死に物狂いで練習をした。早く、魔法使いになりたくて。 けれど、徐々に周囲は冷めていく。やってもやっても、上達らしい上達はほとんどなかったからだ。ぼくの後からピアノを習い始めたはずの隣の女の子は、いつのまにかぼくより難しい曲を弾けるようになっていた。 ぼくは毎日毎日、死ぬ気でピアノに向かっていた。 情熱だけなら、誰にも負けない自信があったのに。 「あなたにはピアノは向いていないのかもしれない」 母親は残念そうにそう語った。父親はもうやめろと言った。月謝がもったいないじゃないか、と。 それでもぼくはやめたくなかった。魔法使いになりたい。黒白の大地を駆け抜ける馬になりたかった。モノクロの鍵盤から七色のメロディを生み出したかった。テレビ越しにでもはっきりとわかる、誰かへ音楽を届けたいという強い気持ち。そんな気持ちを、ぼくも他の誰かへと届けてみたかった。 しがみつくようにピアノを弾きつづけていた。弾く、なんて単語がもったいないくらいにつたない演奏しかできなかった。どれだけやっても、前進しない。ぼくの指は楽譜を追うのが精いっぱいで、楽譜を追っているだけでも何度も間違う。 やがて、「ピアノの先生」の態度も冷たくなった。 どうしてこんなのも弾けないの? ここはもっと小さく弾かないとだめでしょ。 ……和音も覚えられないの? 一言一言が、心に突き刺さって氷のように冷えていく。 ある日、幼稚園でピアノの前に座っていた少女が、さらさらと軽い音を奏でながら――こう呟くのを聞いた。 「あーあ、ピアノつまんない。はやくやめて、別の習い事したいなあ……」 少女が軽いタッチで弾いている曲は、ぼくには弾きたくても弾けないくらいに難しい曲だった。小さくも美しい魔法。 ぼくには使えなかった魔法を。 彼女はいとも簡単に使い。 しかも、早くやめたいと言う。 プチッ、と何かが切れた。頭の中が真っ白になった。 「返せ、返せよぉ――」 気づいたら、殴りかかりながら、そう繰り返していた。 幼稚園の先生に取り押さえられ、怯えた少女の泣く声を聞き――それでも「返せ」と叫びつづけた。 あのとき、ぼくは何を返してもらいたかったのだろう。 無駄な努力に費やしてしまった時間だろうか。 「練習すればできる」と安易な約束をされた、あの瞬間をなかったことにしたかったのか。 本来ならぼくの元にあったはずの「才能」を、神様が間違えてあの少女に与えてしまったから。それを返してもらいたかったのかもしれない。 ――あんなにもピアノと音楽に焦がれていた。寝る間も惜しんで練習をした。 なのに、どうして何も生み出せない? どうして世界はモノクロのままなんだ? それは――才能がないからだ。 どうしようもなく、欠けているものがある。 努力や愛では補う事のできない絶対的な差。 どんなに頑張っても、届かない夢がある。 信じていたのに実現できなかった魔法がある。 それ以来、ぼくは物事を斜めに見るようになった。 才能のある人間を、冷たく見るようにもなった。 大宮ましろを初めて見たときも、こいつは気に入らない、と直感で感じたものだ。 今も、ましろのことを気に入らないと思う自分は確かに存在する。 ましろには才能がある。才能を好きに使える力とやる気がある。才能を生かせる場所がある。 全部全部――ぼくが欲しかったものだ。 だから、ましろという一個人の性格や人格とはまったく関係のない部分で……ぼくはましろのことが嫌いなのだ。 才能に愛されたましろは、まぶしくてうらやましくて――妬ましい。 「じゃじゃーん」 ましろはその日、かなり大量の段ボール箱を両手で抱えて、登校してきた。 「なんだ、それは」 「大宮ましろ特製の、テスト用紙回収箱だよっ」 テスト用紙の筆跡による犯人特定。まだ、諦めてなかったのか……こいつ。 いや、大宮ましろが自分の目的を「諦める」なんていうことは、天地がひっくり返って裏返って逆転してもありえないんだけどさ。 「この段ボール箱を持って、毎日、全学年全クラスを練り歩きます。するとどうでしょう、いつのまにかわたしたちは、学校内全員の筆跡の残ったテストを手にしているのでした。完」 おどけて言うましろだったが、そこで完結してしまっていいのだろうか。むしろ地獄が待っているのは、その「完」の後のような気がする。 「なあ、テストじゃなくて署名活動とかにした方が穏便におさまるんじゃないか……?」 名探偵はちっちっちっ、と人差し指を振った。 「署名活動じゃ、全員にしてもらえるかわからないでしょ。しかも、自分以外の名前を書かれたりしたら即アウトじゃん。あとから確かめる手段もないし」 「ぐっ……でも、テストだって全員分集まる保証なんてなくないか」 「集まるんじゃない。わたしたちが集めるの。偉い人は言ったわ……勝利はえぐり取るものだとね」 むしり取る、よりもさらに上位の、強引な勝利法だった。一体誰が言ったんだろうか。 「さあ、えぐり取りに行こ、松浦。絶対、捕まえてやるんだから」 「…………で、その後はどうなったんだ」 クラブさんはゆったりと椅子に腰掛け、足を組みながら言った。 「放課後のホームルームの終わるときを待ち伏せて、とりあえず一クラス分のテストを入手しました。今、ましろが家で『鑑定』してるんじゃないでしょうかね」 これはましろのとっておきのアイデアで、放課後のホームルーム時なら、クラス全員をほぼ一網打尽にできるというわけだ。もちろん、欠席者の名前を聞いて、メモしておくことも忘れない。……見知らぬクラスの生徒を一網打尽にしてしまっていいのか、という疑問は残るが。 『絶対に明日返すから、今日返って来たテスト用紙を貸してほしいの。お願いしまーっす☆』 きらめく笑顔で告げられたましろの言葉に逆らう生徒はいなかった。普段のましろの校内での評判が、彼らを恐れさせたのだろう。逆らったら何が起こるかわからない、と。 「この学校はけっこうなマンモス校です。一つ一つのクラスをこうしてしらみつぶしに当たっていくしかないとすると、解決には相当な時間がかかるんじゃないかな……と個人的には思います」 ぼくはそう結んで、クラブさんの方をうかがった。彼女は気だるげに髪をかきあげ、 「いや、そうとも限らないんじゃないか」 と言った。 「なぜです?」 「なんとなく。マシロコの嗅覚をもってすれば、犯人のいるクラスぐらいすぐに特定できそうな気がするっていうだけさ」 確かにそんな気もしないではないのだが、しかしましろだって人の子だ。神でもないし、超能力者でも魔法使いでもない。 「でも――天才、なんだろう」 クラブさんは凛とした目でこちらを見た。少し、ドキッとした。 「天才です。そこだけは譲りようがない。しかも、その才能の使い方をちゃんと知ってます。あいつは、選ばれた天才なんですよ」 「なら、きっと解決は遠くないはずだ。おまえがこうしている間にも、あいつは犯人に近づいているよ」 彼女が何を持ってそんなことを断言するのかわからなかったが、そう言われると、明日にでもましろが犯人を捕まえてその脳天に鉄槌を下すような気がした。 「……早く捕まるといいな、犯人がさ」 クラブさんはそう言って、寂しげに笑った。 第四話 ガタン、ゴトン、という音がする。目を開けてみたが、何も見えない。真っ暗だ。頭にすっぽりと何かをかぶせられているようだ。 「あ、松浦。起きた?」 ましろの声だ。 「ここは……どこなんだ?」 と言いつつ頭にかぶせられた何かを触ろうとすると、「きゃあああああっ」とましろが悲鳴をあげた。 「だめっ、だめだよ松浦。そのヘルメットを取ったら、死んじゃうよ?」 すごい剣幕だったので、ぼくは思わず手を下におろした。ぼくの視界を遮っているこれは、どうやら大きめのヘルメット、であるらしい。光すら完全に遮断されており、本当に何も見えない。 「ここはどこなんだ……って言ったよね。松浦の質問にお答えしましょう。ここは――」 ましろは、真面目な口調でこう断言した。 「宇宙」 「はぁ?」 「宇宙空間。地球は昨日消失しました。隕石が落ちてきたの。わたしたちは、命からがらロケットに乗って脱出してきたってわけ」 いきなりのSF展開だった。 「嘘だよな」 彼女の表情をうかがおうにも、視界は真っ暗だ。ガタン、ゴトン、と断続的に鳴る妙な音。これがロケットのエンジン音だとでもいうのだろうか。宇宙で音って鳴るんだっけ。 無重力状態……にはなっていないような気がするのだが、宇宙になんて行ったことがないのだから、そこらへんは断言できない。 「……嘘じゃないよ」 ましろがそう言うと、嘘ではないような気がして来て。背中に氷を入れられたようにぞっとした。 「ぼ、ぼくたち以外には、誰がいるんだ。ここに」 不安に駆られ、つい、弱気な質問をしてしまった。 「誰もいない」 ましろの声は、何の感情も含んではいなかった。冷たかった。 「わたしと松浦、二人だけだよ」 不安が加速する。 「なんでだ。他の奴はどうした。ヒロシは。櫻井は。親は。妹は。他にもロケットがあるのか。そっちにいるのか」 「わたしが即席で作ったロケット、けっこう小さめだったの。何人も乗せたら沈んでしまう。だから、松浦だけ乗せたんだよ」 「なんで――ぼくなんだ」 ましろはその問いには答えず、 「もしも明日地球がなくなるとしたら、あなたはどうしますか? っていう質問、よくあるよね。無人島に一個だけ物を持って行けたら何を持って行きますか? っていうのも、よく似てるよね。ああいうのってなんか納得いかなかった。地球が何でなくなるのかとか、なんで無人島に一個しか物を持って行けないのかとか、全然わからない。そういうのってすっきりしない。だから、わたしは真面目に答えを考えたことなかった。本当に地球がなくなる前になってから、初めて考えた。一人だけ選んでこの星を脱出するとしたら、そのあと二人っきりで生きていかなきゃいけないとしたら……わたしは誰を選べばいいんだろうって」 ガタン、ゴトン。長いセリフの合間、響くのは奇妙な騒音だけだ。 「そのときね、松浦がいいなって思った。松浦と一緒なら、きっと二人っきりでも楽しくやっていける。そんな気がした」 ガタン、ゴトン、ガタ――ピー、ピー、ピー。 不意にエンジン音が止んだ。その代りに、チープな電子音が三回鳴る。 これは、聞き慣れた音だ。 そう、さっきまで聞こえていたのはロケットのエンジン音なんかじゃない。あれは―― ぼくはヘルメットを取った。見慣れた空間だった。ロケットの中でも宇宙空間でもない。ここはぼくの部屋だ。ガタンゴトンと古めかしい騒音を立てていたのは、だいぶ前に買った洗濯機だった。窓からは太陽の光が差し込んでいて、地球は滅びてなんかいなかった。 「……ぷっ」 ましろが噴き出した。 「あははははははっ! 松浦、まじで引っかかったあっ!」 ぼくを指差して、けたけたと笑うましろ。 「なんのつもりだ、ましろ……」 「用事があったから、松浦んちに来たんだけど、松浦が爆睡してるからさー。ちょっと脅かしてやろうと思ったの。まさか本当に引っかかっちゃうとは思わなかったけど」 言いながらまた、ぷふっと噴き出す。とてつもなくツボに入ったらしい。 盛大で悪趣味な冗談だった。あっさり引っかかるぼくも間抜けだが、ちょっと心臓に悪すぎるジョークじゃないか。「松浦と一緒なら」云々、というあのあたりも全部演技で、いつものお芝居だったということか……? 世界に、自分の他に一人だけを残すとしたら。 ぼくなら、誰を選ぶだろう――なんてまじめに考えたぼくも、踊らされただけの馬鹿なんだろうか。 「…………とりあえず、着替えるから出て行ってくれるか。大宮ましろ」 寝間着を着たままのぼくは、怒りと屈辱をこらえてそれだけ、言った。 「……で、用事って何だ」 着替え終え、ぼくはできるだけ威厳を保ちながら言葉を絞り出した。 「第一犯人は捕まえたんだけどさー、ちょっとすっきりしない部分があって。それで、今日は図書室に聞きこみに行ってみようと思って」 さらり、と朝食のメニューを思い出すような調子でましろが言う。 「……ちょっと待て、言っていることの意味がわからない」 まず、第一犯人って何だ。犯人は複数いるのか。 犯人は捕まえた、っていうのは本当なのか。まだ一クラス分しか答案は集めていないのに? そして最後に、図書室に聞きこみに行くということだが……今日は日曜日だ。誰が図書室にいるって言うんだろう。 疑問が多すぎて、何から聞いたらいいのかわからない。ましろは説明を始める。 「図書室の本に落書きしたのはね、昨日答案を集めたクラスの優等生。筆跡を元に問い詰めたら白状したわ。チョップを横っ腹にお見舞いしてやったから、たぶんもうしないはずよ」 「横っ腹にチョップ……」 斬新な断罪方法だった。さぞ痛かろう。 「しかし、すごいな。クラスは星の数ほどあるのに、一発で犯人のクラスを探しあてるなんて」 もっと手間がかかったり、犯人との息詰まる知略戦とか推理合戦とか、そういうものがこの先あるのかと勝手に想像していた。正直なところ、ちょっと拍子抜けだ。 「なんとなくキナ臭い気がしたのよ、あのクラス。まあ、まぐれ当たりってとこ」 クラブさんの言ったとおり、怪しい人間を見つけ出す嗅覚において、ましろの右に出る者はいなかったようだ。だが、ましろはあまり嬉しそうではない。 「……これ、見てくれる?」 ましろが取り出したのは一冊の本。かなり古いものらしく、ところどころ破れている。 「その本がどうしたんだ」 「この本の登場人物表にも、落書きがされてるの。これも図書室で見つけた本なんだけど、犯人の優等生くんはこの本にだけは落書きをしてないって言い張るのよ。確かに、筆跡が全然違う」 「……はぁ」 「それどころか、この本の落書きのせいで、自分は大量落書きに踏み切ったんだ、って言うの。他のやつもしてるんだから、自分もやっていいと思った……って」 「模倣犯……ってことか?」 「人のせいにするんじゃありません、って叱りつけておいたけど、この本の落書きの犯人も捕まえないといけないと思うわけ」 それが『もう一人の犯人』ってことか。 「しかし、この本は……なんかおかしいのよね」 「何がおかしいんだ?」 「貸出コードが付いてないの。つまり、図書室の本じゃないってこと」 「でも、図書室にあったんだろう?」 「……少なくとも、彼は図書室で見つけた、って言ってる」 「煮え切らない答えだな」 ましろはうーん、と唸る。 「だから、今から聞きこみに行ってみる。図書室にね」 それはさっきも聞いた話だが。 「日曜日だぞ。図書室は空に決まってる」 「空じゃないらしいのよ、それが」 「なんだ。守り神でもいるのか」 ましろは、少し考えてからこう答えた。 「まあ、そんなところ」 図書室は一見、空だった。どう見ても、誰もいないように見えた。だが、本棚の一つ一つを見て回ってみると――棚に本ではないものがおさまっていた。 人間だ。 「……何か、御用ですか」 本棚の本と本の間のスペースに挟まった少女が、言った。 「なんで、そんなところにいるんだ」 ぼくが唖然として問いかけると、本を読みながら首をかしげた少女はこう返した。 「好きだからです」 「あ、そうですか……」 堂々と言われると、返す言葉がない。 少女は小柄だった。いわゆる三角座りで本の間にぴっちりおさまり、その状態で読書をしている。 『図書室には、引きこもりの女の子がいる。その子は、図書室の本のことなら何でも知ってるらしいの』 と、さっきましろは告げた。ましろも最近知った事実だという。この学校、クラブさん以外にも引きこもりが存在するのか……とぼくは呆れたが、図書室の引きこもり少女は超常現象の類でも不審者でもなく、れっきとしたこの学校の生徒らしい。単位は全部取り終えているのに、図書室の本を学校で読むために留年しているという変わり者だ。 ましろいわく、いつでも彼女は図書室にいるという。家にいつ帰っているのか、学校に泊まっているとしたら衣食住はどうしているのか、それらはすべて謎だ。 「ねえ、あなたに聞きたいことがあるの」 「なんですか、大宮ましろさん」 引きこもりでも、ましろのことは知っているらしい。まあ、有名人だしな。 「……この本、知ってる?」 ましろは例の本を見せた。少女は数回瞬きをして、視線を自分の手元の本へ戻す。 「それは、ここの本じゃない。数か月前に、誰かがここに持ってきた本です」 「それ、誰だかわかる?」 少女は淡々と答える。 「わからない。でも、どこにあった本かはわかります」 ましろは身を乗り出す。 「どこなの」 図書室の引きこもり少女は、そっと事実を告げる。ぼくにとって、とても衝撃的な事実を。 「……旧校舎の、音楽準備室」 最終話 一番最初にぼくが音楽準備室に行ったのは、ピアノが弾きたかったからだ。ぼくはまだ、夢を諦めていなかった。もうぼくの家にピアノはないし、習いに行く場所もない。だが、音楽に憧れる気持ちだけは残っていた。 ぼくが期待したものはそこにはなかった。旧校舎の音楽準備室に楽器は存在しなかったのである。いずれ取り壊される旧校舎は、もうほとんど物がない状態になっていた。 そんな残骸のような場所に、彼女はいた。 埃をかぶった椅子に腰かけ、ぼくを待っていたかのようにこちらを見て。 「やあ」 と挨拶をしたのは、黒い髪の女の人だった。シンプルなワンピースとミュールが妙に似合う、年齢不詳の女性。 「ええと、こんにちは」 とりあえず挨拶し返してみると、彼女は愉快そうに笑った。そして、こう質問してきた。 「死んで消えてしまうことと、死なずに誰かを待ちつづけること。おまえは、どちらがマシだと思う?」 何の話だろうか、と思った。ゲームか何かのことかもしれない。 ぼくは軽い気持ちで、こう答えた。 「きっと、そんなに変わりません。人はみんな、死ぬのを待っているようなものですから」 「……そうか」 そうつぶやいたその人は、ぼくの方をまっすぐに見て、「おまえ、名前は?」と聞いた。 「松浦です」 「そうか、松浦……わたしのことはクラブさんと呼んでくれ」 「……はぁ」 彼女はすっと白い右手をぼくに差し出し、ぼくは導かれるままに握手をした。とても冷たい手。その瞬間、ぼくは彼女のまとうどこか冷えた空気を、意識した。この人のそばには、自分がいてやらないといけない気がした。 よくわからない人だ、というのが第一印象だった。今でも理解しづらい人だと思う。 ただ、誰かを待っていたのだ、ということはわかる。待っても待っても待ち人が現れなくて、寂しくてたまらなくて。彼女はそれでも待っていた。 この寂れた旧校舎の、小さな部屋で。 長い長い間、一人きりで。 彼女は常にシニカルで、冷静に物事を観察している。とても頭がいい。でも、彼女の本質はそんな表層的なことにはまったく関係がない。 彼女はただ、誰かを待ちつづけている。ぼくはそれを知っていて、あえて現状を変えようとしなかった。二人で過ごせる時間があれば、彼女の願いなんて知らなくてもいいと思っていた。クラブさんの本当の名前も、知ろうとしなかった。 きっと、ぼくの姿勢は卑怯だった。自分に失望してピアノをやめたあの瞬間から、ずっとぼくは卑怯者だ。 でも今、本当のクラブさんを知りたいとぼくは思っている。そのために、ぼくは長くて古ぼけた廊下を一人で歩いている。ぎしぎしと軋む床の音だけが響いている世界。本当の世界からは分離しているかのような、異空間じみた旧校舎。 自分の心も、廊下と同じように、音を立てて軋んでいくような気がする。 この廊下の先に、彼女の本当の姿がある。 「……クラブさん」 光が薄く差し込む音楽準備室。彼女は、今日もそこにいた。 「やあ、犯人は捕まえられたのかな。マシロコの助手の松浦君」 「……犯人は、ましろが捕まえて横っ腹にチョップを食らわせたそうですよ。動機は受験でストレスがたまっていたこと。でも、犯人はそいつだけじゃないんです」 クラブさんはゆっくりと首をかしげた。 「ほう? 複数犯だったと。で、他の犯人は捕まえたのか」 「……この本、見たことありますよね」 ぼくは鞄の中からあの本を出した。古ぼけていて、破れていて、読み古されている本。クラブさんは何も言わない。 本当はこのセリフを言うべきなのはぼくじゃない。だが、ここは言うしかない、と思った。だからこう言った。 「犯人はあなたですよ、クラブさん」 「……そう。その本はこの部屋にあったもの。それを愛読していたのはわたし。落書きをして、図書室に送り込んだのもわたしだ」 まあ、図書室に持って行ったのはわたしではないがね……と、クラブさんはあっさり白状した。 「なんでそんなことしたんですか……」 ましろに怒られますよ、と言おうとした。 ぼくはましろとは違う。彼女に罪を償わせようとか、チョップを食らわせようとか、そんなことは考えていない。 ただ、理由を知りたかった。 クラブさんは読書が大好きだ。その大好きな本に落書きをして放りだす、なんてことをするとは思えないのだ。 「……遊びだよ」 真剣な口調だった。 「大宮ましろを困らせるための……遊びだ」 「……は?」 一瞬、何が何だか分からなくなった。 今、彼女は何と言ったのだ。 大宮ましろを……困らせる? 「あの、意味がわからないんですけど。クラブさんは、ましろに構ってほしいんですか」 「逆だ。わたしはマシロコが嫌いなんだ。だから困らせてやりたかった」 「嫌い……?」 言われてみれば、彼女がましろに好意的な感情を向けたことはなかった。ましろに会うことを、『ちょっと怖い』とも言っていた。 「なんで、嫌いなんですか。まあ、変な奴ですけど」 「……おまえがマシロコの話ばっかりするから」 すねたように言う彼女の顔は少し、泣きそうに見えた。 「寂しかったんだ。わたしはおまえのことが――」 何か言いかけたクラブさんの言葉を、大きな音が遮った。閉め切られていた部屋に、風が吹き込むのを感じた。 「松浦、まだこんなところにいるの? 校門閉まっちゃうよ~?」 力強く開いた扉から現れたのはほかでもない、大宮ましろその人だった。 「もちろん、マシロコが絶対に動き出すとは思わなかったさ。そうなればいいな、と思っただけだ。結果としてそうなった、というだけの話だ。模倣犯が事件を広げたのは予想外だった」 クラブさんは何事もなかったかのように言葉を継ぎ、 「ほら、松浦。ぼうっとしてないで帰るよ」 ましろはましろで、クラブさんの言葉は聞こえないかのようにぼくに話しかけてくる。 「ちょっと待て、二人とも。二人同時に話したら、何を言ってるんだかわからない。片方ずつにしてくれるか」 「……ねえ、何言ってるの」 ましろは怪訝そうに言う。 「この部屋には、松浦とわたししかいないじゃない」 水を浴びたように、さっと意識が冷えた。冗談かと思ったが、ましろの視線はまったくクラブさんを捉えない。ぼくの方しか見ていない。本当に見えていないらしい。 「クラブさんはそこにいるじゃないか。見えないのか?」 不思議でたまらないというように、ましろはぼくに尋ねる。 「クラブさん……って、松浦が話してた女の人? 今はいないんじゃないの?」 「いる……じゃないか。そこに。椅子に座って、おまえのことを喋って」 クラブさんの方を見る。彼女はうつむいていた。悲しそうだった。 どうして、そんな顔をする。 どうして、ましろには彼女が見えない。 まさか。 「クラブさんは――存在しない、のか?」 ぼくだけに見える幻で。落書きの犯人も別にいて。ぼくは今まで、妄想の中の他人と話していた、のか。それが、ぼくが探していた「本当の彼女の姿」だっていうのか? そんなはずはないと思う。ぼくは彼女に触れたことがある。冷たい手を通して彼女の心の奥に何か冷えたものがあることを意識したことがある。触れられるのに、そこに存在しないなんてありえない。そうだろう? でも、一度走りはじめた思考は、簡単には止まらない。 「幻覚……なのか」 考えたことをそのままにつぶやいた瞬間、クラブさんの姿が薄まった。向こう側が透けて見える。さらさらと揺れる髪も、そこにつけられたヘアピンも、眠そうに細められた目も。すべてはかなく消えてしまいそうに思えた。 そのとき、二人が同時に言葉を発した。 「ああ、そうなのかもしれない」 と聞き取れないような小さな声でクラブさんがつぶやき、 「違う、幻じゃない」 とましろが叫んだ。 正反対の言葉を、言った。 クラブさんは自分の存在を諦めた。 ましろは、見えない存在を信じた。 そして、先に自分の意見を主張したのはましろの方だった。 ましろは、ぐっとこぶしを握りしめて、ぼくを睨んだ。 「なんで諦めるの。確かに、わたしには見えないよ。この間ここに来た妹も、誰にも会わなかったって言ってた。でも、松浦が諦めるのはおかしいよ」 ましろはなんだか必死で、今にも泣きだしそうだった。まるで、自分の大切なものが関係しているかのようだった。 「松浦が信じてあげなきゃだめでしょう。信じないと消えちゃうものってあるんだよ。わたしも昔、信じられないようなことがあった。とても信じられないような、不思議な友達がいた。その友達は、わたしが疑ったせいで消えちゃった」 ましろの叫びが――音楽準備室に響いた。 その声は、切実で、悲しげで、でも力強かった。 「松浦に見えるなら、クラブさんはいるんだよ。松浦にしか肯定してあげられないかもしれない。それをどうして簡単に幻覚だなんて言うの!?」 「……!」 叩きつけられたましろの言葉に、驚いたのはぼくだけではない。 クラブさんも、驚いていた。クラブさんのそんな表情を見るのは初めてで、なんだか新鮮だった。呆然と、魂が抜けたように……クラブさんは言う。 「……おまえは馬鹿か、マシロコ」 その言葉は、もちろんましろには届かない。 「わたしはおまえに嫉妬して、嫌がらせしようとしたのに」 ましろは答えない。ただ、ぼくを見つめるだけだ。 そのまっすぐでひたむきな目を見て、ぼくはこう言った。 「ほら、だから言ったでしょう。大宮ましろは、変な奴なんですよ」 クラブさん、とぼくは語りかけた。クラブさんの目を見て、しっかりと念じた。存在を、肯定した。 すると、椅子に座ったクラブさんの存在が、少し濃くなった。 「幻なんて言ってすいませんでした。クラブさんは、ちゃんとここにいます。ぼくの、大切な話相手です」 そう、それだけは――絶対に揺るがない。 幻でも、空想でも妄想でもいいじゃないか。 クラブさんは確かにぼくの世界にいる。 ぼくの話を聞いてくれるし、笑いかけてくれる。大切な存在だ。 彼女が何者でも同じだ。ぼくはもうずっと前から本当の彼女と一緒にいたのだ。改めて探す必要なんて、最初からなかった。いつも意地を張っていて、素直じゃないクラブさん。でも、彼女は誰よりも、正直者だった。歪曲しているように見えても、本当はまっすぐだ。 それが彼女の真実なのだ。 「……ありがとう」 彼女が笑った瞬間、ふわり、と風が吹いた気がした。優しい風だった。 その風が吹き抜けていったあと、ふと視線を戻すと、クラブさんが消えていた。 代わりに、本当の彼女がそこにいた。窓から差し込む薄い光の中に。宙に舞う埃も、光を受けてきらきら光る。彼女がそこに存在することを、祝福するかのように。 不思議と驚きや戸惑いはなく、簡単に現実を受け入れることができた。 「クラブ、さん」 近寄って、触れてみた。埃をかぶっていたけれど、鍵盤はちゃんと音を奏でた。 さっと埃を払い、ぼくは椅子に腰かける。彼女と向かい合い、黒と白の世界に降り立つ。 モノクロームの鍵盤の上。両手を、そこへ乗せる。 ぼくの夢の、始まりの場所だった。何よりも焦がれた、憧れの世界。 「……あなたは、ずっと弾き手を待っていたんですね」 もう一度鍵盤に触れると、彼女は澄んだ音色でぼくに応じた。 彼女の本当の名前はclavecin(クラヴサン)。イタリア語でチェンバロ、英語で言うならハープシコード。音楽室に置き去りにされた、由緒ある鍵盤楽器。それが「クラブさん」の正体だった。さんづけに執拗にこだわったのも、「さん」まで含めて本当の名前だから、だったのだろう。 その後、旧校舎の取り壊しと同時に校舎ごと壊されるという話を聞いて、ぼくは慌てて教師に、あの楽器を家に持ち帰ってもいいかと訊きに行った。快く了承をもらうことができ、今、クラブさんはぼくの部屋の隅に、静かに存在している。 後日、クラブさんが例の本に落書きをした犯人だったことを教えてやると、ましろは苦笑した。さすがに楽器にはチョップできないなあ、と。 音楽で魔法を奏でたい、人を幸せにしたいと夢を語ったぼくに、ましろも自分の夢を教えてくれた。 「わたしはね、ロボットエンジニアになる。そして、人間と友達になれる機械を作るの」 いい夢だと思うよ、とぼくは言った。ましろは不敵に笑った。 「どっちが先に夢をかなえるか、勝負しようよ、松浦」 彼女は彼女の信じるもののために。 ぼくはぼくの信じる理想と、『彼女』のために。 「いいぜ。絶対、ぼくが勝つから。見てろよ」 本当のクラブさんと、本当の大宮ましろ。 そして、ちゃんと前を向いて、もう一度歩き出すことのできた、ぼく。 ぼくたちの未来と夢はきっと、この道をまっすぐに歩けば、そこに在る。 |