Light in Darkness.
録音機材と戦う松浦の背にドロップキックを食らわせ、わたしはほくそえんだ。理不尽な暴力を加えられた哀れな松浦は、何事もなかったかのように起き上がって、無言で作業を再開する。床に直接座って作業をしているため、だぼだぼの白衣が床にべったりとついている。またイラッとしたので、その頭をグーで殴ってやった。彼の頭は見事なスキンヘッドであるので、叩くとすいかのようにいい音がする。
「ねえ松浦……痛くないの」
と青木が尋ねる。淡々とした調子だが、ほんの少しだけ、心配しているようだ。少し間をおき、松浦が「痛い」と返事をした。抑揚に乏しい声だ。松浦はそれきり何も言わずに作業に戻っていった。
色素の薄い自らの髪の毛をほわほわと指でもてあそぶ青木は、わたしの方を向いて「手加減した?」と聞いてきたが、「するわけない」と答えた。
わたしたち三人は大学の音楽室にいる。音楽室を使う部活やサークルはわりと多い。自分たちのための作業ができる時間は限られてくるため、わたしたちは急いでいた。何しろ、文化祭は来週の日曜日なのだ。残された時間はもう一週間もないことになる。
わたしたち三人は「音楽研究サークル」略して「オンサ」に属している。名前だけではサークルの詳細がよくわからないだろうと思うので補足しておくと、俗に言う「軽音」と同じような活動をしている。しかし、この大学には「音楽研究サークル」の他に、ちゃんと「軽音楽部」が存在する。
なぜわたしたちはそちらに属さないのか。その理由は一言で簡潔に言うならば「音楽性の相違」である。わたしたち三人は、軽音楽部に入ったものの、「なじまない」「相容れない」といった理由で部を抜けざるをえなくなり、ぼんやりと生活を送っていた。しかし、音楽に対する情熱を諦め切れてはいなかった。そこで、はみ出し者同士でもうひとつ音楽系のサークルを作ればいい、という結論に至り、「音楽研究サークル」は生まれたのだった。
わたしたち三人が軽音楽部の方針になじまなかった理由はすぐにわかった。
端的に言ってしまうと、いきすぎたオタクだったからだ。
松浦という男は「真実の愛は次元が違う。二次元こそ最高だ」と真顔で言うような典型的ないわゆる「萌え系オタ」であるし、一見おしゃれなやさ男に見える青木は、ボーイズラブコミックを本棚一つ分所有している、いわゆる腐男子。そしてわたしは、同人作家暦五年の雑食オタクである。ちなみに、松浦と青木は同じ男オタクでありながらも守備範囲が全く違うため、あまり二人きりでお互いの趣味の話をすることはないらしい。萌えオタかつ腐女子であるわたしは二人の好きな物をうまいこと把握しているので、三人でいるとき、趣味の話になった際に、松浦と青木のどちらかが退屈したり不快になったりすることのないように気を配るのはわたしの役割で、いわば架け橋のようなものだ。
軽音楽部にいた連中はいわゆる「リアルに充実した人たち」だった。髪は全員茶髪だし、本と言えば携帯小説とタレントのエッセー。毎日、前の日に見たバラエティ番組の話で笑い合う。そんな彼らと、わたしたち三人の間には隔たりがありすぎた。水と油のようになじまない存在、とでも言おうか。軽音楽部とわたしたちは、互いを異物だと認識し合っていた。どちらが悪いとか劣っているとか、そういう意味ではない。自分と違うから貶める、なんて野蛮な行為に出るほど子供ではなかった。けれども、邪魔ではあった。同じ空間にいるべきではないと、双方が思っていた。
そんな経緯があってできた「オンサ」だったが、今は文化祭で売るCDの制作に追われている。ちなみに、ここにも軽音と「オンサ」の大きな違いがある。軽音楽部の文化祭の出し物は、大がかりなステージを用いた野外ライブであるが、「オンサ」はライブはいっさいしないで、音源を焼いたCDを売るのだ。同じ「歌」でも、軽音のやりたいことと「オンサ」のやりたいことの間には少しずれがある。会場が一つになり盛り上がる「刹那」を求めるのが軽音のやり方だとしたら、「オンサ」の求めるのは「永遠」だ。むろんCDはいずれ劣化するものではある。それはわかっている。けれど、わたしたちが作った音楽を、誰かの手元にずっと置いておくことができたら。その「誰か」がその音楽を何度も聞きなおしてくれたら。それは作り手にとって最大級の栄誉だと思う。わたしたちはそういう作り手になりたいのだ。
「機材の準備できたよ、カイセ」
と松浦がどんよりとした表情で言った。カイセというのはわたしの名字、「貝瀬」のことである。彼の発音だと、外国人のような名前に聞こえてしまうので、できたら改めてほしいのだが、いくら言っても直す様子はない。
「じゃあ収録始めよっか。青木、のどの調子はどう?」
「おっけーだよ」
「はい、マイク」
とわたしは青木にマイクを手渡した。マイクスタンドなんて贅沢なものはここにはないので、収録中はマイクを固定するのに少々苦労する。青木はメインボーカルを担当していて、すきとおるようなハスキーな声で歌う。本番に強いのか完璧主義者なのかは不明だが、たいがいは数回でOKが出る。楽器パートはすでに録り終えているので、あとは松浦が音源を編集して、CDに焼けば完成である。
「歌うのってすっきりするよね」
と、歌い終えた青木は恍惚として言った。どうやら彼にとっての歌は、麻薬の一種か何からしい。得体のしれない男だな、とわたしは常々思っている。
「今日はそろそろ解散、でいいな」
松浦が断定口調で言うので、彼のかけているメガネを下へずらしてやった。
「何するんだ」
憮然とした調子で反論する松浦にわたしは言う。
「あんたが仕切らないでよ」
「ぼくがしきらなくて誰がしきるんだ」
「あたしに決まってるじゃん」
そんなやり取りを、にこにこしながら青木が聞いている。
「おい青木、おまえ笑ってないでなんとかしろよ、このバカ女をさ」
「誰がバカ女? このハゲ」
「何度でも言う。この脳みそカスカス女」
「あんたのかーちゃん超でべそ!」
だんだん次元が低くなっていくののしり合いが始まった。
が、やはり青木は笑って聞いているだけだ。
これでは収拾がつかないので、数分後、仕方なくわたしは折れた。
「解散!」
やけになって叫びながら、一部の機材を持って部室から外へ出た。
もう太陽は沈んでしまっている。早く帰らなくては。
「なあカイセ」
と、帰り道へと歩きだしながら松浦が言う。
「CD、売れるといいな」
ぼそりとひとりごとのように言ったその言葉を、わたしは反復した。
「売れると、いいね」
青木はやっぱり無言だった。ともすれば存在を忘れてしまうのではないかと思うくらいに静かだったので、不安になってそちらを見てみた。そこには人畜無害な笑顔があった。たまに思う。この笑顔はどこまで本心で、どこまで演技なのだろう。仲間を疑うなんてよくないとわかってはいるけれど、ごくまれに不安になる。わたしと松浦に合わせてくれているだけで、彼は本当はわたしたちとは歌いたくないんじゃないかと。
「ねえ、青木」
わたしは彼に声をかけた。
「CD、売れるといいね」
その言葉を受けた青木は、にへら、と笑ってこう言った。
「うん、売れたら嬉しいな」
その笑顔は偽物には見えなかった。わたしは安堵する。
夕闇の中を三人で歩いて帰るとき、わたしはとても幸せだ。背の高い二人の間に入って同じ調子で歩くと、まるで遊園地に来た親子みたいで、ロマンチックな感じがする。
空だけでなく、足元にも闇が薄く広がっている。足をからめ取ってしまいそうな闇だけれども、それを怖いとは感じない。むしろ愛しく感じる。だって、この闇は、先ほどまで夕焼け色をしていたのだもの。悪いものなんかであるはずはないのだ。それに、この闇は明日の朝には静謐な朝の空気の中に溶けて消えてしまう。そんな刹那的なものを、どうして疎むことができよう。この闇は自分に似ているような気がした。ただ足元を覆い尽くし、いずれ光にのまれて消えてしまう運命を持った闇。今ここにある自分も、そういう風に、何か大きな未来にのまれて消えてしまうに違いない。
誰も、いつまでも同じでなんていられないのだから。
たぶん、だからわたしたちは歌をCDにプレスして売るんだと思う。今の自分を忘れないでいてもらいたいから。そして、今の自分を、忘れないでいたいから。
わたしたちは、CDにプレスされた限りある永遠を、ただただ、切り分けて売っていく。そうすることで、少しだけ、自分の存在を確かめてみたいのかもしれない。
080522
「ねえ松浦……痛くないの」
と青木が尋ねる。淡々とした調子だが、ほんの少しだけ、心配しているようだ。少し間をおき、松浦が「痛い」と返事をした。抑揚に乏しい声だ。松浦はそれきり何も言わずに作業に戻っていった。
色素の薄い自らの髪の毛をほわほわと指でもてあそぶ青木は、わたしの方を向いて「手加減した?」と聞いてきたが、「するわけない」と答えた。
わたしたち三人は大学の音楽室にいる。音楽室を使う部活やサークルはわりと多い。自分たちのための作業ができる時間は限られてくるため、わたしたちは急いでいた。何しろ、文化祭は来週の日曜日なのだ。残された時間はもう一週間もないことになる。
わたしたち三人は「音楽研究サークル」略して「オンサ」に属している。名前だけではサークルの詳細がよくわからないだろうと思うので補足しておくと、俗に言う「軽音」と同じような活動をしている。しかし、この大学には「音楽研究サークル」の他に、ちゃんと「軽音楽部」が存在する。
なぜわたしたちはそちらに属さないのか。その理由は一言で簡潔に言うならば「音楽性の相違」である。わたしたち三人は、軽音楽部に入ったものの、「なじまない」「相容れない」といった理由で部を抜けざるをえなくなり、ぼんやりと生活を送っていた。しかし、音楽に対する情熱を諦め切れてはいなかった。そこで、はみ出し者同士でもうひとつ音楽系のサークルを作ればいい、という結論に至り、「音楽研究サークル」は生まれたのだった。
わたしたち三人が軽音楽部の方針になじまなかった理由はすぐにわかった。
端的に言ってしまうと、いきすぎたオタクだったからだ。
松浦という男は「真実の愛は次元が違う。二次元こそ最高だ」と真顔で言うような典型的ないわゆる「萌え系オタ」であるし、一見おしゃれなやさ男に見える青木は、ボーイズラブコミックを本棚一つ分所有している、いわゆる腐男子。そしてわたしは、同人作家暦五年の雑食オタクである。ちなみに、松浦と青木は同じ男オタクでありながらも守備範囲が全く違うため、あまり二人きりでお互いの趣味の話をすることはないらしい。萌えオタかつ腐女子であるわたしは二人の好きな物をうまいこと把握しているので、三人でいるとき、趣味の話になった際に、松浦と青木のどちらかが退屈したり不快になったりすることのないように気を配るのはわたしの役割で、いわば架け橋のようなものだ。
軽音楽部にいた連中はいわゆる「リアルに充実した人たち」だった。髪は全員茶髪だし、本と言えば携帯小説とタレントのエッセー。毎日、前の日に見たバラエティ番組の話で笑い合う。そんな彼らと、わたしたち三人の間には隔たりがありすぎた。水と油のようになじまない存在、とでも言おうか。軽音楽部とわたしたちは、互いを異物だと認識し合っていた。どちらが悪いとか劣っているとか、そういう意味ではない。自分と違うから貶める、なんて野蛮な行為に出るほど子供ではなかった。けれども、邪魔ではあった。同じ空間にいるべきではないと、双方が思っていた。
そんな経緯があってできた「オンサ」だったが、今は文化祭で売るCDの制作に追われている。ちなみに、ここにも軽音と「オンサ」の大きな違いがある。軽音楽部の文化祭の出し物は、大がかりなステージを用いた野外ライブであるが、「オンサ」はライブはいっさいしないで、音源を焼いたCDを売るのだ。同じ「歌」でも、軽音のやりたいことと「オンサ」のやりたいことの間には少しずれがある。会場が一つになり盛り上がる「刹那」を求めるのが軽音のやり方だとしたら、「オンサ」の求めるのは「永遠」だ。むろんCDはいずれ劣化するものではある。それはわかっている。けれど、わたしたちが作った音楽を、誰かの手元にずっと置いておくことができたら。その「誰か」がその音楽を何度も聞きなおしてくれたら。それは作り手にとって最大級の栄誉だと思う。わたしたちはそういう作り手になりたいのだ。
「機材の準備できたよ、カイセ」
と松浦がどんよりとした表情で言った。カイセというのはわたしの名字、「貝瀬」のことである。彼の発音だと、外国人のような名前に聞こえてしまうので、できたら改めてほしいのだが、いくら言っても直す様子はない。
「じゃあ収録始めよっか。青木、のどの調子はどう?」
「おっけーだよ」
「はい、マイク」
とわたしは青木にマイクを手渡した。マイクスタンドなんて贅沢なものはここにはないので、収録中はマイクを固定するのに少々苦労する。青木はメインボーカルを担当していて、すきとおるようなハスキーな声で歌う。本番に強いのか完璧主義者なのかは不明だが、たいがいは数回でOKが出る。楽器パートはすでに録り終えているので、あとは松浦が音源を編集して、CDに焼けば完成である。
「歌うのってすっきりするよね」
と、歌い終えた青木は恍惚として言った。どうやら彼にとっての歌は、麻薬の一種か何からしい。得体のしれない男だな、とわたしは常々思っている。
「今日はそろそろ解散、でいいな」
松浦が断定口調で言うので、彼のかけているメガネを下へずらしてやった。
「何するんだ」
憮然とした調子で反論する松浦にわたしは言う。
「あんたが仕切らないでよ」
「ぼくがしきらなくて誰がしきるんだ」
「あたしに決まってるじゃん」
そんなやり取りを、にこにこしながら青木が聞いている。
「おい青木、おまえ笑ってないでなんとかしろよ、このバカ女をさ」
「誰がバカ女? このハゲ」
「何度でも言う。この脳みそカスカス女」
「あんたのかーちゃん超でべそ!」
だんだん次元が低くなっていくののしり合いが始まった。
が、やはり青木は笑って聞いているだけだ。
これでは収拾がつかないので、数分後、仕方なくわたしは折れた。
「解散!」
やけになって叫びながら、一部の機材を持って部室から外へ出た。
もう太陽は沈んでしまっている。早く帰らなくては。
「なあカイセ」
と、帰り道へと歩きだしながら松浦が言う。
「CD、売れるといいな」
ぼそりとひとりごとのように言ったその言葉を、わたしは反復した。
「売れると、いいね」
青木はやっぱり無言だった。ともすれば存在を忘れてしまうのではないかと思うくらいに静かだったので、不安になってそちらを見てみた。そこには人畜無害な笑顔があった。たまに思う。この笑顔はどこまで本心で、どこまで演技なのだろう。仲間を疑うなんてよくないとわかってはいるけれど、ごくまれに不安になる。わたしと松浦に合わせてくれているだけで、彼は本当はわたしたちとは歌いたくないんじゃないかと。
「ねえ、青木」
わたしは彼に声をかけた。
「CD、売れるといいね」
その言葉を受けた青木は、にへら、と笑ってこう言った。
「うん、売れたら嬉しいな」
その笑顔は偽物には見えなかった。わたしは安堵する。
夕闇の中を三人で歩いて帰るとき、わたしはとても幸せだ。背の高い二人の間に入って同じ調子で歩くと、まるで遊園地に来た親子みたいで、ロマンチックな感じがする。
空だけでなく、足元にも闇が薄く広がっている。足をからめ取ってしまいそうな闇だけれども、それを怖いとは感じない。むしろ愛しく感じる。だって、この闇は、先ほどまで夕焼け色をしていたのだもの。悪いものなんかであるはずはないのだ。それに、この闇は明日の朝には静謐な朝の空気の中に溶けて消えてしまう。そんな刹那的なものを、どうして疎むことができよう。この闇は自分に似ているような気がした。ただ足元を覆い尽くし、いずれ光にのまれて消えてしまう運命を持った闇。今ここにある自分も、そういう風に、何か大きな未来にのまれて消えてしまうに違いない。
誰も、いつまでも同じでなんていられないのだから。
たぶん、だからわたしたちは歌をCDにプレスして売るんだと思う。今の自分を忘れないでいてもらいたいから。そして、今の自分を、忘れないでいたいから。
わたしたちは、CDにプレスされた限りある永遠を、ただただ、切り分けて売っていく。そうすることで、少しだけ、自分の存在を確かめてみたいのかもしれない。
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