Be deep in gloom.
梅雨は気分が沈む。誰かれ構わず殴りたくなったり、何もせずにずっと寝ていたいと思ったりする。わたしがそう話すと青木はふしぎそうに首をかしげた。
「そうかな。ぼくはわりと好きだけど、梅雨」
「はぁ? なんで!どこがいいの!?」
信じられずにそう叫んだ。青木はじわりとにじむような笑顔になった。
「雨のにおいがするから」
青木はときどき、よくわからないことを言う。彼には、何を考えているのかいまいち計りきれないところがある。どう返事したらいいかわからなかったので、「そっか」と頷いて、黙った。
わたしたち二人は今、放課後の空き教室にいる。松浦はいない。彼は先ほど、アニメの再放送を録画すると言って急いで帰ってしまった。同族として、彼の気持ちは痛いほどわかるのだが、実際に目の前で実行されると、わたしには少し滑稽な姿に思えた。人が何かに熱中している姿というのは、実は滑稽であることが多いものだ。
「貝瀬さんは、どの季節だったらやさしくなれるの」
と青木が尋ねた。彼は「好き」ではなく「やさしくなれる」という言葉を使った。実に青木らしい言い回しだ。根拠は特にないけれど、そう思った。
「そうだなあ。やっぱり、春かな」
「それはどうして?」
わたしは机に伏して目を閉じた。春を思い浮かべる。脳内で、あたたかな春の中へトリップする。そこでは蝶が舞い、桜が散り、新しい生活が始まろうとしている。見上げた空は青い。空気を吸うと、淡い春風の味がした。
「しあわせそうだね」
と青木が言ったので、こちらの世界に戻ってきた。目を開ける。そこにあったのは元の空き教室。外は雨。向かいの机に座った青木がわたしの顔を覗きこんで、いつものように笑っている。
「うん。今、春に沈んでいたの」
自分がなぜそんなことを言ったのかよくわからなかった。
青木は、そうかあ、と間の抜けた返事をした。
「貝瀬さんは、本当に春を愛しているんだね」
愛という言葉はとても照れくさいものに思えたけど、あえて否定せずにその評価を受け入れた。そうすることで、ただ「春が好きだ」という事象が崇高で偉大なことに思えてきた。愛するということは誇りだ。何かを好きだという事実は、それだけでとても価値のあるものなのだ。柄にもなくそんなことを考えた。
ガラスを一枚隔てた向こう側では、先ほどよりも雨脚が強くなっていた。この雨の下で、松浦は何をしているだろう。まだ帰り道を歩いているだろうか。それとも、テレビの前で幸せな時間を過ごしているだろうか。彼は梅雨が好きだろうか。春が好きだろうか。意味もなく、つらつらとそんなことを思った。
「ねえ貝瀬さん、一曲歌ってもいいかな」
唐突な申し出だったが、なぜだろう、さっきから、彼がそう言いだすような気がしていた。いいよ、と答えると、彼は歌い出した。昔聞いた懐かしいメロディ。この歌は……童謡の、「春の小川」だ。
相変わらず彼の声はよく通る。普段歌っている歌よりも、こういう単調なメロディの方が彼の声質には合うような気がした。空き教室の中で彼の声が程良く反響している。心地よい空間の中で、今この瞬間に、初めて彼の声のバックに流れる雨の音を肯定できた気がした。
080523
「そうかな。ぼくはわりと好きだけど、梅雨」
「はぁ? なんで!どこがいいの!?」
信じられずにそう叫んだ。青木はじわりとにじむような笑顔になった。
「雨のにおいがするから」
青木はときどき、よくわからないことを言う。彼には、何を考えているのかいまいち計りきれないところがある。どう返事したらいいかわからなかったので、「そっか」と頷いて、黙った。
わたしたち二人は今、放課後の空き教室にいる。松浦はいない。彼は先ほど、アニメの再放送を録画すると言って急いで帰ってしまった。同族として、彼の気持ちは痛いほどわかるのだが、実際に目の前で実行されると、わたしには少し滑稽な姿に思えた。人が何かに熱中している姿というのは、実は滑稽であることが多いものだ。
「貝瀬さんは、どの季節だったらやさしくなれるの」
と青木が尋ねた。彼は「好き」ではなく「やさしくなれる」という言葉を使った。実に青木らしい言い回しだ。根拠は特にないけれど、そう思った。
「そうだなあ。やっぱり、春かな」
「それはどうして?」
わたしは机に伏して目を閉じた。春を思い浮かべる。脳内で、あたたかな春の中へトリップする。そこでは蝶が舞い、桜が散り、新しい生活が始まろうとしている。見上げた空は青い。空気を吸うと、淡い春風の味がした。
「しあわせそうだね」
と青木が言ったので、こちらの世界に戻ってきた。目を開ける。そこにあったのは元の空き教室。外は雨。向かいの机に座った青木がわたしの顔を覗きこんで、いつものように笑っている。
「うん。今、春に沈んでいたの」
自分がなぜそんなことを言ったのかよくわからなかった。
青木は、そうかあ、と間の抜けた返事をした。
「貝瀬さんは、本当に春を愛しているんだね」
愛という言葉はとても照れくさいものに思えたけど、あえて否定せずにその評価を受け入れた。そうすることで、ただ「春が好きだ」という事象が崇高で偉大なことに思えてきた。愛するということは誇りだ。何かを好きだという事実は、それだけでとても価値のあるものなのだ。柄にもなくそんなことを考えた。
ガラスを一枚隔てた向こう側では、先ほどよりも雨脚が強くなっていた。この雨の下で、松浦は何をしているだろう。まだ帰り道を歩いているだろうか。それとも、テレビの前で幸せな時間を過ごしているだろうか。彼は梅雨が好きだろうか。春が好きだろうか。意味もなく、つらつらとそんなことを思った。
「ねえ貝瀬さん、一曲歌ってもいいかな」
唐突な申し出だったが、なぜだろう、さっきから、彼がそう言いだすような気がしていた。いいよ、と答えると、彼は歌い出した。昔聞いた懐かしいメロディ。この歌は……童謡の、「春の小川」だ。
相変わらず彼の声はよく通る。普段歌っている歌よりも、こういう単調なメロディの方が彼の声質には合うような気がした。空き教室の中で彼の声が程良く反響している。心地よい空間の中で、今この瞬間に、初めて彼の声のバックに流れる雨の音を肯定できた気がした。
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