Shooting Star.
松浦は本棚と格闘している。両目は狩りをする者のそれだ。
本棚を眺めている、ではなく「格闘している」と表現したのは、ここが一般的な書店ではなく中古同人ショップだからである。通常、本というものには背表紙があり、棚に並んでいる段階で容易にタイトルを知ることができるのだが、同人誌というのは基本的に薄いため、背表紙にタイトルを記すのは難しい。平積みにされていない場合、一冊ずつひっぱりだして表紙をチェックするという地道な作業が必要だ。今、松浦が懸命にやっているのはその作業。彼が見ているのは棚の三分の一ほどのところなので、まだまだ終わりそうにない。わたしはもう一人の連れである青木の様子を見に行くことにした。
青木がいたのは松浦のいる場所とは真逆の方向にある同人誌売り場だった。青木は目立っていた。当然と言えば当然で、そこはいわゆる女性向コーナー。平たく言えばボーイズラブ本売り場で、そして青木は男なのだ。「腐男子」という言葉は昨今わりと広まってきてはいるが、そこまで普及している概念でもなく、理解もされていない。
おまけに青木は、外見だけならすさまじくレベルが高い。古くさい表現をするなら、そのへんを歩いていてスカウトされてもおかしくないくらいの美形なのだ。目立たずにいる方が無理というものだろう。案の定、周囲の女子たちが居心地悪そうに青木の方をちらちら見ている。見られている青木本人はと言えば、涼しい顔で薄い本を一冊一冊じっくり眺めて吟味している。どこまでもマイペースな男だ。
彼に話しかけようかと思ったが、わたしまで目立ってしまいそうなのでやめておいた。
松浦のところへ戻ろう。
松浦はまだ棚から本をひっぱりだす作業に熱中していた。わたしは無音でその背後に立ったが、彼はまったく気づかないので、スパーンとその髪のない頭部を叩いてやった。彼はスキンヘッドである。
「……なんだ」
本を見据えたまま彼はそう応じた。まったく動じていない。さすがに、わたしの繰り出す理不尽な暴力にはなれっこである。
「青木があっちで悪目立ちしてるわ」
一応そう報告しておいた。
「いつものことだろ」
そっけない答えが返ってきた。まあ、そのとおりだ。
続けて彼は、「カイセは買い物しないのか」と質問してきた。
「うーん、わたし、本は一人で買いに来る派だから」
わたしは人と書店に行くのが苦手なのだ。本は一人で見て、一人で選びたいというのがわたしのひそかなこだわりである。だいたい、友人と二人で本屋に行ったとして、その友人がひたすら立ち読みに熱中していたら、わたしはその間、どこでどうしていればいいのか、まったくわからない(買うつもりがないのに立ち読みをするという行為は本に対する冒涜だと、わたしは勝手に判じている)。
「別に恥ずかしがらなくても、ぼくも青木もおまえの趣味くらい熟知しているぞ」
何を勘違いしたのか松浦はそんなことを言い出した。そのまま、「たとえば……」とわたしの好きなジャンル傾向をあげようとするので、わたしは彼の広い額にデコピンを加えて黙らせた。
「こんなところで人の趣味暴露しようとするんじゃないわよ」
「誰も聞いてないと思うが……」
額を撫でながら、彼はそう応じた。確かに、店内の客たちはそれぞれ先ほどまでの松浦のように「狩り」に昂じており、わたしたちの姿など見えないかのような熱中ぶりである。ここは男性向け同人誌売り場なので、本来ならばわたしの存在は女性向コーナーの青木と同じように浮いてしまってもおかしくないのだが、ハンターの目を持つ男たちはわたしになど目もくれない。つくづく、男と女というのは次元を異にするいきものなのだな、とわたしは思った。
「あっれー、もしかして待たせちゃったかな」
背後で底抜けに明るい男の声がしたので、振り返ると青木だった。少し大きめの有名ブランドショップの袋を提げている。服装も場違いなほどおしゃれだし、一見するとこんな店とは無関係そうに見えるのだが、そのブランドショップの袋の中身は数十冊に及ぶ同人誌(しかも女性向)なのだった。ミスマッチここに極まれり。しかしながら、嗜好はともかく、買い物の後、同人ショップの袋をそのまま持ち歩かないところには好感が持てる。松浦なんて、袋をさんざんそのまま持ち歩きまくった後、通学かばん代わりに使ったりする。デリカシーのないオタクだ。まあ、その袋を見て目を背けるような輩はたいがい松浦やわたしの同族で、いわゆる一般人は松浦の手提げ袋に入っているロゴなんて見てはいないだろうけど。しかし、この「一般人」というオタクに特有の言い方はどうにかならないものだろうか。オタク連中が「一般」から外れているみたいだ。確かに普通の嗜好ではないかもしれないが、なんだかすごく、疎外されている気がする。いや、この場合は自分から疎外されようとしているのか。
「待ってないから安心しろ。ていうかぼくはまだ買い物途中だ」
ぶっきらぼうな調子で松浦が応じた。
「貝瀬さんは?」
無害な笑顔を作った青木が尋ねる。わたしの代わりに松浦が口を開いた。
「カイセは一人のときじゃないと本は買わない主義だそーです」
松浦は本のサーチング作業を再開する。青木はころころと笑った。
「あ、そうなんだ。じゃあ、もしかしてずっと暇だった? ごめんね」
こういう細かい気遣いができるところが青木の長所だ。松浦にはできない芸当である。これで、マイペースすぎて何を考えているのかわからない腐男子でなければ、たぶんわたしは青木のことを好きになっていただろう。
「別に」とわたしは答えた。
「待つのは嫌いじゃないから大丈夫」
「そっか。ごめんねー」
屈託なく笑う青木。やわらかな茶色い髪が冷房の風でふわふわと揺れている。血統つきの犬みたいな男だ。
それからしばらくして、松浦が手を止めてこちらを向いた。
「……終わった。待たせてすまない」
ぶっきらぼうな調子で松浦が言い(どうやら収穫はなかったようだ)、青木がわたしに向けてウインクをした。
「帰りますか」
「うん」
++++
ぼくは驚いていた。貝瀬理恵が青ざめている。驚きに目を見開いて、唇をわなわなと震わせて。ぼくの知る不遜で暴力的な彼女は、いつのまにか羊のようにおどおどとした女に姿を変えていた。その怯えた瞳が映しているのは、茶髪で濃く化粧をした若い女だ。先ほどの店を出て、この女に声をかけられた瞬間、貝瀬の様子がおかしくなった。
「あ、久しぶりじゃない、貝瀬さん」
見知らぬ女が言ったのはただ一言、それだけだったのに――貝瀬は急激に顔色を変えて、そして、もうかなり長い間硬直したままでいる。
濃い化粧の女は唇の端を釣り上げて邪悪な笑みを浮かべる。それが「邪悪」に見えたのは、ぼくが貝瀬の反応を踏まえて勝手に女を「悪」だと判断したからで、もしかしたらその笑みは、普通の笑みだったのかもしれない。
女はこう言った。
「――どっちが貝瀬さんの彼氏?」
貝瀬の顔がこわばるのが見えた。
あからさまな拒否反応だった。
ぼくは一歩前に踏み出して、震えている貝瀬の肩に触れた。貝瀬がぼくを見る。よわよわしい目つき。ぼくは、貝瀬とは目を合わせず、見知らぬ女の方を、射抜くように見る。
「やめろよ。カイセが怯えてる」
ぼくの声は、気持ち悪く裏返って妙な調子になってしまった。女はふっと悟ったように笑った。彼女はぼくの方を見て、
「いい彼氏じゃん。変わったね、貝瀬さん」
モデルのようにさっと身を翻して、ぼくらに背を向けてどこかへと歩いて行った。
++++
ああ、どうしてあの女がこんなところにいるのだろう。もう終わりだ。何もかも終わりだ。どうしてこんな目に遭うのだろう。わたしはただ、閉鎖された世界の中で、ささやかに生きていきたかっただけなのに。
あの女は過去のわたしを知っている。あの女がそれをバラしたら、わたしのこの日常は壊されてしまうのだ。松浦とも青木とも、一緒にいられなくなってしまう。
どれくらいの間、そうして呆然と自失していたのだろう、わたしは誰かの手が肩に触れる感触で我に帰った。視線を移す。それは松浦の手だった。意外と筋肉の付いた腕が見える。松浦はわたしではなく、あの女の方をまっすぐに見据えていた。
「やめろよ」
と彼が言ったのでわたしはびくりと体を震えさせて反応した。自分が叱責されたのかと思ったのだ。松浦はそのまま続けて、
「カイセが、怯えてる」
と言ったので、先ほどの言葉はわたしではなくあの女に向けたものだったらしいことがわかった。少し、ほっとした。松浦は、あの女を何かたちの悪い勧誘の類とでも思ったのだろう。それで、わたしが攻撃されているとでも勘違いをした。わたしを守ろうとしてくれた。
松浦のくせに。わたしは心の中でそうつぶやいた。
気持ち悪いだけのオタクだと思っていたけど、なかなかかっこいいじゃないか。
しかし、問題はこれからだった。あの女が松浦に反撃してくるだろう。たとえば、「わたしは貝瀬さんのお友達です」とか。高校時代に何があったのかをバラすかもしれない。全部全部、話してしまうかもしれない。いや、きっと話すだろう。また体が震えだす。震えは止まらない。逃げ出したくなるけれど、肩に置かれた松浦の手がそれを許さない。
あの女が口を開く。
「いい彼氏じゃん。変わったねー」
媚びるようなウインクを残し、彼女は背を向けて――どこかへ行ってしまった。
全身の力が抜けていく。わたしが苦労して作り上げた、小さなお城。何もない砂地に必死に組み上げた楼閣。それは、今、破壊されかけたけれど、間一髪、無事だった。わたしの日常は、続いていくことができる。このまま、二人とは、まだ一緒にいられるのだ。
安堵したわたしの体から、どっと力が抜けて、そのまま前方へと体が揺らいだ。
「あっ……」
倒れる。そう思ったけれど、倒れかけたわたしの体を支えたのは、青木だった。
「大丈夫? 貝瀬さん」
いつもの無害な笑顔がそこにあった。
「だいじょーぶ。ちょっとめまいがした、だけ」
そう言い訳して、いつもの自分を取り戻す。
わたしは貝瀬理恵。明るくて、少し暴力的で、松浦と青木のパイプ役で、音楽研究サークルの紅一点。今は、そういうことになっているのだから、だから。
いつもの自分に――戻れ。
「ごめん、もう大丈夫だから。これからどうする? もう一軒行くか、なんか食べに行くか、それとも……」
「カイセ」
松浦が、珍しく真面目な調子でわたしを呼んだ。
「な、何?」
「……無理するな」
それだけ、彼は言った。ぼそぼそとしたオタク特有の口調で、そっけなく。
「む、無理なんてして……」
むきになって弁解しようとしたけれど、松浦の声は容赦なくそれを遮る。
「まだ、震えてる」
わたしはそのとき、初めて自分の体の震えが収まっていないことに気づいた。
「ねえ、貝瀬さん」
青木の声はいつもと同じに、穏やかだ。
「海に行こうか」
脈絡のない、馬鹿みたいな提案だった。誰だって、いきなりこんなことを言われて承諾するわけがない。ここは内陸で、海までは車で数時間かかるのだ。
なのに、わたしと松浦は迷わず、同時に頷いていた。
青木が、口を開けずに優しく笑った。
++++
わたしたちは海へと向かうバスに乗り込んだ。バスの中では流行りのアニメの話をした。守備範囲が違うので、三人の嗜好がかみ合うことはあまりないのだが、その作品は三人とも見ていた。ちなみに、最初に話題を振ったのは松浦である。その後必死にキャラ解釈と、脚本家への愚痴を連ねるのも、彼である。そのアニメではよく人が死ぬ。先週、松浦が気にいっていた美少女キャラが不幸な事故で命を落としたため、松浦は最近の脚本に不満があるらしい。まさに単純馬鹿だ。青木はにこにこと笑って彼の愚痴を受け流している。わたしは、いつもなら自分のことは棚に上げて、
「二次元ごときに必死になってんじゃない」
とか突っ込みを入れながら松浦の頭を軽快に殴っているところなのだが、今回はあまり気乗りしなかった。震えは止まったけれど、さっきから、松浦と一緒にいるのがなんだか気まずいのだ。青木がにこにこと相槌を打ってくれるから、会話は途切れずにうまく続いていっている。青木がいなかったら、たぶんわたしと松浦は黙ってしまうだろう。まあ、青木がいなければ、このバスに乗ることもなかったのだが。
結局、海に着くまでの数時間、わたしと青木は松浦のおしゃべりを聞きつづけることになった。周囲の客は松浦の妙なテンションに若干引いていたが、何の話かまでは伝わっていなかったろうと思う。アニメで女の子が死んだことを数時間嘆きつづけていたとわかったら、松浦の人望は危ういのかもしれない。
バスから降りると、数時間ぶりの外の空気はひんやりとしていた。夏はもう終わるのだな、とぼんやり思う。新鮮な空気を吸い込みながら、わたしたちは海岸に向けて歩くことにした。当然だが、周りに人はあまりいない。海水浴ができるわけでも観光地があるわけでもない、ただの「海」だからだ。加えて、もう夕方だ。人通りはまばらである。
「帰りのバス、あるかなあ」
「なかったらタクシーで帰ればいい」
堂々と言い切ったのは青木ではなく松浦だ。ちなみに、二人ともわたしと違ってバイトをしている。青木は喫茶店の接客、松浦は工事現場での重労働。趣味に金をつぎ込む松浦が、金銭的にそんなに裕福だとは思えない。ここからタクシーで帰るとなると相当な金額になるはずなのに、どうしてこうも堂々とタクシーで帰るなどと言えるのか。まったくもって、よくわからない男である。
砂浜が見えてきた。
「靴は脱いだ方がいいよ」
と青木が忠告したので、わたしと松浦はそれにならった。日中は暑かったであろう砂は、もうかなり冷えていた。わたしたちは冷たい砂の上をしばらくゆっくりと歩いてから、砂浜に並んで座り込んだ。
誰も、何も言わなかった。波の音だけが、心地よく鼓膜を刺激する。わたしがいて、二人がいて、海がある。他にも何もない。この空間は、居心地がよかった。いつまでも三人で、ここに座っていられたらいいのに。
「なあ、カイセ」
松浦が口を開いた。
「おまえは……」
松浦らしからぬ真面目な口調だった。何を言われるかどきどきした。けれど、わたしは松浦から目をそらしてうつむいてしまう。怖い。どうしようもなく怖い。
「あっ……」
そのとき、そう声を漏らしたのは松浦ではなかった。青木の方を見やると、口をぽかんと開けて空を見ていた。視線を松浦の方へ戻すと、松浦も空にくぎ付けになっている。
「流れ星……っ!」
青木と松浦が声をそろえて言った。流れ星? わたしも空を見るが、そこには星がいくつか瞬いているだけで何も流れてはいない。
「えー、ほんと? ほんとに流れ星?」
わたしはそう二人に質問した。
「本当だよ」
「嘘ついてどうするんだ」
と答えが返ってくる。流れ星なんて、わたしは生まれてこのかた見たことがない。見逃したことは残念だけれど、ふしぎと落ち込みはしなかった。むしろ、今まで少しあの女のことで落ち込んでいた気分が、少し明るい方へ動いた気がした。流れ星、さまさまだ。
「ねえ、あんたたちは何かお願いしたの?」
わたしはにっこり笑ってそう聞いた。
「カイセには関係ないな」
そっけない答えを返すのは松浦で、
「あ、そういえば願い事するの忘れてた」
のんびりと、特に悔しそうでもない調子で言ったのは青木だった。
二人とも突っ込みを待っているような気がしたので、どちらに突っ込みを入れようか迷ったが、わたしはとりあえず松浦に、
「ちょっと、何願ったのか教えなさいよ。どうせあんたのことだから、『二次元の世界に行けますように』とかそんなんでしょ?」
「違う。おまえと一緒にするな」
と答える松浦の頬は少し赤い。図星だろうか、それとも……いや、それはないか。わたしは、自分の中に一瞬浮かんだ可能性を、自ら打ち消した。
「あーあ。わたしも見たかったな、流れ星っ」
わたしは空から目を離さずにそうつぶやいた。
「きっと見れるよ、いつか」
「じゃあ、次に流れ星が流れたら、『カイセが流れ星見れますように』ってお願いしてやる」
「なんなのその願い事。ふざけてんの?」
とわたしが松浦にストレートパンチを食らわせようとしたそのとき、黒い夜空の中心を、走り抜けるように白い光が横切るのが見えた。
「あ!」
三人の驚きの声が重なる。しばらくしてわたしたちは、誰からともなく笑いはじめた。わたしは尋ねる。
「ね、今度は何お願いした?」
「……秘密だ」
「ぼくは、そうだな」
青木が、そこに流れ星の残滓を見ているかのように空を眺めたまま、言った。
「『また、この三人で流れ星が見れたらいいな』」
わたしも同じ願い事だったということは、あえて黙っていることにした。もしかしたら、松浦もわたしと同じように黙っていたのかもしれない。空にはいくつかの星がきらきらと瞬いていて、夢のような夜だなと、物語の主人公のように思った。
080803
本棚を眺めている、ではなく「格闘している」と表現したのは、ここが一般的な書店ではなく中古同人ショップだからである。通常、本というものには背表紙があり、棚に並んでいる段階で容易にタイトルを知ることができるのだが、同人誌というのは基本的に薄いため、背表紙にタイトルを記すのは難しい。平積みにされていない場合、一冊ずつひっぱりだして表紙をチェックするという地道な作業が必要だ。今、松浦が懸命にやっているのはその作業。彼が見ているのは棚の三分の一ほどのところなので、まだまだ終わりそうにない。わたしはもう一人の連れである青木の様子を見に行くことにした。
青木がいたのは松浦のいる場所とは真逆の方向にある同人誌売り場だった。青木は目立っていた。当然と言えば当然で、そこはいわゆる女性向コーナー。平たく言えばボーイズラブ本売り場で、そして青木は男なのだ。「腐男子」という言葉は昨今わりと広まってきてはいるが、そこまで普及している概念でもなく、理解もされていない。
おまけに青木は、外見だけならすさまじくレベルが高い。古くさい表現をするなら、そのへんを歩いていてスカウトされてもおかしくないくらいの美形なのだ。目立たずにいる方が無理というものだろう。案の定、周囲の女子たちが居心地悪そうに青木の方をちらちら見ている。見られている青木本人はと言えば、涼しい顔で薄い本を一冊一冊じっくり眺めて吟味している。どこまでもマイペースな男だ。
彼に話しかけようかと思ったが、わたしまで目立ってしまいそうなのでやめておいた。
松浦のところへ戻ろう。
松浦はまだ棚から本をひっぱりだす作業に熱中していた。わたしは無音でその背後に立ったが、彼はまったく気づかないので、スパーンとその髪のない頭部を叩いてやった。彼はスキンヘッドである。
「……なんだ」
本を見据えたまま彼はそう応じた。まったく動じていない。さすがに、わたしの繰り出す理不尽な暴力にはなれっこである。
「青木があっちで悪目立ちしてるわ」
一応そう報告しておいた。
「いつものことだろ」
そっけない答えが返ってきた。まあ、そのとおりだ。
続けて彼は、「カイセは買い物しないのか」と質問してきた。
「うーん、わたし、本は一人で買いに来る派だから」
わたしは人と書店に行くのが苦手なのだ。本は一人で見て、一人で選びたいというのがわたしのひそかなこだわりである。だいたい、友人と二人で本屋に行ったとして、その友人がひたすら立ち読みに熱中していたら、わたしはその間、どこでどうしていればいいのか、まったくわからない(買うつもりがないのに立ち読みをするという行為は本に対する冒涜だと、わたしは勝手に判じている)。
「別に恥ずかしがらなくても、ぼくも青木もおまえの趣味くらい熟知しているぞ」
何を勘違いしたのか松浦はそんなことを言い出した。そのまま、「たとえば……」とわたしの好きなジャンル傾向をあげようとするので、わたしは彼の広い額にデコピンを加えて黙らせた。
「こんなところで人の趣味暴露しようとするんじゃないわよ」
「誰も聞いてないと思うが……」
額を撫でながら、彼はそう応じた。確かに、店内の客たちはそれぞれ先ほどまでの松浦のように「狩り」に昂じており、わたしたちの姿など見えないかのような熱中ぶりである。ここは男性向け同人誌売り場なので、本来ならばわたしの存在は女性向コーナーの青木と同じように浮いてしまってもおかしくないのだが、ハンターの目を持つ男たちはわたしになど目もくれない。つくづく、男と女というのは次元を異にするいきものなのだな、とわたしは思った。
「あっれー、もしかして待たせちゃったかな」
背後で底抜けに明るい男の声がしたので、振り返ると青木だった。少し大きめの有名ブランドショップの袋を提げている。服装も場違いなほどおしゃれだし、一見するとこんな店とは無関係そうに見えるのだが、そのブランドショップの袋の中身は数十冊に及ぶ同人誌(しかも女性向)なのだった。ミスマッチここに極まれり。しかしながら、嗜好はともかく、買い物の後、同人ショップの袋をそのまま持ち歩かないところには好感が持てる。松浦なんて、袋をさんざんそのまま持ち歩きまくった後、通学かばん代わりに使ったりする。デリカシーのないオタクだ。まあ、その袋を見て目を背けるような輩はたいがい松浦やわたしの同族で、いわゆる一般人は松浦の手提げ袋に入っているロゴなんて見てはいないだろうけど。しかし、この「一般人」というオタクに特有の言い方はどうにかならないものだろうか。オタク連中が「一般」から外れているみたいだ。確かに普通の嗜好ではないかもしれないが、なんだかすごく、疎外されている気がする。いや、この場合は自分から疎外されようとしているのか。
「待ってないから安心しろ。ていうかぼくはまだ買い物途中だ」
ぶっきらぼうな調子で松浦が応じた。
「貝瀬さんは?」
無害な笑顔を作った青木が尋ねる。わたしの代わりに松浦が口を開いた。
「カイセは一人のときじゃないと本は買わない主義だそーです」
松浦は本のサーチング作業を再開する。青木はころころと笑った。
「あ、そうなんだ。じゃあ、もしかしてずっと暇だった? ごめんね」
こういう細かい気遣いができるところが青木の長所だ。松浦にはできない芸当である。これで、マイペースすぎて何を考えているのかわからない腐男子でなければ、たぶんわたしは青木のことを好きになっていただろう。
「別に」とわたしは答えた。
「待つのは嫌いじゃないから大丈夫」
「そっか。ごめんねー」
屈託なく笑う青木。やわらかな茶色い髪が冷房の風でふわふわと揺れている。血統つきの犬みたいな男だ。
それからしばらくして、松浦が手を止めてこちらを向いた。
「……終わった。待たせてすまない」
ぶっきらぼうな調子で松浦が言い(どうやら収穫はなかったようだ)、青木がわたしに向けてウインクをした。
「帰りますか」
「うん」
++++
ぼくは驚いていた。貝瀬理恵が青ざめている。驚きに目を見開いて、唇をわなわなと震わせて。ぼくの知る不遜で暴力的な彼女は、いつのまにか羊のようにおどおどとした女に姿を変えていた。その怯えた瞳が映しているのは、茶髪で濃く化粧をした若い女だ。先ほどの店を出て、この女に声をかけられた瞬間、貝瀬の様子がおかしくなった。
「あ、久しぶりじゃない、貝瀬さん」
見知らぬ女が言ったのはただ一言、それだけだったのに――貝瀬は急激に顔色を変えて、そして、もうかなり長い間硬直したままでいる。
濃い化粧の女は唇の端を釣り上げて邪悪な笑みを浮かべる。それが「邪悪」に見えたのは、ぼくが貝瀬の反応を踏まえて勝手に女を「悪」だと判断したからで、もしかしたらその笑みは、普通の笑みだったのかもしれない。
女はこう言った。
「――どっちが貝瀬さんの彼氏?」
貝瀬の顔がこわばるのが見えた。
あからさまな拒否反応だった。
ぼくは一歩前に踏み出して、震えている貝瀬の肩に触れた。貝瀬がぼくを見る。よわよわしい目つき。ぼくは、貝瀬とは目を合わせず、見知らぬ女の方を、射抜くように見る。
「やめろよ。カイセが怯えてる」
ぼくの声は、気持ち悪く裏返って妙な調子になってしまった。女はふっと悟ったように笑った。彼女はぼくの方を見て、
「いい彼氏じゃん。変わったね、貝瀬さん」
モデルのようにさっと身を翻して、ぼくらに背を向けてどこかへと歩いて行った。
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ああ、どうしてあの女がこんなところにいるのだろう。もう終わりだ。何もかも終わりだ。どうしてこんな目に遭うのだろう。わたしはただ、閉鎖された世界の中で、ささやかに生きていきたかっただけなのに。
あの女は過去のわたしを知っている。あの女がそれをバラしたら、わたしのこの日常は壊されてしまうのだ。松浦とも青木とも、一緒にいられなくなってしまう。
どれくらいの間、そうして呆然と自失していたのだろう、わたしは誰かの手が肩に触れる感触で我に帰った。視線を移す。それは松浦の手だった。意外と筋肉の付いた腕が見える。松浦はわたしではなく、あの女の方をまっすぐに見据えていた。
「やめろよ」
と彼が言ったのでわたしはびくりと体を震えさせて反応した。自分が叱責されたのかと思ったのだ。松浦はそのまま続けて、
「カイセが、怯えてる」
と言ったので、先ほどの言葉はわたしではなくあの女に向けたものだったらしいことがわかった。少し、ほっとした。松浦は、あの女を何かたちの悪い勧誘の類とでも思ったのだろう。それで、わたしが攻撃されているとでも勘違いをした。わたしを守ろうとしてくれた。
松浦のくせに。わたしは心の中でそうつぶやいた。
気持ち悪いだけのオタクだと思っていたけど、なかなかかっこいいじゃないか。
しかし、問題はこれからだった。あの女が松浦に反撃してくるだろう。たとえば、「わたしは貝瀬さんのお友達です」とか。高校時代に何があったのかをバラすかもしれない。全部全部、話してしまうかもしれない。いや、きっと話すだろう。また体が震えだす。震えは止まらない。逃げ出したくなるけれど、肩に置かれた松浦の手がそれを許さない。
あの女が口を開く。
「いい彼氏じゃん。変わったねー」
媚びるようなウインクを残し、彼女は背を向けて――どこかへ行ってしまった。
全身の力が抜けていく。わたしが苦労して作り上げた、小さなお城。何もない砂地に必死に組み上げた楼閣。それは、今、破壊されかけたけれど、間一髪、無事だった。わたしの日常は、続いていくことができる。このまま、二人とは、まだ一緒にいられるのだ。
安堵したわたしの体から、どっと力が抜けて、そのまま前方へと体が揺らいだ。
「あっ……」
倒れる。そう思ったけれど、倒れかけたわたしの体を支えたのは、青木だった。
「大丈夫? 貝瀬さん」
いつもの無害な笑顔がそこにあった。
「だいじょーぶ。ちょっとめまいがした、だけ」
そう言い訳して、いつもの自分を取り戻す。
わたしは貝瀬理恵。明るくて、少し暴力的で、松浦と青木のパイプ役で、音楽研究サークルの紅一点。今は、そういうことになっているのだから、だから。
いつもの自分に――戻れ。
「ごめん、もう大丈夫だから。これからどうする? もう一軒行くか、なんか食べに行くか、それとも……」
「カイセ」
松浦が、珍しく真面目な調子でわたしを呼んだ。
「な、何?」
「……無理するな」
それだけ、彼は言った。ぼそぼそとしたオタク特有の口調で、そっけなく。
「む、無理なんてして……」
むきになって弁解しようとしたけれど、松浦の声は容赦なくそれを遮る。
「まだ、震えてる」
わたしはそのとき、初めて自分の体の震えが収まっていないことに気づいた。
「ねえ、貝瀬さん」
青木の声はいつもと同じに、穏やかだ。
「海に行こうか」
脈絡のない、馬鹿みたいな提案だった。誰だって、いきなりこんなことを言われて承諾するわけがない。ここは内陸で、海までは車で数時間かかるのだ。
なのに、わたしと松浦は迷わず、同時に頷いていた。
青木が、口を開けずに優しく笑った。
++++
わたしたちは海へと向かうバスに乗り込んだ。バスの中では流行りのアニメの話をした。守備範囲が違うので、三人の嗜好がかみ合うことはあまりないのだが、その作品は三人とも見ていた。ちなみに、最初に話題を振ったのは松浦である。その後必死にキャラ解釈と、脚本家への愚痴を連ねるのも、彼である。そのアニメではよく人が死ぬ。先週、松浦が気にいっていた美少女キャラが不幸な事故で命を落としたため、松浦は最近の脚本に不満があるらしい。まさに単純馬鹿だ。青木はにこにこと笑って彼の愚痴を受け流している。わたしは、いつもなら自分のことは棚に上げて、
「二次元ごときに必死になってんじゃない」
とか突っ込みを入れながら松浦の頭を軽快に殴っているところなのだが、今回はあまり気乗りしなかった。震えは止まったけれど、さっきから、松浦と一緒にいるのがなんだか気まずいのだ。青木がにこにこと相槌を打ってくれるから、会話は途切れずにうまく続いていっている。青木がいなかったら、たぶんわたしと松浦は黙ってしまうだろう。まあ、青木がいなければ、このバスに乗ることもなかったのだが。
結局、海に着くまでの数時間、わたしと青木は松浦のおしゃべりを聞きつづけることになった。周囲の客は松浦の妙なテンションに若干引いていたが、何の話かまでは伝わっていなかったろうと思う。アニメで女の子が死んだことを数時間嘆きつづけていたとわかったら、松浦の人望は危ういのかもしれない。
バスから降りると、数時間ぶりの外の空気はひんやりとしていた。夏はもう終わるのだな、とぼんやり思う。新鮮な空気を吸い込みながら、わたしたちは海岸に向けて歩くことにした。当然だが、周りに人はあまりいない。海水浴ができるわけでも観光地があるわけでもない、ただの「海」だからだ。加えて、もう夕方だ。人通りはまばらである。
「帰りのバス、あるかなあ」
「なかったらタクシーで帰ればいい」
堂々と言い切ったのは青木ではなく松浦だ。ちなみに、二人ともわたしと違ってバイトをしている。青木は喫茶店の接客、松浦は工事現場での重労働。趣味に金をつぎ込む松浦が、金銭的にそんなに裕福だとは思えない。ここからタクシーで帰るとなると相当な金額になるはずなのに、どうしてこうも堂々とタクシーで帰るなどと言えるのか。まったくもって、よくわからない男である。
砂浜が見えてきた。
「靴は脱いだ方がいいよ」
と青木が忠告したので、わたしと松浦はそれにならった。日中は暑かったであろう砂は、もうかなり冷えていた。わたしたちは冷たい砂の上をしばらくゆっくりと歩いてから、砂浜に並んで座り込んだ。
誰も、何も言わなかった。波の音だけが、心地よく鼓膜を刺激する。わたしがいて、二人がいて、海がある。他にも何もない。この空間は、居心地がよかった。いつまでも三人で、ここに座っていられたらいいのに。
「なあ、カイセ」
松浦が口を開いた。
「おまえは……」
松浦らしからぬ真面目な口調だった。何を言われるかどきどきした。けれど、わたしは松浦から目をそらしてうつむいてしまう。怖い。どうしようもなく怖い。
「あっ……」
そのとき、そう声を漏らしたのは松浦ではなかった。青木の方を見やると、口をぽかんと開けて空を見ていた。視線を松浦の方へ戻すと、松浦も空にくぎ付けになっている。
「流れ星……っ!」
青木と松浦が声をそろえて言った。流れ星? わたしも空を見るが、そこには星がいくつか瞬いているだけで何も流れてはいない。
「えー、ほんと? ほんとに流れ星?」
わたしはそう二人に質問した。
「本当だよ」
「嘘ついてどうするんだ」
と答えが返ってくる。流れ星なんて、わたしは生まれてこのかた見たことがない。見逃したことは残念だけれど、ふしぎと落ち込みはしなかった。むしろ、今まで少しあの女のことで落ち込んでいた気分が、少し明るい方へ動いた気がした。流れ星、さまさまだ。
「ねえ、あんたたちは何かお願いしたの?」
わたしはにっこり笑ってそう聞いた。
「カイセには関係ないな」
そっけない答えを返すのは松浦で、
「あ、そういえば願い事するの忘れてた」
のんびりと、特に悔しそうでもない調子で言ったのは青木だった。
二人とも突っ込みを待っているような気がしたので、どちらに突っ込みを入れようか迷ったが、わたしはとりあえず松浦に、
「ちょっと、何願ったのか教えなさいよ。どうせあんたのことだから、『二次元の世界に行けますように』とかそんなんでしょ?」
「違う。おまえと一緒にするな」
と答える松浦の頬は少し赤い。図星だろうか、それとも……いや、それはないか。わたしは、自分の中に一瞬浮かんだ可能性を、自ら打ち消した。
「あーあ。わたしも見たかったな、流れ星っ」
わたしは空から目を離さずにそうつぶやいた。
「きっと見れるよ、いつか」
「じゃあ、次に流れ星が流れたら、『カイセが流れ星見れますように』ってお願いしてやる」
「なんなのその願い事。ふざけてんの?」
とわたしが松浦にストレートパンチを食らわせようとしたそのとき、黒い夜空の中心を、走り抜けるように白い光が横切るのが見えた。
「あ!」
三人の驚きの声が重なる。しばらくしてわたしたちは、誰からともなく笑いはじめた。わたしは尋ねる。
「ね、今度は何お願いした?」
「……秘密だ」
「ぼくは、そうだな」
青木が、そこに流れ星の残滓を見ているかのように空を眺めたまま、言った。
「『また、この三人で流れ星が見れたらいいな』」
わたしも同じ願い事だったということは、あえて黙っていることにした。もしかしたら、松浦もわたしと同じように黙っていたのかもしれない。空にはいくつかの星がきらきらと瞬いていて、夢のような夜だなと、物語の主人公のように思った。
080803