Artificial incubation.
欲望というのはふとしたきっかけで突然に孵化するものだ。わたしが音楽を始めたいと思ったのも、考えてみれば唐突に生まれた気持ちだった。
片岡碧梧。彼のその名前を初めて聞いたとき、わたしは妙な名前だなと思った。へきご。なんて発音しにくいふしぎな音を持つ名前だろうか。そう言うと彼は苦笑した。そうだね、言いにくいよね、と。
彼はストリートミュージシャンだった。わたしと彼が出会ったのは夕暮れの歩道橋の上。紫に近い色をしたその日の夕焼けをバックに、片岡さんはただ歌っていた。
黒く、少しだけ伸ばした髪。肩からさげたギター。ラフなTシャツとジーンズ。そんな普遍的ないでたちの彼は、男にしては長いまつげを物憂げに伏せながら、歌を紡いでいた。彼の存在など見えないかのように、人々はせわしなく歩道橋の上を通り過ぎていく。わたしは知っている。彼らは、路上で歌う男の存在なんて、見えない以前にどうだっていいのだということ。そして、わたしもそんな「彼ら」の一員なんだってこと。
だから、わたしも彼の前を通り過ぎていくはずだった。何事もなかったかのように通過して、自分の目指す場所へと向かうはずだった。
けれど、わたしが目の前を通った瞬間、彼は顔をあげてこちらを見た。目があった。それが、合図だったかのように、わたしは言ったのだ。「いい歌ですね」と。そんなことはかけらも思っていなかったし、そもそも彼の歌なんてほとんど聞いていなかったのに。
彼は驚いているようだった。目を見開いて、わたしを食い入るように見つめる。
「理恵……?」
歌うのをやめ、彼が言った。わたしはそれには答えずに、「あなたの名前は?」と言う。
「片岡碧梧」
彼は呆然と答えながら、「理恵なのか」と小さな声でもう一度反復した。
「違う」
拒絶するようなわたしの返答を聞いて、彼は戸惑うように視線を揺らして、泣きそうな顔で「そうか」とつぶやいた。
「わたしは貝瀬っていうの」
わたしは無愛想に自己紹介した。
彼は落胆した表情のまま相槌をうった。が、それきり口をつぐんだまま、泣きだしそうな顔のまま、そこに呆然と立っていた。どうやら、わたしが「理恵」でないということが、彼にはとてもショックだったらしい。
「……理恵っていうのは恋人の名前?」
わたしが尋ねると、彼はふっと寂しげに笑った。
「違うよ。……でも、大切っていう点では恋人と同じかな」
行きかう車の音。人々が話す声。そんなうるさい雑踏の中で、しかし彼の言葉ははっきりとわたしの耳に届いて、響いた。
「理恵は、ぼくの妹なんだ」
もう、ずっと会っていないけど。うつむいたまま彼が付け加える。その声音は、だだをこねる子供のような響きをはらんでいたように聞こえた。手に入らないものを必死にねだる、子供の声。あとから思い返してみれば、このとき彼はもう気づいていたのかもしれない。世界には、手に入るものと、手に入らないものがあるってことに。
二人で、しばらく世間話をした。他愛もない、口に出した数秒後には忘れてしまいそうなくらいにどうでもいい話だ。そして、話の種が尽きた頃、いつまでもここにいては彼も迷惑だろう、とふと考えた。わたしが挨拶をして去ろうとすると、片岡碧梧はまるでしがみつくように、――すがりつくように、必死な目でわたしを止めた。
「暇だったら、あの、その、一緒に……」
台詞だけ見るならナンパであるし、実際、一般的観点に照らしてみればこれは完全なナンパだろう。しかし、この男が言うと、軽い感じや軟派な感じはしなかった。むしろ誠実な言葉に聞こえたからふしぎなものだ。
「いいですよ」
わたしはそう応じた。断ったら、きっとこの人は悲しい目をするだろうから。
「……理恵は」
喫茶店の席に座ると、ウエイターが二人分の水を運んでくる。二人とも、もう注文は決まっているため、メニューは手に取らない。水を一口飲んで、開口一番、彼はその名前を口にした。
「とても、いい子だったよ」
「……そうですか」
彼の方を見る。少しうつむいている。瞳は暗い色をしているが、濁らずに澄んでいる。子供のような純粋さが、その瞳が持つ光の中に満ちていた。
二人分のコーヒーが運ばれてきた。わたしはホットコーヒー。彼はアイスカフェオレだ。
「……理恵と離れてしまったのは、親が離婚した時だった」
しとしとと雨が地を濡らすときの、最初の一滴のように、彼が話しはじめる。
「母はとても攻撃的で暴力的な人だった。父はただ優しくて弱かった。ぼくたち兄妹は、どちらのことも嫌いだったから、いつも二人で過ごしていた。でも、離婚と同時に、ぼくたちは離ればなれになってしまった」
「……あなたは、どちらに?」
わたしはそう問うた。問わなければいけない気がした。
「……ぼくは、母について行った。自分から、そう希望したんだ」
「どうして、母親を選んだの?」
「母は暴力的な人だった、って言ったよね。その暴力は、ずっと父のみを攻撃していたけど、父がいなくなったら、それは他の方向に向くかもしれない。いや、絶対に向くだろう。妹と母を二人きりで同じ空間におくなんて、危険だと思った」
わたしは、最近テレビのニュースで流れていた、児童虐待に関する報道を思い出す。食事も、生きる場所も、愛さえも与えられず、ただ理不尽な暴力だけを与えられて、やがて死んでいった子供たち。あの子たちは、どうしてそんな仕打ちを受けなければならなかったのだろう。何も、悪いことなんてしていないのに。テレビを見たとき、そう心から思ったのを覚えている。
「……あなたは」
わたしはその問いを口に出すべきかどうか迷った。けれど、意を決して、訊いた。
「あなたは、大丈夫だったの?」
返事はすぐに返ってきた。
「大丈夫じゃなかった」
言葉とは裏腹に、明るい口調だった。
「いろんなことを、されたよ。父が受けていた暴力とは比べ物にならないくらい、理不尽で邪悪な暴力だった。ぼくは、中学校を卒業してすぐ、自分の貯金を全部下ろして家を飛び出した。子供が、たった一人で生活費をまかなうのは大変だったけど……あの家にいるよりはずっとよかった」
訊かなければよかったかもしれない、とわたしは後悔した。どんなに遠い過去でも、どんなに今が幸せでも、どんなに明るくふるまっても、つらい過去は消えない。わたしの問いは、彼にとって思い出したくないことを無理やりに話させてしまった。
「そんな顔をしないでくれ、ぼくが話したくて話しているんだから。貝瀬さん」
なだめるように片岡さんが言った。話したくて、話している。そうなのかもしれない。人に話すことで過去の苦しみが多少和らぐというのも、確かに理解できる。
「ぼくが歌うのはね、妹に見つけてほしいからなんだ。陸橋の上で歌っていれば、ここらあたりにはとてもよく声が響くから。妹が通ったら、きっと気づいてくれると思う。妹は、昔、ぼくの歌を好きだと言ってくれたから」
片岡さんが照れたように頬を赤らめてそう言った。
「どうしてわたしにこんなことを話すんですか?」
ここは、もしかしたら、赤の他人につらい過去を明かすことで同情させる、という手口のナンパかもしれない、と疑うべきところだ。しかしわたしは、おそらくそうではないだろうと踏んでいた。彼のガラス玉のようにすきとおった瞳が――自分の話は嘘ではないと、語っている気がして。
「……貝瀬さん、君は、とても妹に似ているんだ」
「それが、理由?」
「うん。ぼくは、妹に会いたい。それに、妹に会ったら、訊きたいことがある。君を見て、もし本人だったら、と思ったんだ」
片岡碧梧はごまかすように水の入ったコップを手にとって、カラカラと氷を鳴らした。
「本人だったら……何を、尋ねるんですか」
こんな立ち入ったことは聞くべきではない。わたしは「理恵」ではないのに。しかしわたしは尋ねた。できるだけ落ち着いた声で。
片岡さんは一瞬不意をつかれて黙ったが、やがて言った。
「『君は、父について行ってから今まで、幸せだったかい?』」
――幸せ「だった」、か。
今現在が幸せなのかどうかではなく。
過去が幸せだったかを――問う。
自分が不幸へと追いやられた代償に、妹が幸福を得たのかどうか。彼が知りたいのはそれだった。
「ああ、つまらない話を聞かせてしまってすまない。君にも用事があるよね。もう出ようか」
「あ、はい。コーヒー、ごちそうさまでした」
わたしはそれだけ、言った。片岡さんはにっこり笑った。悪意のない笑顔だった。でもそれは、作り笑いだ。ぞっとするくらいに、中身のないからっぽな笑顔。わたしはそれを知っている。知りすぎるくらいに、知っている。
店を出て、片岡さんはまた陸橋の方へ向かうようだった。わたしの目的地は逆方向だ。
「あの、わたし、こっちなんで」
わたしがその方向を示すと、彼は名残惜しそうな表情になり、
「じゃあ、ここでお別れだね」
とだけ言った。
「さようなら」
「うん、またね」
彼はそのとき、『またね』と言った。けれど、おそらくもう会うことはない。もう、会いたくなんてないと、わたしが思ってしまっているから。彼の問いを思い出す。
――幸せだったかい?
「幸せなわけがないわ」
去っていく彼の後ろ姿を見ながら、わたしは――貝瀬理恵は、そうつぶやいていた。
「だって、あなたがいなかった」
父は優しくて弱くて、おまけに憶病で自堕落だった。わたしのご機嫌をとるように作り笑いばかりして、本当の笑顔なんて一度も見せてくれなかった。いつもおどおどと何かに怯えて、見苦しいことこの上なかった。
――どうしてわたしをこんな男と同じ場所に置き去りにしたの。
幼いわたしはずっとそう思っていた。これならあの母の方がマシだとすら考えた。やがてわたしは自分の前から消えた兄をも憎むようになっていった。長い間心に巣食った憎しみが、そう簡単に消え去るはずもない。一度再会して話を聞いても、かつて彼がわたしのためにその身を投げ出したのだと知っても、わたしの中の憎しみは消えてくれなかった。
だから、最後まで他人のふりをした。理恵という名は名乗らなかった。それはわたしを心から愛した、そして今も愛しつづけている彼に対する、裏切りだっただろうか。これからも、あの陸橋で、彼はもうどこにもいない「理恵」を探しつづける。兄に愛され、兄を愛したかつての「理恵」を。そんなのは過去の残像に過ぎないのに。ありもしないもののために、彼は少しの希望を胸に歌いつづける。歌いつづけることが、できる。自分の声は彼女に届くと、がむしゃらに信じて。
「歌」とは、そんなに尊いものなのだろうか……とそのとき、唐突にわたしは思った。通りかかった店の前で、スピーカーから流れる質の悪い音声。内容のない歌詞と、どこにでもあるメロディーの流行歌。ノイズに近い音質のその声が、ふと、先ほど聞いた片岡碧梧の声に重なって聞こえた。一度しか聞いていないのに、彼の声は確かにわたしの中に刻まれていた。もっと聞いていたいと思った。いつまでだって、聞いていたいくらいに切なくて悲しい声――わたしは昔から、その声が好きだった。
わたしの、音楽を作りたい、そして誰かにそれを聞いてもらいたい、という欲望が孵化したのは、おそらくこの瞬間であったと思う。もしくは、兄の声を子守歌にして幸せな眠りに落ちた遠い過去のあの時点で、それはすでに孵化していたのかもしれない。
結局、片岡碧梧には、あれから一度も会うことはなかったが、今わたしは、仲間とともに「歌」を作っている。今の自分を過去へと残すための歌だ。残念ながら歌うのはわたしではないけれど、わたしは今、幸せである。
080805
片岡碧梧。彼のその名前を初めて聞いたとき、わたしは妙な名前だなと思った。へきご。なんて発音しにくいふしぎな音を持つ名前だろうか。そう言うと彼は苦笑した。そうだね、言いにくいよね、と。
彼はストリートミュージシャンだった。わたしと彼が出会ったのは夕暮れの歩道橋の上。紫に近い色をしたその日の夕焼けをバックに、片岡さんはただ歌っていた。
黒く、少しだけ伸ばした髪。肩からさげたギター。ラフなTシャツとジーンズ。そんな普遍的ないでたちの彼は、男にしては長いまつげを物憂げに伏せながら、歌を紡いでいた。彼の存在など見えないかのように、人々はせわしなく歩道橋の上を通り過ぎていく。わたしは知っている。彼らは、路上で歌う男の存在なんて、見えない以前にどうだっていいのだということ。そして、わたしもそんな「彼ら」の一員なんだってこと。
だから、わたしも彼の前を通り過ぎていくはずだった。何事もなかったかのように通過して、自分の目指す場所へと向かうはずだった。
けれど、わたしが目の前を通った瞬間、彼は顔をあげてこちらを見た。目があった。それが、合図だったかのように、わたしは言ったのだ。「いい歌ですね」と。そんなことはかけらも思っていなかったし、そもそも彼の歌なんてほとんど聞いていなかったのに。
彼は驚いているようだった。目を見開いて、わたしを食い入るように見つめる。
「理恵……?」
歌うのをやめ、彼が言った。わたしはそれには答えずに、「あなたの名前は?」と言う。
「片岡碧梧」
彼は呆然と答えながら、「理恵なのか」と小さな声でもう一度反復した。
「違う」
拒絶するようなわたしの返答を聞いて、彼は戸惑うように視線を揺らして、泣きそうな顔で「そうか」とつぶやいた。
「わたしは貝瀬っていうの」
わたしは無愛想に自己紹介した。
彼は落胆した表情のまま相槌をうった。が、それきり口をつぐんだまま、泣きだしそうな顔のまま、そこに呆然と立っていた。どうやら、わたしが「理恵」でないということが、彼にはとてもショックだったらしい。
「……理恵っていうのは恋人の名前?」
わたしが尋ねると、彼はふっと寂しげに笑った。
「違うよ。……でも、大切っていう点では恋人と同じかな」
行きかう車の音。人々が話す声。そんなうるさい雑踏の中で、しかし彼の言葉ははっきりとわたしの耳に届いて、響いた。
「理恵は、ぼくの妹なんだ」
もう、ずっと会っていないけど。うつむいたまま彼が付け加える。その声音は、だだをこねる子供のような響きをはらんでいたように聞こえた。手に入らないものを必死にねだる、子供の声。あとから思い返してみれば、このとき彼はもう気づいていたのかもしれない。世界には、手に入るものと、手に入らないものがあるってことに。
二人で、しばらく世間話をした。他愛もない、口に出した数秒後には忘れてしまいそうなくらいにどうでもいい話だ。そして、話の種が尽きた頃、いつまでもここにいては彼も迷惑だろう、とふと考えた。わたしが挨拶をして去ろうとすると、片岡碧梧はまるでしがみつくように、――すがりつくように、必死な目でわたしを止めた。
「暇だったら、あの、その、一緒に……」
台詞だけ見るならナンパであるし、実際、一般的観点に照らしてみればこれは完全なナンパだろう。しかし、この男が言うと、軽い感じや軟派な感じはしなかった。むしろ誠実な言葉に聞こえたからふしぎなものだ。
「いいですよ」
わたしはそう応じた。断ったら、きっとこの人は悲しい目をするだろうから。
「……理恵は」
喫茶店の席に座ると、ウエイターが二人分の水を運んでくる。二人とも、もう注文は決まっているため、メニューは手に取らない。水を一口飲んで、開口一番、彼はその名前を口にした。
「とても、いい子だったよ」
「……そうですか」
彼の方を見る。少しうつむいている。瞳は暗い色をしているが、濁らずに澄んでいる。子供のような純粋さが、その瞳が持つ光の中に満ちていた。
二人分のコーヒーが運ばれてきた。わたしはホットコーヒー。彼はアイスカフェオレだ。
「……理恵と離れてしまったのは、親が離婚した時だった」
しとしとと雨が地を濡らすときの、最初の一滴のように、彼が話しはじめる。
「母はとても攻撃的で暴力的な人だった。父はただ優しくて弱かった。ぼくたち兄妹は、どちらのことも嫌いだったから、いつも二人で過ごしていた。でも、離婚と同時に、ぼくたちは離ればなれになってしまった」
「……あなたは、どちらに?」
わたしはそう問うた。問わなければいけない気がした。
「……ぼくは、母について行った。自分から、そう希望したんだ」
「どうして、母親を選んだの?」
「母は暴力的な人だった、って言ったよね。その暴力は、ずっと父のみを攻撃していたけど、父がいなくなったら、それは他の方向に向くかもしれない。いや、絶対に向くだろう。妹と母を二人きりで同じ空間におくなんて、危険だと思った」
わたしは、最近テレビのニュースで流れていた、児童虐待に関する報道を思い出す。食事も、生きる場所も、愛さえも与えられず、ただ理不尽な暴力だけを与えられて、やがて死んでいった子供たち。あの子たちは、どうしてそんな仕打ちを受けなければならなかったのだろう。何も、悪いことなんてしていないのに。テレビを見たとき、そう心から思ったのを覚えている。
「……あなたは」
わたしはその問いを口に出すべきかどうか迷った。けれど、意を決して、訊いた。
「あなたは、大丈夫だったの?」
返事はすぐに返ってきた。
「大丈夫じゃなかった」
言葉とは裏腹に、明るい口調だった。
「いろんなことを、されたよ。父が受けていた暴力とは比べ物にならないくらい、理不尽で邪悪な暴力だった。ぼくは、中学校を卒業してすぐ、自分の貯金を全部下ろして家を飛び出した。子供が、たった一人で生活費をまかなうのは大変だったけど……あの家にいるよりはずっとよかった」
訊かなければよかったかもしれない、とわたしは後悔した。どんなに遠い過去でも、どんなに今が幸せでも、どんなに明るくふるまっても、つらい過去は消えない。わたしの問いは、彼にとって思い出したくないことを無理やりに話させてしまった。
「そんな顔をしないでくれ、ぼくが話したくて話しているんだから。貝瀬さん」
なだめるように片岡さんが言った。話したくて、話している。そうなのかもしれない。人に話すことで過去の苦しみが多少和らぐというのも、確かに理解できる。
「ぼくが歌うのはね、妹に見つけてほしいからなんだ。陸橋の上で歌っていれば、ここらあたりにはとてもよく声が響くから。妹が通ったら、きっと気づいてくれると思う。妹は、昔、ぼくの歌を好きだと言ってくれたから」
片岡さんが照れたように頬を赤らめてそう言った。
「どうしてわたしにこんなことを話すんですか?」
ここは、もしかしたら、赤の他人につらい過去を明かすことで同情させる、という手口のナンパかもしれない、と疑うべきところだ。しかしわたしは、おそらくそうではないだろうと踏んでいた。彼のガラス玉のようにすきとおった瞳が――自分の話は嘘ではないと、語っている気がして。
「……貝瀬さん、君は、とても妹に似ているんだ」
「それが、理由?」
「うん。ぼくは、妹に会いたい。それに、妹に会ったら、訊きたいことがある。君を見て、もし本人だったら、と思ったんだ」
片岡碧梧はごまかすように水の入ったコップを手にとって、カラカラと氷を鳴らした。
「本人だったら……何を、尋ねるんですか」
こんな立ち入ったことは聞くべきではない。わたしは「理恵」ではないのに。しかしわたしは尋ねた。できるだけ落ち着いた声で。
片岡さんは一瞬不意をつかれて黙ったが、やがて言った。
「『君は、父について行ってから今まで、幸せだったかい?』」
――幸せ「だった」、か。
今現在が幸せなのかどうかではなく。
過去が幸せだったかを――問う。
自分が不幸へと追いやられた代償に、妹が幸福を得たのかどうか。彼が知りたいのはそれだった。
「ああ、つまらない話を聞かせてしまってすまない。君にも用事があるよね。もう出ようか」
「あ、はい。コーヒー、ごちそうさまでした」
わたしはそれだけ、言った。片岡さんはにっこり笑った。悪意のない笑顔だった。でもそれは、作り笑いだ。ぞっとするくらいに、中身のないからっぽな笑顔。わたしはそれを知っている。知りすぎるくらいに、知っている。
店を出て、片岡さんはまた陸橋の方へ向かうようだった。わたしの目的地は逆方向だ。
「あの、わたし、こっちなんで」
わたしがその方向を示すと、彼は名残惜しそうな表情になり、
「じゃあ、ここでお別れだね」
とだけ言った。
「さようなら」
「うん、またね」
彼はそのとき、『またね』と言った。けれど、おそらくもう会うことはない。もう、会いたくなんてないと、わたしが思ってしまっているから。彼の問いを思い出す。
――幸せだったかい?
「幸せなわけがないわ」
去っていく彼の後ろ姿を見ながら、わたしは――貝瀬理恵は、そうつぶやいていた。
「だって、あなたがいなかった」
父は優しくて弱くて、おまけに憶病で自堕落だった。わたしのご機嫌をとるように作り笑いばかりして、本当の笑顔なんて一度も見せてくれなかった。いつもおどおどと何かに怯えて、見苦しいことこの上なかった。
――どうしてわたしをこんな男と同じ場所に置き去りにしたの。
幼いわたしはずっとそう思っていた。これならあの母の方がマシだとすら考えた。やがてわたしは自分の前から消えた兄をも憎むようになっていった。長い間心に巣食った憎しみが、そう簡単に消え去るはずもない。一度再会して話を聞いても、かつて彼がわたしのためにその身を投げ出したのだと知っても、わたしの中の憎しみは消えてくれなかった。
だから、最後まで他人のふりをした。理恵という名は名乗らなかった。それはわたしを心から愛した、そして今も愛しつづけている彼に対する、裏切りだっただろうか。これからも、あの陸橋で、彼はもうどこにもいない「理恵」を探しつづける。兄に愛され、兄を愛したかつての「理恵」を。そんなのは過去の残像に過ぎないのに。ありもしないもののために、彼は少しの希望を胸に歌いつづける。歌いつづけることが、できる。自分の声は彼女に届くと、がむしゃらに信じて。
「歌」とは、そんなに尊いものなのだろうか……とそのとき、唐突にわたしは思った。通りかかった店の前で、スピーカーから流れる質の悪い音声。内容のない歌詞と、どこにでもあるメロディーの流行歌。ノイズに近い音質のその声が、ふと、先ほど聞いた片岡碧梧の声に重なって聞こえた。一度しか聞いていないのに、彼の声は確かにわたしの中に刻まれていた。もっと聞いていたいと思った。いつまでだって、聞いていたいくらいに切なくて悲しい声――わたしは昔から、その声が好きだった。
わたしの、音楽を作りたい、そして誰かにそれを聞いてもらいたい、という欲望が孵化したのは、おそらくこの瞬間であったと思う。もしくは、兄の声を子守歌にして幸せな眠りに落ちた遠い過去のあの時点で、それはすでに孵化していたのかもしれない。
結局、片岡碧梧には、あれから一度も会うことはなかったが、今わたしは、仲間とともに「歌」を作っている。今の自分を過去へと残すための歌だ。残念ながら歌うのはわたしではないけれど、わたしは今、幸せである。
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