ドロップ
透きとおるような青空が広がっていた暑い夏の日のことだ。大学の試験の最終日であったので、わたしたち三人は狭い部室でだらだらとしていた。クーラーなんて気の利いたものはない。自分の手にあるうちわを、各自が動かしつづけるだけだ。ちなみに、このサークルでは「暑い」という単語を口にしたら、全員にアイスを奢らなければならないという決まりがある。決めたのはわたしである。最も多くアイスを奢ることになっているのも、今のところわたしなのだが。
そのとき、わたしたちの会話を遮ったのは、コンコン、という軽いノックの音だった。
「すいません」
と言いながらその人物は扉を開けた。まず視界に入ったのは、鮮やかにきらめく、ウェーブのかかった金色の髪だった。薄めに化粧をした、長い金髪の女の子がそこにいた。短い紺のハーフパンツから覗いている脚はモデルのように細くて長い。わたしは、場違いともいえる存在感を放つ彼女に話しかける。
「えっと、ここ『オンサ』ですけど……何か御用ですか?」
「あの、入部希望、なんですけど」
金髪の美少女は、そう言ってにっこりと愛想よく、笑った。
わたしたちが唖然としたのは、言うまでもない。今まで、このサークルには入部希望者どころか見学者すら来たことがないのだ。
たいてい、音楽をやりたい人間は軽音楽部に流れてしまう。あちらの方が活気もあるし、人数も多いからだ。わざわざ弱小かつ活動内容もしょぼくれた音楽研究サークルにやって来る物好きはいないと思い込んでいた。
「どうして軽音じゃなくうちに?」
わたしの問いに、彼女はあっさりとこう答える。
「わたし、大人数でいるのって好きじゃないから。こっちの方が気楽そうだし」
そして、にこにこと快活に笑う。
「楽器とか機器の経験は?希望とかある?」
今度は青木が質問した。
「ギターとピアノは得意です。あと、パソコンで音声を合成したりするのも好き」
この自己申告を鵜呑みにしてもいいのなら、なかなかのスペックだ。わたしたち三人はそれぞれ一種類ずつしか楽器を扱えない。彼女が入ってくれるなら、作るものの幅が広がることだろう。
しかし、わたしは別のことを心配していた。彼女が、わたしたちの中に溶け込むことができるのか、である。空間に溶け込むことができずに浮いてしまう、疎外されてしまう人の気持ちは、わたしたち三人が一番よく知っている。彼女が同じ思いをしたらきっと、わたしも松浦も青木も、悲しい。
「ぼくたち、わりとオタクだし、ライブとかもあんまりしないけど、君は本当にこっちでいいの?」
単刀直入すぎる、ぶしつけな問いを発したのは松浦だった。わたしは、もっとオブラートに包んだ、控えめな確認をしようと思っていたのに。
こっちでいいのか、という問いに含まれた意味は明白だ。こっちに入ってしまったら、もう「あっち」――軽音楽部には入れない。わたしたちオンサは基本的に、軽音とは不仲なのだ。軽音にしておけばよかった、オンサに入らなければよかったと、この子が後悔するような事態にはなってほしくない。
しなやかな髪をさらさらと微かに揺らして、彼女は笑んだ。大人びた笑い方だった。
「わたしはこちらに入りたいんです。だめですか?」
控えめな言い方だったが、確かにその言葉には、決意がこもっていた。この子とならやっていける、そんな気がした。理由は特にないのだが。
「合格!」
怪しげな含み笑いをしながら松浦がそう言ったが、わたしはすかさず彼の頭部にパンチをくらわせた。もちろん、グーで。
「調子に乗るな」
そんなコントのようなやり取りを見て、彼女は愉快そうにころころと笑った。
「わたし、岡崎っていいます。岡崎早苗です。よろしくお願いしますね」
よろしく、と岡崎さんに返す三人の声が、重なった。
+++
その菓子の、「ドロップ」という名の由来を私は知らない。だから、もしかしたら見当違いなことを言っているのかもしれないが、少なくともわたしは、「ドロップ」を食べるとき、深い穴に落ちていく自分自身を幻想するのだ。drop――そこに落ちたわたしを待っているのが幸せなのか不幸なのかはわからない。ただ、そこには懐かしさが在る。かつて缶に入ったドロップをわたしにくれた曽祖母の記憶に関係しているのかもしれないし、まったく関係のないことかもしれない。そんなことは今はどうでもいい。とりあえず、岡崎早苗は缶に入ったドロップを常に持ち歩く、少々古風な少女であった、ということだけを書いておこう。
「食べます?」
彼女はいつも、ころころと笑いながらそう問う。わたしたちは、それぞれに礼を言いながらドロップを一粒ずつ受け取る。それが通例だった。
岡崎さんがオンサの一員となって数日が経ち、その日も彼女はドロップをくれた。変わらない味だが、わたしはその味が嫌いではなかった。岡崎さん自身のことも、少しずつわかってきたが、わたしも、他の二人も、彼女に反感を持ったりはしていない。すべては平和に順調に進んでいるかのように思えた。
そんな平和を、均衡を――あっさりと突き崩す一言を、岡崎早苗が放つまでは。
「あの、青木先輩。……甘池清子って子、知ってますか?」
わたしはそのとき、青木の方を見た。青木の表情は変わらなかった。ただ、彼の瞳の中の光が、ろうそくの炎のようにぐらりと不安定に揺らいだような気がした。
岡崎さんが言うには、甘池清子は青木の昔の恋人で、岡崎さんは彼女の友人なのだそうだ。岡崎さんがオンサにやって来たことと甘池清子のこととは、本人が言うにはまったく関係がないのだという。岡崎さんは、偶然入った部活の先輩が旧友の恋人だった事実に心底驚いている様子であった。彼女は、世界は狭いもんですね、なんて言いながら笑っていた。
しかし誰よりも驚いたのはわたしと松浦である。
「女っ気がなさすぎるし、趣味もアレだから、てっきりあいつはホモなのかと思ってたよ」
と後に松浦は戸惑いを隠せない様子で語った。同級生の男子に同性愛者だと勘違いされてしまう青木の普段の言動には絶対に問題がある。という突っ込みはひとまず置いておいて、私はといえば、青木という男は、相手が男女どちらであるかという以前に、恋愛というもの自体に興味がない人なのだと思い込んでいた。いつだって身軽で自由な彼の生き方が、いつからかわたしにそう思わせていた。
だから彼女がいたというのはとても意外で、少しだけショックだった。
青木は、照れくさそうにほほ笑むだけだった。さきほど見た瞳の光の変化はきっと気のせいだったのだろう。そのときはそう思った。
しかし、本当はわたしは気づくべきだった。青木の「昔」の恋人。「現在」の恋人ではない。ということは、二人は別れた。どうして別れたのか。今、彼女はどうしているのか。おせっかいでもいい、そういったことを青木か岡崎さんに尋ねておくべきだった。そうしていれば、きっとあんなことは起こらなかったのに。
今は、悔いることしかできない。
その日の部活中、たまたま恋愛の話になった。確か、文化祭で出す新譜を恋愛系の歌にしよう、という提案を誰かがしたからだったと思う。
「しかし、わたしたちってみんな恋愛未経験者ばっかりじゃなかったっけ。松浦なんか二次元まっしぐらって感じだし」
ふと、わたしはそう言った。
「まあぼくは確かに恋愛なんてしたことないけど」
松浦は落ち着いた調子で眼鏡を押し上げながらそう言い、岡崎さんは「わたしもそうです」と控えめに応じた。
そこで、わたしたちは自然と青木の方を見た。青木は「恋愛未経験者」じゃないんだっけ、とぼんやり思う。少し、どきどきした。
「じゃあ今度の作詞は青木がやるか?」
仏頂面のままの松浦がそう提案した。
「遠慮しておくよ。ぼくは歌うだけで精一杯だ」
「そっか」
松浦はそれ以上何も言わずに黙って下を向いた。と言ってもうつむいたのではない。手に持った雑誌のページを眺めているのだ。
「ねえ、青木。恋ってどんな感じ?」
わたしはおそるおそる聞いた。今なら聞いてもいい、そんな気がしたから。その問いをわたしが放つ瞬間、青木は表情を変えなかった。だから、聞いてはいけないことだとは思わなかった。
しかしなぜか、隣に座っている岡崎さんの表情が曇ったのが見えた。
どうして彼女がそんな顔をするのだろう。不思議だったが、そのときのわたしは気に留めなかった。
「恋って、とても楽しいことだと思う」
青木が困ったように、けれど誇らしげに笑った。
「彼女がいれば何もいらない。何も要求したくない。そんな気持ちに、なれるんだ」
――何もいらない。何も要求しない。
それは理想形だと思った。とても羨ましいことだ。
だって、わたしは要求せずにはいられなかったから。いつだって。
歩道橋に立つ寂しげな男の面影を頭から追い払って、わたしは青木に向かって笑いかけた。
「いいな。わたしも、そんな恋がしたい」
そのとき、青木が小さな声でつぶやいた。
「清子、元気かなあ」
その言葉に、彼の想いがにじんでいた。愛しいという気持ちが、わたしにも、おそらく隣にいる松浦と岡崎さんにも明確に伝わるくらいに真剣な口調。
今も変わらず、青木は彼女が好きなんだ。思わずほっこりと笑顔になりかけたが、やめた。やめざるをえなかった。
驚きで硬直したわたしの視線の先で。
岡崎さんが、気まずそうにうつむいていた。彼女の顔色は、少しだけ青白かった。
少し経って、わたしは岡崎さんの様子がおかしいことに気づいた。より正確に言うのなら、青木がそばにいるときだけ、岡崎さんの様子がおかしい。彼女に話しかけてみたが、
「なんでもないんです」
と苦笑されただけだった。
仕方がないので、わたしは青木に直接事情を尋ねに行った。気は進まなかったが、このまま放っておくことはできない、と感じたからだ。
「ああ、それは清子のことだろうね」
青木はあっさりとそう言って、語り始めた。
――彼の、終わってしまった恋の物語を。
青木と甘池清子は、最初は理想的なカップルであったらしい。
しかし、だんだんと彼女は青木に愛想を尽かし始めた。
『これ以上一緒にいたくない。あなたの愛って気味が悪いわ。今度あたしの名前を呼んだら、あんたを殺してやりたい』
清子は別れ話を切り出す際に、こう言ったそうだ。
そう言われた青木は、どこか諦めた境地になったという。
「どうして青木が諦めないといけないの? なんか、ただの言いがかりっぽいけど」
わたしはそう問いかけたが、青木は首を横に振って、こう応じた。
「いや、たぶん、彼女の方が正しいんだ。ぼくはね、人を好きになるとおかしくなるんだ。ぼくにできることなら全部してあげたい、ぼくの持っているものを全部与えてもいい、って思う。そう思って行動した結果、相手は不愉快になる。気分が悪いと思わせてしまう。ぼくはそれに気付かなくて、いつも全部壊してしまう。その証拠に、ぼくは清子に乱暴に別れ話を切り出されても、彼女を嫌いになることができなかった」
淡々と告げられた言葉は、わたしの記憶の中の触れられたくないものを呼び起こすような気がする。
ざわざわとした嫌な感じ。フラッシュバックのように脳裏に焼きつく風景。
歩道橋と、その下を行き交う車の群れ。
陸橋の上に悄然と立っているのは――『無償の愛』をわたしにくれた人。歌声と共に、その人の声が思い出される。
『ぼくにできることなら、何でも――』
ああ、嫌だ。この記憶は嫌だ。無償であることは気持ちが悪い。見返りを求めないなんてありえない。見返りを求めないと口で言いながら、彼はわたしにとても重いものを背負わせていた。そんな気がする。
それはもはや愛ではないとすら思える。
偏執的な狂気だと言い換えてもいいくらいに、理解ができないもの。
空っぽの心を空っぽの歌に乗せて、歌う男の面影。
わたしの中のその記憶は、とても歪んでいる。
「気持ちが悪い」
混乱したまま、思わず口にした言葉が、青木に届いてしまったことにわたしが気づくまでに、数秒かかった。
わたしの言葉には棘があった。憎しみがこもっていた。傷つけてしまったことを自覚する。なかったことにしたくなったが、無理だ。一度口に出してしまったものを取り消すことはできない。
それは青木に向けた言葉じゃない。
もっと、もっと遠くにいる人にあてた言葉。
でも、それを青木に伝えるには、話したくないことを話さなくてはいけない。それは嫌だ。
「ごめん、今のは――違うの」
わたしが慌てて付け加えた言葉に、青木は何も言わなかった。しばらくして彼は、
「今日はごめんね」
と一言だけ口にして、部室から出て行ってしまった。後悔だけが心の底に積って、変質して鉛のように重みを持っていく。そんな幻のビジョンを見た。
+++
その翌日、なんだか嫌な予感がした。青木はいつもどおりに部室に来てくれて、わたしとも普通に接してくれた。申し訳ないと思いつつ、わたしは何も言えずに笑ってごまかしていた。
嫌な予感の正体は、唐突に判明した。ものすごいスピードで、音楽研究サークルの扉が開かれ、見知らぬ女が部室に飛び込んできたのだ。髪を振り乱し、血走った目の彼女は明らかに普通じゃなかった。この間の青木の話の中の『彼女』と、面影が重なる。この子が『甘池清子』だ、とわたしは直感した。
彼女は猛然と突進し、青木のほうへ近寄って彼を殴った。わたしと松浦と岡崎さんは、呆然とそれを見ているしかなかった。青木は黙っていた。微動だにしないまま、ただ何度も何度も殴られていた。抵抗もしないし防御もしない。まるで、殴られて当たり前だと思っているような――どこか諦観に満ちた表情。
「やめろよ」
と、最初に言ったのは松浦だ。彼は珍しく積極的に行動した。青木と侵入者の間に入り、青木を突然の暴力から守る。
突然の乱入者は松浦に視線を移した。
「あんた何なの? 泰輔の友達?」
泰輔、というのは青木の下の名前だ。松浦は彼女を睨んだまま、頷いた。
「ああ、友達だ」
「じゃあ、あんたからも言ってくれる? もう、金輪際わたしのことを考えるのをやめてほしいの。泰輔がこの世に存在してること自体を、懺悔してほしいの。それができないならせめて、わたしに謝ってほしい」
めちゃくちゃな要求だったが、青木は松浦の肩に手を置いて、「ごめん。ぼくが全部悪いんだ」と口にした。
「そうやってあっさり謝っちゃうところが一番ムカつく。プライドとかないわけ?」
甘池清子はせせら笑うようにそう言い、青木はまた「ごめん」と言った。彼は本当にプライドを捨てているし、青木がそんな風にプライドを捨てられるのは、彼女のことがまだ好きだからだ。そういう青木の大切な気持ちを、甘池清子は侮辱している。それに、昨日のわたしも同じように青木を傷つけている。わたしは思わず叫んでいた。
「青木は悪くない。青木はただ、あなたのことを好きでいただけじゃない。他には何もしてない。青木が謝る理由なんてない」
「な、何なのよあんた。いきなり横から口出さないでくれる?」
清子が少しひるんだ隙に、松浦も加勢してくれた。
「ぼくはよく事情を知らないけど、いきなり入ってきて人を殴るなんて、野蛮だと思わないのか?」
追い詰められた清子は岡崎さんの方を見た。岡崎さんは、弱々しく笑った。
「わたしは、どっちの味方でもないの。ごめんね、清子」
甘池清子は、ここに自分の味方がいないという事実に絶望したようだった。黙ったまま少しずつ後退し、そのまま踵を返して出て行った。出ていく瞬間、彼女は泣いていたような気がする。彼女には同情の余地なんてないだろうし、同情するつもりもない。けれどわたしには、彼女の気持ちが少しわかるような気がした。
そんな清子の背中を見ながら、青木が小さな声で呟いた。
「悪いことを何もしていないとしても、やっぱりぼくが悪かったんだよ。……彼女を、傷つけたんだから」
彼はずっとそうやって、罪悪感を抱えたまま生きていたのだ、とようやくわたしは気付いた。ただ好きでいることすらも許されないのだとしたら、それはもう拷問ではないのだろうか。わたしは青木に声をかける。何でもいいから言わなくては、と思う。
「ごめん、青木。青木は気持ち悪くなんてないの。あのときは、他の人のことを思い出して、その……」
青木はそんなわたしに、いつもどおりの顔で笑う。
「話したくないこと、なんでしょう? ぼくはそのことは知らないけど、貝瀬さんは優しい人だってちゃんと知ってる。もう謝らなくていいよ」
青木はあくまで穏やかにそう言った。もう謝らなくていい――それは、青木が清子に言ってもらいたかった言葉だろうに。
「こんな自分はおかしいって、清子に嫌われても仕方ないって、本当はもうとっくに気づいてるんだ。今まで、こんなぼくと一緒にいてくれてありがとう」
まるでもう二度と会えないような口調で、彼はこう言った。
「……普通に扱ってくれて、ありがとう。ぼくはそれが、とてもうれしかった」
普通に扱ってくれて――というその言葉は、わたしが松浦や青木に対して持っていた感情とそっくりそのまま同じものだった。疎外されないことの幸福を、二人はわたしに与えてくれた。だからこそ、今の青木の態度は、わたしをとても不安にする。
「もう来ないなんて言わないよね?」
わたしの問いかけに、青木は答えなかった。わたしはすがるように松浦を見たが、彼はわたしを救ってはくれなかった。
「来ないのは青木の自由だ。ぼくや貝瀬がどうこう言うことじゃない」
黙ってドアに手をかける青木を見て、わたしは泣きだしそうになってしまった。
青木がいなくなったら、誰が歌うのだ。
青木がいないと、青木の歌がないと、オンサじゃない。
そんなことを考えつつ、わたしは青木の歌声を思い出して、震えるように思った。
――あの歌声は、もう二度と聞けないのか。
透き通るように、自分を投げ出すように風景に溶けていく、そんな彼の歌は。
+++
部室を出て歩き出した青木に背後から声をかけたのは、松浦でも貝瀬でもなく、岡崎早苗だった。
「わたし、やめませんよ」
彼女は開口一番にそう言った。
「もう知ってると思いますけど、清子に、青木さんのことをしゃべっちゃったの、わたしなんです。今日のことも、わたしのせいかもしれないって少し思います。でも、わたしは悪いことをしたとは思いませんし、あなたみたいにあっさり謝ったりもしないです。もちろん、オンサをやめたりもしないですよ」
あまりにも堂々とした岡崎の態度は予想外で、青木は一瞬驚いた顔になったが、すぐににっこり笑ってみせた。
「うん、俺もやめない」
岡崎は釣られるように笑顔になった。彼女の笑顔は少し、清子に似ていると青木は思った。
「先輩、初めて『俺』って言いましたね」
「そうかな」
「やめない理由、聞いてもいいですか」
彼女の問いかけに、青木は正直に答えた。
「歌いたいっていうのが一番だけど、貝瀬さんは俺が部室に行かなかったら泣いちゃう気がするから。そしたら、松浦が怒るだろう。あいつ、けっこう直情型だから、俺のところに殴りこみに来そうな気がするんだよね」
「先輩って性格悪いって言われません? ちなみにわたしは、よく言われます」
唐突な問いは、鋭く心に刺さるような気がする。
「さあね、どうだろう」
確かに自分は性格が悪いだろう、と青木は思う。人のことを思いやっているように見せかけて、本当は自分のことしか考えていない。そんな強かな自分を、青木ははっきりと自覚している。そしてたぶん岡崎も、自分と同類なのだろう。でなければ、こんな風に話しかけてきたりはしない。これからも彼女とオンサで付き合っていくのは少し骨が折れるかもしれない、と少しだけ青木は思った。
+++
わたしは、オンサの部室にいる。
本がたくさん積んである、物置のような部室。
あるのは本ばかりで、音楽サークルらしさを放つものは部屋の隅に置かれている数枚のCDと、ほとんど使われずに埃をかぶっている初音ミクのパッケージ、それに使い古されたギターくらいだ。レコーディング作業は基本的に、部室とは別のスタジオで行う。レコーディングに必要なものも、ほとんどがそちらに置いてある。
そんな部屋の中央に置かれている四つのパイプ椅子。そのひとつに、わたしが座っている。
もう門が閉まる時間だ。帰らなくてはいけない。でも、わたしは部室から出られずにいた。
わたしは、青木を待っていた。もう二度と来ないかもしれないし、今日はもう絶対に来ないだろう。そうわかっていても、待ち続けていた。もしかしたら来るかもしれない、そんな気がして。
彼が来たとき、ここで誰かが迎えてくれた方が、きっとうれしい。
わたしが青木なら、涙が出るほどうれしいと思う。
そんなことを考えながら、そのままそこで眠ってしまったらしい。誰もいない部室はとても寒々しく感じられて、いつも自分たちがいる場所だとは到底思えない。毛布でも持ってくればよかったな、とわたしは季節はずれなことを考えながら眠っていた。
++++
……なんだか、あたたかい夢を見たような気がした。具体的な夢のイメージはすべて失われていたけれど、あたたかさだけが手の中に残っていて、もう一度眠りの世界に帰りたくなった。でも、わたしは現実に引き戻される。目の前に、見知った顔があったからだ。
「……青木?」
「うん」
「青木がいる」
「いるよ」
淡々とわたしの言葉に相槌を返す、彼は確かに青木だった。
青木が、わたしの目の前に、いた。
「なんなのよもう……超心配したし、超待ってたんだから……」
わたしは自然にこぼれた涙をぬぐい、無理にでも笑おうと必死に笑顔に似た表情をつくった。
「――おかえりなさい。」
わたしの言葉は、青木の心に届いただろうか。それこそさっき見た夢のように、具体的な意味なんてすべて失われてもかまわない。その先にあるぬくもりを、彼が知覚してくれればそれでいい。
ただいま、と青木は言った。それを聞いて、わたしは本当に満たされた気持ちになった。
まっくらな場所で、ようやく見つけたきらめき。
ここはもしかしたら、ドロップの缶の中なのかもしれない。目を凝らして探せば、甘くきらめくドロップが、もっとたくさん、埋もれている。今見つけたのは、そのうちの一個だ。光が差すことはないかもしれないけれど、探せば探すほど、きらきらした甘い粒が見つかる。根拠もなくそんなことを考えて、わたしは笑った。