ぼくが初めて好きになった女の子はその日、こう語った。
「『ナンバーワンになれなくていい、もともと特別なオンリーワン』……そんな歌が好きだった時期がわたしにもありました――が」
こぶしを握りしめる少女。
「しかし、それはオンリーワンの悲しさを知らないがゆえの過ち。オンリーワンとは即ち、他に誰も仲間がいないってことなのです」
叫ぶように、彼女はこう語る。
「孤独、イコール…………孤独です」
イコール、のあとに何かうまいことを言おうとしたが、他に単語を思いつかなかったらしい。計画性皆無。
「たとえば、『あなたは実は、地球人ではなく地球外生命体なのです。それもこの地上でたった一人の』とか言われて嬉しいですか。オンリーな上にワン、ってそういうことですよ」
相槌を打とうかと思ったが、何を言えばいいのかわからないので黙っておいた。
「ああ、自分がオンリーワンだとわかったときのあのやるせなさ……」
およよ、とわざとらしく倒れるふりをする。変な方向に演技派女優だった。
「しかし、オンリーワンでもないよりマシ」
語尾の丁寧語が唐突に消え、
「荒野、というか会場をさまよう中で見つけた、たった一輪の青いバラ……ていうか、一冊の本」
だんだん雲行きが怪しくなってくる。
「わたしはそのとき……感動のあまり、オンリーワンカプでもくじけなかった戦友に敬礼してしまったわ……引かれたけど」
しかも、内容はそんなに良くなかったけど。
と付け加える彼女は……そう、オタクかつ腐女子だった。
何のことはない、最初は壮大な話に見えたが、ラブソングとはまったく縁のない与太話(というよりオタ話)だ。真面目に聞いていたこちらが馬鹿だった。
「そして思ったの……わたしも偉大なるオンリーワンになろう、と」
ぼくがもしも雑誌記者で、これが何かのインタビューだったら、まず間違いなくこのセリフだけを切り抜いて使うだろう。他の部分は適当に編集して、なかったことにする。
誰かのオンリーワンになりたいという願望はとても美しく聞こえるものだが……イベント会場の中のオンリーワン、という限定条件が付されることによって、説得力が大幅ダウンしていた。
ぼくも一応オタクなのだが、ぼくたち男性は基本的にカップリングにはあまりこだわらないので、彼女の気持ちがよくわからない。萌える絵と内容なら、カップリングなんてどうとでもなれ……が基本精神である。同人誌に限った話で言うなら、知らないキャラクターでも、萌えるなら構わない。腐女子というものはこの点で大きく男オタクと異なっているらしく、まず「好きなカップリング」の本が欲しいのだ。「のだ」とか断言してみたが、ぼくは貝瀬以外に腐女子というものを知らないので、もしかしたらカップリングにこだわらない女子も世界のどこかには存在するのかもしれないし、そっちの方が多数派なのかもしれない。事実がどうであれ、ぼくには知るすべがない、知りたくもない、というだけの話である。ちなみに、ぼくと同じ男オタクではあるが例外的な存在である青木(腐男子)は、この演説のとき、少しうるうるしていた。彼には貝瀬の嘆きがリアルに共感できるものだったらしい。とりあえず……男の涙目は気色悪い、と思った。
そんなかんじで、青木以外まったく共感していなかった彼女の「オンリーワン」に関する演説を回想として持ち出してはみたものの、ぼくはこのとき――まだこの馬鹿な少女が自分の中でオンリーワンになるとは、考えていなかった。たぶんぼくの人生の中で一番大きなサプライズ。……実はこの恋心は盛大なドッキリ企画なのではないかという疑念を未だ捨てられずにいたりする、今日この頃なのである。
Pandora’s box
「さて、チョコレートを出してもらおうか」
銃を突きつけた銀行強盗みたいな調子で、貝瀬理恵が開口一番にそう言った。
「はい、どうぞ」
ナチュラルな調子できれいにラッピングされた箱を取り出す岡崎。箱の数はぴったり三個。礼儀を忘れない姿勢は評価できるが、ぼくはその人当たりの良さが少し苦手だ。エレベーターガールと話しているような気分になる。人であって人でない……というのはさすがに失礼だろうが、例えるならそんなかんじだ。
「ああ、そういえば今日はバレンタインデーだね」
なぜか青木も、カバンから市販のチョコ(百貨店の地下に売っているやつだ)を出した。
必然的に……じとり、と貝瀬の目がこちらを見たわけなのだが。
「ちょっと待て。バレンタインデーって、女子が男子にチョコレートをあげる日じゃないのか!?」
慌ててそう主張してみた。
「ぶぶー。バレンタインデーは、男女ともに恋人に贈り物を送る日です!」
貝瀬は得意げに断言したが、
「欧米かっ!」
と突っ込まざるをえない。
ネタ的にはちょっと古いが、一度言ってみたかっただけだ。そんな白い目で見るのはやめてほしい。頼むから。
「というか、欧米の風習云々以前に、ぼくと青木と岡崎はお前の恋人じゃねえ!」
ごまかすために突っ込みを追加してみた。
数秒後……「恋人じゃない」という言葉に自分がダメージを受けた。わりと深刻なダメージである。
「ああ……」
と気の毒そうなため息をついたのは青木だ。打ち明けた覚えはないのに、こいつはぼくの貝瀬に対する気持ちを知っているらしい。しかも、けっこう前から。
一種の、弱みを握られている状態。
まあ、害はないので放っておいても構わない。
「……松浦のくせに偉そうなことぬかしてるんじゃないわ」
これが貝瀬理恵の得意技、逆ギレ。わが音楽研究サークルの名物である。夏にはこれを見るために、全国から百万人が大学に押し寄せる。整理券は十五分でなくなるし、校舎裏にはダフ屋が大量発生する。食べ物などの出店を出す学生もけっこういる。わりと儲かるらしい。
……というのはもちろん、嘘だ。
「ていうか、どうせ女の子にチョコレートもらえるのが嬉しくて、期待でデレデレしながら学校に来たんでしょ。キモオタのくせにいい度胸。全部義理チョコなのにデレデレして、ばっかじゃないの。最低ね」
「ぐっ……!」
その指摘は、半分は正解で半分ははずれだった。
「ほかならぬ貝瀬に」チョコレートをもらいたくて学校に来たんだよ……という本音は当然、口に出すことなどできない。岡崎や他の女子のチョコレートなんていらない。お前にチョコレートがもらえれば、義理チョコでもなんでもよかったのに。
どうやらそう簡単にはいかないらしい。
「あーあ。でもいいわ。岡崎さんには友チョコもらえたし、青木もいいとこのチョコくれたしね。松浦の所業には目をつぶってあげましょう」
ぼくが悪いことをしたかのような会話の流れになっている。
ぼくは知らないうちに何かしてしまったのだろうか。たぶん、何もしていないと思うのだが。
貝瀬は乱暴にラッピングの紙を破ってチョコレートを食べはじめた。
仕方ないので、ぼくも岡崎からもらったチョコを食べることにする。
手作りだった。
美味だった。
これが貝瀬の作ったチョコだったらなあ……と思うとせつなくなった。
「おいしい。ねえ、岡崎さん。これ、どうやって作ったの?」
急に上機嫌になる貝瀬。どうしようもなく気まぐれな女だ。
「えーっと、まずチョコレートを刻んで、バターを常温に……」
岡崎は解説をしはじめた。たぶん、その解説を聞かせてやっても、貝瀬は帰るまでに忘れてしまうだろう。そもそも作ろうという気がなさそうだし、作ったらキッチンが悲惨な状態になりそうだ。確か、貝瀬は高校の調理実習でオーブンを三つ壊したという伝説を持っている。漫画に出てきそうなレベルの超絶料理音痴、である。
というよりむしろ機械音痴なのかもしれない。この間ぼくが部室に置いておいたノートパソコン、いつのまにかOSが完膚なきまでに破壊されていたのだが……たぶん、こいつのせいだ。
いや、ちょっと待てよ。
「ということは、カイセがもしチョコレートを持参していたら……」
大惨事になっていたかもしれない。市販品ならともかく、手作りだったら……死人が出るくらいに強烈なチョコレートが出現する確率が非常に高い。
おいおい、どうしてこいつのチョコレートをもらいたいなんて無茶な欲望を抱いていたんだ、ぼく。死にたいのか。ぼくは自殺志願者なのか。
そんな中――岡崎のチョコレートを咀嚼しながら、貝瀬が爆弾を取り出す。言葉の爆弾である。ぼくは何気ない独り言で、爆弾の起爆スイッチを押してしまった。
「あら、松浦……わたしはちゃんとチョコレート持ってきてるわよ」
ぴしっ。空間にひびが入る音が聞こえた。非常に漫画的である。
「もらうだけもらってトンズラなんてセコいことはしませんよーっだ」
しかしがさごそとカバンをあさった彼女が取り出したものを見て、ぼくは安堵のため息を漏らした。青木と岡崎も同じ気持ちだったのだろう、その瞬間にはため息の美しい三重奏が奏でられた。
「ありがとうカイセ。ぼくは今、嬉しくて涙が出そうだ」
彼女が取り出したのは、義理チョコの定番ともいえる最強の低予算チョコレート……チロルチョコである。コンビニで手軽に買えて味のバリエーションも豊富、何より胃腸に優しい市販品だ。
「あら、そんなに感謝してくれちゃうなんて、松浦ったら単純ね。さすが童貞っ!」
うかれた口調でさりげなく最大級の罵倒をされた。が、今は本命の女子にチョコレートをもらうことができ、かつ死なずに済んだという喜びをかみしめている最中。罵倒は聞き流してしまうことにしよう。
「いただきます」
神への感謝を口にしつつ、チロルチョコの包装紙をはがす。小さなチョコレートを口の中に入れる。そして――
ガリッ。
ありえない音がした。同時に、歯茎に痛みが走る。
「かいへ……ほれ、はに?」
うまくしゃべることができない。
「わたしの手作りチロルチョコよっ!! ちゃんと溶かして固めて、オリジナルの味付けまでしたんだから……わたし、超頑張っちゃった」
きらきらした目でそう語るのは、悪魔……いや、地獄からの使者だった。
一瞬でも神に感謝したぼくが愚かだった。
「これ、唐辛子の味がするね……貝瀬さん」
ぼくの横では平然とした顔で青木が感想を口にしている。
「おまえ、なんで『ガリッ』ってならないんだよ!? 超固いぞ、このチョコ!」
なんとか元のように喋れるようになったので、ぼくは青木に突っ込みを入れた。ちなみに、岡崎はまだ青木のチョコを食べている。いつも、なぜかうまく貝瀬による被害を免れる女だ。
「ああ、ぼく、チョコレートは舐めて食べる派なんだ」
……たまにいるよな、チョコレートを噛んで食べると「もったいないっ!」とか言い出す人。青木もそういう奴だったのか……。
ちくしょう、なんでいつもぼくばっかり不幸な目に遭わされるんだ。不合理かつ不条理だ。青木と岡崎の運の良さはもはや異常だ。それとも、ぼくの運が悪すぎるのだろうか。何か悪いものにとりつかれているのかもしれない。
噛んだチョコレートからは苦い液体が染み出しているし、チョコレート本体は燃えるように辛いし、これはもうチョコレートというよりぼくの舌に対するテロ行為だ。
アニメやマンガで、致命的に料理の下手な女子が登場して、真っ黒な炭のような物体を主人公に食べさせるシーンがある。ある程度のスキルを持つ主人公だと、「君の作ったものなら何でもおいしいよ」などと言って炭をばくばくと食べたりするものだ。が、あれはあくまで二次元の世界の話であって、実際には炭なんて食えない。そして、たぶん貝瀬の作る料理よりは炭を食べた方がマシだ。
改めて、自分が挑もうとしているハードルの高さをかみしめる。仮にぼくと貝瀬が両思いになったとする。ぼくがサラリーマンになって、そのぼくの帰りを貝瀬が家で待ちつつ夕食を作っているとしたら……その先は想像したくなかった。
「なんだか顔色が悪いけど、大丈夫?」
声をかけてきたのは青木だった。できれば貝瀬に声をかけてほしかった。そもそも、同じものを食わされたはずなのに、どうしてこいつは平然としているんだろう。貝瀬の奇怪料理に対する適応能力という点では、ぼくは青木に勝てないということか。
「青木……お前が恋敵じゃなくて本当によかったよ」
青木は貝瀬のことを好きじゃない。
それくらいは鈍感な僕でも知っている。
「……? よくわからないけど、あんまり油断しない方がいいと思うよ」
平然と、どきりとするようなことを言う青木。
「お、お前まさか」
まさか、お前はぼくの恋敵なのか。ぼくが気づいていないだけで、青木は……
ぼくが問いかける前に、彼は答えを言った。
「違うよ。でも」
ふわりとしたいつもの笑顔で、青木は言う。
「好きな女の子にもらったチョコレート。ぼくならもう少し、おいしそうに食べると思うな」
その声はとても小さな囁きだった。貝瀬に聞こえないように気を使ってくれている。
「…………っ」
そう。あまりにまずいから、すっかり忘れていたけれど――これはぼくがずっと欲しかったもの。好きな相手にもらったチョコレート。傍若無人で料理音痴で、暴力的で性格最悪で、いいところなんてひとつもないかのような彼女がくれた、たったひとつの。
「……なあに、松浦」
そのとき、貝瀬がぼくを見た。

「妙にニヤけちゃって。気持ち悪い」

――彼女の反応はそんなものだった。
いやまあ、それ以上の反応を期待する方がおかしいんだけど。
とりあえず、今のところはそれでいいのかもしれない。
ぼくたちの戦いはこれからだ!……みたいな。
ホワイトデー編、サブタイトル「続・松浦の苦難」に続く!……みたいな。
って、「苦難」はもう確定なのかっ!?
と一人でボケてノリ突っ込みしてもむなしくなるだけなので、この話はここで終わりだ。



最後に、貝瀬理恵の別れ際のセリフをここに引用しておこう。
「ホワイトデーは三倍返しでね」
定番中の定番なセリフだが、彼女は明らかに本気の目つきだった。たとえるなら色気より食い気、というかんじ。……ただ甘いものが食いたいだけだ、この女。
ぼくらは一か月後に向けて、大変な苦行を強いられることになりそうだった。
「あ、わたしもついでに三倍返ししてもらってもいいですか」
と言い出す岡崎早苗も、ぼくにとっては天敵ともいうべき存在だ。彼女の場合、冗談で言っているのはよくわかるのだが、それをわかった上で「三倍返し」しなければならないような気がする。社交辞令的な意味で。
貝瀬にお返しをして、岡崎に何もあげないというのもまずそうだし。
……扱いがいろいろと面倒くさい女だった。
「あ、松浦は今日チョコレート忘れたから、三かける三で九倍返しね。そこらへんよろしく!」
ドリンクのおかわりをカラオケで注文するような調子で、無茶な注文が飛んできた。言うまでもないが、貝瀬である。
「い、意味がわからないっ……!」
どうしてそこで二乗するんだよ……
小学校の教師みたいな理不尽な宿題の増やし方はやめろ!
と言いたかったが、今の貝瀬には何を言っても無駄な気がした。
「まあ、いっか……」
なんかもう、いいや……
と書くと投げやりなかんじに思えるが、そういう意味ではなく。
今日はあの劇薬のような味のチョコレートを食べられただけで、ぼく的にはミッションコンプリート。もう他のことなんて、どうでもいいじゃないか。
人生は足し算や引き算ではない。一見マイナス要素だらけでも、たったひとつのプラスがあればそれで満足できたりする。マイナス要素同士を掛け合わせてプラス要素に変えられることはさすがにないから、結局はやっぱり足し算・引き算なのかもしれないけれども、まあそのへんは置いておいて。
今日は帰ろう。帰り道には、本屋でホワイトデー攻略用の書籍を買う予定である。
なにごともハウツー本から入るのがぼくのポリシー……っていうより悪い癖だ。
貝瀬に見つかったらまずいので、ちょっとだけ遠回りで本屋に寄るのがぼくの習慣だったりする。
……これはあくまで貝瀬に見つからないための処置で、別に隠れてエロ本を買うためのの努力ではないのでそこらへん、誤解しないように。
「……松浦の欲しいエロ本は普通の本屋には売ってないからね」
青木がぼそりと言った。
「こいつ、さりげなくモノローグに突っ込み(いや、フォローか)入れやがった……」
しかもわりと痛いところを突いてきた。今更だがぼくの買うエロ本は二次元限定だ。
「心を読むのはやめてくれないか……青木」
「別に心を読まなくても、松浦の考えてることくらいだいたいわかると思うけど」
と天然男子はさらに恐ろしいことを言いはじめる。
「だいたいって、どれくらいだ」
「『カイセにチョコレートもらいてえ……』って今朝からずっと考えてたくらい」
本当にだいたいだけど、だいたい合ってた。
……ぼく、青木に弱み握られすぎじゃね?
しかもぼくの側は青木のことはほとんど知らない。よく考えると不公平だ。
ボーイズラブ展開へのフラグではないことを祈りつつ、次回に続く……かもしれない。


080117

松浦視点になると途端に甘酸っぱいかんじになる音楽研究サークルの日常。