The earth gravitates toward the sun.
 その日部室に入ったら、貝瀬しかいなかった。
 しかも携帯電話の画面を必死に見つめており、なんだか話しかけにくい。
「よっ」
とりあえず小さい声であいさつをしてみたが、
「…………」
気づいていないのか無視しているのか。彼女は黙ったままだ。
「あの、カイセ?」
「…………」
「カイセさん?」
「……何」
ようやく返答があったが、ご機嫌斜めなようだ。
「何してるんだ? メールか?」
「違う」
「じゃあ、ネット?」
しばらくの沈黙の後、
「イエス」
と答えが返ってきた。
「そうか……」
地雷を踏む可能性があるので、さすがに「何のサイト?」とは聞けない。そこで会話が終わってしまう。流れる沈黙。
「…………あの、カイセ」
「何」
沈黙に耐えきれないだけで特に言うことはなく、ぼくは言葉を探しながら黙っていた。液晶から視線を外し、貝瀬がこちらを見る。
「今、夢小説の主人公に微妙な名前を付けて遊んでるところだから。邪魔しないでくれる?」
……コメントしづらいマニアックな遊びだった。
「それは、楽しいのか……?」
「私的ヒットは『もういい死ね』と『ちんこもげろ』ね」
「やっぱり罵倒語系なんだ……」
一応解説しておくと、夢小説というのはネット上で読める二次創作小説サイトにある小説の一形態であり、主に読者が主人公に自分を投影してキャラクターとの恋愛を楽しむものである。多くの場合、主人公の名前を自分で入力することができる。たとえるなら、小学生男子がドラクエをプレイするとき、自分の名前を主人公の名前に設定してプチ冒険気分を味わうのと同じようなものである。
 冷めた目の貝瀬は、ディスプレイの文字を淡々と読み上げる。
「『俺は、やっぱりおまえのことが好きなんだ。ちんこもげろ』」
「主人公って女じゃないのか!?」
というか、その直接的かつ残酷すぎる罵倒語を口に出すのはやめてほしい。頼むから。ある種、『死ね』『消えろ』とかより酷い。体の一部がリアルに痛くなりそうだ。
 と言いたかったが、ぼくがそれを言うと、こいつは嬉々として連呼し始めそうだ。ここは黙って耐えよう。青木が来て、それとなく貝瀬に注意してくれるまで。
「夢小説って腐女子には理解しがたいものなのよね……こうでもしないと読み進められないわ」
早く来てくれ、青木――とぼくが思わず祈ったそのとき、貝瀬はため息をつきながらスクロールボタンを連打していた。仕方なく、ぼくは彼女に応じる。
「そういうものなのか。男から見たらあんまり変わらないぞ」
「だって捏造じゃない。原作にいないキャラを主人公として混ぜるなんて反則。同じ二次創作者として邪道としか言いようがないわ」
少年漫画のキャラクターを勝手に同性カップルにするのは捏造じゃないのか……と尋ねようかと思ったが、それは触れてはいけない問題というものだろう。貝瀬の逆鱗に触れてしまいそうな気がする。やめておこう。
「ていうか、そんなに嫌いなら読まなければいいんじゃ……」
ぼくが当然の疑問を口にすると、貝瀬はふんと鼻を鳴らした。
「自ジャンルのウェブサイトはどんな傾向であろうが全チェック、がわたしのポリシーなの。本出したとき、ネタがかぶってるとか言われたら大変だから。男性向けであろうと女性向けであろうと、絵がヘタレだろうと夢小説だろうと、全部見ないといけないの。同人作家の宿命ってやつよ」
ぼくは読む側であって描く側ではないからよくわからないのだが……同人作家ってそんなに大変なものなのか。それとも貝瀬が過敏すぎるだけか。他に比較対象がいないと本当にわからない。
「あーあ、読み終わっちゃった。あんたと二人っきりなんてつまんない。青木来ないかなあ、青木」
携帯をしまった貝瀬は、ギシギシとパイプ椅子を揺らした。ぼくも今、青木に来てほしいと切実に思っているのだが、貝瀬に言われると複雑だ。青木が貝瀬に恋愛的な興味を持っていないのは確認済みだけれど、貝瀬もそうなのかどうかは未確認だからだ。もしかしたら貝瀬が青木のことを好きで、ぼくは貝瀬にとって、お邪魔虫なのかもしれない。それは今日に限らず、ずっと前からぼくの中にある議題だった。
 なんとかして、それを確かめられないものだろうか――
「なあ、カイセ」
「なあにー」
「青木ってさ、変な奴だよな」
ちょっとだけ、鎌をかけてみた。もし貝瀬が青木のことを好きだったら、「青木は変な奴なんかじゃないもん!」とか言ってくるかもしれない、とぼくは予想していた。
 彼女の反応はこうだった。
「うん。変。たぶん、わたしたち三人の中で一番変」
ぼくの予想ははずれた。貝瀬は青木のことを、異性として好きではないのかもしれない。まだ、断言はできないけど……とりあえず今日はそういうことにしておこう。
「はあ、青木早く来ないかなあ。漫画貸してもらう約束してるのに、なんで来ないのよー」
「青木はおまえの奴隷じゃないんだぞ……」
ちょっとだけ、青木のことが気の毒になった。同時に少し羨ましいとも思った。
 ぼくが不在で、部室で青木と貝瀬が二人きりでいるとして。二人は何を話しているのだろう。漫画の話? アニメの話? それともサークル活動の今後について?
 もしくは――その場にいない、ぼくの話をしているのかもしれない。今、ぼくらが青木の噂話をしているのと同じように。そんなのは当たり前のことなのに、どうしてこんなに胸がざわついて仕方ないのだろう。二人がぼくの見ていないところで何を話し、どんな表情で過ごしているのか。それが、なんでこんなに気になってしまうのか。自分でもよくわからない。
「青木、遅いな」
そんな言葉で適当に内面のざわめきを覆い隠して、ぼくは椅子にもたれてうつむいてみる。重力は重い。この世界の重力は重すぎて、ぼくには不適格だ。そんなSFのようなことを唐突に考える。パイプ椅子の質感は冷たく、少し背中が痛くなる。ぼくの前にいる彼女も同じものに体を預けて黙っている。何を考えているのだろう。
 重力に縛り付けられるのも、誰かの気持ちに振り回されるのも、たぶん同じことなんだとか、好きな人に振り向いてほしいとか、気づいてほしいとか、そんなことを考えていてくれていたらいいのに。ぼくと同じことを、同じ瞬間に、同じ場所で……考えていたらいいのに。理不尽であり得ない願いを、ふと紡ぎだしてしまった。貝瀬理恵に気づかれないように、うつむいたままでぼくは少しだけ笑った。間違いなく、ぼくは病気なのだ。病名はこの上なく陳腐でありがちな言葉だから、あえて言わないけれど。


090327

松浦、苦悩するの巻
青木と貝瀬がふたりっきりな話を書いたので、今度は松浦と貝瀬を二人っきりにしてみた
貝瀬さんは夢小説が嫌いなようですが、世の腐女子が全員夢小説嫌いなわけではないらしいですよ。とどうでもいい注釈を入れておく。