poor doll
最初はただ、守らなければならないと思っていた。
好き、とか恋、とかそんなものは後付けの理屈にすぎない。発端は、単純な庇護欲だった。そばにいなければ壊れてしまいそうな彼女の姿を知ったから。強く見えても、強がっているだけで本当は恐がりな彼女を、守るべきだと彼は思った。それは自分にしかできないことだと思っていた。
だがその日、彼の抱いていたゆるい恋心をたたき壊し、別の感情へと変化させる出来事は、唐突に空から降ってきた。
今にもかき消されそうなかぼそい声。しかし、芯にしっかりとした信念を持っているように思える、歌声。何かにすがるように歌う一人の男。
彼がその声を聞き、そのメロディが記憶の中にある、自分の知っている旋律だと認識した瞬間。たぶん、変化のきっかけはそのときに生まれた。
それを聞いたとき、松浦は耳を疑った。
昔、それも彼が彼女を好きになるきっかけが生まれたあの日に――彼女が歌っていた歌。
それとまったく同じ歌を、誰かが歌っている。空耳ではなく、確かに聞こえた。聞き間違うはずがない。
音を必死に追いかけながら、走った。どうか、自分が見つけるまでその歌を歌うのをやめないでくれと願いながら、駆けた。
そして、彼は見つけた。陸橋の上で歌うストリートミュージシャン。その男の顔は、彼女に似ていた。卑屈そうに伏せた瞳や、他人を信用していない、こわばった表情。そのひとつひとつが彼女を思わせる。松浦は後先考えず、その男のそばへと走って行った。
「あのっ」
目の前に松浦が立っていることに、その男はしばらくしてから気づいた。
「……何か、御用ですか?」
穏やかな声だった。貝瀬とは違う。でも、声の根底にあるものは同じであるような気がした。うわべだけの穏やかさ。中身はきっと、からっぽなのだ。理由もなくそう思う。
「その歌は、誰の、何という曲ですか」
松浦は迷わずそう尋ねたが、男はまばたきをするだけで、何も答えない。同じ問いをもう一度繰り返そうかと松浦は思ったが、そんな雰囲気を察したのか、男は投げやりな口調で答えた。
「ぼくのオリジナル。それが何か?」
「その歌は、いつ、作ったんですか」
「……いつだっていいだろう。なぜそんなことを聞くのかな」
触れられたくないことなのかもしれない。穏やかな口調の彼はわずかに声を荒立たせて応じた。
「貝瀬のことを、知ってますよね」
そんなやつのことは知らない、と言われたら素直に引き下がろう、と松浦は思っていた。
「かい……せ?」
彼は少し不思議そうに首をかしげ、何かを思い出すそぶりをした。数秒後、
「あ、ああ……あの子のことか」
と少し笑んだ。
「知ってるんですか」
松浦が再び問うと、男はきょとんとしながら、
「ああ。少し前に、一度だけ会ったことがある。でも、あの子はこの曲は知らないはずだよ。君の話は少々脈絡がないね」
「そんなはずないです。あいつはその曲を知ってます。本当に一度しか会っていないんですか? もっと前に会ったことがあるんじゃないですか?」
そのときの松浦は、自分の知りたいことを知るチャンスを掴もうと必死になっていた。目の前の男と貝瀬との関連性なんて、微塵も知らなかったし考えもしなかった。
だから――スイッチを押してしまった。決して口にしてはならない呪文を、口にしてしまった。片岡碧梧という男の心の、一番弱い部分を乱暴に砕くことになる――そんな言葉を。
「あいつと……貝瀬、理恵と!」
見開かれた目の中のほんの少しの輝きが、蝋燭の火が消えるときのように儚げに揺らいで消えた。松浦は確かにそれを見た。見てしまった。自分は言ってはいけないことを言ったと、そう理解した。何の理由も事情も知らない松浦でも、それだけはわかった。それほどに劇的な変化だった。
「あの子が……『理恵』?」
松浦は何も答えられずにいた。目の前にいる男が、今にも舌を噛んで死んでしまうのではないか――そんな不安に駆られる。何か言わなくては。何か。
しかし言葉は口に出す前に消え、代わりに瞳から光を失った男がこう言った。
「教えてくれないか……君の知っている『貝瀬理恵』のことを」
+++
『そこに立っているのは誰?』
普段の彼女とはかけ離れた、幼い声の問いかけだった。
松浦は木の陰に隠れたまま、返事をしなかった。
嫌われたくなかった。彼女が泣いているところを、自分が隠れて見ていたと思われたくなかった。だが彼女を放って走り去ることもできず、松浦はただその場に立ちつくして、そのまま黙っていることしかできなかった。
『あなたが誰かは知らないけれど』
彼女は現実離れした、甘い声で続ける。おとぎ話のお姫様のように。
『わたしは、わたしが誰だか知ってる』
彼女は何を言おうとしているのだろう。そのときの松浦には、その言葉は理解できなかった。すべてを知った今でも――全部理解しているとは言い難い。
『わたしは、自分の存在の意味を知っている』
歌うように、暗い声を響かせる。
『わたしは、わたしが傷つけたあの人のことを全部知ってる』
松浦はぎくりとした。自分のことかと思ったのだ。でもそれは違う。松浦は一人で勝手に空回って、一人で勝手に傷ついただけ。しかもかすり傷のようなものだ。彼女の口にする『傷』とは、重みが違いすぎる。
『ねえ、わたしはどうしたら許してもらえる?』
彼女の意識は複雑に分離していて。
『どうしたらあの人を傷つけたわたしを、許せるの?』
彼女の罪悪感も、幾重にも折り重なって、まるでトランプの兵隊のように散らばって個を失っていく。母体としての感情や理由をなくし、ただ罪悪感を生み出しつづけるだけの罪悪感になっていく。不幸のスパイラル。彼女をそんな地獄から救いだすためには、きっとその中に飛び込んで、一緒に螺旋を描きながら落ちていくしかない。螺旋の収束していく先に何があるのか、そんなことはわからない。
ただ、松浦はそのとき、そんな彼女の姿を見てしまった。気持ちを聞いてしまった。
もう、選択肢は一つしかなかった。
『ぼくが許すよ』
上ずった声で、彼は言った。『松浦』だと悟られないように、少しだけ声のトーンを変えたつもりだった。彼女がそれに気づいたのかどうかはわからない。許す。どんなことがあったって、この女のそばにいてやれるのは。きっと自分だけなのだ。そんな自負心を、彼は大切に抱えて生きてきた。
『ありがとう』
聞こえてきた感謝の言葉は、彼の願望から生まれた空耳だったかもしれない。
そのあと、何が起きたのかは覚えていない。次の日に部室であった彼女はいつもの彼女で、前日の出来事なんて忘れてしまったように明るかった。たぶん、あの言葉の主が松浦だったことも、そもそもその言葉の存在すら、彼女は忘れてしまったんじゃないかと思った。
忘れてくれていた方がいい。
そんな些細なことですべてが壊れてしまうくらいなら、何も知らないままに日常が続いていく方が、ずっといい。
少なくとも彼はそう考えて、行動していた。
+++
学校で出会った貝瀬理恵という少女のすべてを話し終えて、松浦はほっと息をついた。
「……そうか」
片岡碧梧と名乗るストリートミュージシャンはため息をつく。どうやら彼は、『貝瀬』と『理恵』は別人だと信じていたらしい。碧梧と再会した時の『貝瀬』は、彼に最後まで自分の名を明かさなかった。妹に似ていると思いはしたものの、本人にかたくなに否定され、他人の空似だと思ったようだ。
「あの子は今、幸せなんだね」
ぽつりと、碧梧が言った。
「ええ。少なくともぼくの前では、あいつは幸せそうに、のびのびと生きてますよ」
あえて『あの日』のことは話さなかった。貝瀬が唯一、泣いていた日。歌を口ずさみながら、校舎の裏で泣いていた貝瀬に、松浦が木の陰から話しかけたあの日。
あの日の貝瀬は――幸せではなかっただろう。
「それなら、いいんだ。ぼくが歌う目的は、もうとっくになくなってた」
碧梧は薄く微笑んだ。先ほどの絶望した表情に比べたら、かなり顔色がよくなっている。だが、目は光を失ったままだ。
「ぼくは、あの子に見つけてもらいたくて歌ってた。でも、あの子はもうぼくを見つけてた。見つけても、名乗ってはくれなかった。あの子には、もう『ぼく』は必要なかった」
「……そんなこと、ないはずです」
松浦はぐっとこぶしを握って、力を込めた。
「あいつはいつだって強がってて、明るく見えたけど……ときどき、寂しそうだった。怯えてるときもあった。他の奴らは気づかなくても、ぼくは知ってます」
碧梧は黙って聞いている。
「だって、その日、貝瀬は自分からあなたに話しかけたんでしょう。必要ないと思うなら、そんなことはしないで放っておいたらいい。貝瀬は、あなたに会いたかったんですよ。話したかったんです」
「でも、もう二度と会ってはくれない」
碧梧の声は冷ややかだった。
「それが答えだ。そして、ぼくが二度と歌を歌わなくていい理由だ」
松浦は言葉に詰まった。
「ねえ、松浦君。ぼくはあの子を置き去りにした。母親の暴力から彼女を救いたかったから、母を連れて遠くへ行った。でも、たぶんその選択は間違いで。あの子はそれで、ぼくを憎んでるんだ」
碧梧の両目から、涙があふれる。
「ぼくがあの子のためにしたことは、ただの自己犠牲で、自己満足だった」
泣きながら、強引に口の端を吊り上げて。彼は自嘲するように笑った。
「それが答えなんだ」
ぼくは許してはもらえない――と碧梧は絞り出すような声で、言った。
それを聞いていた松浦は、今度は『自分が許す』とは言えなかった。言えるはずがない。松浦にそんな権利はない。
そしてもうひとつ、彼は自分の中に、新しい感情が芽吹くのを自覚した。
『貝瀬理恵のやったことを許してはならない』。
貝瀬は、碧梧を傷つけた。
彼の瞳から輝きを奪い、彼から歌を奪った。
他の誰が許しても、自分だけはそのことを許してはいけない。
松浦は初めて、思った。誓ったと言ってもいい。
美しいだけの恋心を追い求める時間は、いつのまにか終わりを迎えていた。
ここから先は、残像や幻像に惑わされている暇なんてない、現実の世界。
貝瀬理恵と真剣に向かい合って、松浦も自分の気持ちと戦わなければならない。
おとぎ話は終わり、夢は覚める。
目を覚ましたら――今度は終わりのない悪夢が、待っているに違いない。
090409
好き、とか恋、とかそんなものは後付けの理屈にすぎない。発端は、単純な庇護欲だった。そばにいなければ壊れてしまいそうな彼女の姿を知ったから。強く見えても、強がっているだけで本当は恐がりな彼女を、守るべきだと彼は思った。それは自分にしかできないことだと思っていた。
だがその日、彼の抱いていたゆるい恋心をたたき壊し、別の感情へと変化させる出来事は、唐突に空から降ってきた。
今にもかき消されそうなかぼそい声。しかし、芯にしっかりとした信念を持っているように思える、歌声。何かにすがるように歌う一人の男。
彼がその声を聞き、そのメロディが記憶の中にある、自分の知っている旋律だと認識した瞬間。たぶん、変化のきっかけはそのときに生まれた。
それを聞いたとき、松浦は耳を疑った。
昔、それも彼が彼女を好きになるきっかけが生まれたあの日に――彼女が歌っていた歌。
それとまったく同じ歌を、誰かが歌っている。空耳ではなく、確かに聞こえた。聞き間違うはずがない。
音を必死に追いかけながら、走った。どうか、自分が見つけるまでその歌を歌うのをやめないでくれと願いながら、駆けた。
そして、彼は見つけた。陸橋の上で歌うストリートミュージシャン。その男の顔は、彼女に似ていた。卑屈そうに伏せた瞳や、他人を信用していない、こわばった表情。そのひとつひとつが彼女を思わせる。松浦は後先考えず、その男のそばへと走って行った。
「あのっ」
目の前に松浦が立っていることに、その男はしばらくしてから気づいた。
「……何か、御用ですか?」
穏やかな声だった。貝瀬とは違う。でも、声の根底にあるものは同じであるような気がした。うわべだけの穏やかさ。中身はきっと、からっぽなのだ。理由もなくそう思う。
「その歌は、誰の、何という曲ですか」
松浦は迷わずそう尋ねたが、男はまばたきをするだけで、何も答えない。同じ問いをもう一度繰り返そうかと松浦は思ったが、そんな雰囲気を察したのか、男は投げやりな口調で答えた。
「ぼくのオリジナル。それが何か?」
「その歌は、いつ、作ったんですか」
「……いつだっていいだろう。なぜそんなことを聞くのかな」
触れられたくないことなのかもしれない。穏やかな口調の彼はわずかに声を荒立たせて応じた。
「貝瀬のことを、知ってますよね」
そんなやつのことは知らない、と言われたら素直に引き下がろう、と松浦は思っていた。
「かい……せ?」
彼は少し不思議そうに首をかしげ、何かを思い出すそぶりをした。数秒後、
「あ、ああ……あの子のことか」
と少し笑んだ。
「知ってるんですか」
松浦が再び問うと、男はきょとんとしながら、
「ああ。少し前に、一度だけ会ったことがある。でも、あの子はこの曲は知らないはずだよ。君の話は少々脈絡がないね」
「そんなはずないです。あいつはその曲を知ってます。本当に一度しか会っていないんですか? もっと前に会ったことがあるんじゃないですか?」
そのときの松浦は、自分の知りたいことを知るチャンスを掴もうと必死になっていた。目の前の男と貝瀬との関連性なんて、微塵も知らなかったし考えもしなかった。
だから――スイッチを押してしまった。決して口にしてはならない呪文を、口にしてしまった。片岡碧梧という男の心の、一番弱い部分を乱暴に砕くことになる――そんな言葉を。
「あいつと……貝瀬、理恵と!」
見開かれた目の中のほんの少しの輝きが、蝋燭の火が消えるときのように儚げに揺らいで消えた。松浦は確かにそれを見た。見てしまった。自分は言ってはいけないことを言ったと、そう理解した。何の理由も事情も知らない松浦でも、それだけはわかった。それほどに劇的な変化だった。
「あの子が……『理恵』?」
松浦は何も答えられずにいた。目の前にいる男が、今にも舌を噛んで死んでしまうのではないか――そんな不安に駆られる。何か言わなくては。何か。
しかし言葉は口に出す前に消え、代わりに瞳から光を失った男がこう言った。
「教えてくれないか……君の知っている『貝瀬理恵』のことを」
+++
『そこに立っているのは誰?』
普段の彼女とはかけ離れた、幼い声の問いかけだった。
松浦は木の陰に隠れたまま、返事をしなかった。
嫌われたくなかった。彼女が泣いているところを、自分が隠れて見ていたと思われたくなかった。だが彼女を放って走り去ることもできず、松浦はただその場に立ちつくして、そのまま黙っていることしかできなかった。
『あなたが誰かは知らないけれど』
彼女は現実離れした、甘い声で続ける。おとぎ話のお姫様のように。
『わたしは、わたしが誰だか知ってる』
彼女は何を言おうとしているのだろう。そのときの松浦には、その言葉は理解できなかった。すべてを知った今でも――全部理解しているとは言い難い。
『わたしは、自分の存在の意味を知っている』
歌うように、暗い声を響かせる。
『わたしは、わたしが傷つけたあの人のことを全部知ってる』
松浦はぎくりとした。自分のことかと思ったのだ。でもそれは違う。松浦は一人で勝手に空回って、一人で勝手に傷ついただけ。しかもかすり傷のようなものだ。彼女の口にする『傷』とは、重みが違いすぎる。
『ねえ、わたしはどうしたら許してもらえる?』
彼女の意識は複雑に分離していて。
『どうしたらあの人を傷つけたわたしを、許せるの?』
彼女の罪悪感も、幾重にも折り重なって、まるでトランプの兵隊のように散らばって個を失っていく。母体としての感情や理由をなくし、ただ罪悪感を生み出しつづけるだけの罪悪感になっていく。不幸のスパイラル。彼女をそんな地獄から救いだすためには、きっとその中に飛び込んで、一緒に螺旋を描きながら落ちていくしかない。螺旋の収束していく先に何があるのか、そんなことはわからない。
ただ、松浦はそのとき、そんな彼女の姿を見てしまった。気持ちを聞いてしまった。
もう、選択肢は一つしかなかった。
『ぼくが許すよ』
上ずった声で、彼は言った。『松浦』だと悟られないように、少しだけ声のトーンを変えたつもりだった。彼女がそれに気づいたのかどうかはわからない。許す。どんなことがあったって、この女のそばにいてやれるのは。きっと自分だけなのだ。そんな自負心を、彼は大切に抱えて生きてきた。
『ありがとう』
聞こえてきた感謝の言葉は、彼の願望から生まれた空耳だったかもしれない。
そのあと、何が起きたのかは覚えていない。次の日に部室であった彼女はいつもの彼女で、前日の出来事なんて忘れてしまったように明るかった。たぶん、あの言葉の主が松浦だったことも、そもそもその言葉の存在すら、彼女は忘れてしまったんじゃないかと思った。
忘れてくれていた方がいい。
そんな些細なことですべてが壊れてしまうくらいなら、何も知らないままに日常が続いていく方が、ずっといい。
少なくとも彼はそう考えて、行動していた。
+++
学校で出会った貝瀬理恵という少女のすべてを話し終えて、松浦はほっと息をついた。
「……そうか」
片岡碧梧と名乗るストリートミュージシャンはため息をつく。どうやら彼は、『貝瀬』と『理恵』は別人だと信じていたらしい。碧梧と再会した時の『貝瀬』は、彼に最後まで自分の名を明かさなかった。妹に似ていると思いはしたものの、本人にかたくなに否定され、他人の空似だと思ったようだ。
「あの子は今、幸せなんだね」
ぽつりと、碧梧が言った。
「ええ。少なくともぼくの前では、あいつは幸せそうに、のびのびと生きてますよ」
あえて『あの日』のことは話さなかった。貝瀬が唯一、泣いていた日。歌を口ずさみながら、校舎の裏で泣いていた貝瀬に、松浦が木の陰から話しかけたあの日。
あの日の貝瀬は――幸せではなかっただろう。
「それなら、いいんだ。ぼくが歌う目的は、もうとっくになくなってた」
碧梧は薄く微笑んだ。先ほどの絶望した表情に比べたら、かなり顔色がよくなっている。だが、目は光を失ったままだ。
「ぼくは、あの子に見つけてもらいたくて歌ってた。でも、あの子はもうぼくを見つけてた。見つけても、名乗ってはくれなかった。あの子には、もう『ぼく』は必要なかった」
「……そんなこと、ないはずです」
松浦はぐっとこぶしを握って、力を込めた。
「あいつはいつだって強がってて、明るく見えたけど……ときどき、寂しそうだった。怯えてるときもあった。他の奴らは気づかなくても、ぼくは知ってます」
碧梧は黙って聞いている。
「だって、その日、貝瀬は自分からあなたに話しかけたんでしょう。必要ないと思うなら、そんなことはしないで放っておいたらいい。貝瀬は、あなたに会いたかったんですよ。話したかったんです」
「でも、もう二度と会ってはくれない」
碧梧の声は冷ややかだった。
「それが答えだ。そして、ぼくが二度と歌を歌わなくていい理由だ」
松浦は言葉に詰まった。
「ねえ、松浦君。ぼくはあの子を置き去りにした。母親の暴力から彼女を救いたかったから、母を連れて遠くへ行った。でも、たぶんその選択は間違いで。あの子はそれで、ぼくを憎んでるんだ」
碧梧の両目から、涙があふれる。
「ぼくがあの子のためにしたことは、ただの自己犠牲で、自己満足だった」
泣きながら、強引に口の端を吊り上げて。彼は自嘲するように笑った。
「それが答えなんだ」
ぼくは許してはもらえない――と碧梧は絞り出すような声で、言った。
それを聞いていた松浦は、今度は『自分が許す』とは言えなかった。言えるはずがない。松浦にそんな権利はない。
そしてもうひとつ、彼は自分の中に、新しい感情が芽吹くのを自覚した。
『貝瀬理恵のやったことを許してはならない』。
貝瀬は、碧梧を傷つけた。
彼の瞳から輝きを奪い、彼から歌を奪った。
他の誰が許しても、自分だけはそのことを許してはいけない。
松浦は初めて、思った。誓ったと言ってもいい。
美しいだけの恋心を追い求める時間は、いつのまにか終わりを迎えていた。
ここから先は、残像や幻像に惑わされている暇なんてない、現実の世界。
貝瀬理恵と真剣に向かい合って、松浦も自分の気持ちと戦わなければならない。
おとぎ話は終わり、夢は覚める。
目を覚ましたら――今度は終わりのない悪夢が、待っているに違いない。
090409