in the spring of life
葉桜が好きだ。
ピンク色の花弁と葉の緑色が拮抗し、せめぎ合い、やがてすべてが緑色の葉に代わる。そんな逃れられない運命の悲痛さが好きだ。
いくら咲いてもいずれは散ってしまう。全部葉に代わってしまうのに……なぜ桜は咲くのだろう。地に着いた花びらは、美しいままではいられない。踏まれて汚されて、やがては消えてしまう。
それでも桜は咲くことをやめない。
わたしは、見上げる。薄い桃色の花が、吹雪のように降ってくる。そこに手をかざしながら、
「悲しいとは、思わないの?」
そう問いかけてみても、返事はない。当たり前だった。相手は植物だ。意思なんて持っていないし、持っても不幸しか生まれないだろう。
「……何が、ですか? 貝瀬さん」
背後から聞こえた声は、聞き慣れた声だった。振り向くと、見慣れた顔が視界に入る。
「まつう……ら?」
顔は見慣れたものだったが……なんだか不自然だった。
「なんっかおかしいわ……何だろう……」
首をかしげて数秒思案して、わたしは気づく。
「か、髪の毛が……あるっ!?」
ふっさふさの髪が、生えていた。松浦の頭に。しかもちょっとおしゃれな髪型だ。由々しき事態だった。彼はなぜかずっとスキンヘッドで、絶対に髪の毛を伸ばそうとはしない。
松浦はしかめっつらで黙り込んだままで、何も言わない。
「ヅラなんかかぶってもモテないって、あんたなら知ってると思ったのにっ!」
と言いつつわたしは彼の髪の毛を迷わず引っ張った。全力で。信じられないことに、どうやっても取れない。不思議すぎるヅラだった。
「なんで! なんで!? だって、この間会ったときは何もなかったでしょ。どんだけ髪の毛生えるの早いの。どんだけエロいのよあんたは!! この性欲魔人!!」
「その罵倒語は、ちょっとひどいと思います。思考がエロいと髪の毛が伸びるのが早いというのは俗説であって、おそらく事実無根です」
その人の言葉をここまで聞いて、ようやく目の前の男が松浦ではない可能性に思い至った。
「あんた……誰?」
髪の毛がある、という点以外はわたしの知る松浦にそっくりな彼は、柔らかに笑みながらこう自己紹介した。
「ぼくの名前は松浦さざめ。あなたの知る松浦の、不肖の弟と言うところです」
「なんで……敬語なの」
わたしが最初に発した問いはこうだった。
「目上の人には敬語で話すのがぼくのポリシーです。特に意味はありません」
「キミ、何年生?」
「高校三年生です」
「さざめ、ってどういう字?」
「全部ひらがなでさざめ、です」
涼しげな顔で、よどみなく答える。よくよく考えると、顔以外はあまり似ていない。松浦はこんなに堂々としてはいないし、すらすらと受け答えをできる男でもない。
「お兄さんと、似てないわね」
「先ほど兄とぼくを取り違えた人間のセリフとは思えないですね、それ」
あくまでさわやかにほほ笑んでいるが、少し怒っているように聞こえた。
「あの、髪の毛引っ張ったりしてごめんなさい」
とりあえず謝りつつ、
「痛かった?」
とおそるおそる聞いてみた。
「すごく痛かったですよ、それはもう」
冗談めかして、彼は言った。
「本当にごめんなさい……」
さらに頭を下げて謝る。
くすくす、と笑う声がした。わたしが顔を上げると、
「ああ、失礼。兄から聞いていたのと感じが違うな、と思っただけです」
口に手を添えて上品に笑いながら、さざめがそう言った。
「松浦はわたしのこと、なんて言ってるの」
わたしは思わずそう問いかけてしまった。
「少々暴力的だが、信頼できる素敵な仲間だと聞いています」
無難な答えが返ってきた。無難すぎて逆に怪しい。
「それ、本当?」
「さあ。御想像にお任せします」
この子は大人びすぎているな、とわたしは思う。松浦さざめ。この子は、おそらく誰にでもこういう応対ができる人間だ。一番ベストな答えを、即座に選んで口に出すことのできる、よくできた人間。兄の方は違う。考えても考えても答えを選べなくて、いつも黙っている。それがわたしの知る松浦だった。
「なんで、わたしに話しかけてきたの」
「散歩していたら、視界に入ったので。挨拶しておいた方がいいかと思ったんです」
「……そう」
無害な受け答え。どこまでが本気だかわからないな、と失礼なことを思う。
「あなたは――」
そのとき、わたしがすべての言葉を言い終わる前に、
「おい、松浦。その女は誰だ」
女性の声がした。桜の木の下に、黒いワンピースを着た女性が立っている。チェロの形のヘアピンがよく似合う。美人だが、どこか人間離れした感じだった。眠そうな視線をわたしに向け、
「おまえは誰だ」
ともう一度問いかけてくる。さざめはどこか焦った調子だ。
「今日は家から出ちゃダメって言ったじゃないですか!」
さざめは敬語で話しかけていた。この女性もおそらくは『目上の人』なのだろう。
「わたしだって外出したい。外でおまえが他の女性にうつつを抜かしているのではないかと心配で仕方なかったので来てみたら、案の定浮気モードの松浦さざめを発見した。これから駆逐する」
「さりげなく怖いことを言うのはやめてくださいよ! 浮気じゃありませんから!」
どうやらこの二人、仲のいいカップルのようだ。会話からして、同棲してるようだし……
「最近の高校生は、進んでるのね」
しみじみとつぶやいてみると、さざめはあわあわと狼狽しはじめた。彼の余裕たっぷりの態度が崩れるのは初めてだ。やはり年相応の高校生なんだな、と微笑ましくなる。
「ぼくとクラ……いや、この人はそういうんじゃないんです」
「じゃあ何だというんだ」
絶妙なタイミングで女性が突っ込みを入れ、
「だからあなたは黙ってください、ややこしくなるから!」
さざめは大仰な動作で応じる。やっぱり仲のいいカップルにしか見えない。
「幸せそうですね」
と言ってやると、さざめはまんざらでもなさそうに頬を掻いた。
が、女性は無表情なまま、わたしに話しかけてきた。
「おまえは、幸せじゃないのか?」
不意打ちだった。
「わたしは――」
とっさに答えを思いつかず、言葉に詰まる。
「悲しいとは思わないのかって、言ってましたよね」
女性に同調するように、さざめも真顔でそう指摘してくる。
「わたしは、ただ……」
桜が咲くことは悲しいことだと、思った。
すぐに風で散っていくのに咲くことは無意味で、だからこそ美しい。
そんな感傷を吐露することに意味はない。この二人に言ったところで、馬鹿にされて終わるだろう。
でも、わたしは本心を言った。おそらくは、感傷に流されたのだ。
わたしの言葉を受けた女性の髪が、風でなびいた。春の風が吹き抜ける。
「わたしが答えを教えてやろう」
彼女の声は、風に乗ってわたしのところへと届く。よく響く声だ。
「おまえが考えていることは、桜に失礼だよ。人間じゃなくても、みんな自分の意志を持って、自分の思うように生きてる。桜は咲きたいから咲いてるんだ。楽器が、自分から音を奏でたいと思うのと同じようにな」
妙に自信たっぷりなその言葉に、絶句する。どうしてそんなことが言えるのだろう。
まるで――自分自身が人間ではない何かであるかのような、言葉だった。
「そうですよ。ぼくもそう思います」
さざめも、同じように自信たっぷりに言う。
「そう……なのかな」
なんだか、そう言われると自分の考えていたことは失礼だったのかもしれない、という気がしてくる。不思議なものだ。
「話が終わったなら帰るぞ、松浦。最近練習サボってるだろ」
相変わらずの無表情で彼女が言う。言いながらすたすたと歩み去っていく後ろ姿はとても凛々しい。
「ちょっと、待ってくださいよクラブさん!」
と話しかけながら、さざめが駆けて行こうとする。
「すいません、ぼくはこれで失礼します!」
松浦さざめは、ちょこんとお辞儀をして、手を振った。
「ばいばい、さざめ君!」
わたしも手を振り返しながら思う。桜が咲く理由について。
桜は、咲きたいから咲く。
そして、春だから、咲くのだ。
たとえば誰かが強く思う気持ちが他の誰かに届いて、新しい気持ちが芽吹いていくように。その気持ちが他の誰かの心を動かして、やがてもっと大きな何かを動かすように。太陽の光、水や空気。いろんなものに干渉されて咲く桜は、わたしが思っていたよりもずっと恵まれていて、幸せ者だ。みんなに想われている。一人ぼっちじゃない。
ところで、『クラブさん』というのは何の暗号だったのだろう。人の名前にしては妙な響きだ。由来は不明だが、風変りなニックネームと言ったところかな、とわたしは思った。桜の花びらは、変わらず散りつづけている。さっきは雪のようだったが、今は太陽の光のように思えた。
さんさんと、春の陽気の中を生きつづける光を、わたしは見ていた。
090410
ピンク色の花弁と葉の緑色が拮抗し、せめぎ合い、やがてすべてが緑色の葉に代わる。そんな逃れられない運命の悲痛さが好きだ。
いくら咲いてもいずれは散ってしまう。全部葉に代わってしまうのに……なぜ桜は咲くのだろう。地に着いた花びらは、美しいままではいられない。踏まれて汚されて、やがては消えてしまう。
それでも桜は咲くことをやめない。
わたしは、見上げる。薄い桃色の花が、吹雪のように降ってくる。そこに手をかざしながら、
「悲しいとは、思わないの?」
そう問いかけてみても、返事はない。当たり前だった。相手は植物だ。意思なんて持っていないし、持っても不幸しか生まれないだろう。
「……何が、ですか? 貝瀬さん」
背後から聞こえた声は、聞き慣れた声だった。振り向くと、見慣れた顔が視界に入る。
「まつう……ら?」
顔は見慣れたものだったが……なんだか不自然だった。
「なんっかおかしいわ……何だろう……」
首をかしげて数秒思案して、わたしは気づく。
「か、髪の毛が……あるっ!?」
ふっさふさの髪が、生えていた。松浦の頭に。しかもちょっとおしゃれな髪型だ。由々しき事態だった。彼はなぜかずっとスキンヘッドで、絶対に髪の毛を伸ばそうとはしない。
松浦はしかめっつらで黙り込んだままで、何も言わない。
「ヅラなんかかぶってもモテないって、あんたなら知ってると思ったのにっ!」
と言いつつわたしは彼の髪の毛を迷わず引っ張った。全力で。信じられないことに、どうやっても取れない。不思議すぎるヅラだった。
「なんで! なんで!? だって、この間会ったときは何もなかったでしょ。どんだけ髪の毛生えるの早いの。どんだけエロいのよあんたは!! この性欲魔人!!」
「その罵倒語は、ちょっとひどいと思います。思考がエロいと髪の毛が伸びるのが早いというのは俗説であって、おそらく事実無根です」
その人の言葉をここまで聞いて、ようやく目の前の男が松浦ではない可能性に思い至った。
「あんた……誰?」
髪の毛がある、という点以外はわたしの知る松浦にそっくりな彼は、柔らかに笑みながらこう自己紹介した。
「ぼくの名前は松浦さざめ。あなたの知る松浦の、不肖の弟と言うところです」
「なんで……敬語なの」
わたしが最初に発した問いはこうだった。
「目上の人には敬語で話すのがぼくのポリシーです。特に意味はありません」
「キミ、何年生?」
「高校三年生です」
「さざめ、ってどういう字?」
「全部ひらがなでさざめ、です」
涼しげな顔で、よどみなく答える。よくよく考えると、顔以外はあまり似ていない。松浦はこんなに堂々としてはいないし、すらすらと受け答えをできる男でもない。
「お兄さんと、似てないわね」
「先ほど兄とぼくを取り違えた人間のセリフとは思えないですね、それ」
あくまでさわやかにほほ笑んでいるが、少し怒っているように聞こえた。
「あの、髪の毛引っ張ったりしてごめんなさい」
とりあえず謝りつつ、
「痛かった?」
とおそるおそる聞いてみた。
「すごく痛かったですよ、それはもう」
冗談めかして、彼は言った。
「本当にごめんなさい……」
さらに頭を下げて謝る。
くすくす、と笑う声がした。わたしが顔を上げると、
「ああ、失礼。兄から聞いていたのと感じが違うな、と思っただけです」
口に手を添えて上品に笑いながら、さざめがそう言った。
「松浦はわたしのこと、なんて言ってるの」
わたしは思わずそう問いかけてしまった。
「少々暴力的だが、信頼できる素敵な仲間だと聞いています」
無難な答えが返ってきた。無難すぎて逆に怪しい。
「それ、本当?」
「さあ。御想像にお任せします」
この子は大人びすぎているな、とわたしは思う。松浦さざめ。この子は、おそらく誰にでもこういう応対ができる人間だ。一番ベストな答えを、即座に選んで口に出すことのできる、よくできた人間。兄の方は違う。考えても考えても答えを選べなくて、いつも黙っている。それがわたしの知る松浦だった。
「なんで、わたしに話しかけてきたの」
「散歩していたら、視界に入ったので。挨拶しておいた方がいいかと思ったんです」
「……そう」
無害な受け答え。どこまでが本気だかわからないな、と失礼なことを思う。
「あなたは――」
そのとき、わたしがすべての言葉を言い終わる前に、
「おい、松浦。その女は誰だ」
女性の声がした。桜の木の下に、黒いワンピースを着た女性が立っている。チェロの形のヘアピンがよく似合う。美人だが、どこか人間離れした感じだった。眠そうな視線をわたしに向け、
「おまえは誰だ」
ともう一度問いかけてくる。さざめはどこか焦った調子だ。
「今日は家から出ちゃダメって言ったじゃないですか!」
さざめは敬語で話しかけていた。この女性もおそらくは『目上の人』なのだろう。
「わたしだって外出したい。外でおまえが他の女性にうつつを抜かしているのではないかと心配で仕方なかったので来てみたら、案の定浮気モードの松浦さざめを発見した。これから駆逐する」
「さりげなく怖いことを言うのはやめてくださいよ! 浮気じゃありませんから!」
どうやらこの二人、仲のいいカップルのようだ。会話からして、同棲してるようだし……
「最近の高校生は、進んでるのね」
しみじみとつぶやいてみると、さざめはあわあわと狼狽しはじめた。彼の余裕たっぷりの態度が崩れるのは初めてだ。やはり年相応の高校生なんだな、と微笑ましくなる。
「ぼくとクラ……いや、この人はそういうんじゃないんです」
「じゃあ何だというんだ」
絶妙なタイミングで女性が突っ込みを入れ、
「だからあなたは黙ってください、ややこしくなるから!」
さざめは大仰な動作で応じる。やっぱり仲のいいカップルにしか見えない。
「幸せそうですね」
と言ってやると、さざめはまんざらでもなさそうに頬を掻いた。
が、女性は無表情なまま、わたしに話しかけてきた。
「おまえは、幸せじゃないのか?」
不意打ちだった。
「わたしは――」
とっさに答えを思いつかず、言葉に詰まる。
「悲しいとは思わないのかって、言ってましたよね」
女性に同調するように、さざめも真顔でそう指摘してくる。
「わたしは、ただ……」
桜が咲くことは悲しいことだと、思った。
すぐに風で散っていくのに咲くことは無意味で、だからこそ美しい。
そんな感傷を吐露することに意味はない。この二人に言ったところで、馬鹿にされて終わるだろう。
でも、わたしは本心を言った。おそらくは、感傷に流されたのだ。
わたしの言葉を受けた女性の髪が、風でなびいた。春の風が吹き抜ける。
「わたしが答えを教えてやろう」
彼女の声は、風に乗ってわたしのところへと届く。よく響く声だ。
「おまえが考えていることは、桜に失礼だよ。人間じゃなくても、みんな自分の意志を持って、自分の思うように生きてる。桜は咲きたいから咲いてるんだ。楽器が、自分から音を奏でたいと思うのと同じようにな」
妙に自信たっぷりなその言葉に、絶句する。どうしてそんなことが言えるのだろう。
まるで――自分自身が人間ではない何かであるかのような、言葉だった。
「そうですよ。ぼくもそう思います」
さざめも、同じように自信たっぷりに言う。
「そう……なのかな」
なんだか、そう言われると自分の考えていたことは失礼だったのかもしれない、という気がしてくる。不思議なものだ。
「話が終わったなら帰るぞ、松浦。最近練習サボってるだろ」
相変わらずの無表情で彼女が言う。言いながらすたすたと歩み去っていく後ろ姿はとても凛々しい。
「ちょっと、待ってくださいよクラブさん!」
と話しかけながら、さざめが駆けて行こうとする。
「すいません、ぼくはこれで失礼します!」
松浦さざめは、ちょこんとお辞儀をして、手を振った。
「ばいばい、さざめ君!」
わたしも手を振り返しながら思う。桜が咲く理由について。
桜は、咲きたいから咲く。
そして、春だから、咲くのだ。
たとえば誰かが強く思う気持ちが他の誰かに届いて、新しい気持ちが芽吹いていくように。その気持ちが他の誰かの心を動かして、やがてもっと大きな何かを動かすように。太陽の光、水や空気。いろんなものに干渉されて咲く桜は、わたしが思っていたよりもずっと恵まれていて、幸せ者だ。みんなに想われている。一人ぼっちじゃない。
ところで、『クラブさん』というのは何の暗号だったのだろう。人の名前にしては妙な響きだ。由来は不明だが、風変りなニックネームと言ったところかな、とわたしは思った。桜の花びらは、変わらず散りつづけている。さっきは雪のようだったが、今は太陽の光のように思えた。
さんさんと、春の陽気の中を生きつづける光を、わたしは見ていた。
090410