hocus‐pocus
 口にした瞬間、すべてを破壊する。そんな呪文がこの世界に存在することを、長い間ぼくは知らずにいた。
 「それ」を口に出してしまったら、おそらく全部が壊れてなかったことになる。最近、唐突に気づいた。それに気づいたとき、ぼくは戦慄した。「それ」はぼくが一番口に出したいと願っていた言葉だった。
 口にしてはならない気持ちを、自覚してしまった。抱いた気持ちは絶対に消えない。どんなに願っても、絶対に。
 いつまでも、この気持ちを抱えて生きていかなければならないとしたら――ぼくは不幸だ。この世界の誰よりも、不幸なのだ。
「……今の松浦は、きっと幸福だ」
ぼくがこの話を打ち明けた日、青木は寂しげに笑った。
「ぼくは全部壊してしまったよ。口に出してしまったんだ。パンドラの箱を開け、禁忌に触れた。触れたら壊れることを知っていたのに――触れずにはいられなかった」
青木もぼくと同じなのだと、そのときわかった。正確には、同じ「だった」のだ。彼も、ぼくと同じあの言葉を自覚してしまった。彼は呪文の誘惑に負けて、世界を壊すことを選び、不幸になった。
「松浦は、考えて、選ばないといけない」
かつて同じ分岐点に立たされたのであろう青木は、こう言った。
「現状を維持するか、口に出してしまうかを」
 その呪文を口に出し、すべてを破壊するか。
 それとも、何もしないでただ耐えるか。
 どちらを選んでも、たぶん幸せになんてなれない。このゲームには、バッドエンドしか存在していないのだと――ぼくはなぜか知ってしまっている。まるで、何度もプレイしたゲームのやり直しをしているみたいに、未来が見える。明確な破滅のビジョンが、見える。
「どちらが、いいと思う?」
ぼくは尋ねたが、彼にその答えを求めるのは間違っている。だって、青木はもう選んでしまった。選択肢を決めるのは自分自身でしかなく、誰かの助言なんて無意味だ。
 青木は何も答えなかった。当たり前だった。答えても無駄だからだ。
「ぼくは失敗してしまった。だけど、松浦ならもしかしたら、世界を切り開けるかもしれない。第三の選択肢を、選ぶことができるかもしれない。そんな風に思うのは――」
青木は、独り言のようにつぶやいた。
「君に、ぼくの代わりに成功してほしいって、そんな身勝手な願いを託しているからなんだろうね」

 世界を壊す呪文。
 それは、世界を切り開いて、再生させる呪文でもある。
 だがそんなのは理想論でしかなく、再生は起こり得ない。
 でも、人は口にせずにはいられないのだ。
 もしかしたら、破壊を創造へ変えて、すべてを丸く収めるハッピーエンドを手にすることができるかもしれない。甘い願いを、理想を、現実からかい離した幻想を――諦めることができないから。
 今、ぼくは青木に願いを託されてしまった。
 未来を、期待させてしまった。
 歯車は廻りはじめている。
 たぶん、ぼくは口にしてしまうだろう。
 そのとき、全部が終わって、ぼくは一人後悔するに違いない。
 彼女に出会ったことを、彼女に恋したことを、彼女にそれを伝えたことを。
 全部なかったことにしたいと切実に願うだろう。
 ぼくはこれから、ハッピーエンドの可能性を壊してしまう。
 唱えられた呪文は、ぼくと彼女の体に毒を与える。どこまでも残酷に追いかけてくる悪魔の毒を。精神を闇へと追いやる毒を。
 ああ、どうして恋なんてしてしまったんだろう。
 唱える言葉は、すべてを白紙へと返して。きっとこれまでの思い出も、なかったことになる。楽しかった時間が、悲しい時間へと変わる。それでも、人は恋をする。どうしてだろう。後悔しか生まない恋なんて、意味がないのに。
 変わらないものなんて、それこそCDにコピーされた音楽くらいしかなくて、それすらもディスクが劣化したら失われてしまう。いずれ全部、意味のないものになる。そこまで考えて、恋することは歌うことに似ている、と気づいた。ぼくらの紡いだ音楽に、意味なんてなくて。それと同じに、恋にも意味なんてありはしない。音楽がただの音楽であるように、恋はただの恋でしかない。薔薇は薔薇であり薔薇である、なんて陳腐なことを言うつもりはないが――きっとそういうものなのだ。
 呪文を口にするそのときまで、ぼくはひたすら恋しつづけるだろう。呪文を唱えた瞬間に起こる魔法は、せめて誰かを幸せにできるようなものであればいいと、ぼくは願っている。そして願わくはその「誰か」が、自分ではなく他の人間、できれば「彼女」でありますように、と。

090507