おいしくできました
――パシャリ、と景気のいい音がした。口に運びかけていたレンゲに乗ったチャーハンを一旦おろす。
「……何やってるんだ、カイセ」
ぼくの隣で素うどんを食べていたはずの貝瀬理恵は、携帯を片手に平然と返答。
「ん? 盗撮だけど?」
「あっさり言うことか、それ!?」
と言いつつ、人があふれる食堂で彼女が何を盗撮しているのかをそっと確認してみる。携帯電話のカメラの先にあったのは、あろうことかちょっとこぶとりの黒髪の男。ブサイクというわけではないが、盗撮する必要があるほどのイケメンとも思えない。しかも後ろ姿だ。
「あ、ああいうのが好み……なのか?」
急に息苦しくなってくる。ぼくは自分をイケメンだなんて思ったことは一度もないが……同じサークルには顔だけならかなりの美男子(イケメン、というよりも美男子、という言葉が似合う変な男だ)である青木がいるというのに、なんであんなのを盗撮する必要がある……?
理解できない。もともと理解に苦しむ女ではあるが、よもやここまでとは。
「何を言ってるの? わたしが撮ってるのはあっちよ、あっち」
彼女が指差す先にあるのは――黒髪こぶとり男のリュックサック。
「ほら、あいつがつけてる缶バッチ……この間、コミケで瞬殺で売り切れた限定版なの」
なんだ、そんなことか。ぼくはひそかに安堵する。よくよく見てみれば、ぼくも知っている大手サークルの数量限定品だ。
「確かにレアだけど、その写真には持ち主まで写ってるぞ。肖像権の侵害になるからやめた方がいい」
「つまんないこと言わないでよー。とりあえず、実物が見れただけでもめっけもんじゃない。あれ、サンプル画像すら非公開だったし……」
あくまで写真を消すつもりはない、と言いたそうな様子。だが、好きな女の携帯に自分以外の男(しかも知らない奴)の写真が残っているのはちょっと心が落ち着かない。
「ダメだ」
強硬だが、主張を貫き通してみた。
「……じゃあ、これならいいんでしょ」
ピピッ……ピッ。貝瀬は何やら携帯を操作した。てっきり画像を消したのだと思ったのだが、彼女が差し出した携帯に映っていたのはなんだかよくわからない物体だった。
「…………なんだ、これ」
黒くて丸くて……モザイクがかかっている。ドキッとした。もしかして、18歳未満は見てはいけないものか。こんな公衆の面前で、女の子にエロ画像(もしかしたらグロ画像かもしれない)を見せられるなんて、どんな高度なプレイなんだ。
さすがのぼくでもついていけないぜ……?
一瞬どぎまぎしてしまったが、よく見ると黒くて丸い物体には服を着た体がついている。隣に写っているのは缶バッチのついたリュックサック。
なんということはない、黒髪の男の頭にモザイクをかけただけだった。
「って、他人様の頭を勝手に卑猥なものっぽい感じにしてんじゃねえよ!!」
動揺しすぎて、危うくスルーするところだった。
「なんということはない」じゃねえよ、ぼく。
正直、人間の頭にモザイクをかけただけであんな風になるとは思っていませんでした。
普通、顔の部分にだけかけるもんだよなあ……
「うるっさいなあ。消せばいいんでしょ消せば」
貝瀬は今度こそ本当に、画像を消去した。
「まったく……」
そんなやり取りをしていると、今日の定食を盆に載せた青木と岡崎が登場した。
「やあ、二人は仲がいいね」
「本当に、お似合いですねー」
青木は本気で言っているようだが、岡崎の方はぼくへの気遣いMAXな口調だった。この女のこういうところが苦手なのだ。ていうか、この流れだと……
「いやあ、松浦とお似合いとか死んでもあり得ないしっ!」
やっぱり、こう来た……。
貝瀬、はじける笑顔で、ぼくの秘められた恋心を全否定。
こうやって、間接的にぼくにじわじわとダメージを与えるのが目的なんじゃないだろうな、岡崎早苗。いまいち本心が掴めないギャル系少女は、愛想よく笑いながらトンカツをつついている。
「貝瀬先輩って、小食ですよね。今日も素うどんですか?」
そういえば、こいつっていつもかけそばとかけうどんしか頼んでないな……。食堂で食事をとることはそんなにないので、特に気にかけたことがなかった。
「お金ないんだよね。ははは」
何事もないかのように軽快に笑う貝瀬。よくよく見てみると、腕はトリガラみたいに細いし、腹は出ているというよりも凹んでいる、みたいな状態。胸にはあえて言及しない。巨乳でないのは確かだ。
「貝瀬って……痩せすぎじゃないか」
「松浦君、セクハラですか? あんたの尽きることのない性欲には完敗だわ」
すかさず貝瀬の毒舌が飛ぶ。しかしぼくは混乱していて、うまく受け止められない。
「いや、なんていうか、その」
モデル体型――なんてもんじゃない。それはむしろ隣に座る岡崎にこそ似合う言葉だ。
貝瀬の体には、筋肉もぜい肉もほぼついていないのだ。
ぼくは、どうして今まで気にかけなかったのか。
「なあ貝瀬、朝ごはんは何を食べた?」
「かたくりこー」
ぼくの問いかけには、ふざけたような答えが返ってくる。
「……昼は」
「見ての通り、素うどん一杯」
「昨日の夜は?」
「かたくりこー」
呆然と、問い返さざるを得ない。
「『かたくりこー』ってなんだ。新手のギャグか?」
彼女はハッ、と馬鹿にしたように鼻を鳴らす。
「文字通り片栗粉よ。正確には片栗粉に砂糖とお湯を加えて、よく混ぜた格安スイーツ」
「おまえはなんでそんなものを主食にしているんだ……」
ぱっと聞いた感じだとちょっとおいしそうな気もするのだが、それはあくまで気がするだけだ。格安スイーツ、なんてもっともらしい言葉で誤魔化されてなるものか。そんなものを主食にできるはずがない。
「……ダメだ」
ぼくは勇気を振り絞る。
「そんな食生活、絶対認めねえ!」
立ち上がって、叫ぶ。宣言する。
「ぼくが! おまえの食生活を! 叩きなおす!!」
「……はあ?」
かたくりこを全否定されてしまった貝瀬は、一瞬あっけにとられたが、すぐに鋭い目で睨んでくる。
「松浦のくせに何言っちゃってるの。キモい」
「キモいって……」
ストレートすぎて凹む罵倒語だった。もうちょっとオブラート追加、お願いします。
「まあまあ、二人とも落ち着いて」
「そうですよ。目立ってますよ、先輩方」
青木と岡崎がなだめてくるが、ぼくは止まらない。
ここで止まったら、ただキモいだけの男じゃないか。それは嫌だ。
「……今日の放課後、全員貝瀬の家に集合っ!!」
「は?ちょっと、待っ……」
ぼくはもう、勢いのままに叫ぶ。叫びまくる。
「絶対に貝瀬にまともなもんを食わせるっ!!」
+++
数時間後。貝瀬理恵を除く音楽研究サークルメンバー、青木、岡崎、そしてぼくは最寄りのスーパーに集合していた。
「……どうしてあんなこと言ったんだ、松浦」
青木はあきれ果てた口調で言った。珍しく、乗り気じゃないようだ。
「女の子の食と、ぼくらの食は違うんだよ。松浦が簡単に干渉できる問題とは思えない」
松浦が考えるような単純なことじゃない、もっとデリケートなプロブレムなんだよ、と彼は無駄にカタカナ語を使って表現した。
「だって、貝瀬があまりにも……」
片栗粉とそばしか食べない一日なんて、異常だ。少なくともぼくの常識ではありえない。
「わたし、松浦先輩は正しいと思います」
会話に口を挟んできたのは岡崎だ。
「貝瀬先輩がどうして食べないのかはわからないですけど、あんな生活で体を壊さないわけがないです。わたしもダイエットしてたことありますけど、貝瀬先輩ほど無茶はしてません」
「……そうだよな」
そう、痩せているとか、胸がないとか、そんなのは関係なくて。ただぼくは貝瀬が心配だったのだ。貝瀬が倒れたり、最悪の場合は栄養失調で死んだり、そんなことになったらぼくは――
「そうだ。ぼくは貝瀬に健康でいてほしい。それだけなんだ」
「仕方ない、協力する。ぼくの方が松浦より料理できるしね」
ぼくが無駄に力みながら言った言葉に、青木はいつもの正体不明っぽい不敵な笑みを返した。
「じゃあ、材料の買い出し、始めましょうか」
「おう」
野菜売り場、肉売り場、魚売り場、乳製品売り場――順繰りに売り場を回り、ぼくらは買い物カートに材料を入れていった。
「スイーツは必須です」と力説しながらプリンを大量に買っていた岡崎早苗はちょっと別人のようで怖かったが、それはともかく……うるさい貝瀬のいない状態でのぼくらの買い物は、平和に終了した。
+++
貝瀬の家に行くのは初めてだった。
この事実がどういう意味を持つのか、ぼくはもうちょっと考えるべきだったのだ。と、後々になってから思うことになるわけである。好きな女の子の居住空間に立ち入るなんて、ものすごい一大イベントだったのに。どうしてそのときのぼくはそれに気づかなかったのだろうか。どれだけ余裕をなくしていたというのだろうか。
まあ、しかし、どれだけ嘆いても事実は変わらないし、変わったとしても悪い方向にしか変わらなかっただろうから、きっとあれでよかったのだろう。そう思いたい。
貝瀬の家は狭くも広くもないワンルームマンションだった。予想通り漫画とゲーム、アニメや特撮のDVDだらけのオタク空間だった。ぼくらが買い物をしているうちに、見られたら不味そうなものは片付けたようで、そんなにひどく散らかっている様子ではなかった。女性の空間に特有のフローラルな香り(という曖昧かつぎこちない表現が、ぼくの女性経験の浅さを象徴しているような気がする)が漂っていた。
「栄養摂るなんて考えるだけでめんどくさい」
と、貝瀬はまず愚痴った。
「野菜とか大っ嫌いだもの、わたし。ピーマンもトマトもキュウリも食べれない。食べれる野菜なんてほぼないわ」
ふふふ、とぼくは不敵に笑ってみせた。
「そんな貝瀬のために、今日はこれを買ってきた」
スーパーの袋の中から取りだしたのは、大きめのパックに入った野菜ジュース。トマトを中心に、野菜と果物が混ざった赤いやつだ。
「これでビタミンはばっちりだ。そりゃ本当は野菜食べた方がいいけど……背に腹は代えられない」
貝瀬は嫌そうな顔をした。
「そんなまずいもの、わたし飲めないよ。昔、トマトジュース飲んで吐きそうになったことがあるわ」
「飲めなんて言ってない。ただ、少し台所を貸してくれればいい」
「…………わかった、あんたを信じてみるわ」
ぷい、とそっぽをむく貝瀬。「まずくても、あんたが全部飲んでくれればいいし」
台所でぼくら三人がドタバタ騒いでいる間、貝瀬は居間のクッションに身をうずめてぼくらを観察しているようだった。ぼくは何回か彼女の方を見たが、眉間にしわを寄せて怒っているようだったので、そっとしておくことにした。
ミネストローネとプリン。そしてパスタ。ミネストローネは野菜ジュースをベースに、切った野菜を多めに入れ、さらにウインナーを入れたもの。パスタはナポリタンで、こちらもささやかながらも野菜入りである。レシピを考案したのはぼくだった。考案した、といっても自分で考えたわけではない。必死にグーグル検索を重ねた結果、栄養価が高くて簡単そうで、なおかつ貝瀬に馬鹿にされなさそうなものを厳選したのである。この行程にはけっこうな苦労がにじみ出ていると思うのだが、貝瀬にはそんなに評価されなかった。なぜなら、実際に調理していたのはほぼ青木と岡崎だったからだ。
こういうとき、普段から料理をしているかどうかというスキルが試される。経験値がゼロのぼくはお呼びじゃなかった。青木は一人暮らし、岡崎は実家暮らしだが料理が趣味なのだそうだ。軽い感じでパスタをゆでたり野菜を切ったりしている二人を見て、今度少し料理の勉強をしておこうとぼくは誓ったのだった。貝瀬が見ているのにもかかわらず、一人だけ何もできない状況にはちょっと耐えがたいものがあった。客観的に見てちょっとかっこわるいぞ、ぼく。
それはさておき、完成した料理を居間に運ぶと、料理の香りが部屋を満たしていった。カイセは相変わらず怒っているようで、眉間にしわを寄せたまま「松浦が考えた料理なんて、どうせたいしたことないんでしょう」とかぶつぶつ言っている。ぼくはテーブルの上の雑多なものを一度どけて、四人分の皿を並べる。スープとパスタをぎこちない手つきで盛りつけ、ぼくはこう言った。
「絶対おいしいから」
味見をしたからでも自信があったからでもなく。
ただ、貝瀬がこれからもちゃんとしたものを食べてくれるように。
この一口が、彼女の食生活を変える、きっかけになるように。
そう祈りながらの言葉だった。
大げさかもしれない。でも、ぼくはこのとき、このことしか考えられないくらいにがむしゃらで真剣だった。
そして、ミネストローネを口に含んだ彼女が、澄んだ水みたいに素直に幸せそうな顔になった。眉間のしわが消え、ちょっと驚いたように絶句しつつ、もう一度スプーンを口に運ぶ。その瞬間、ぼくはちょっとだけ、嬉しくなった。
「……これ、本当に野菜ジュースなの? すっごくおいしい」
貝瀬がそんな風にまっすぐに、肯定的な意見を言うのは珍しいことだった。彼女は夢中になってスープとパスタを食べはじめ、ぼくら三人も食事を開始した。パスタもミネストローネも、台所にまだ残りがあったのだが、すぐになくなった。
「おいしくできて、よかったですね」
パスタを食べ終わった岡崎さんはにこにこしながらプリンをつついている。青木も黙って頷く。
「どうよ、カイセ。これでまともなもの食べる気になっただろ」
ぼくは誇らしげにそう言った。貝瀬に殴られることを覚悟で偉そうなことを言ったわけだが、彼女のゲンコツが飛んでくることはなかった。
「確かに、かたくりこスイーツよりはおいしいものがあるってわかったわ」
貝瀬理恵はそんなことを言い、プリンをスプーンですくいながら笑顔になった。
「ありがと、松浦」
お礼を言われるのは初めてだった。何と返したらいいのかわからなくて、ぼくは一瞬錯乱状態になり、思考回路がストップしかけた。
「ど、どういたしまして?」
小声でそう返すと、笑顔の貝瀬がぼくを見ていた。彼女が僕のことをまともに見てくれる、ただそれだけでぼくはどうしてここまで幸せな気分になれるのだろう。プリンの甘味を口の中で噛みしめつつ、ぼくは貝瀬宅を後にするまで、ずっとずっとドキドキしていた。そのドキドキは帰宅して布団に入っても消えることがなく、その日は全然眠れなかったのだが――次の日に部室で会った貝瀬はもう普段通りの横暴さだったので、いつのまにかドキドキもどこかへ消えていた。一日限りのイベントだったのだな、としみじみ思った。また貝瀬の家に行くことがあったら、今度はもっとドキドキすることになるのかもしれないが……それはまた、別の話だ。
090728
松浦は思い込んだらひたすら暴走する子だと思います
片栗粉スイーツは実在のレシピです。あったかい葛みたいなかんじ。