同病相憐れむ

 「逆カプ滅するべし」が貝瀬理恵の今年の座右の銘らしい。誤解を招かないよう言っておくと、この場合の「滅する」というのはあくまで願望であり、実際に行うわけではない。オタクが「滅するべし」なんて言い出すときは大概ただのなげやりな願望だ。本気にすると馬鹿を見るので注意が必要である。
 ぼくには「逆カプ」なるものがそこまで憎まれる理由がわからない(というかそもそも、それが何なのかよくわからない)のだが、彼女にとってはかなりの大問題であるようだ。

「リバならまだぎりぎり許せるわ。でも逆はどう考えたって頭がおかしいとしか思えない。同じ原作読んでるのに逆になんかなるはずないじゃない。だからといって原作読んでないのか、っていうとそうじゃないのよね。頭の構造が違うのよ、要するに」
と彼女は苦々しげに語る。専門用語に関する解説をぼくが差し挟むのはやめておこう。というか、ぼくには彼女たちの用語の解説はできない。いまだに意味がよくわからないからだ。
 リバって何だ。逆って何だ。そしてリバが許容できて逆は許容できない理由はどこにあるんだ。
 この「よくわからなさ」を伝えるために、ぼくはいっさいの説明を省略したまま、ありのままの貝瀬の証言をここに残しておこう。残しておいても、誰かが読むわけでもないのだが。

「逆は世界でいちばん理解できない人種と言っても過言ではない。言語が通じない人との方がまだわかりあえる余地がある。なのにイベントの開催側は……奴らをよりにもよって隣のスペースに配置したりするわけ。理解できないどころじゃない、もうヤバい。宇宙ヤバい。逆なんて違う建物に隔離してしまってほしいっていうのが本音なんだけど、それを許しちゃうと、逆の方がサークル数多いからわたしのカプの方が隔離されちゃいそうなのよね。そこがネック。多数派が勝つのは世の中の常。ほんと納得いかない」
と、長い話は適当なオチがついて終わった。つまり貝瀬のスペースの隣にいた人間から見れば貝瀬こそが異端者だったわけで、腐女子というものは常にそういう争いの中にいるのだろう。ご苦労なことである。

 そして今日も彼女は、争いの中に自ら飛び込んでいこうとしていた。
 季節は夏、場所はイベント会場、まるで火のように暑苦しい人ゴミの群れの中、ぼくと貝瀬と青木は行列に並んでいる。
 まさに飛んで火に入る夏の虫――である。虫の正体は全国からこの日のために集まってきたオタクたちだ。一人一人は人間なので、虫扱いは不当だと言えるだろうが、人がひしめき合い押し合いへしあい行列を作り、さらに20ページもないのに1000円近くするような同人誌に一斉に群がる光景を見ていると、「虫」と表現されても不自然ではないような気がしなくもなかったりする。やれやれだ。
 今回はサークル参加の抽選に落選したらしく、貝瀬も一般の行列に混じって並んでいる。サークル参加の場合はかなりスムーズに入場できるのに、一般の行列ときたら亀でも並んでいるのではないかと思うくらいに進行が遅い、と貝瀬は最初グチグチ言っていた。しかし青木とぼくが自分の買いたいジャンルの話をしはじめたとたん、生き生きと目を輝かせて話に割り込んできた。一応書いておくと、ぼくの趣味は基本的に男性向け、青木の趣味は完全に女性向け。貝瀬の趣味はその両方。彼女はいわゆる雑食である。
「ところで、わたしは今すごく驚いてるの」
と貝瀬は会話の途中、唐突にまじめな顔になった。
「松浦がリュックサックを背負ってこなかったことにね」
彼女が指摘したとおり、ぼくは今日、リュックサックを背負っていない。貝瀬はぼくと青木の方をちらちら見つつ、
「いかにもオタク的ファッションを極めていそうな松浦が普通の紙袋とショルダーバッグ。そして常にスタイリッシュ、リア充と見まがうばかりのイケメンの青木が、まさにオタクなかんじのどでかいリュックを背負ってるのよ。これをミスマッチと言わずして何て言ったらいいのかしら」
とため息をつく。どこまでも失礼な女だが、ぼくも青木もすっかり慣れているので腹が立つことはない。
「リュックを背負うと電車の中で邪魔だろ。ショルダーバックの方がましだと思ったんだ」
ぼくはそう説明した。実を言うと、貝瀬とお出かけなのに秋葉ルックでは格好がつかないだろう、と思って悩みぬいた結果のコーディネイトなのだが……そればかりは口に出せない。出したら何かが終わる気がする。
「ぼくは、宅配便に回す分のお金がなかったから。意地でも持って帰るには、やっぱりリュックが一番効率がよさそうだからね」
リュックを両手で抱きながら青木が言った。人ごみでリュックを背負うと周りに迷惑がかかるので、リュックを持ってくるとこんな風に抱いて歩かなくてはいけないのだ。けっこう面倒、というか気を使うはずなのだが、青木は平然とリュックを抱えている。
 ちなみに、イベント会場で購入した同人誌(オタク的に言うと「戦利品」ってやつである)を家に運ぶ方法は大きく分けて二つある。自分で持って帰るか、宅配便で送るか、である。どちらが多数派なのかはよくわからない。とりあえず今回の場合、ぼくと貝瀬は半分ほど宅配で送り、残りの半分を自分の鞄に入れて持って帰る。青木はすべて自力で家まで持って帰るようである。
 貝瀬が持ってきたのは鞄ではなく大きめのカートだ。おそらく、30冊ほどは本が入るはずである。このカートもリュックに負けず劣らず、会場においてはなかなか迷惑な一品だ。後ろを歩いている人間の足を容赦なく轢くからである。本が詰められたカートが足を直撃したときの破壊力は馬鹿に出来ないレベルなので、今日の貝瀬の背後を歩くのはできるだけやめた方が無難だと思われる。

 開場のアナウンスが流れて数十分後、ぼくらは戦場の入り口に降り立った。
 すぐに、三人ともばらばらな方向へ散っていく。各自の買い物を最優先するためには、ばらばらに巡回し、大手サークルの行列に並んで分担されたものをすばやく買う方法が一番てっとり早く、売り切れの悪夢に遭遇しにくい。ぼくは貝瀬とぼくの分の同人誌を買うため、入口から少し遠めのサークルの列に並んだ。そこまで大きなサークルではないので、すぐに買うことができた。貝瀬に頼まれた分はそれだけだった。ここからはぼく自身の買い物の時間だ。
 四つ目のサークルで本を買い終えたとき、ぼくはふと出店の方を見た。イベント会場にはサークルのスペース以外にも、軽食を売るスペースがある。ぼくが見つけたのはフランクフルトの出店だ。三人のうちで一番忙しく買い物をして回っている貝瀬は、きっと食べ物の店にまでは来る余裕がないだろう。なんとなく、買っておいてやろうと思った。そして同時に、もしかしたら青木は今頃貝瀬と一緒に買い物をしているかもしれない、という考えが浮かぶ。青木の買い物はリュック一個分におさまるレベルらしいから、買い物を終えていたら貝瀬と合流している可能性は高い。もし合流していたら、二人っきりの買い物をしていることになるわけで、それはちょっとだけうらやましいかもしれない――というくだらない嫉妬の念はさっさと追い払い、ぼくは二本だけフランクフルトを購入した。

+++

 今頃、松浦と貝瀬理恵は一緒に買い物をしているのだろうか――と、青木は考えていた。
 青木の買い物はまだ半分も終わっていない。スペース配置表を見るのが苦手だからだ。どこの列にどのサークルが入っているのかわかりづらく、先ほどから同じ場所を何周も回っている。普段、同人ショップではそんなに気にしていないのに、こういうときには「女性だけのスペースに男がいる」ことの罪悪感をつい、感じてしまう。そのせいでペースが乱れているのだ。
 なにせ、売る側も女性だし、並んでいる方もほぼ全員が女性だ。本を買うときにはサークル側の女性といくつかの会話を交わすことになるので、レジに運ぶだけで簡単に本が手に入るショップとは根本的に違う。男が女性向けの本を買うことを快く思わないサークル側の人間も少なからずいる。「これ、女性向けですけど大丈夫ですか?」と心配そうに尋ねられたりもする。こういうとき、青木は「自分は男だとばれないように女装をしてくるべきではないだろうか」と少し本気で考えてしまう。会場内はコスプレ禁止なので、スタッフに見られたら追い出されてしまうだろうが、サークル側に気を使わせないで済むのなら、男だとバレないための女装くらい安いものではないだろうか、と青木は思っている。
「あの、男性の方はちょっと……」
目の前で戸惑っている女性は、青木が一番好きなサークルの主だった。どうしても手に入れたくて列に並んでいたのだが、いざ買おうとしたときに、テーブルの内側に立つ彼女にこう言われてしまった。
「すいません」
と彼女は頭を下げ、青木はそのまま、列から外れざるを得なくなってしまった。貝瀬に代理購入を頼んでもいいのだが、人気のあるサークルなので、貝瀬に連絡を取っている間に売り切れるかもしれなかった。そうなったら、貝瀬の買い物の時間を無駄に奪ってしまうことになる。それは嫌だったので、そのサークルの本は諦めることにした。
 一番欲しかった本命サークルの本が手に入らなかったとき、オタクなら誰でも「もう来た意味がない、むしろ来なければよかった」と考えるだろう。
 いつも飄々として明るい(と自分でも認識している)青木も、このときばかりは落ち込まざるを得なかった。
「ぼく、女の子に生まれてた方がよかったのかなあ」
 もちろん、本気でそう思うわけではない。
 ただ、あの本が読みたかった、手に入れたかった、という悔しさがそんな風に思わせてしまっただけだ。
 自分が女なら、どんな本でも断られずに気軽に買えるのに、と。
「貝瀬さんがうらやましいなあ……」
青木はそうつぶやきつつ、今一緒に行動し、買い物をしているかもしれない、自分以外の二人のことを考えた。
 特に、松浦のことを思うとちょっとだけ心配だった。今日は張りきっておしゃれをしてきてしまったようだが、妙な空回りで墓穴を掘ったりしてはいないだろうか……早く合流して、見守ってやらなくてはいけないような気がする。そう思ってしまってから、それでは友達というより保護者じゃないか、と青木は自分に突っ込みを入れ、思わず苦笑する。
 松浦を見ていると、親から離れた小さな子供を見ているみたいで危なっかしくてしょうがない。おそらく、「小さな子供」というのは昔の自分のビジョンなのだろう。まっすぐで正直で、あまり汚れたことを知らないような松浦は、どこかが子供なのだ。一途でがむしゃらなところが、昔の自分自身に似ているのかもしれない。できることなら、今の純粋な松浦のままでいてほしいものだ、と青木は思う。もし変わってしまうとしても、自分のようにはなってほしくない。絶対にだ。
 リュックを背負いなおしながら、青木は待ち合わせの場所へと向かうことにした。

++++

 その頃、貝瀬理恵は熱狂していた。顔見知りのサークル主との萌えトークが白熱しているのだ。最初はスペース前で話していたのだが、買い物をする人の邪魔になるだろうということで、先ほどスペース内に招き入れられた。
 本名も知らない相手なのに、好きなアニメが共通しているというだけでこんなにも熱く語り合える。もしかして、これは世界平和のためのヒントではないだろうか。人類全員が同じアニメの信者になれば、平和な世界が実現するのでは――なんて安直なことを思ってしまうくらいに、今の貝瀬はハイだった。もちろん、同じアニメを好きなだけではわかりあえない。逆カプ滅するべしと言ったのは自分だ。そして、たとえ逆でなくても、わかりあえないものはわかりあえない。世に争いの種は尽きず、まだまだ世界平和は遠そうだ。
 だがまあ、今こうして仲間と語らう時間があるだけで、貝瀬は人類の中ではそこそこ幸せな方だろう。世間には同志のいないマイナーカプの人間が数多存在するのだから。
「そろそろお昼ですけれど、Re:さんはどうされるのですか?」
会話に夢中すぎて、そう相手に言われるまで時間の概念をすっかり忘れていた。Re:というのは貝瀬の同人用ペンネームだ。
 待ち合わせをしているのだ、と断って貝瀬は慌ててスペースから抜け出た。今頃あの二人は自分のことを待っているだろう。松浦は少し怒っているかもしれないし、青木はいつもどおりマイペースににこにこしているかもしれない。そうであるにしろないにしろ、とにかく早く待ち合わせの場所に行かなければならない。貝瀬はカートを引きながら少しだけ早足になった。

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「ごっめんね! 待たせちゃったかな」
軽く謝りながら登場した貝瀬を、少しだけ睨んでやった。からからというカートの音すら恨めしい。
 といっても、そんなに長く待たされたわけではない。
 ぼくは本が買えずにしょんぼりしている青木を慰めるのにとても苦労していた。こういうときに限って貝瀬は遅れてやってくる。ぼくとしては、早く来て、青木のどんよりオーラを軽減する努力に協力してほしかった。
 青木は普段、そんなに目に見えて落ち込むことがない。貝瀬みたいに愚痴っぽいわけでもないし、ぼくのようにしょっちゅう落ち込む性格でもない。「青木が落ち込む」という事象自体が少なすぎて、どう対処したらいいのかわかりづらいのだ。ぼくはひたすらおろおろして、結局どう行動すればいいのか決めることができなかった。
 貝瀬は一見して場の雰囲気を察したらしく、青木の肩に手を置いた。
 彼女はその骨ばった指で彼の肩に触れたまま、言葉を紡ぎ出した。
「『魔女の宅急便』で、キキが魔法を使えなくなってしまう理由、知ってる?」
「……知らない」
青木はぽかんとしたまま、そう答えた。あまりにも唐突な話題に、ぼくも驚いて黙った。それに構わず、貝瀬は続ける。
「自分に自信がなくなっちゃったからだよ。自分が自分であることの意味を、見失っちゃったから。魔女は周囲に理解されない。なかなか友達もできない。魔女は普通じゃないから、世界にとってイレギュラー因子だから、どんどん追い詰められちゃう」
貝瀬はそこで息を継ぎ、こう言った。
「イレギュラーはなかなか理解されない。排斥されることもある。でも、自分を見失わなければ、キキはまた飛べるようになるの」
青木は首をかしげつつ、少し弱々しく笑った。「ありがとう、貝瀬さん」
 ぼくは蚊帳の外で、二人のやり取りを見守っていた。
 二人の映画のワンシーンみたいな会話と、仕草と、表情。ぼくはそれを見ている観客だった。
 腐男子は女性向会場ではイレギュラー因子で、理解もされない。白い目で見られることもあれば、本が買えないこともある。
 でも、だからって青木が自分を曲げるのは間違っている。青木は好きなものを好きだと言えばいい。それだけなのだ。
 結論はいつだって簡単で単純で、身近な場所に無造作に落ちている。青木の気分は今日一日沈んだままかもしれないけれど、ぼくたちはできるだけ彼が幸せなイベントの思い出を残せるように、頑張ればいい。まだ、イベント終了までには三時間ほど時間が残されているのだから。その時間を有意義に使って、帰りの電車の中では笑顔で語り合えるようにしよう。それが、今日の結論だった。

 ぼくは貝瀬と青木に一本ずつフランクフルトを手渡しながら、ここにいない岡崎のことを考えた。
 岡崎も、この音楽研究サークルにおいてはイレギュラー因子だ。オタクではないという、ただその一点において。
 でも、彼女はぼくらに歩み寄ってくれた。一緒に音楽を奏でることを決めてくれた。
 それって、実はとても意味のあることだったんじゃないだろうか。
 それまで、このサークルは完全に閉鎖された空間だった。軽音楽部を拒絶する、という目的のもとに作られた音楽研究サークル。もちろん、ぼくらはぼくらの音楽のために集まっているのであって、軽音楽部に明確な敵意を持っているわけではない。しかし、軽音楽部とは別に部室を貰い、三人で活動を始めた時点で、このサークルの目的はきっと、ポジティブなだけの美しいものではありえなかっただろう。
 そんなオタクだけの空間に、岡崎早苗というイレギュラー因子が加わって、少なからずこのサークルは変わることができた。
 彼女は光だ。閉鎖された部屋に光が差す。その光はいずれ、あたたかさに変わるだろう。消えてしまった魔法が元に戻るように、一度外界を拒絶したぼくらは再び、外界に接触するチャンスを得る。そのとき、少しでも殻を破ったぼくらが――ぼくらの音楽が、世界に変化をもたらすことができたなら。それだけで、この上なく満たされることができる。ここにぼくらが存在する理由を、信じることができる。
 きっと、自信を持つということは、誰かに認めてもらえることは、それだけで一種の魔法なんだろう。

「ぼくも何冊か買い損ねた本があるから、お前と一緒だよ。青木」
ぼくは小さな声でそんな慰めを口にした。ありがとう、と繰り返す青木の声は、もうほとんどいつもの彼と同じものだ。
「そうそう、わたしも男性向けのサークルに買いに行ったとき、微妙に白い目で見られたりしたしね。みんな一緒よね」
「うん、そうだね」
頷いた青木に軽いジャブを喰らわせつつ、「じゃあ、午後の部開始しますか!」と貝瀬は言った。こういうイベントにおいて、午後の買い物は午前中ほど切羽詰まったものではない。まったりと買い物を楽しめる時間を夢見ながら、ぼくらはもう一度解散した。


090809


オタク創作ものにおける定番(だと思う)、イベント話。
アフターでカラオケに行くところまで考えてたんですが、長すぎるのでカット。

しかし、友達と行っても結局別行動にならざるを得ないって何か矛盾してる気がする。かといって一人で行くと妙に孤独感を感じてしまうからイベントって難しい。

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