他人行儀
長男・松浦ななめに関する話題は、松浦家では暗黙のタブーとなっている。
17歳で作家としてデビューし、高校を中退。現在も作家として活動しているのだが、問題なのは彼が家から一歩も出ないひきこもりであることだ。原稿は郵送オンリーで、編集者が家に来ることはない。家族と会話をすることもなく、ななめがどういう性格のどういう人物なのか、誰も知らない。ぼくらが彼について知っているのは、細身で折れそうな体、いかにも幸が薄そうな風貌。そして彼の書く小説の中のどこか危うく儚い世界だけだ。弟であるぼくとさざめは、もう何年も顔を見ていない。道ですれ違ったとしても気づかないのではないかと思えるくらいに、ななめの印象は薄い。
そんな長男であったが、ここ最近は少し様子が違ってきているらしい。中学生の女の子が、定期的に部屋に来るのだ。
不思議なのは、彼が中学生とどのようにして知り合ったかである。ななめは携帯電話とパソコンを持っていない。部屋には雑誌の編集部に直接繋がる電話がひとつあるだけで、見知らぬ人間にコンタクトをとるチャンスはないはずなのだ。
その少女は黒髪の真面目そうな風貌で、愛想がいい。ななめと不埒な交際をしているわけではないように見える。ぼくたち家族にも笑顔で接する。悪い子ではない、と思う。典型的な優等生タイプ。自分の世界に閉じこもっているななめとは何の共通項もなさそうだ。
どうして彼女は繰り返しななめの部屋にやって来るのか、彼と彼女はどういう関係なのか、部屋で何を話しているのか……すべて不明である。ななめは部屋からいっさい出ないし、彼女も彼を連れ出そうとはしていないようだ。部屋に一方的に訪れ、何か話してはその日のうちに帰ってしまう。不思議な存在だが、両親はむしろ、ななめが外界と接点を持つことができたことを喜んでいるようである。
おそらく、それを傍観しているぼくは、兄のことが心配なのだろう。
そんな風に外界を遮断した後、ちゃんとした未来が訪れるとは到底思えない。ぼくは社交的な性格ではないが一応、大学に通っている。さざめだって学校に行っている。そういうものから完全に逸脱して自分の世界のみに生きた先に、何が待っているのか。ぼくには想像もつかないが、想像できないからこそ悪い方向にばかり考えてしまうのだ。今更社会復帰ができるとも思えないし、作家として今のまま生きていくのだって別にかまわないのだけれど――でも、できたら普通の人間になってほしい。そう願うのが家族としての義務だと、ぼくは思う。
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「ねえ、君はどうしてここに来るの?」
と、ぼくはある日、ななめの部屋から出てきた少女に尋ねた。少女は少し首を傾げてから、
「ななめさんは、わたしの理想なんです」
そう言った。
「理想?」
「あ、わたし、文芸部員なんです。小説を書くのが好きで」
そのとき初めて、彼女は自分の名前を名乗った。大宮からくれない。奇妙に長い名前だったが、ペンネームではないらしい。
「ななめさんは、素敵な名前だって言ってくれました」
からくれないは嬉しそうに笑う。「わたしも、ななめさんの名前、素敵だと思います」
ぼくは問う。「どこらへんが?」
「弟さんの名前と合わせて、韻を踏んでる名前なんだっておっしゃってました」
ぼくの名前は松浦かなめ。三男の名はさざめ。そして長男・ななめ。確かに韻を踏んではいるものの、それが「素敵」だとは到底思えなかった。価値観の相違、だろうか。
「わたしも、姉や両親と共通点をもった名前をつけられてて。名前が、人と人がつながってる証みたいで、とても素敵なことだと思えるんですよ」
ただし、『からくれない』はちょっと変てこすぎる気がしますけど。
彼女はそう言ってころころと笑った。つられて笑いながら、本当にいい子だな、とぼくは考える。
この子と話しているとき、兄はどんな顔で、どんなことを、どんなふうに話すのだろう。兄はいい方向へ変わっていけるだろうか。この子なら、兄を外の世界へ連れ出してくれるかもしれない。ふと、そんな望みを抱いてしまった。
自分にはできなかったことを、他人に託す。
その行為は、とても卑しいことに思える。少し、自己嫌悪に陥った。
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決定的にぼくが間違えてしまった日。その日は大雨だった。外に出ることが億劫になるくらいに土砂降りの雨の中でも、大宮からくれないは我が家の長兄の部屋へ来ていた。まるでそうすることが義務であると信じているみたいだった。別に、それ自体は構わないと思う。とっくに成人している兄が何をしようと彼の勝手だし、大宮からくれないが兄に何をしても、法律の範囲内ならば彼女の自由だ。ぼくが許せなかったのはただひとつ、その日大宮からくれないが泣きながら部屋を出て行って、兄がそれを追わなかったという事実だった。
からくれないはぼくが呆然と見ていることにすら気付かないまま、家の外へと走って行ってしまった。追おうとして、ぼくは玄関に彼女の傘が残されていることに気付いた。なんだかその傘がとても重いものに見えた。こんな雨の中で、彼女は傘を持たずに泣きながら走っている。
彼女にそんなことをさせる兄は、罪悪で害悪だと。ぼくは思った。
ぼくは彼女を追うことをやめ、長兄の部屋に向かった。
重い扉を開けると、ほこりっぽい――しかし不潔ではない独特の空気が肌に触れた。
窓辺に立ったまま振り返る男性は、二十代前半くらいに見える。もちろん、ぼくは彼の本当の年齢を知っている。でも、今は知らないことにしておきたかった。この男は何一つ変わってなんかいなかった。変わる努力すらしていなかった。身体は年をとっていっても、兄はいつまでも兄のまま。成長することのない精神を、この狭い世界に閉じ込めて、兄は今にも消えそうな存在としてそこに立っていた。部屋の中には相変わらず、ほとんど何もない。
自分の世界に閉じこもったまま、閉鎖された世界の中で満足している松浦ななめ。
彼の生き方は名前の通りに斜めで、とても不自然だ。
兄は変わったかもしれない、変わることができるかもしれない、なんて思ったぼくが馬鹿だった。
彼が幼い少女を傷つけたという事実は、ぼくの中ではどんな罪よりも重い罪に思えてならなかった。
「……かなめ?」
変わらない彼の声がそう言った。どこかぎこちない所作だった。「ひさしぶり、だね」
ぼくは叩きつけるように言った。
「どうして、あの子を泣かせた」
「…………」
彼は答えない。ぼくは詰問する。
「どうして泣かせたのか、って聞いてるんだ」
「どうしたらいいのかわからなかった」
答えにならない答えを、兄は口にする。
「大宮君の言葉に、何と答えたらいいのか。ぼくにはわからなかった。だから答えられなかったんだ。それだけだ」
まるで悪戯をした子供の言い訳のようだった。呆然と、困惑に目を見開いたままで。彼は言葉にならない言葉を続ける。ぼくはそんな会話を一刻も早く終わらせたくて、こう言った。
「ぼくは兄貴に外に出てほしいと思ってた。でも、兄貴がそこにいたいなら別にいい、ってずっと考えてた」
でも、今は違う。
兄は人を傷つけた。
ぼくは、言葉を吐き出す。心の中にある重いものを、そのまま全部、そこに吐き出してしまいたかった。
「それがたとえ兄貴にとって大切で唯一の世界でも、人を傷つけるような世界を、ぼくは認めない」
ななめは顔を伏せて、そうだね、と一言言った。そうだね、認められなくても仕方ないね、と。
そして彼は謝った。「すまない、かなめ」
ぼくはぼくに対して謝ってほしくなんかない。あの少女を泣きやませてほしかったのだ。そんなことすら察してくれない兄は、やはり鈍感だ、と勝手なことを思う。兄は悄然と消えそうな声で、何かを訴えようとした。
「かなめ、その、大宮君は」
ぼくはそのとき、最低なことをした。彼がその言葉を言い終える前に、部屋の外に出て扉を閉めたのだ。むろん、兄は追ってこない。兄は部屋から出ることも扉を開けることもできない。それを知っていながらそんなことをしたぼくは、きっと最悪だった。兄がからくれないを傷つけたことを罪悪と呼ぶのなら、ぼくだって兄を傷つけた害悪だった。
その日、結局、からくれないは松浦家には戻ってこなかった。
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翌日、ぼくは貝瀬理恵と二人で話していた。彼女はどこか機嫌が好さそうで、いつもどおりに暴言を吐く機械として元気に活動していた。むしろ、最近は暴言や暴力を振るわない貝瀬の方がイレギュラー的に思われており、彼女が静かだと、ぼくも青木も岡崎も落ち着かないのだった。
「ねーねー。青木には美人のお姉さんがいるらしいわよ」
「へえ、そう」
「松浦にもお兄さんがいるのよね? どんな人?」
彼女の何気ない言葉が、どんな暴言よりも気分が悪いものに思えて、ずくん、と心が波立つ。
「あんなやつ、ぼくには関係がないんだ」
思わず、そんなことを言ってしまった。口に出してから、まずいことを言ってしまったことに気がついた。
「何言ってるの?」
と、貝瀬は眉をひそめた。ぼくは適当にごまかそうと思った。
「別に、なんでもないよ」
「お兄さんのことをあんなやつ扱いなんてダメじゃない。一緒に住んでるんでしょう?」
貝瀬はそう言いながら、「まあ、わたしも人のことは言えないんだけど」と肩をすくめる。
「でも、一緒にいる間は、家族をもっと大切にした方がいいよ。松浦」
余計な御世話だ、と言いたかった。しかし、言えなくなってしまった。家族を大切にした方がいい、と言った時の貝瀬は、今まで見た貝瀬の中で一番真剣な表情でこちらを見ていたから。ぼくは、黙らざるを得なくなった。
「そんなに簡単に消えてしまうような絆なんて、ないんだから。どれだけ重たい鎖でも、家族のつながりっていつまでも残ってるもんだと、わたしは思うよ」
貝瀬は、それだけ言ってどこかさびしげに笑う。その笑顔に隠された意味をぼくが知るのは、もっともっと後の話だ。このときは、ただ悲しげな顔だと思った。彼女らしくない顔だ。でも、それこそが本当の貝瀬だったのだと、未来のぼくは知っている。知っているからといって何も変わりはしないけれど――今の彼女はもう、そんな顔でぼくに笑うことはない。それはまた、別の物語だ。
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家のトイレから出てきた直後に家族以外の女の子に遭遇する瞬間というものをどれだけの男子が体験したのかは知らないけれど、とりあえずとても気まずい、ということを、そのときぼくは知った。
「あの……えっと、こんにちは」
挨拶してみてから、彼女が誰なのかを認識した。そして驚く。こういうありふれた動作の一つ一つが、ぼくは他人よりも少し遅いと思う。
「大宮さん……!?」
そこに立っていたのは大宮からくれない。あの日、泣きながら出て行ったまま戻らなかった彼女が、そこにいた。
「かなめさん、こんにちは。ななめさんはお元気ですか?」
からくれないはまったく変わらない。礼儀正しい文学少女以外の何者でもないその姿は、どこかまぶしくて懐かしかった。あの日のことは、リセットされてしまったのだろうか。たいしたことではなかったのだろうか。それとも、ぼくが見ていたことを知らないから、無理をしているのだろうか。なぜ今、彼女はここにいるのだろう。今日はななめには会わずに帰るのだろうか。疑問符が、風に舞う枯れ葉みたいに脳内をくるくる回る。
彼女はまず笑った。自然な笑顔。真顔に戻ってからさらにもう一度、おかしそうに笑う。
「どうしたんですか、かなめさん。なんだか硬直してますけど」
「どうして、戻ってきたの?」
ぼくの問いを、彼女の笑顔が弾き飛ばす。とても無邪気で、強い笑顔。
「それは、どういう意味ですか」
「どういう、って……」
そんなこと、ぼくの口からは言えない。ぼくが黙っていると、彼女はまた真顔に戻った。
「わたしが、ななめさんに振られたと思いましたか?」
やはり、彼女はあの日のことを忘れてしまったわけではないらしい。ぼくは曖昧に頷いた。
「ああ、まあ、そうだ」
「わたしも、あの日はそう思いました。とても悲しかったし、悪いのはななめさんだって思ったりもしました」
でも、と彼女は続ける。その言葉の後に続ける言葉があると思っていなかったぼくは、また驚くしかなかった。
「わたし、考えたんです。ななめさんのことを。ななめさんが何を考えて、何をして、どういう風に生きてるかってことを。考えて考えて、考えることがなくなっても、まだもっともっと考えて。そのときようやく、ななめさんの小説の中に隠れている本当のななめさんが、見えたような気がしました」
ななめのこと。
ぼくはそれをまじめに考えたことがあっただろうか。ひきこもりの商業作家で、今にも死にそうな小さな声で消え入りそうに話す兄のことを、それ以上の存在として考えてみたことが。そんなことは、考えたことがないのではないだろうか。
彼のために願うことが家族の義務だなんて、どうして考えることができたのだろう。兄をわかったようなつもりになって、ぼくは何一つ見ようとしなかった。唐突に、そんな事実に気付いた。その証拠に、彼女が出て行った日だって、ぼくは彼の話を最後まで聞かなかった。
ぼくがかすかに目を見開いている前で、からくれないは力強くこう語りだす。
「ななめさんは、ここ以外の世界に生きられない、アレルギーみたいなものなんです。それは、ここ以外の世界には他者がいるからです。家族も、クラスメイトも、道を歩いている見知らぬ人も、全部が怖くて、気持ち悪い、ってななめさんは思ってます。わたしはそれを、ななめさんが悪いからだとは思いません。食べ物のアレルギーの人に、無理矢理ものを食べさせても、アレルギーは治らないのと同じ。少なくとも、そこまではわたしも理解していました」
彼女はあの日までに、それをななめ自身から読み取ったということらしい。ぼくはそんなことすら理解していなかった。自分は、誰よりも近くで暮らしていたはずなのに。最近ななめと出会ったはずのからくれないの方が、ななめをよくわかっている。たぶん、ぼくはぼくが思っている以上にななめのことを知らなかったし、彼女はぼくが思っているよりもずっとずっと、ななめだけを見据えていた。的確に彼の姿をとらえていた。
「でも、わたし、ちょっと傲慢だったんです。自分なら、ななめさんに近づいても、大丈夫な気がしてました。例外だと思ってました。これまで、ななめさんがわたしを拒絶したことはなかったから」
少し、図に乗っていました――彼女は照れ臭そうにそう言った。
もう傷は癒えているのだと、その表情から読み取ることができた。
「わたしが好きだって言ったら、ななめさんは困った顔になりました。それから、つぶやくみたいに、怖い、気持ちが悪い、って言った。わたしはショックで、それ以上ななめさんの言葉を聞かずに、飛び出した。ななめさんが、他人を怖がってるのくらい、知ってたのに。ななめさんは、正直な気持ちを、ありのままの自分を、わたしに伝えてくれてたのに」
からくれないは言葉を止めて、少しだけ遠くを見る。
「最低なのはわたしです。ななめさんに一方的に近付いて、一方的に馴れ馴れしくして、気に入らなくなったら一方的に会話を打ち切った。ななめさんが部屋から出られないのを知ってて、そんなことを……そんな自分勝手な交流の中で、ちゃんとした絆が芽生えるわけ、ないですよね」
子供の人形遊びに似ているな、とぼくはふと思う。人形は意思を持たない。人間の側に一方的な偏愛が存在するだけだ。飽きられたら捨てられてしまう、思い込みでできた勝手な絆。ぼくやからくれないにとって、松浦ななめは魂のない人形だったのかもしれない。彼の部屋は、彼を閉じ込めるおもちゃの箱。彼の手足は、他人の言うとおりにしか動かない。彼の心を誰も知らなかった。
でも――と、彼女は目線を上げる。ぼくをまっすぐに見据える瞳は、もう泣いてはいなかった。
「わたし、やり直したい。今度は、ななめさんと一緒に、いろんなことを考えたい。もう一回、やり直せるなら、ななめさんのアレルギー、わたしが治してあげたいんです」
「アレルギー」
ぼくはぽつりと、その言葉を反復する。他に言う言葉が見つからなかった。ぼくは呆然と、たたずんでいるだけだった。彼女の姿は、速すぎて僕には視認できない。そんな錯覚に陥った。
からくれないは微笑みながら、「かなめさんは、ななめさんのことを、好きですか?」と聞いた。
ぼくと別の次元にいたように見えた彼女は、困惑したように戸惑うぼくの方へ歩み寄って、手を差し伸べたのかもしれない。その瞬間、ピントが合って、彼女の姿がちゃんと見えた。
「わからない」
ぼくはそう答えた。それくらいしか言えなかった。何か付け加えなくてはならないような気がしたので、思っていたことをそのまま口に出す。
「でも、大宮さんが兄貴のこと好きなのは、わかるよ」
「はい、わたし、ななめさんが大好きです」
からくれないの笑顔は、堂々としていてまぶしい。そのまま彼女は、ななめの部屋の方へ歩いていく。きっと彼女は、ななめを変えることができるだろう。ぼくは理由もなくそう考えたけれど、今度はそれを卑しいとは思わなかった。
ぼくもいずれ、ななめに謝りに行かなければならない。そう思いながら、兄のことを考える。考えてみれば、彼の小説を、ぼくはまともに読んだことがない。きっとななめの部屋には何冊かあるはずだから、からくれないが帰ったら、借りに行ってみよう。からくれないの後姿を見ながら、そんなことを考えた。
ななめの小説の中にいる、本当のななめ。
ぼくもからくれないと同じように、彼の「ほんとう」を見つけることができるだろうか。真っ暗な部屋の中に、ひそかな輝きを隠した真珠のような、その曖昧な姿を――ぼくも、必死で手さぐりして探してみる。足元にある大切なものを踏みつぶしてしまわないように気をつけながら、ぼくは暗い部屋の中で歩きつづける。からくれないみたいに高速で的確な目を持っていなくても、いつか兄の姿をこの目で見ることができるように。
090905
今書いている長編のひとつは、ななめとからくれないが主人公の話なんですが、それの番外編っぽく、しかし独立した話として実験的に書いてみました。「他人行儀」という単語は、本来とは別の意味で使っています。