夢幻泡影

 世界を破壊したいと思っていた。世界中が不幸に染まればいいとも思っていた。もちろんそれは自分自身が不幸で不幸で仕方ないからで、完全な八つ当たりだった。世界をシャットアウトすることくらいしか、世界への復讐を思いつけなかったのだ。とてもまっすぐな、破壊衝動。ぶれのない、負のエネルギー。
 結果として、自分というものは「自分」でしかなくなった。かぎかっこによって閉ざされた「自己」の世界。閉じられた世界には、自分以外の人間を誰も入れなかった。入ってこようとする人間は、例外なく叩き出した。こてんぱんに、もう二度と近づかないように、やっつけた。
 誰とも関連しない。誰とも関わらず、誰とも慣れ合わず、誰にも心を許さない。
 そういう生き方を、わたしは忠実に行った。

 そして、わたしは世界を阻害した結果として、世界に疎外されてしまった。

 集団に馴染まない、勉強もしない、成績も最悪。おまけに性格にも欠陥があるとなれば、学校から追い出されるのは当たり前だ。結果、わたしに課せられたのは「高校中退」という不名誉な肩書と、家で毎日暮らし続ける、味気のない暮らしだった。といっても、それまでの生活にも「味気」なんてものは存在しなかったのだけれど。
 しかしながら、このひきこもり生活は、わたしの精神に劇的な効果を与えた。
 それまでのわたしは、どうしようもなく尖っていた。とげだらけの体で、容赦なく他人を攻撃したし、傷つけていた。それが自分の生き方だと思っていたし、自分には普通の幸せを享受する資格はないと考えていた。
 でも、家に閉じこもるだけの単調な生活は、わたしから積極的な気持ちを全部奪っていった。
 積極的に生きることもないかわりに、
 積極的に他人を傷つけることもなくなった。
 上流から流れてきた岩が、下流に来るころにはとげを失って丸くなっているように、
 わたしは、いつのまにか丸くなってしまったのだ。
 そうして、わたしはぼんやりと消極的に生き始める。
 ぼんやりとしすぎて、昨日と今日の区別もつかない。
 外に出ても、どこへ行きたかったのだか忘れてしまう。
 そんなんじゃダメなんじゃないか、とある日、丸くなったわたしは突然思った。
 本当に唐突で、脈絡のない思考だった。でも、思考なんて所詮、そんなものではないだろうか。ちゃんとした理由なんて、見つけられる方がおかしいのだ。客観的に見れば「流れ」に沿った思考なのかもしれないが、思考の内側にいる人間には道筋は不可視であることが多い。
「大学に行こう」――わたしが久しぶりに前を向いて生きることを思い出した日、胸に抱いた目標は、そんなものだった。どこにでもあるありふれた目的だ。けれど、わたしにとってはそこそこ重要な、目的だった。
 そうして、わたしは今までビリビリに破って捨ててしまった世界のカケラを少しずつ拾い集めて、もとの形に戻す作業を始めた。もとの形、なんてものを具体的に記憶しているわけではない。ぼんやりとしたビジョンがあるだけだ。けれど、そのためなら何でもしようと思った。今までの自分はどうしようもなく間違っていて、これからの自分は決して間違いたくないと望んでいる。もう間違わない、絶対に世界を捨てたりしない。わたしは、そう思って生きている。

 だが――そうして築いていた新しい「世界」の内側から、外の世界を見て。どうしようもなく、思うことがある。この世界は、本当に正しいのだろうか。誰かを傷つけてはいないのだろうか。大学に入って、友達ができた。音楽研究サークルを作った。松浦と青木と岡崎さん。全員、大切な友達だ。しかし、わたしが彼らを自分の満足のために利用しているだけではないと、どうやったら証明できるのだろう。
 今朝、わたしは夢を見た。考えうる限り最悪の、夢。
 最悪なのは夢の内容よりも、そんな夢を見るわたしの心だった。
 夢の中には松浦がいた。どこかいつもと違う彼が、彼と向かい合ったわたしの肩に触れる。わたしはそれを拒まない。触れられた部分から他人のぬくもりが伝わって、触れている彼の気持ちが同時に伝わる。世界には二人きりしかいないようだ。二人の世界には、何も邪魔なものがない。そこですべてが停止したように、長い時間が流れて行った。
 現実にはありえない、夢だ。
「――…………   」
彼は何と言ったのだろう。覚えていない。けれどわたしを見てわたしに触れている彼の表情は、もう松浦のものではなかった。
 それは、もう忘れたいと思っている男の表情だ。悲しげで、寂しげで、他人への愛で自分を満たそうとしている男。愛は暴力なのだ。他人へ捧げるだけで、見返りを求めない愛は、もう、愛じゃない。ただの自分勝手、自己満足、自己完結。
 わたしが「彼」を見捨てたのは、そんな理解のできない愛が、嫌だったからだ。
 自分に向けられている感情が、重すぎたからだ。
 なのになぜ、その男は松浦の顔をして、わたしに触れているのだろう。
 わたしはなぜ、それを拒絶しない?
 どうしようもなく気分が悪くなって――目が覚めた。
 わたしは松浦に謝った。もちろん、直接ではない。自分の部屋の、自分のベッドの上で、だ。何度繰り返しても、謝罪は口にするたびに消えてしまう気がして、何度も何度も同じ言葉を告げた。
 最低じゃないか、最低中の最低じゃないか。そう思った。
 気づいたらわたしは泣いていた。学校は休んだ。とても、平気な顔で松浦に会える気分じゃないと思ったからだ。わたしは深く深く、反省した。その反省は懺悔と言い換えてもいいかもしれない。わたしは大学に行くと決めたときからずっと、自分を懺悔し続けていた。誰かを傷つける自分自身を、この世界から消し去ってやりたいと思っていた。社会のためになんてならなくてもいいし、どうせなれないだろう。でも、社会にとって、誰かにとって害をなすことだけは、もうやめようと決めた。
 なのに、わたしはあんな夢を見てしまった。
 記憶の中の友達を、汚してしまった。
 身を抱きすくめるようにして泣いた。ベッドの中にいることすら罪であるように思えたけれど、そこからは出られなかった。
 自分が立派に積み上げてきたもの。一生懸命作った居場所。でも、その居場所は、本当にわたしがいてもいい場所なのだろうか。松浦は、こんなわたしと一緒にいて、不愉快ではないのだろうか。
「ごめん、本当にごめん。松浦――」
わたしが言った言葉は、空中に投げ出された瞬間、煙のように消える。


+++


 ぼくは貝瀬の下宿の部屋の前に立っていた。チャイムを押そうと思ったのに、薄めの扉の隙間から、彼女の泣く声が聞こえてきて、ぼくはそこに立っているしかなくなったのだ。学校を休んで、連絡もない貝瀬がどうしているのか不安だったのだけれど――今は、ぼくが介入できるような状態ではなさそうだった。
「ごめん、松浦。本当にごめん」
彼女がぼくに向かって必死に謝っている――その声を、ぼくは呆然と聞いていた。どうして、彼女はぼくに謝るのだろう。ぼくが貝瀬に謝ることならたくさんあるけれど、貝瀬がぼくに謝ることなんて、ひとつもなかったはずなのに。
 昔、彼女が泣いている現場に居合わせたことがあったっけ。あのときもぼくは、話しかけることなく、ただそこで立ちつくしていた。彼女はただすすり泣いて、悲しげに一人ぼっちでいた。そんな彼女を救いたいと、ぼくはずっと思っていたのに――やっぱり、ぼくでは彼女は救えないのではないかと思ってしまう。
 今ここで、チャイムを鳴らして、彼女に気のきいた慰めをして、好きだ、と一言告げればいいだけなのかもしれないのに、ぼくはそれをしない。そんなことは、できない。それが、ぼくの限界なのかもしれなかった。彼女の中に踏み入ることができない。彼女の世界の中には、ぼくは入れない。いずれ入っていけるだろうと思っていたけれど、そう簡単には彼女はぼくを受け入れないだろう。二人の間にはどうしようもなく不透明な壁がある。この壁をどうにかして突破しないと、ぼくはあいつを救ってやることはできないのだ。壁があるせいで、彼女の姿が、見えない。こんな壁、ぶっつぶしてやりたいのだ、本当は。でも、今のぼくはそれをしない。ただ、ぼうっとしている。木偶の坊だ。いつかやる、なんて都合のいい言い訳は、もううんざりなのに。ちくしょう、どうしてぼくはあの彼女の嗚咽を止めてやれないんだ。心が煮えくりかえってしまいそうだったが、それを抑えて、ぼくは扉の前でひたすら、彼女の泣き声が止むのを待っている。そうしなければならないのだと決められているみたいに、ただ、待っているのだ。彼女の心に平穏が戻ってくるのを。
 それが、ぼくにしかできない、ぼくの役目だから。そんな言い訳を使いながら、ぼくはそこに立っていた。


++++


 翌日――ぼくは貝瀬の体を肩にひっかけるようにして運んでいた。青い顔のまま部室にやってきた貝瀬は、しばらくして座り込み、そのまま意識を失ってしまったのだ。彼女の体はとても華奢で、軽い。人間というより、小動物のような体だった。
 医務室には少し年配の女性が座っており、貝瀬を見て「寝不足だね」と言った。他に何か言うことはないのか、と少しイラついたぼくに、彼女は貝瀬をベッドまで運んでほしいと指示した。手伝ってくれるのかと思ったら、そのまま、用事があると言って出ていってしまった。
 仕方ないので、一人で貝瀬をベッドまで運んで、シーツをかけてやった。貝瀬の目は一応開いていたのだけれど、まだ状況が飲み込めていないのか、ぼんやりしていた。
「貝瀬……?」
ぼくは、そう語りかけてみる。
「わかるか? ぼくだよ」
「松浦……?」
彼女は目線を天井に向けたまま、徐々に覚醒しつつあるようだった。起き上がろうとする貝瀬を、ぼくは止めた。
「寝てろ」
ぶっきらぼうな口調でしかものを言えない自分を後悔しつつ、ぼくはそう言った。
「……やだ」
彼女はそう答えた。倒れるまで寝なかったくせに、まだ寝たくないなんて――強情もいいところだ。
ぼくは子供をあやすように、問いかける。
「なんでだよ。ぼくがいるからか?」
「違う」
「寝なきゃだめだろ。このままだと、単位が落ちるぞ。青木と岡崎も心配してる」
彼女はゆるゆると首を振った。「寝たくないの」
「なんで寝たくないんだよ」
「夢を……見たから」
彼女はどこかしゅんとしていて、叱られた子供に似ていた。
「すっごく最悪な夢。松浦に言ったら、絶交されるくらい、最悪」
「その夢の続きを見るかもしれないから、寝ないのか」
開いた窓からは風が入ってきていて、白いカーテンが視界の端で揺らいでいた。
「うん」
貝瀬の声が、誰もいない医務室に響く。ここは、二人だけの空間だ。でも、今はそんなことより大事なことがある、と思った。ぼくは、そっぽを向いたままでこう言った。
「ぼくは、青木と二人で遊園地に行く夢を見たことがある」
貝瀬は不意を突かれたのか、一瞬真顔になった後で、少し笑った。「何それ」
「観覧車のチケットもぎりをしていたのが、カイセだったよ」
「男二人で観覧車乗ったの?」
「……うん」
詳細は忘れたが、よくよく考えると現実にはありえない光景だった。
夢の中のぼくはそこそこ楽しそうだったが、実は悪夢だ。
「何それ、なんか、ばっかみたい」
貝瀬はそう言って噴きだした。ちょっとだけ、いつもの彼女が戻ってきたような気がする。ぼくはできるだけかっこよく聞こえるように、声を低くする。
「バカみたいだろ。夢なんて、そんなもんだ」
それを聞いた貝瀬は、悲しげに片目を細めた。
「でも、わたしの夢は――もっと、重かったよ」
押しつぶされてしまいそうな、苦しそうな声音で彼女は告げる。
「ただの夢だろう。そんな気にすることない」
ぼくは昨日の彼女を思い返しながら、こう問いかけた。
「どんな、夢なんだよ」
貝瀬は、黙った。何を言おうか考えているのかもしれない。
あるいは、どうごまかして嘘をつこうか、考えているのかもしれない。
どちらにしても、貝瀬が何かを言うのを、ぼくはただ待っていた。静寂は心地よく、ぼくらの外側を流れている。
「松浦が、松浦じゃなくなってしまう、夢」
まさか、そこにぼくの名前が出てくるとは思っていなかった。瞬間、ぼくは息をするのを忘れてしまった。
「それだけか?」
「……うん」
彼女は頷いて、頭の位置を少し変えた。このベッドには枕がない。
「ぼくがぼくでなくなったら、カイセは怖いのか?」
「松浦を松浦じゃなくしてしまう、自分の無神経な脳が、嫌なんだ」
「ぼくはどこへも行かないし、いつまでだってちゃんとぼくのままでいるよ」
だから、とぼくは続ける。「ぼくがここにいるから、寝ろよ」
彼女は、バカみたい、とは言わなかった。ただ、何も言えなくなったかのようにまた、黙ってしまった。
「じゃあ、こうしよう」
ぼくは半ばヤケになりつつ、提案する。
「ぼくがおまえの手を握っていてやるから、寝ろ」
貝瀬が何かを言う前に、ぼくは叫ぶように付け加える。
「おまえがまた嫌な夢を見そうになったら、ぼくが手を引っ張って、そこから助け出す。だから、寝ろよ」
「…………うん」
別人みたいに素直に、彼女は頷いた。ぼくはほっとする。なんだか、現実じゃないような会話だと思った。この次の瞬間に目が覚めて、ぼくは本当はベッドの中にいるのではないだろうか。そんなことも考えたが、目が覚めることはなかった。

 ぼくが貝瀬の手を取って、彼女が目を閉じる。一連の動作は儀式のようにスムーズに行われた。
「おやすみなさい」
きれいな声だと思った。そう感じたのは、惚れた弱みなのだろうか。彼女が眠りに落ちて寝息を立て始めても、医務室の女性が戻ってきても、ぼくは動かずにそこにいた。彼女の手は冷えている。自分は、呼吸をするだけの生き物になってしまったのではないか、とふと思う。手の先から感情が伝わってしまったらどうしよう、と愚かしいことを考えたりもする。ぼくはやはり、どこまでも道化だ。

 眠り込んでしまった白雪姫の目覚めを待っている小人たちは、今のぼくと同じ気分だったのかもしれない。
 彼女の喉に引っかかった毒りんごのカケラが、何かの拍子で飛び出てくるのを――延々と待っている。ネクロフィリアの王子が死体を引き取りに来ても、彼女の体を渡してはいけない。七人の力を合わせて、彼女を守らなくてはいけないのだ。その歪曲された物語像は何のメタファーだろう。それこそバカらしい感傷に過ぎないかもしれない。しかし、ぼくは白雪姫を守るだろう。王子に刺し殺されたって、かまうものか。彼女は目を覚ましても、きっとぼくよりも王子を選ぶだろう。それでいいのだ。小人はしょせん小人でしかない。ただ、そばで見守っているだけの――木偶の坊でしかない。
 そんなぼくでも、彼女の役に立てるのなら、いつだって王子のふりをしてやろうじゃないか。
 今は、そんな思い上がりも必要なんじゃないかと、冷たい手に触れながらぼくは思うのだ。




091001