彼らのルール

「わたしは八月三十一日の次の日はまた八月十七日が来て、エンドレスサマーが始まるに違いないと思っていたのですが、なんで今日は九月一日なのでしょうか」
と、久々に再会して早速、とんでもなく時事ネタな前置きを繰り出したのは、言うまでもなく貝瀬だった。
「おまえはいつから涼宮ハルヒになったんだよ!」
「ていうか、あれってそれまでの記憶を失ってループしてる世界だから、ループの内側にいる人間には自覚できないんじゃ」
珍しく、青木がぼくと一緒に突っ込みを入れてくれていた。このネタ、たぶん来年以降は使えないぞ、貝瀬。いろんな意味で。
 しかしその突っ込みを華麗にスルーし、彼女はため息をつく。
「ああ、なんかもう松浦をしばき倒したあと、さらし首にしたい気分」
ぼくの首をどこにさらすつもりなのかは不明だが、貝瀬はいつも通り、暴言生産マシーンとしての生を謳歌している。それはもう、すがすがしいくらい。その暴言と暴挙の勢いにおいては、貝瀬は多少、ハルヒに近いところがあるかもしれない。まあ、あくまで属性的な話なので、リアルと照らし合わせてみると齟齬が生じてしまうわけなのだが。二次元世界で萌えるものが、そのまま三次元世界に具現化しても、萌えにはつながらないものだ。ツンデレ、ヤンデレ、といったギャップ萌えの場合、特に現実にはなりにくい。そもそも属性だけでキャラクターが語れたら苦労なんかしないだろう。萌えを生み出すのは属性ではなく、総合的個性だ。
 そして、別にぼくは貝瀬のツンデレ部分に萌えているから貝瀬のことを好き、というわけでもないのだ。むしろこの片思いは、恋愛している自分萌え、という心境に近い。恋愛というものはすべからく、「誰かのことを好きな自分萌え」というナルシズム要素を含んでいる。というのはぼくの持論であるので、一般論とは違うかもしれない。

「さて、では、後期の活動について相談しましょうか。まず、うちの大学を舞台にした例の漫画がすごく打ち切り臭を漂わせている件について」
「それ、オンサに関係なくね?」
と言いつつ、ぼくもそのことについては気になっていたので、とりあえず話題に乗ることにした。
 最初に断っておくけれど、たいした話ではない。
 ぼくらの通う大学は、めったにマスコミの話題になったりはしない、いわゆるマイナー校だ。数秒テレビに映っただけでも学内は大騒ぎになる。
 そんな大学の卒業生が、プロの漫画家になった。その卒業生は、とある少女漫画誌で連載を始め、その少女漫画の舞台としてぼくらのキャンパスが描かれている……という、まあそれだけの話だ。普通、漫画の背景に実在の大学が描かれていることになんて、気づく人間はいない。ぼくらの大学ほどのマイナー校ともなれば、もう現役で通っている人間くらいしか気づきはしないだろう。しかも、少女漫画という、極めて読む人間の限られた媒体である。もしかすると、このことに気づいているのはぼくたち音楽研究サークルだけなのかもしれない。
 それならば、ぼくらが読むしかないだろう、チェックするしかないだろう。という、多少間違った「選ばれた人間」の感覚が、ぼくらを、特に興味のない少女漫画雑誌を毎月欠かさず買うという暴挙に走らせているのだった。
「背景にキャンパスが描いてあるのは嬉しいんだけれど、内容が致命的につまらない」
と、貝瀬は嘆息した。
「そろそろ展開的にも苦しそうだし、打ち切りっぽいよな」
ぼくはそう返答した。「残念だが、仕方ないな」
毎月、早売りの雑誌を手に入れては、キャンパスのどこら辺で展開されている話なのかをチェックしたり、リアルと漫画のどこら辺が違うだとか、そういう話で盛り上がったりしてきた。だが、それもそろそろ終わりなのだ。ちょっと、寂しい。巣立っていく子供を見送っている親のような気分だ。
「で、話は変わるけど今週の……」
と、貝瀬は早々と話題を転換し、またも音楽研究サークルの活動とは関係ない、アニメの話を開始する。ぼくと青木も同調してアニメの話やら声優の話やらを始め、結局この日、サークル活動の今後について語られることはなかった。
 サークルの話より、関係のない雑談の方が圧倒的に多い。これが、音楽研究サークルの日常である。



 遊園地に行こう、という話が出たのも、サークルに関係のない雑談が始まりだった。近所にある遊園地が、もうすぐ廃園になるらしい、と岡崎が言いだしたのである。
「最近、遊園地が潰れること、多いわよね。最終的に、ディズニーランドしか残らないんじゃないかしら」
貝瀬はそんな風に評した。
「経営が難しいんでしょうかね」
岡崎は悲しげな顔になり、
「あの、廃園になる前に、みなさんであの遊園地に行きませんか?」
と、提案したのだった。断る理由もなく、この件には全員が賛成していた。このときはまだ、遊園地であんなことが起こるとは、誰も思っていなかった。


++++


 その朝は地震のニュースが流れていたが、特に気にしなかった。そんなに大きい地震ではない。震度は3か4程度、震源は多少わたしたちの住んでいる土地に近かった。しかし、わたしはぎりぎりまで寝ていたせいで、支度をするのに必死だった。ニュースなんてほとんど聞いていなかった。聞いていたからと言ってどうということもないのだけれど、とりあえず、事実だけをここに書いておこう。


 四人で行った遊園地は、人が少なく、遊具も古びて見えた。それはわたしたちが廃園になるという事実を知っているからそう見えるのか、誰が見てもそう見えるのか、よくわからなかった。
「とりあえず、何から乗りますか?」
岡崎さんはそう問いかけ、
「ジェットコースター」
「お化け屋敷」
「……コーヒーカップ」
と、三人が全く違う返答をした。わたしは松浦に突っ込みを入れる。
「いや、その年でコーヒーカップはないわ。しかもしょっぱなから……」
「……うるさい! ちょっと言ってみただけだ」
松浦はふてくされた。この男、本当にコーヒーカップに乗りたいのだろうか。あのぐるぐる回る感覚が癖になる人もいるのだろうけれど、大学生が連れだってコーヒーカップに乗る風景は、ちょっと奇妙だと思う。
「青木先輩は、どうしてお化け屋敷がいいんですか?」
岡崎さんは柔らかにそう問いかけ、
「うーん、好きだからかな。こんにゃくとか」
と、謎の答えが返ってくる。遊園地のお化け屋敷でこんにゃくはねえよ。少女漫画に出てくる学校の文化祭じゃないんだから。と突っ込みたいけれど、突っ込まない。平常心、平常心。わたしは、唯一の常識人であろう岡崎さんに、救いを求めて問いかける。
「岡崎さんは何がいい?」
「わたしですか? ゲーセンがいいですね」
……岡崎さんが一番常識的な人間だと思っていたけれど、ちょっと違ったようだ。一番最初からゲーセンで遊ぶのは、ちょっとイレギュラーではなかろうか。遊具に乗ろうよ。
「なんて、冗談です」
と彼女が言ってくれるのを期待していたのだが、彼女はにこにこしながら、
「ジェットコースターでいいんじゃないですか? 貝瀬先輩が一番言うの速かったですし」
と提案しただけで、ゲーセン案を撤回することはなかった。


 案の定、ジェットコースターに乗った松浦はふらふらになった。乗りたくないなら乗らなければいいのに、と思いながら、わたしは松浦にちょっとだけ優しくしてあげた。体調の悪い人間にビンタを喰らわせるほど、わたしは非常識ではないつもりだ。
 少しベンチで休憩をしたあと、青木待望の(かどうかは定かではないが)お化け屋敷に入ることになった。
「二人ずつに分かれた方が、いいんじゃないでしょうか」
岡崎さんは、入口の前でそう提案した。お化け屋敷は歩いて入るタイプのものらしい。四人が一気に入れるかどうかはよくわからないが、確かに、四人だとちょっと多すぎる気もする。ただ、二人ずつだと、どういう組み合わせにするか、という問題が浮上する。
「ぼくと岡崎さん、松浦と貝瀬さん、ってのはどう?」
なぜか青木がそんなことを言い、いいですね、とそれを援護するように岡崎さんが賛同した。
「えー、何その組み合わせ。よりによって、一番頼りにならない松浦と、わたし?」
なんとなく反論しなければいけない気がしてそう言ったのだけれど、
「多数決で決めましょう。賛成の人は挙手を」
岡崎さんは、さわやかにそう提案した。岡崎さんと青木が手を挙げ、わたしはそんな二人を見て、この二人は一緒に入りたいのではないだろうか、と思った。もしそうなら、わたしと松浦がここで賛同しないと、なんか気の毒だ。青木と岡崎さんがそういう仲のようには見えなかったのだが、もしかするともしかするのかもしれない。不粋な邪魔者は、いない方がいいだろう。
「……はい」
とわたしが手を挙げるのと、松浦が黙って小さく手を挙げたのはほぼ同時だった。
「満場一致で、決定です」
岡崎さんが悪戯っぽくそう言って、笑った。


 岡崎さんと青木がお化け屋敷の中に消えていくのを見届け、しばらくしてから歩きだしたわたしたち二人は、明らかに腰が引けていた。
「ちょっとビビりすぎじゃない? 男のくせに」
とかそれくらい言ってやりたかったのだが、というか、それくらいのことを言えるのが松浦の思い描く「貝瀬理恵」だと思ったが、言えなかった。乗り物に乗るタイプならともかく、歩くタイプのお化け屋敷は苦手なのだ。松浦も同じように青い顔で震えていて、わたしたちはどちらからともなく、お互いの腕にしがみつくようにして歩く。やっぱりこの組み合わせは不安だな、と思う。青木と岡崎さんは、どちらもお化け屋敷を怖がるようなタイプには見えない。あの二人なら、もうちょっと頼りになっただろう。
「ねえ、松浦」
長い通路を歩きつつ、わたしはできるだけ関係のない話をしようと試みる。
「プリンに醤油をかけたらうにの味になるんだったか、うにに醤油をかけたらプリンの味になるんだか、覚えてる?」
松浦は、きょろきょろと辺りを見回しながら答える。
「うにもプリンも、あんまり好きじゃないから知らない」
「頼りにならないわね」
と言いつつ、わたしも辺りを見回す。二人とも、会話の内容に集中していない。ただ、お互いの腕をつかむ力が強くなるのを感じていた。本当なら異性と二人でお化け屋敷に入り、互いの体にしがみついているこのシチュエーションはドキドキやわくわくにつながっているはずなのだけれど、二人とも全く余裕がないせいで、そういう気持ちとは無縁だった。
 ボン、と背後で音がした。視界の端に青い炎が飛んでいる。ヒッ、とわたしたちは身を寄せ合う。もう無理、入口に戻ってもいいかな、と思う。松浦も同じことを思ったのだろう、わたしたちはそこで歩くのをいったん止めていた。
「なんで止まるのよ」
「お前こそ」
と言い合ってみるものの、二人とも面白いくらいに声が震えていて、覇気がなかった。
「ねえ、松浦――青木と岡崎さんって、仲いいのかなあ」
わたしは、どうにか別の方向に意識を向けたくて、そう言った。わたしたちのいる場所は、ちょうど、洞窟の入り口のようになっている。洞窟の中は暗く、中が見通せない。また、洞窟のギミックはけっこう大きなセットになっており、わたしたちの身長よりはるかに大きい。とても、威圧感がある。きっと、ここを抜ければ出口なのだろう、そうであってほしい、とわたしは思った。
「よくないと思う」
松浦はぶっきらぼうにそう返した。彼の後ろで赤い炎が揺れていて、わたしは目をそらす。
「よくないのに、お化け屋敷に一緒に入りたがるの?」
「……あれはたぶん、ぼくの」
松浦は何か言いかけたが、はっとしたように口をつぐんだ。
「ぼくの、何?」
わたしの声を無視して、松浦は言う。
「ちょっと、戻ろう」
「戻る? なんで?」
わたしが問いかけても、彼は何も答えなかった。ただ、わたしの腕を強く引っ張って、少し後退した。
「揺れてる」
と、彼は言った。ユレテル……外来語のような響きで、意味がつかめなかった。意味がつかめたのは、数秒後だった。地面が大きく縦に揺れ、体勢が崩れる。一瞬、それはアトラクションの一種かと思ったのだが、断続的に続く揺れはあまりにも静かで、そして大きかった。
「…………っ!!」
地震だ。そこでようやく、わたしは朝のニュースを思い出した。わたしは松浦の腕を強くつかんだ。離れたら危ない、と思ったからだ。しかし彼は、わたしの腕から手を離した。揺れのせいで、ではない。自分から、だ。
「やばい」
松浦の声はほとんど聞こえなかった。
「え……?」
彼の動作は素早かった。わたしの肩をつかんで、洞窟とは逆の方へ突き飛ばす。とても、強い力だった。わたしは何か叫んだのだと思う。しかし、他の大きな音にかき消されて、自分の声すら聞こえなかった。そのとき地面が大きく横に揺れ、わたしはその場に倒れた。
「松浦……?」
倒れた体を起こすと、彼の姿はどこにもなく、代わりに原形をとどめていないがれきの山があった。思考が、事態に追いつかない。揺れは止まっていたけれど、不安は止まらず、むしろ加速する。
「何これ……」
夢であってほしい。目が覚めたら、みんなで遊園地に行くのだ。松浦はコーヒーカップに乗りたいとバカな希望を述べて、でも、わたしはたぶん、それを尊重する。みんなで、一番最初にコーヒーカップに乗る。松浦は、調子に乗ってハンドルを回し過ぎて酔ってしまう。三人でそれをバカにしながらベンチで休憩して、それから、それから。しかしどうやっても、四人で夕暮れの中を帰宅するビジョンが見えなかった。何度シミュレートしても、光景が途中で止まってしまう。わたしは泣きながら、まだそばにいるはずの彼の名前を呼んだ。


++++


 遊園地の張りぼてがそんなに重いものだとは、ぼくは知らなかったのだ。きっと、ダンボールみたいな軽い素材でできているものだろう、下敷きになったってたいしたことないはずだ、と踏んだ。それでも貝瀬の上にそれが落ちてくるのは避けたかったし、彼女の顔を傷つけるのは絶対に嫌だった。それで、彼女を突き飛ばした。
 けれど、大きな洞窟のセットは意外と重みがあるようだ。上半身は無事だが、下半身は感覚が麻痺している。どこかから彼女の泣く声が聞こえる。彼女を泣かせるなんて許せないな、と思う。
 よく、「二人の女性が川で流されていたら、どちらを助けに行く?」というような話がある。この質問は、「どっちの方が好み?」という下卑た質問を遠まわしにしただけなので、「こちらの方が運動神経がよさそうだからもう片方を助ける」とか「俺は泳げないのでどっちも助けられない」とか、そういう答えは見当はずれだと言わざるを得ない。「二人の位置関係を把握した上で、最短のルートを駆使して二人とも助ける」と言いだした男には敬意を表するしかないが、これも質問の意図しているものから根本的にぶれている。
 だが、あえてその下卑た質問に答えるとしたら。
 ぼくは、川で流されているもう一人が誰であったとしても、貝瀬を助けに行く。
 もし、その『もう一人』が自分自身だったとしても、貝瀬の命を選ぶだろう。
 そんなことを考えていると、目の前が急に明るくなった。崩れた張りぼての中から、救助隊員らしい、赤い制服の男が見えた。なんだか急に眠くなってしまって、ぼくは意識を投げ出した。


 夢の中で、貝瀬理恵が泣いていた。真っ白い空間には彼女しかいない。ぼく自身すら存在しない。どうにかして泣きやませなければ、と思う。しかし、彼女は泣くのをやめない。真っ白な世界の中で、いつしか溢れすぎた涙の中で、彼女は死んでしまうのかもしれない。ぼくはそれを眺めて、何もできず、何も言わず、ただ立ちつくしている。
 どうしてだろう、とてもリアルな夢だった。
 もしかすると、ぼくが今まで見ていたのが夢で、真っ白な世界の方が現実だったのかもしれない。
 真っ白な天井が見え、ぼくは自分が目を覚ましたことに気付いた。ぼくを覗き込んでいるのはやはり彼女で、思った通り、彼女は泣いていた。どうやらここは、遊園地の医務室のようだ。ぼくと貝瀬のほかは、隣のベッドに青白い顔をした男子が一人、寝ているだけだ。おそらく貧血だろう、とぼくは思った。
「松浦」
貝瀬は、消え入りそうな声で告げた。涙声だった。
「なんであんなこと、したの」
「助けないと、と、思った」
ぼくの声はまだ、本調子ではないらしい。とても喉が乾いていて、声がかすれた。
「……助ける?」
彼女は首をかしげ、その拍子にまた、一筋涙が流れ落ちた。ガラスのように、透き通った結晶。拾い上げたい衝動に駆られたが、ぼくが拾う前に、涙はシーツの上に落ちて消える。
「わたしを助けて、松浦は下敷きになっちゃったんだよ?」
彼女のどこか幼げな口調は、いつだったか、木の陰で泣いていたときのものに似ていた。あのときは、ぼくは慰める側だったけれど――今は、泣かせた側だ。
「おまえが無事で、よかったよ」
その言葉は彼女を怒らせるとわかっていて、そう言った。彼女はいつもどおりに、ぐっとこぶしを作る――いつもなら、ここでぼくを殴って、それで全部終わりになるはずなのに、今日の貝瀬は殴らない。殴ることができない。殴ることができないから、場の雰囲気が終わらない。いつまでもいつまでも、重苦しく続く。きっとぼく自身も、貝瀬に殴られるのを待っているのだろう。ぼくたちは、そうすることで場の空気を変えてきた。今まで気づかなかったけれど、そうした暗黙の了解のもとで過ごしていたのだ。
「人って死ぬんだよ、松浦」
彼女の声は静かなのに、一瞬、泣き叫んでいるように聞こえた。
「死んだら、終わるんだよ?」
その声が、棘のように皮膚を貫通した。血が噴き出しそうになるのを必死に押さえながら、ぼくは黙っていた。
「終わるって、とても怖いよ。もう、歌えない」
「ごめん」
ぼくは、謝った。たぶん、それまでのぼくはちょっとだけ、自分に酔っていた。今、やっと酔いが冷めて、正気に戻ったのだ。ぶれていた軸が、まっすぐになった。その軸はいつ頃からぶれていたのだろう。もしかすると、ずっとずっと前から、斜めの方向を向いていたのかもしれない。……苦手なジェットコースターにわざと乗って、彼女の気を引こうとしたことも、もしかすると軸がぶれていたことを端的に示す事象かもしれない。それくらいは許されてもいいんじゃないか、と思うのだけれども。
「ねえ、松浦」
貝瀬が問いかけるその声は、少し優しげになった。
「きゅうりは、緑黄色野菜よね?」
「……違う」
「それは、どうして? だって、緑色よ?」
貝瀬は悪戯っぽく言った。その口調は少し、岡崎に似ていた。
「切ったら、中が白いだろう」
「なら、『切ったら』緑黄色野菜、とかいう名称にしてほしいわ」
何言ってるんだかわかんねえ、と思いつつ、ぼくは呆れて笑った。
「かぼちゃとかもボーダーラインよね。緑、っていうか、ぱっと見黒っぽいし」
「あれは緑黄色だ」
貝瀬は一息ついて、ぼくの手を握った。彼女の手は普段、とても冷たい。なのに、今日はなぜかとても温かく感じられた。
「わたし、松浦がいなかったらきっと、きゅうりを緑黄色野菜だと思って、食べ続けちゃう」
彼女は、下を向いたままで言った。
「松浦がいなきゃ、誰も無駄知識を教えてくれないの」
きゅうりが緑黄色野菜じゃない、という情報は無駄知識なのだろうか……と考えつつ、ぼくは「それくらい自分で勉強しろよ」とつぶやいた。
「やだ」
彼女は即答して、その手をきゅっと強く握る。「絶対、やだ」
「……ごめん、心配かけて。本当に、ごめん」
ぼくはあらためて謝りながら、白い天井を眺めていた。真っ白い世界で泣いていた少女は、救済されたのだろうか。傍観者であったぼくは、その世界に干渉することができるのだろうか。たぶん、世界を救済するためには、美しい理想的な世界のピースを集める必要がある。たとえば、笑顔。たとえば、ぬくもり。たとえば、歌声。全部全部、美しい世界のために必要なものだ。でも、一個一個は破片にすぎず、一個だけを持っていても、美しい世界を構築することはできない。すべては断片で、ぼくらは必死にそれらを拾い集めなくては、最後にたどりつくべき場所には行くことができない。
「松浦の足、たぶん大丈夫だって、救助隊の人が言ってた」
貝瀬は付け足すようにそう言って、軽くぼくの足を叩いた。
「目が覚めて、異常がないようなら帰ってもいいって。医務室の人に言ってから、だけど」
「……わかった。ありがとうな、カイセ」
目が覚めたように赤くなった後、「あとで、倍返しにしてもらうから」と、いつもの貝瀬が乱暴に言った。ぼくは思わず笑った。


++++


 青木と岡崎は、食堂にいる。廃園直前の遊園地の食堂は、まるで学校か会社の食堂のような、うらぶれた雰囲気だ。自動販売機で食券が売られていて、それを持って受付へ行くと、かっぽう着を着た年配の女性が指定されたメニューを作り始める。テーブルは一部破損していたり、がたがたしていたりする。廃園直前、という雰囲気を演出するものとしては合格点だな、と岡崎早苗は思った。
 岡崎は、黙ったままうどんをすすっている青木に話しかける。
「わたしたち、貧乏くじですよね。お互いに」
「そうだね」
地震が起きたとき、二人はすでにお化け屋敷の外にいたのだが、そんなに大きな地震ではない、と岡崎は思った。おそらく実際の震度も大したことはなく、ニュースにもならないレベルだろう。せいぜい、字幕が画面の上の方にちょっと出るくらいの地震だった。
 しかし、古びた遊園地の張りぼては、わずかな揺れでタイミング悪く崩れてきてしまった。
 お化け屋敷の入り口から真っ青になった貝瀬が飛び出してきて、二人は顔を見合わせた。そのときのことは、たぶん、一生忘れないだろう。
 救助隊が来た。遊園地の職員が、貝瀬に必死に謝っていた。担架で運ばれていく松浦は、まるで死んだように真っ白な顔をしていて、肝が冷えたというか、驚いた。現実が、急に非現実になってしまったようで――怖かった。
「わたし、もう当分、遊園地には来なくていいです」
岡崎はそう言って、青木の方を見た。
「うん、ぼくも、しばらくは来ないかな」
「青木先輩は、貝瀬先輩のこと、好きですか?」
岡崎の問いはある種のトラップだったのだが、青木はいつも通り、飄々とそれをかわした。
「うん、好きだよ」
「松浦先輩は、貝瀬先輩のこと、好きですよね」
「うん、好きだよ」
彼は、まったく同じ声のトーンでそう告げる。したたかな先輩の顔を見上げつつ、岡崎はトンカツを箸で突き刺した。
「わたしも、先輩方のこと、好きですよ」
青木は聞いているのかいないのか、うどんを噛みながら、「うん」と頷いた。
「松浦先輩が無事に目を覚まして、今日は一緒に帰れたらいいですね」
「うん、一緒に帰れると思うよ、きっと」
青木の言葉はどこか杜撰に響いたが、たぶん、彼の予言は外れない。いつも、適当に発言しているように見えて、しっかり未来を見据えている。憎らしいくらいに、真実を知っている。これだから、自分はこの人が嫌いなのだ――と、岡崎は思った。








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