妹
くるくるくる、と枯れ葉が回る。
螺旋を描いて地面に落ちるそれを、ぼくは目で追っていた。追いながら、こう口にした。
「……ぼく、好きなんだよ。貝瀬のこと」
口に出してみるとその気持ちは案外軽く、羽みたいにふわふわと空中を浮遊した。そのままどこかへ飛んでいってしまうのではないかと心配になるくらいに、重みがなかった。
それを聞いた彼女は、ぼくを見ていた。あのときと同じく、純粋すぎるくらいに純粋な光をたたえた目で。美しい目だけれど、その目は明らかにおびえていた。ぼくは後悔しつつあった。彼女に受け入れられないことなんてわかっていたのだけれど、実際に怯えている貝瀬を見ていると、心が痛む。
「……わたし、は」
貝瀬は、勇気を振り絞るように、何かに立ち向かうように、言葉を絞り出す。
「わたしは、人に好かれようと媚びる人間が嫌い。」
半分泣いているような声で。
「誰かのために自分を捨てることに、酔っている男が嫌い。」
彼女の目はぼくを見ていない。ぼくの向こうに、違う人物を見ている。
それが誰か、すでにぼくは知っている。
「ううん、誰かを好きだっていう人間は、みんなみんな嫌いよ。」
貝瀬はぎゅっと握った手を震えさせて、そこに立ちつくしていた。
「わたしは、誰にももたれかからないで一人で生きる。――そう、決めたの」
ぼくと出会うよりずっとずっと前に、彼女はその生き方を選んでいた。
その生き方を選ばせた男の名前を、ぼくは知っている。片岡、碧梧。寂しげでどこか自責の念にとらわれた人。かわいそうな、人。碧梧さんは自分が悪いと思っているし、貝瀬だってきっと、兄のことで自分を責めている。どうにもならない兄妹の関係は、もうずっと昔に終わっていて、今のぼくには関係のないことだと思っていた。
でも、違う。
貝瀬は彼の記憶にとらわれたまま、絶対に出られない場所に閉じ込められているのだ。
鳥かごの中で、震えている鳥。
自分で羽を切り落として、飛ばないことを選んだ彼女は、羽が生えてきても決して飛ぼうとしない。飛ぶことが、怖いからだ。
飛ぶことが何よりも怖いから、彼女は飛ばない。
飛ぶものすべてを否定してでも、そこから動かない。
ぼくは、どうしてそんな彼女に好きだなんて言ったのだろう。
好き、という言葉が恐怖にしかつながらないのが、貝瀬理恵の精神構造だと、知らないわけでもなかったのに。
ぼくも彼女も、互いを仲間だと思っていた。
でも、好きという呪詛は、仲間、なんて綺麗な言葉では片付けられない。
貝瀬は最後のラインをちゃんと自分の前に引いていて、それを踏み越えることは誰にも許していなかった。ぼくにとって貝瀬や青木や岡崎がそうであったように、オンサは彼女にとっても立派な仲間だっただろう。しかし、完全に心を許すことは、彼女にはできていなかった。
ぼくは思い上がっていた。自分なら、その最終ラインを越えてもいいんじゃないか、なんて。
実際の貝瀬は、ぼくが思うよりずっと一人ぼっちだった。
空を飛べない貝瀬は、空を飛べる人間が、うらやましかったはずだ。
しかし、飛べる人間をどれだけうらやましいと思っても、自分で飛ぼうとは思わないくらいには、彼女は疲弊していた。
一緒に飛ぼう、と言われても、絶対に飛ぼうとはせずに。
むしろ落ちて来い、と願ってしまうのが、彼女だった。
空を飛んでいるすべてのものが、みんな地に落ちてしまえばいいのに。
そんな彼女の願いは、ぼくには痛いくらい聞こえていた。
「わたしは、松浦と恋愛ごっこをするつもりはないから」
飛んでいる存在なんて消えてしまえばいいのに、と飛べない鳥は叫んでいた。
「オンサはわたしにとって、そういう場所じゃないから」
ぼくは、彼女がその次に言うべき言葉を知っていた。
「――さようなら。」
去っていく彼女の背中を見ながら、ぼくは枯れ木の下で立ちつくしていた。
くるくるくる。枯れ葉はいつまでも回り続けて、地に落ちる。
++++
松浦は、大切な友達だ。何度もわたしを助けてくれた。
遊園地ではわたしのためにがれきの山の下敷きになった。
昔の同級生に絡まれたときも、わたしをかばってくれた。
松浦なら、もしかすると好きになってもいいのかもしれない、なんて――バカな幻想を抱いてしまったこともある。
でも、今のわたしはそんなことを考えられない。
頭の中がぐちゃぐちゃで、好きとか嫌いとか、そんなことすら考えられない。
考えるのは、たったひとつ。
「好き」という言葉の響きが、
忌まわしい、
忘れたい、
消えて無くなってほしい、
そんな記憶につながっているということだけだ。
置いて行かれたあの日の自分自身。
わたしを置いて行ったあの日以降の片岡碧梧。
不幸せになることを自分から選んだ彼と、
それを知らされないまま、不幸にされたわたし。
そして、兄が幸せになるための可能性を、わたしは一時の感情だけで摘み取ってしまった。
陸橋の上で再会した彼に、ただ一言、妹は自分だと告げればよかっただけなのに、それをしなかったのは、怖かったからだ。
兄は、自分を捨ててわたしを暴力から守った。
でも、わたしにはそんな風に守られる価値なんてない。
大切にされる価値がない。
兄がその事実に気づいてしまうことが、怖かった。
それが何よりも怖くて、怖気づいて震えていることしかできないまま、わたしは彼を拒絶した。
そんなわたしが、誰かを好きになっていいはずがない。
自分の都合で誰かを不幸にしたくせに、
簡単に幸せになんかなっていいはずがない。
ただ、そう思うのだ。
だから、松浦には答えられない。
答えてはいけないのだ。
わたしがわたしである限り、誰にもこたえてはいけないと決まっているから。
+++
次の日。
ぼくは恐る恐る部室に顔を出してみたのだが、そこに貝瀬はいなかった。
その次の日も、次の次の日も。
彼女は部室には来なかった。
たぶん、学校にも来ていない。
おそらく、ぼくのせいで。
青木は事情をわかっているような顔で、「松浦のせいじゃないよ」と言った。
岡崎も、それに同調するように笑った。
少し、救われたような気になった。
ぼくたちが劇的に変わるための、世界の断片。
それは、貝瀬がいないオンサの部室に、唐突に訪れた。
岡崎と青木も部屋にいるのに、突然扉が開いた。ぼくは貝瀬が来たのかと思ってそちらを見た。
「あの、『tuning fork』のメンバーの方ですか?」
と、顔を出したその人物は言った。茶色いサングラスをした、中年の男だ。『tuning fork』とは、ぼくらがゲームやCDを出すときに使っているサークルネームである。ぼくは一瞬考えてから、こう返答する。
「……そうですけど」
「この間のアルバムと、少し前に発売していたゲーム。拝見いたしましたよ。あなた方の音楽、特に作詞とボーカル。とても素敵です。歌っているのは、そこの茶髪の方ですか。ぼく、個人的にファンなんですよ」
にこにこと笑みながら、男は語る。こんなことを言われるのは初めてだ。ぼくの隣で、青木と岡崎が同じように絶句している。
「実は、先日のアルバムの音源が、ネットに流れているのですけれど――ご存知ですか?」
初耳だった。
「いえ、知りませんけれど」
「無断でアップされているものなので、無礼かもしれないのですが、それはさておき、その音源が今、一部のコミュニティでとても人気なのです。わたしも知り合いから教えてもらってそれを聞いて、感動しましてね。ぜひあなたがたをスカウトさせていただきたいと思いまして」
「……スカウト?」
ぼくらは目を丸くする。
「ああ、たぶん怪しい勧誘の類だと思われてしまうと思うのですが、それは当然ですよね。とりあえず、今度わたくしどもで出させていただくオムニバスCDに音源を提供していただいて、その後はそのCDの宣伝ライブなどにも出演していただけたら、と思って、今回はお誘いに参りました。もちろん、断っていただいてもかまいません。メールだと迷惑メールと間違われてしまわないかと心配だったもので、こうして直接参った次第で。……あ、わたくしはこういう者です」
珍妙に思える敬語を矢継ぎ早にしゃべって、息をつきながら彼は名刺を差し出す。会社のロゴの隣に、彼の名前が書かれていた。
「あの、ぼくらはその、」
ぼくは何か言いかけたのだが、自分でも何を言いたかったのかわからなくて、黙った。
ぼくらは、何のために音楽を奏でていたのだろう。
サークル活動だから、なんとなく――という理由ではなかったはずだ。誰かに届けたい言葉があって、誰かに伝えたい旋律があって。それをぼくらは、拙いながらも歌にしていた。
だからたぶん、今ぼくはとてもうれしい。青木も岡崎も、顔を火照らせて男の方を見ている。ぼくと、考えていることは同じだろう。
自分の発信していたメッセージを、こうして誰かが受け取ってくれたことは――とても尊い。
「少し、考えさせていただいてもよろしいですか」
青木がそう言った。彼がそう言ったのは、きっと貝瀬のためで、そしてぼくのためだ。
「ええ、気が向かれましたら、名刺の連絡先まで連絡をくださればオーケーですので」
男はにっこり笑って、去って行った。
ぼくらは、売れたいとか、有名になりたいとか、そんなことは考えたことがなかった。
でも、たぶん、できるだけたくさんの人に伝えたい言葉があった。
メロディと、歌声と、言葉にできないいろいろなもの。
それが、いつのまにか、知らない人に届いていて。
それはとても心地よいことだと、初めてぼくは知った。
そして――この喜びを、貝瀬と共有したい、と思った。
どんなに嫌われても、拒否されても、絶交されようとも、ぼくはこの気持ちを貝瀬に届けなくてはならない。
+++
携帯電話のディスプレイには知らない番号が表示されていた。けたたましく鳴る電話を恐る恐る取り上げ、わたしは通話ボタンを押した。
「貝瀬、ごめん」
聞こえてきたのは松浦の声だった。心臓が跳ねる。
「ごめん、どうしても伝えたいことがあるんだ。切らないでくれ」
彼の声はどこか必死で、わたしはその場に硬直したまま、
「な、に?」
と言った。自分の声が震えているのを自覚する。わたしは怖がっているのだ。松浦本人ではなく、人間の好意というもの、それ自体を。好き、という言葉の暴力性を。誰かを好きだ、ということは暴力なのだ。全部を塗りつぶしてしまう強い力なのだ。塗りつぶされたら、消滅する。何もかもが消えてなくなる。それが、わたしは怖い。
「今日、部室に人が来たんだ。それで――」
彼は、どこか必死な様子で話し始める。それを聞いて、絶句した。わたしたちの音楽が、認められた。CDとかライブとか、そんな現実離れした単語が次々と出てきて、何といえばいいのか分からなくなる。
「――な? すごいだろう?」
彼は得意げにそう言った。
「……うん」
わたしは頷くしかない。
「貝瀬が嫌なら、断ってくれてもいい。でも、ぼくは、この話を受けたいと思ってる」
松浦の声はとても力強くて、別人みたいだった。
「貝瀬が、ぼくのことを嫌いでも構わない。今だけでもいい。一緒に、また、音楽を作らないか」
一緒に、また、という単語が、どこか非現実的に響く。
「嫌いじゃない」
わたしは、それだけ言って、電話を切った。電話の前で呆然としている松浦の姿を想像して、少し心が締め付けられた。
「わたしは、誰のことも嫌いじゃない」
口に出して、確認してみる。それは紛れもない事実だった。
誰かを嫌うことは、もうやめたのだ。ずっと前に。
もう、誰のことも嫌いなんかじゃない。ただ一人、自分、という存在を除いて。
わたしは、また学校に行くから、という旨のメールを打ち、松浦に送信した。
ありがとう、と一言だけ、返信が来た。
罪悪感が心を満たして、その夜は眠れなかった。
++++
ぼくらは、ステージの上から観客を見下ろして、震えていた。喜びで震えているのか、緊張で震えているのか、自分でもよくわからない。小さな会場だったが、満席だった。全員がぼくらの音楽を聴きにきているわけではないだろう。もしかすると、誰も望んでなんかいないかも……そんな暗い思考を振り払い、ぼくは楽器と向き合うことに集中する。青木が淡々とMCをこなし、そのまま曲のイントロが始まろうとしている。その間に生まれた時間は、一瞬だったのに、永遠に思えた。
貝瀬、岡崎、青木、そしてぼく。四人が一緒にいられる空間が、永遠に続けばいいと思った。
――その永遠を壊したのは自分自身だったのに、なんて虫のいい考えだろう。
でも、ぼくは、イントロが始まって、青木の歌が終わるまで、ずっとずっと願っていた。
この音楽が終わらなければいいと。
いつまでも続けばいいと。
コーダに向かって流れ落ちることなく、螺旋のようにくるくると、尾を引いて。
宙に浮いた音たちを消し去らず、大切に保存して。あたためて。
ぼくの願いは叶うことなく、曲は終わる。終わった瞬間、ぼくは観客を見回して、そして気付いた。
「……あ、」
その人は、ぼくらに背を向けて立ち去ろうとしていた。
帽子を深くかぶっていたけれど、ぼくにはそれが誰だかわかった。
なぜなら、ぼくが呼んだからだ。来てくれるかどうかはわからなかったけれど、連絡をした。
彼は来た。ぼくらの曲を聴いていた。
拍手の波が押し寄せてきた感動を味わうのをいったん止め、ぼくは舞台袖へ駆けた。
「松浦っ!?」
青木が驚いて止めようとするが、無視して走った。
今しかないのだ、あの二人がやり直せるかもしれない機会は。
無理かもしれないけど、やる前から諦めるのはもう、嫌だ。
その人は、とても早足で去っていくように感じた。たぶん、気のせいだ。本当は、名残惜しいはずだ。とどまっていたいはずだ。ぼくはすがるように後を追って、距離を詰め、その人の名前を呼んだ。
「碧梧、さんっ!」
「……っ」
誰もいない廊下の真ん中。背筋をこわばらせて、おびえた顔で振り向く動作が、貝瀬に似ていた。
ぼくと目が合って、彼は何か言おうとする。
「まつう、ら、くん。とてもいい演奏だった、よ」
そのあとの言葉を待たず、ぼくは言った。
「碧梧さん、お願いです。貝瀬を、助けてやってください」
「たすけ、る?」
彼の声は透き通っていて綺麗だ。いつだったか、陸橋で歌っていた時と同じだった。
「貝瀬は怖がってるだけなんです。きっと、碧梧さんなら助け出せる。ぼくじゃだめだったから……もう碧梧さんにしか頼めない」
困惑して視線を泳がせた彼は、「……無理だ」とつぶやいた。ぼくはそれに構わず頭を下げる。
「お願いします。ぼくは、あなたたち二人がこのまま別れて生きていって、幸せになれるとは思えない。自分のエゴだってことは知っているんです。自己満足だって思います。でも、」
ぼくは顔をあげた。彼の目を見た。彼はとても困っている。当たり前だ。碧梧さんは、一度諦めたのだから。諦めたうえで、今の生活を選んだ。貝瀬も碧梧さんも、自分から不幸を選択して、生きている。
それでもぼくは、言う。
「ぼくは、貝瀬が幸せになれない世界を、許せないから」
ぼくは、もう自分の気持ちも、恋も、告白も、どうだっていいと思いはじめていた。
ただ、貝瀬が怯えているのが嫌だった。貝瀬と碧梧さんが不幸になり続けるのが嫌だった。
終わってしまった兄妹の関係が、二人の中で勝手に孵化して、さらなる不幸を生むのが、嫌だった。
「幸せに、なれる、世界」
彼はうわ言のように口にした。
「ぼくは、幸せになりたいとは思わない、って、ずっと、思って、いたよ」
切れ切れに発音された言葉は、独白だった。ぼくに向けられた言葉ではない。
「ぼくが不幸を選んだから、あの子にも不幸が伝染したのかな」
「そんなんじゃない。不幸は、伝染したりしない」
ぼくは強く言い切る。
「ただ、貝瀬はあなたが黙って不幸を選んだから、その行為を真似しただけだ。あいつは、自分から不幸になったあなたを放って、一人で幸福になんてならない。そういうやつなんですよ」
碧梧さんが、表情を止めた。少し、何か考えたようだった。「……ああ」
その声は涙声のように聞こえた。
「じゃあ、ぼくが自分から幸せを望んだら、あの子も幸せを望んでくれるかな」
「ぼくは、そう信じてます。あいつなら、もう、間違えないって」
そのとき、碧梧さんはようやく少しだけ笑った。笑いながら、彼は言った。
「ぼく、頑張ってみるよ。理恵に、幸せになってほしいんだ」
碧梧さんを連れて楽屋に戻ると、貝瀬が青木たちと談笑していた。
貝瀬は、碧梧さんの顔を見て笑顔を消した。
「…………っ」
彼女の顔が引きつる。ぼくは、黙っている。今は、ぼくが何かを言うべきときではない。
「ひさし、ぶり」
かすれた声で碧梧さんが挨拶した。「元気だった?」
貝瀬は弱々しく頷く。「あなた、は?」
「そこそこ、元気」
碧梧さんは薄くほほ笑んだ。貝瀬は何も言わず、握ったこぶしを震わせている。
「あのさ、ごめん」
しばらくの沈黙の後。碧梧さんがそう言って頭を下げた。貝瀬はぽかんとしている。泣きそうな顔のまま、硬直している。
「ぼくが、黙って理恵を置いて行ったこと。あのときは、それが最善だと思った。でも、そうじゃなかった。本当に、ごめん」
「……謝らなくちゃいけないのは、わたしも同じ」
貝瀬は小さな声を震わせて、ごめんなさいと言った。
「この間、陸橋で会った日。わたし、嘘ついた。自分は理恵じゃないって。あなたに嫌われて、絶望されるのが、こわかったから。とっても自分勝手、だった」
「そんなの、もういいんだ」
「よくない」
「いいんだよ。気にしてない」
強い口調で言う碧梧さんの前で、貝瀬は戸惑うように視線を伏せる。
「わたしが、悪いのに……」
「そう、それが悪いんだ。ぼくらは、『自分が悪い』って思いすぎなんだ。自分が悪いから自分は絶対不幸にならなきゃいけない、って、ずっと思ってきたけど――それは間違いだって、さっき松浦君が教えてくれたよ」
「松浦が?」
貝瀬は一瞬だけぼくの方を見た。ぼくは身をすくませたけれど、彼女は何も言わずに視線を外した。その瞳から、いつのまにか暗さが消えていた。彼女にいつも付きまとっていた、あの底しれない暗さが、なくなっている。まるで、何かの呪文でも唱えたみたいに――消えてしまった。
ぼくが思っているよりずっと多く、世の中には他人を改革する呪文というものがあふれているのかもしれない。ぼくが、好きという言葉を、貝瀬との関係を破壊する呪文だと思っていたのと同じように、他人との関係を簡単に修復する呪文も、きっとあるのだ。
「幸せに、なろう」
貝瀬の手を取って言った碧梧さんの言葉が、あまりにも直球勝負だったので、ぼくは絶句してしまった。どこまでもまっすぐな人だ。びっくりするくらい。そのまっすぐさが、今日まで彼と彼女の不幸の源になっていたのかもしれない。まっすぐで、ひたむきな人ほど、自分を責めて苦しむものだ。
「しあわせに、なろう」
洗脳されたみたいに貝瀬が繰り返した。「しあわせに」
彼女の冷たい手に、碧梧さんの両手が触れている。貝瀬はその手を握り返して、ふっと笑った。
「なんか、わたしが悩んでたこと、ばかみたいかも」
「そうだ、悩むなんてばからしい」
碧梧さんは一生懸命すぎて、自分が何を言っているのかわかっていなさそうだ。熱に浮かされたような、必死さだった。その様子を見て、貝瀬がもう一度笑う。
「わたしは、幸せになってもいいよ。ただし、その前にお兄ちゃんがお手本、見せてよね」
そこにいるのは、いつもの貝瀬だった。そのことがとても嬉しくて、ぼくは少し涙が出そうだった。彼女が碧梧さんをお兄ちゃんと呼んだのは、ぼくが知る限り初めてだ。
「うん」
碧梧さんが力いっぱい頷いた。花が咲いたように、笑顔になる。彼が本当の意味で笑うのを見るのも、もしかすると初めてだったかもしれない。
そのとき、ふう、と誰かがため息をついた。
「あの、ぼくらはさっぱり話が見えないんですけど」
青木が茶化すように言って、にっと笑んだ。その隣で岡崎もにっこりしている。
「あ、わたし、とりあえず、めでたいってことはわかりましたよっ」
岡崎はかばんからドロップを取り出して一同に配り始めた。それは、めでたいときに食べる菓子だっただろうか、とぼくは首をかしげる。碧梧さんは不思議そうな顔で受け取っている。
「うーん、何て言えばいいのかわからないから、説明はとりあえず今度ってことで」
ぼくは適当にとりなす。
「ていうか、なんで松浦は訳知り顔なの? なぜお兄ちゃんと知り合いなのか、説明していただきましょうか」
貝瀬は頬を膨らませてぼくを見た。ぼくは苦笑する他ない。
「それも、また今度でいいよね」
「よくなーい!」
貝瀬が、元通りの貝瀬になって、ぼくをぽかぽか叩いている。それが妙に心地よくて、少しにやにやした。そんなのは今日限りかもしれないのに、ぼくはなぜか、とても満足だった。
「あ、そうだ」
彼女はぱっ、とぼくの右手を取った。突然だったので、ぼくは口を開けたまま、貝瀬を見ていた。
「別に、松浦のためとかじゃないけど」
と前置きをして、彼女はぼくの右手を高く掲げた。そして、こう宣言する。
「松浦がどうしてもって言うから、わたし、付き合ってあげちゃいます。超優しいでしょ」
ぼくは息をのむ。一瞬、何を言われたかわからなかった。
まさかこのタイミングでそのフラグを回収してくるとは思わなかった。普通、全員の前で申告したりしないだろ、常識的に考えて。リアルはギャルゲーのようには行きませんな、とか言ってる場合じゃなく。混乱したぼくの心臓が三回くらい跳ねた。ツンデレっぽく言ってるけど、ちょっと恥ずかしそうに視線をそらしていたりして、そんな彼女の動作がぼくの心にクリーンヒット。しばらく起き上がれそうにない。貝瀬的には「どうしてもとか言ってねえし!」というツッコミを待っているのかもしれないが、そんな余裕はなかった。
「…………うぅ」
ぼくはうめきつつ、空いた左手で顔を隠した。顔がむちゃくちゃ熱い。
「よかったねえ、松浦。ようやく報われて、ぼくも嬉しいよ」
「いやあ、よかったです」
青木と岡崎が適当にぼくを援護し始め、碧梧さんがその隣でどうしたらいいのかわからなさげに愛想笑いする。お義兄さん、とか言うべきなのかな。いやちょっと待て、それはまだ早い。とぼくはテンパりつつ、くだらない脳内会議をした。
「わたし、幸せにならなきゃいけないの」
ぼくを見上げる貝瀬は真摯な声でそう言って、ぼくの手をきゅっと握る。ぼくは、はっとした。
「だから、手伝ってよね」
「……うん」
ぼくは迷わず頷いて、碧梧さんを見た。彼はぼくに笑いかけつつ、「また、連絡するから」と貝瀬に言った。これならこの二人はもう大丈夫だな、と思いつつ、なんだか責任重大な役目を押しつけられたような気もする。とりあえず、貝瀬を幸せにする役目は、ぼくに担わされてしまっているようだ。
「やれやれ」
と青木がぼくの心を代弁しつつ、こちらにウインクしてくる。
うーん、やっぱりこの男はいろいろと察しが良すぎるなあ、と考えて、ぼくは噴きだしてしまった。
++++
誰かを好きだという気持ちは、暴力だ。
でも、だからなんだっていうんだろう、と今のわたしは思う。
わたしが何度殴ったって、蹴ったって、松浦はわたしのことを嫌いになったりしなかった。
わたし自身は、嫌われても仕方ないと、心のどこかで思っていたかもしれないのに。
わたしの暴力を、松浦は拒否しないで受け止めた。
それが、最初から出ていた答えだったのかもしれない。
今度は、わたしが松浦の気持ちを受け止める。
好き、という暴力を、まっすぐに見て、感じて、受け取る。
それで貸し借りがチャラになるとは思わないけれど――わたしは今日、幸せになることを約束した。その約束を全力で守るだけだ。そのときの最善を尽くして、最終的に笑顔になれるよう、全身全霊をかけて頑張る。
だからお兄ちゃん、あなたもちゃんと、幸せになって。
今度は間違わないように、そのまっすぐさが歪んでしまわないように、わたしがここで祈っているから。
また会うそのときまで、約束を忘れないで。
一度間違えてしまったわたしたちだけれど、
やり直すことはできるって、今日、わかった。
ありがとう、と言って――松浦の隣にいるわたしが、笑った。
091224
第一部、完。そんな雰囲気でお届けしました。
こういう風にしよう、とは漠然と思ってたんですが、具体的にどう問題を解決するかをまったく想定しないまま書いたので、全員が自分の勢いで勝手に動いてやってくれた感が強いです。
とりあえず、ここで一区切り。
おそらくまだまだ続いて行くと思われます。むしろ、これからが本番、的な気分。