人格者
さて、クリスマスである。恋人たちが語り合い触れ合い、数多のオタクたちがディスプレイの中のキャラクターと過ごしながらケーキを一人でつつき、そして大多数の人間が誰かと笑い合って過ごすであろう、そんな日だ。
だが、青木は一人きり、商店街でぼんやりしている。
去年は、サークルの全員で集まって公園でパーティをした。なぜ今年はそうしないかと言えば、今年と去年では状況が違うからだ。貝瀬と松浦は、おそらく今頃、二人で過ごしているのだろう。
貝瀬は最初、またサークルでクリスマスパーティをしたいと言ったのだが、岡崎が、今年は用事がある、と言いだした。そうすると、付き合いだしたばかりの貝瀬と松浦の間に青木が割り込むような形のパーティになってしまうことは想像に難くない。それは嫌だったので、青木は「自分も用事がある」と言ってしまったのだった。
自分が選んだ選択肢だが、一人きりのクリスマスと言うのはどうにも気持ちが落ち着かない。
――青木先輩は、あえて一人でいることを選んだのではないですか?
去年のクリスマスに、そう尋ねたのは誰だっただろう。腹が立つくらいに的確な言葉だった。いつだって、自分は望んで一人きりになってきた。その事実に、あの日気付いた。――気付かされた、と言った方が適当だろうか。気付きたくなかった、とは思わない。気付かない方が幸せだったかも、とは思うかもしれない。今日も、青木は自分から望んで、一人きりだ。
「あれ、青木先輩?」
そのとき、脳内で再生されている過去のセリフと同じ声の誰かが、自分の名前を呼んだ。
振り返ると、コンビニの袋を手にした岡崎早苗がそこにいた。
「やっぱり嘘だったんですね、用事があるって」
「君も、暇そうだよね」
くすり、と二人が同時に笑った。「どこか、一緒に行きませんか。暇なもの同士」
そうして、二人でファーストフード店に入ることになった。クリスマスの夜に二人きりなんて、どこか意味深だ。しかし、青木にとっての岡崎はそういう意味合いから最も遠い場所にいる人間である。それはなぜか、という事実については考えたことがない。そもそも、甘池清子の件以来、青木は明確に見える形での恋愛をしていない。
「去年は、こんなことになるとは思ってませんでした」
岡崎はそう言ってポテトをつまんでいる。青木も自分のハンバーガーに食いつく。
「貝瀬さんと、松浦のこと?」
「ええ。まさか、貝瀬先輩がオーケーするなんて思わなかったんですよね。世の中、よくわからないものです」
確かに、青木もあの二人が付き合い始めるとは思っていなかった。少なくとも、去年のクリスマスには予想できなかった。
これまで、松浦の片思いが実ればいいとは思っていたし、それなりのバックアップもしてきたけれど、いざ実ってしまうと嘘のように思える。現実離れしているなあ、と感じる。自分の恋が実ったときも、同じ気持ちだっただろうか。それについてはうまく思い出せない。実った後に朽ちてしまった恋の話なんて、思い出す必要もないだろう。それに、自分が彼女のことを考えることは、ずっと前に彼女自身が禁じたから――これはもう考えない。
「でも、こうなってよかった。ここだけの話、ぼくは、もっと最悪な事態を想定してたんだ」
口にしてしまってから、ああ、しまった、と思う。これは今ここで、特に岡崎の前で言うべきことじゃない。最近、思ったことをそのまま話してしまう癖がついているような気がする。
岡崎は首をかしげて、問いかける。
「……それは、貝瀬先輩のことですか? それとも、松浦先輩?」
「両方」
貝瀬理恵は、どうにも危うい精神の持ち主だ。少しのことですぐにぐらぐら揺れて、危なっかしい。誰かが支えてやらないと、すぐに崩れてしまいそうな気がする。松浦がいなかったら、きっとその「支える役」を自分がやることになっていただろう、とよく思う。それは単純に放っておけないからで、異性として意識しているわけではないのだけれど。松浦も青木と同じで、最初はただ、支えてやりたいと思っただけなのだろう。それがいつ、恋愛感情にすり替わったのかは、青木は知らない。
そして松浦の方は、と言えば――彼は、貝瀬依存症なのだ。貝瀬が視界の中にいないと、なんだか落ち着かない顔でそわそわし始める。ほほえましいな、と思いつつ、それはそれで危ういのだ、とも考える。一人の友人として、見守ってやらなければいけないだろう。
要するに、自分は貝瀬を支えることより、松浦の恋を支えることを選んだのかもしれない。
「青木先輩って、二人の保護者みたいです」
岡崎はそう指摘する。また、核心を射抜かれた気がする。少しだけ心が粟立つ。これだから、岡崎早苗は苦手なのだ。普段、他人を苦手だとはめったに思わないのに、彼女に対してだけは、どうにも苦手意識が先行している。
「保護者を気取っていたいだけじゃないかな」
保護者、なんて立派なものではない。だいたい、同級生に対して「保護者」なんて、傲慢にもほどがある。
「でも、それでいいんじゃないですか。青木先輩がいないと、あの二人、うまいことつり合わないと思います」
ジュースを飲みながら、岡崎はそう言った。
「つり合わない?」
「今日だって、きっと喧嘩してますよ。それで、いつも止めてくれる青木先輩がいないのに気づいて、慌てて仲直りしたり。そんなかんじ」
まるで見てきたように語る岡崎に、青木は苦笑する。おそらく、そのとおりだろう。あの二人が何の問題もなく、普通のクリスマスを送っているとは思えない。
「もしかすると、わたしたちに気を使って別行動してるかもしれないです」
「ああ、それもありそうだ」
「それだと、わたしたちは貧乏くじってレベルじゃないですね」
「うん、なんていうか……ちょっと絶望するレベルだね」
今度は岡崎が苦笑した。「わたしの前で、そういうこと言いますか?」
「いや、別に岡崎さんと過ごすのが絶望的とかそういう意味じゃないよ」
「わかってますよ。去年のクリスマスが、楽しすぎたんですよね」
するすると会話を進める岡崎は、ナチュラルに笑っている。いつだって変わらない、機械的な笑顔。その笑顔に、松浦は不安を覚えるようだった。青木は、不安にはならないけれど、鏡の中の自分を見ているようで――ちょっと、複雑な気分だ。おそらく、自分もこういう風に笑って過ごしている。
「そうだね。寒かったけど、楽しかった」
「自販機のアイスとか、コンビニのケーキとか、小道具は妙でしたけどね」
青木の中では、その奇妙さが、むしろ思い出としては強烈なイメージだ。寒々しい公園のテーブルや、たくさん並んだ空き缶。ぶつぶつと小言を言っている松浦の声や、高らかに歌う貝瀬の声。両手に刺さるような鉄の感触も、同時に思い返される。本当に特殊な、しかし非常に楽しい一日だった。
「今から、公園に行ったらどうかな」
「寒いですよ」
青木の提案を、否定もせず肯定もせず。岡崎はにこにこと笑ったままだ。
「また、ブランコですか?」
岡崎の問いかけに、青木は少し考えてから、笑顔で答える。「まあね」
「去年のクリスマス、わたしの中で一番印象的だったのは、あのブランコから見た風景なんです」
「そうなの?」
「どうしてだか、わからないんですけどね」
ふうん、と青木は頷いた。自分は、思い出に優先順位をつけたことがない。何が一番印象的だったか、なんて――考えたことがなかった。青木がぼんやりと思っていると、岡崎ははっとしたように顔をあげた。
「もしかすると、今年もあの風景を見たいのかも。それで、こういう展開になっているのかも」
独り言のように矢継ぎ早に言って、青木の返答を待たず、立ちあがった。
「行きましょうか、先輩」
彼女がそんな風に積極的に誰かを誘うのは、とても珍しいことだった。
刹那、美しくかすむ景色を見た。もちろん幻だ。ブランコから見える風景は、どこにでもある普通の公園。風を切って高みに登っても、特に何も感じはしない。ただ、足を地面から離していられるのが好きだった。昔、地面に立って歩いている自分、というビジョンがどうしようもなく嫌になったことがある。その頃は世界に当たり前に存在しているいろんなものが嫌で、できるだけ当たり前から遠い場所にいたいと思っていた。そんなとき、学校をサボって公園のブランコに乗ってみたのだ。その日から、公園がなぜだかとても心地よい場所になった。今の青木は、むしろ当たり前であることの方が貴いと考えているけれど、ブランコが好きなのは変わらない。
「うーん」
岡崎は、青木の隣で唸っている。「去年みたいにすっきりしないです。なんでだろ」
「やっぱり、貝瀬さんや松浦がいないからじゃない?」
「それもあるんですけど、こう、ランナーズハイ的なアレがないです」
「ランナーズハイ?」
「お酒が入ってないからでしょうか」
岡崎はまじめな顔でむすっとしている。彼女らしくない機嫌の悪さだ。同じ場所で同じことをしたからと言って、去年とまったく同じ気分になるはずがない。青木はそう思うのだが、岡崎としては、「去年と同じような気分」になりたいらしい。どうやら納得がいかないようなので、手伝ってやった方がよさそうだ。こういうとき、何ということわざを使えばよかったのかを考えてみる。毒を食らわば皿まで、というか、乗り掛かった船、というか。もっとしっくりくるものがあったような気もするが、思い出せなかった。
酒を飲んでも状況は変わらず、岡崎はむくれている。
「どういうことなんでしょう。去年のあの感動を返してほしいです」
「なんか今日の岡崎さん、アグレッシブだね」
青木と岡崎は、他の二人からは似た者同士っぽく認識されているし、実際、同族に近い存在だろう。が、青木は彼女と自分がまったく同じだとは思わない。岡崎は、かなり本性を隠して生きているような気がする。うまく言えないが、底知れない何かを感じるのだ。
「あ、ところで」
岡崎が風を切るのをやめて、こちらを向いた。「青木先輩」
「なに?」
「わたしのこと、好きですか?」
意図の見えない問いだったが、答えは一つしかなかった。
「普通」
「貝瀬先輩は?」
「好き」
「松浦先輩は?」
「好き」
「……わたしは?」
「……普通」
きりり、と針金でも巻きつけるように岡崎が青木を見た。
「では、甘池清子は?」
きりり。少し遅れて、青木をその名前の響きが、締め付けた。歯噛みしたい気持ちを抑えて、青木は返答した。
「ノーコメント、だな」
自分は、清子のことを好きとか嫌いとか、そんなことを言う次元にはすでにいないのだ。好きであったとしても、嫌いであったとしても、そんな事象には意味がない。口に出すことを許されない感情に、存在価値はないのだから。
さて、彼女はどう出るだろう――と思ったが、岡崎は特に何も言わず、ため息をつく。
「うーん、予想通りすぎてつまらないです」
青木はまた、苦笑いする。
「何がしたいの?」
「――わたし、漫画ってほとんど読まないんですけど」
岡崎は独白のように言う。
「少女漫画で、主人公とそのお相手がくっついたら、脇役も思い出したように脇役同士でくっついたりしますよね」
「うん、よくあるね。しかも、読者には評判よかったりする」
「今のわたしたち、まさにそういう状態だと思うんです」
岡崎早苗が唐突に爆弾を取り出して、投げつけてくる。避けたかったが、ぎりぎりのところで被弾する。右肩を損傷するイメージが浮かんだ。
確かに、青木も同じことを考えていた。
今日、自分たちがこうして過ごすことになったのは、貝瀬と松浦が付き合い始めたからで。
岡崎に会わなかったら、青木は一人きりだった。岡崎も、青木に会わなければ一人きりだったかもしれない。これからも、音楽研究サークルの部員が四人である限り、そして貝瀬と松浦が破局しない限り、この現象は無限に続いて行くわけだ。
それならば、恋人同士になるとは言わなくても、協定を結ぶくらいのことは必要なのかもしれない。
お互いの寂しさを埋めるための、共同戦線を。
他の誰かとオンサ並みに深く付き合えるほど、青木たちは器用じゃないのだ。
「と、わたしが言ったらどうします?」
岡崎は一歩引いてそう言った。
「さて、どうだろ」
青木は言いながら、どうすべきか模索していた。別に、岡崎のことが嫌いなわけではない。一緒に過ごすだけなら、構わない。
だが、彼女と関わることで、甘池清子の記憶を掘り返されるのは避けたい、と青木は思う。
自分は岡崎のことが苦手だ、とずっと思っていた。それは間違いではない。
でもそれよりも大切なのは、これ以上清子への恋が続いて行かないようにすることだった。
これは、生きていく上での最優先事項だ。ただ、清子に迷惑をかけたくない。そういう、切実な願い。
清子が青木を邪魔だと思っているのなら、もう彼女には関係してはいけないのだと思う。岡崎と一緒にいると、その禁を破ってしまいそうで怖いのだ。
青木にとって、清子につながるものは、今はもう岡崎だけだ。
そのつながりが、青木にはとても恐ろしいものに思える。
「先輩は、怖がりですよね」
岡崎は、青木の怯えを見透かすように、笑って言った。
「いつも、一歩引いてる。わたしと似てる」
「そうかな」
青木はそう口に出してみたが、まさにこういう受け応えが、『一歩引いてる』のだろう。今、自覚した。そんな彼に、岡崎は続けて問いかけた。
「わたしは、他人に関わるのが怖いです。自分を知られるのが、弱みを握られるみたいで、怖い。先輩は、何が怖くてそうしてるんです?」
「……何が、怖くて」
復唱して、その意味を飲み込んだ。
自分が怖がっているのは、何だった?――答えは、わりとすんなりと導き出された。
「ぼくは、他人を侵食することが怖い」
誰かと関わった自分が、誰かを不快にする。
誰かと関わった自分のせいで、誰かが不幸になる。
誰かの時間を奪っている自分が、たまに嫌になる。
別に、清子のせいでそうなったわけではなく。
自分は最初から、そうなのだ。
今日、一人で過ごそうと決めたのだって――根本のところでは、その理屈に従っただけかもしれない。
「……そう」
岡崎はそれだけ答えて、ブランコから足を浮かす。去年も見たような気がする動作だった。彼女は少し息を吸って、若干大きめな声で言った。
「では、そんな怖がり同士、ブランコでもこぎますか?」
「うん、そうしよう。競争だ」
青木は唐突に宣言して、大きくブランコをこぐ。黙って、ただ、高い場所へ昇っていく。岡崎も黙って同じことをする。ふと視線を彼女の方へ向けると、彼女は楽しげに笑っていた。去年も、彼女はそんな顔をしていただろうか。青木は覚えていない。
「競争って、どうやって勝ち負けを決めるんです?」
岡崎が問いかけてくる。普通に話していては声が届かないので、叫ぶように、声を吐き出している。
「勝ちだ!って思った方が勝ちだ」
青木も叫ぶようにそう答える。
「じゃあ、わたしの、勝ちです!」
「うん、それで、いいよ!」
絶叫するような大声も相まって、酔っ払いの会話みたいだった。実際、酔っているのかもしれない。
「わたし、今、ちょっと楽しいです!」
「よかったね」
青木はそう言って、ブランコを止めた。しばらくしてから、岡崎も止まる。
「さて、青木先輩。もう一回聞きます」
岡崎が、ブランコから離れて立ち上がる。その動作が妙に鮮明に脳裏に焼きついた。
「わたしのこと、好きですか?」
青木はもう一度その問いかけを吟味する。吟味して、出た答えを彼女に告げる。
「ああ、まあ、どっちかと言えば好きだ」
これは吊り橋効果ってやつかもしれない、と息を整えながら思う。明日になったら、また「普通」と答えることができるのだろうか。岡崎は、ブランコに座っている青木に手を差し出して、笑う。青木はその手に引っ張られて立ち上がった。
「ちなみに、わたしは、普通です」
「うーん、その答えも予想通りすぎて、ちょっとどうかと思うな」
青木がそう言ってやると、岡崎はくすりと笑顔になった。
「さて、帰りましょうか。ブランコ、楽しかったですよ」
「うん、帰ろう」
帰り道、雪が降り始めていることに気付いた。ブランコをこいでいたときも、降っていたのだろうか。よく思い出せなかったが、まあ、いいや、と思った。ホワイトクリスマス、という単語は二人とも口に出さなかった。その代わり、貝瀬と松浦は大丈夫だろうか、という話をした。二人ともメールで泣きごとを言ってこないので、おそらく大丈夫だろう、という結論に落ち着いた。少し心配なので、あとで電話でもかけてみようかと青木は考えていた。ほんとに保護者っぽいですよね、と岡崎は言い、保護者ではない、と青木は言い返す。
「今日はありがとうございます。いい景色が見れました」
別れ際、彼女はそう言ってその場でターンした。
「来年も、おねがいしますね」
ささやくように言いきって、そのまま逃げるように去って行く。……やれやれ、と青木は口に出さずに言って、彼女とは逆の方を向いた。雪が降っている、一人きりの道。でも、岡崎と会う前よりは、心が晴れている。特に明言はしなかったが、寂しさを回避するための共同戦線は、もう始まっているのかもしれなかった。
091224