福音

 今年、ぼくのところに来た年賀状は一枚だった。デジタル社会の弊害というやつで、ほとんどの友人がメールで挨拶を済ませてしまっていたのだ。だが、その絶望的な枚数に、ぼくはくじけなかった。なぜなら、その一枚は、去年付き合い始めた女の子から初めてもらった年賀状だったからだ。それだけで価値があるっていうものだろう。
 ただし、絵は手描き。ぼくが好きな二次元キャラが三人並んで美しく描かれた年賀状だった、というオチがつく。二次元の嫁と三次元の恋人は別物だと理解しつつ、この絵はなんだか浮気を指摘されているみたいでいたたまれなかった。貝瀬は曲がりなりにも同人作家で、絵は人並みにうまい。普段は男同士が絡み合っているようないかがわしい漫画を描いているが、女子の絵が描けないというわけではないということが今回、判明した。むしろ、変な願望や欲望が入っていない分、女子の方が上手いと思える。
 ぶっちゃけて言ってしまうとかなり「萌える」絵だった。悔しいくらいに。
 ということで、大変複雑な気分で元旦を迎えた。いい気分とか悪い気分とか、どちらとも言い切れない気分ってあるもんなんだなあ。幸せなのか不幸せなのか、いまいちよくわからない。

 ああ、ところで。全然関係ないことなんだけれど――クリスマスの記憶がない。
 ぼくは去年のクリスマス、そしてその後の数日間、どんなふうに過ごしたんだったか。
 一昨年のクリスマスのことならよく覚えている。風が吹き抜ける公園でアイスクリームを食べた。わりと楽しかったのだが、ぼくと貝瀬は途中で酔いつぶれていた。そして、なぜかぼくだけが食中毒で入院したのだ。食中毒の原因は古い自販機の中に長期間保存されたアイスで、公園のアイスクリームの機械を設置した業者が、後日調査に来たらしい。今はもうあの機械はないのかもしれない。
 まあ、そんなことはどうでもいいとして、一昨年のぼくは、結局ずるずると入院の日にちを延ばされ、元日も病院で過ごすことになった。見舞いに来た貝瀬にはかなり笑われた。屈辱だった。
 そんな感じで、一昨年のことならば鮮明に覚えているのだ。が、一週間ほど前、ぼくはもう一度、クリスマスを迎えているはずだ。なぜ、それを覚えていないのだろう。これはどう考えてもおかしい。
 もしかすると、情報操作でもされているのかもしれない。脳を直接いじって。うーん、どっかのSFアニメでありそうな展開ではあるけど、自分にそれが起こるのはちょっと嫌だなあ。というか、現実味がなさすぎて信じられない。
 情報操作でないとすると、なんだろう。今日はまだ元日じゃない、とか……と考えてみる。でも年賀状がしっかり届いているし、家族も元日っぽいめでたそうな空気を醸し出してるんだよな。全員がグルでない限り、これは却下だ。
 とすると、やっぱりぼくの記憶がおかしいのだろう。クリスマス前後、ものすごく忘れたいことか何かがあって、記憶が無理矢理デリートされたとか。SFチックではあるが、他者が脳に干渉した情報操作よりは現実に近そうだ。
 では、忘れたいことって何だろう。と考えてみるに、貝瀬関連のことしか思いつかない。なにしろ、ぼくらは付き合いだしたばっかりなのだ。何を考えてるのかよくわからないあの女のことだ。クリスマスに別れ話を切り出してもおかしくない。うわあ、リアルにありそうで嫌だ、これ。
 そもそも、貝瀬と付き合いだしたという事実自体がぼくの夢かもしれない。クリスマスの夜、天啓が下って、ぼくは夢から覚め、記憶をそっと消したのかも。うん、これもわりとありそうだな。今は夢から覚めた夢を見てるんだ、という、わりとロマンチックな展開である。
 呆然としつつ、貝瀬から届いた年賀状に目を戻してみる。はがきの大部分をCGが占めているため、変わったことは何も書かれていない。「あけましておめでとうございます!」とギャルゲーのタイトルみたいなフォントで書いてあるだけ。うーん、このフォントはどこから持ってきたんだろ。って、そんなことはどうだっていい。ちょっと混乱しているようだ。
 年賀状とにらめっこしていると、ぶー、ぶー、と音が聞こえてきた。「ぼくを食べないで」と悲しげに鳴いている子豚の泣き声ではなく、携帯電話のバイブレーションだ。メール着信。差出人の名前を見て、心臓が跳ねた。貝瀬だ。
「今から行くから覚悟しなさい」
と書いてある。文末にはキラキラと輝くかんじの光の絵文字がついている。クリスマスのことを聞き出せるかもしれないが、「なんで忘れてるの。馬鹿なの死ぬのむしろ死ね」と言われる可能性もある。ぼく、絶体絶命なんじゃなかろうか。
 今から、ということはまだ猶予があるよな、と考えて、ぼくは青木にメールを送ってみることにした。本文は、「クリスマス、ぼく、何してた?」。なりふりかまわない、直球だ。返事はすぐに来た。
「知らないよ。貝瀬さんと過ごしたんじゃないの?」
「ありがとう」と返事を打って、ぼくは頭を抱える。ぼくはクリスマスの日、やはり貝瀬と過ごしたらしい。
「なんで忘れてるんだよ……」
クリスマスだけじゃない、元日に至るまでのほとんどが霧に覆われたようにぼやけて見えないのだ。尋常じゃないレベルの記憶障害だと思う。そして、特に解決策を見いだせないまま、玄関のチャイムが鳴る。ぱたぱたぱた、と足音が近づいて、ぼくの部屋の扉が開いた。貝瀬が立っていた。
「あけまめ」
貝瀬はそう言った。
「……あけまめ」
ぼくはかすれた声で答える。貝瀬はぼくに問う。
「年賀状、届いた?」
「うん、届いたよ」
「どうよ?」
貝瀬、渾身のうすら笑い。ぼくは苦笑する。
「正直、ごちそうさまでした」
茶化すようにそう言ってやると、「そうでしょー。もう超頑張って描いたんだから」と誇らしげに胸を張った。うーん、わかりやすいなあ。そういえば最近、自分に関する記憶を失ったまま、ヒロインに気付かれずに二人で同居し続ける主人公が出てくるアニメが流行ってたな。ぼくも、それと同じことができるかもしれないような気がしてきた。その幻想を、ぶち壊す!なんてな。と、脳内で調子に乗っていたら、貝瀬がこう言った。
「ところで、クリスマスのことなんだけど」
いきなりピンチだった。やべえ、どうしよう。と思いつつ、ぼくは「うん」と促した。
「ほんと、ごめんね。まさかあんなことになるとは思わなくて」
驚くべきことに、貝瀬は珍しく、しょんぼりとした顔で謝った。ぼくは戦慄していた。
 なんだこれ、ぼく、何しちゃったんだろ。まじで知りてえ。貝瀬がぼくに向かって直接謝ることなんて、今までに数えるほどしかなかったと思うんだけれど。やっぱり、男として致命的に絶望されるような何かをしてしまったのだろうか。もうそれしか思い浮かばない。
 どうする、ぼく!今謝っておいた方がいいんじゃないのか……数枚のカードを目の前に悩む男のCMみたいに言ってみてもだめだ。続きはウェブで!っていうのも反則だし。CMの続きをウェブで見たいと思う人間なんてほんの一握りだと思うんだけど、どうよ。だいたい、人生はウェブには続かないんだぞ!
 いやそんなことどうでもいいし。誰に話しかけてるのかわかんねえ。
 まじで、どうしよう。生まれてから今までで、こんなに悩んだのは初めてかもしれない。
 本気ですまなそうな顔をして、うなだれている貝瀬を見ながら思う。
 ……不肖・松浦かなめ。今、すっごく修羅場かもしれません。


 だがしかし、この奇妙な状況は、びっくりするくらい急激に収束した。
「今日はあの日の埋め合わせをしようと思って――」
と貝瀬はかばんから箱のようなものを取り出し、それを見たぼくの視界がかすかにスパークした。
「あ、ああ」
強烈な既視感。そう、確かあの日も。かばんから、貝瀬が何かを取り出して、それで。
「うわあ」
ぼくは思わずのけ反りそうになった。その箱の中に、なんだかとても恐ろしいものが見えたような気がしたからだ。見たら石になるどころか遺志になってしまいそうな、恐ろしい何かが。
 実際には、そこには普通のお弁当があるだけだった。何もない。ぼくが見たのは、過去の――具体的に言うなら一週間前のクリスマスの、幻影だった。
「……どうかな? 今回は、ちゃんと食べれる味にした、つもりなんだけど」
貝瀬は控えめな目つきでぼくを見上げてくる。それを見返しながら、ぼくはようやく、じわじわと思い出していた。クリスマスの日、何があったのかを。


 結論から簡単に言ってしまうと、ぼくはクリスマスの夜、貝瀬の料理を食べた。食べさせられたのではなく、自分から食べた。それで、あまりにも味がアレだった(成分もアレだったかもしれない)ために記憶が混濁していたらしい。貝瀬の料理が核爆弾級のヤバさを内包する生物兵器だということは知っていたのだけれど、付き合い始めてから初めて彼女が作ってきた料理だったし、何よりクリスマスだったから――ぼくは頑張ったのだろう。頑張っていたときの記憶は残念ながら戻ってこないので推測するしかない。たぶん、すごく頑張ったのだ。
 貝瀬のしおらしさからして、ぼくの異常はその日のうちに彼女にも伝わっていたということだろう。クリスマスデートの最中に生物兵器で彼氏をKOしてしまったら、さすがの貝瀬理恵も凹む。それで、今回はまっとうに見える弁当を持ってきたわけだ。
 ぼくは弁当に目を移す。少し焦げた卵焼き、プチトマト、レタス。ゴマ塩のかかった白米。あと、妙に綺麗なからあげが二つほど入っているけど、これはたぶん冷凍食品だ。前回の反省を生かして、今回は出来る限り食べられるものを優先して入れたのだろう、と思われる。
「いただきます」
卵焼きを、おそるおそる箸でつついてから、口に入れてみた。咀嚼。……大丈夫、生きてる。ていうか、食べられる。
「これ、普通に食える」
思わず口に出してしまってから、自分の無神経さに震える。もっと気のきいたことを言わなきゃダメだろ、ぼく。しかし貝瀬は、泣きそうな顔で「よかったぁ」と言った。しおらしい貝瀬は通常モードよりかわいいな、とか考えてしまって困る。いつもしおらしかったら、いろいろと楽かもしれないぞ、とよからぬことも考えてしまう。
「いや、うまいよ。まじで」
ぼくは慌てて付け加えて、にっこり笑ってみせる。
「ほんと? 気分、悪くない?」
うん、心配されるのも悪くないな――とぼくは内心にやにやする。デレ貝瀬(と今命名した)は新鮮である。ツンデレにデレはいらない、っていう主義の人が世の中には存在するけど、三次元に関してはそれはノーだ。やっぱり、デレあってこそのツンだ。すごく達成感がある。
「……なんか、にやにやしててきもい」
貝瀬はほんの少しデレモードの口調を残したままで、そう言った。
「そうかい」
あえてそっけなく返しつつ、弁当の残りを頬張る。そんなにおいしいわけではないが、生物兵器ではない。舌を攻撃するような味でもない。あの貝瀬がこの一週間で普通の料理を作れるようになるまでに、どれだけ頑張っただろう、と考えるとまたにやけてしまう。ぼくがクリスマスの夜に頑張ったように、彼女も頑張ったのだ。一昨年のクリスマスには考えもしなかった。自分が誰かのために頑張って、その誰かも自分のために頑張ってくれる、それがこんなにも楽しいなんて。

 ただし、貝瀬が普通の料理なんか作れるはずがない、と本気で思っていたことに関しては、反省しておきたい。ちょっと、アニメの見すぎだったかもしれない。アニメや漫画だと、どれだけ頑張っても料理音痴は直らないことが多いし、そもそも直そうとしないことが多いものだ。
 アニメの設定を鵜呑みにしちゃいけないなあ、と思いながら、ぼくは最後のからあげをつまみあげて口に入れた。おいしかった。


 ぶー、ぶー。とまた携帯がバイブレーションしている。少し機嫌を良くした貝瀬が帰ってから開いてみると、青木からのメールだった。先ほどの不審なメールで心配させてしまったのだろう。ぼくは少し考えてから、本文にこう打ちこんだ。

「今年も、いい年になりそうだぜ!」

数十秒後、「よかったね」とそっけない返信が返ってきたのは言うまでもない。



091224