かさぶた
男女の付き合いが始まったからと言って、二人の性格や性質が劇的に変化するわけではもちろんない。よって、貝瀬の不幸体質というか、そもそも幸せを諦めたようなその姿勢がいきなり消え去ることはなかった。ぼくの目下の仕事は、彼女の周りをシャボン玉みたいに漂っている不幸を、一つずつ見つけて、ぷちぷちと地道に潰していくことだった。
貝瀬と過ごす時間が増えてまず気付いたことは、彼女が思っていたよりずっと、不幸へと勝手に傾いていく精神の持ち主だと言うことだ。傷の上に傷を作る。不幸の上に不幸を作りたがる。道を歩いていても、勝手に水たまりに引き寄せられてその上マンホールに落ちてしまうような、そんな人生を彼女はずっと生きてきた。ぼくの身内にも似たような人間がいるから何となく気持ちはわかるんだけれど、それにしたって彼女は極端なのだ。貝瀬の隣にいると、自分はとても幸せな人間だったんじゃないかと思う。無自覚に幸せを垂れ流して、もったいないことをしていたかも、なんて。世の中には、普通に生きていても幸せになれない人間がいて、それはぼくじゃない。そのことを考えるとすごく憂鬱になる。
ぼくらは道を歩いている。映画館へ行くのだ。恵まれない子供たちに愛の手を。街頭で誰かが叫んでいる。貝瀬はチッと舌打ちをした。募金箱に入っているお金が本当に「恵まれない子供たち」に届くはずがない、と彼女は考えているらしい。たとえ募金箱から恵まれない子供に何かが届くシステムが構築されていたとしても、そのシステムはすべての恵まれない子供を救えないから、結局恵まれた子供と恵まれなかった子供が生まれてしまうだけで、そんな差別的なシステムならない方がましだ。と、一年前の貝瀬は言った。たぶん、貝瀬自身が恵まれなかった子供だから、そう感じるのだ。ぼくはそもそも、募金箱の中身の行方には興味がない。何も言わず、ぼくらはそこを通り過ぎた。
「何が食べたい?」とぼくは尋ねる。貝瀬は少し考えるそぶりを見せ、ポップコーン以外に何があるのかしら、と言った。皮肉ではなく、本気で悩んでいる様子だ。そう言われると、確かにぼくもポップコーンとジュース以外、映画館に何が売っているのか知らなかった。
「着いてから考えよう」
「そうね」
貝瀬はけだるそうに髪をかきあげて、新エヴァと旧エヴァの違いについて話しはじめる。これから見に行くのもエヴァンゲリオンなのだが、すでに彼女は一度見終わっているらしく、容赦なくネタバレをしていく。ぼくは適当に相槌を打ちながら、付き合いはじめる前のぼくらが旧エヴァだとしたら、今過ごしているこの世界が新エヴァで、だとすると彼女はアスカなのかレイなのか、というようなことを考えている。
もしかすると人類が補完されてめでたしめでたし、という旧エヴァ的終わりの方が貝瀬にはふさわしいのかもしれない、と思い至って自分が嫌になる。違う、そうじゃない。この世界には人類全員がひとまとめに補完されてしまうような、都合のいいシステムは存在しない。そんなものがあるのなら、恵まれない子供はどこにもいないはずだ。今ぼくが手をつないでいる、恵まれなかった貝瀬理恵も、いないはずなのだ。
「でもさー、なんか納得いかないわよね。失敗した世界をやり直すなんて」
貝瀬はそう言ってぼくの手を軽くつねる。
「何度もやり直して最後にたどりついた世界がハッピーエンドなら、それでいいの? それまでの世界は間違ってたの?」
そんなはずはない、と思う。15498回夏休みを繰り返したとして、九月に至る世界は正しくて、至らない世界は無駄だったなんてことはない。雛見沢が毒ガスで全滅したことになっている世界は間違っていて、ループを抜け出した世界は正しいなんてこともない。バッドエンドの世界をなかったことにすることはできなくて、ハッピーエンドはバッドエンドの上にこそ成り立つ。でもそれは、あくまで二次元的な解釈の話であって、現実世界に関してはまた別口の考えが必要なんじゃないのかな、とぼくは言ってみる。なにせ、三次元はループしないのだ。
「そう。松浦はいつも正しいわね」
貝瀬がふてくされたように言い、ぼくはそれを黙って受け流す。
「わたしの世界はきっとトゥルーエンドになるって信じてる」
唐突にそう言って、ぎゅっと彼女がぼくの手を握った。
そのまま立ち止まった貝瀬に引っ張られて、少しよろける。
貝瀬は動かない。ぼくも、バカみたいに道の真ん中で立ち止まる。
貝瀬は泣きそうな顔をしていて、彼女がなぜ泣きそうなのかがぼくにはわからない。
「信じてるの、信じてもいいよね、信じたいの」
貝瀬がぼくの手に爪を立てそうな勢いでつぶやく。その声で、ああ、彼女は怖かったのだ、と気付いた。自分の世界が未来につながる正しい夏休みではなく、ループしてくだらなく消費されていくバッドエンドの一種ではないかという類の不安が、彼女の中に澱のようにたまっている。その澱を除去してやらないと、ぼくは彼女を幸せになんかできない。ぼくの中にも彼女の中にも、トゥルーエンドへの可能性はまだ、生まれていなかった。
今日映画館に行くことになったのも、たぶん、正しい世界につながりたいという二人の願いが原因だった。映画館に二人で行くなんて、道で手をつないで歩くなんて、恋人っぽくて幸せそうだから。でも実際の貝瀬は、募金箱の中身が恵まれない子供以外の誰かに渡っているかもしれないことを思って舌打ちをしていた。ぼくも彼女との会話の中で不吉なことを考えていた。まだまだ幸せは遠く、でもぼくらは互いの手を離さずにここで生きている。
「ぼくは信じてるよ」
あくまでそっけない風に、そう言ってやる。貝瀬は不意をつかれたように黙った。
「ぼくはいつも正しいから」
彼女が何も言わないので、先ほどの彼女の言葉を繰り返してみた。貝瀬はぷくりと頬をふくらませて応じる。
「……うそつき」
その声は、少し明るくなっているような気がする。ぼくのうぬぼれ、気のせいかもしれないし、本当かも知れない。いずれにしても、ぼくはぼくの正しさを信じるしかない。浮き沈みの激しい貝瀬と一緒に、浮いたり沈んだりするしかないのだ。
今まで負ったたくさんの傷を、なかったことにしてやり直すことはできない。ぼくらはかさぶたの上にさらに傷をつけられてもまだ生きていかなければならず、その先には終わりがない。バッドエンドもハッピーエンドもない。それでもぼくは、最後の瞬間に貝瀬が幸せである世界を望んでしまっている。誰もが笑っている世界でなくていい。すべての恵まれない人が恵まれる世界は望めなくても、たったひとりの恵まれなかった彼女が幸せになればいい。
そんな願いを同じように抱いたぼくらは結局、キャラメルポップコーンと塩ポップコーンを一つずつ買った。
映画が始まる。物語が進行する。ぼくらは同じ場所で止まっている。世界は動き、ぼくらは動かない。シンジがレイを救出しに来たシーンで、貝瀬がぼくの服の襟を無理矢理つかんでキスをする。そのとき、ぼくの歯の裏を這う彼女の舌から、塩の味が脳の裏側を突き抜けた。世界がぐるりと一回転した気がした。ああ、ぼくはやっぱりシンジなんじゃないか、と感じる。すべての男たちは誰かを救うためにエヴァに乗っていて、悩み苦しんでいるたくさんのアスカとレイに向かって突撃していく。アスカは救えなくてもレイは救えるかもしれない。誰も救えなくても世界は救えるかもしれない。きっと、何かひとつくらい救えるはず。念仏のようにそう唱えながら、命を削って戦う戦士だ。唇を離した貝瀬は暗闇の中で笑っていた。このバカバカしい、いかにもオタクくさい感傷が、唇を通じて彼女に伝わったのかもしれない。ループしすぎて絡まったややこしい世界は愉快で、バカバカしく、気を抜くと簡単にほどけていく。ほどきすぎるとまた絡まるから、慎重に扱わなくては。
ぼくは映画が終わっても、しばらく立ちあがらずにぼうっとしていた。明るくなった映画館の椅子に腰かけている貝瀬は案外晴れやかな顔をしていて、少し残ったポップコーンをつまんでぼくの口に押し込む。今度はキャラメルの味がして、ぼくは思わず微笑んでしまった。
100131