「わかってる」

 その少女は貝瀬に似ていた。
 すべてを思いつめたような瞳、短めにカットされた髪、どこか不機嫌そうにひそめられた眉。
 全部、貝瀬と同じ。
 ビルの屋上で彼女を見たとき、ぼくは何を考えただろうか。
 手摺の向こう側でゆらゆらと上体を揺らして遊んでいる少女。
 そのときは確か、彼女が今にも飛び降りてしまいそうだと、思ったのだ。

「ちょっと!」
つい、焦って声をかけてしまった。そこに腰かけた少女はゆったりと振り返った。
「おにーさん、何か用?」
その動作で、彼女は飛びおりたくてそこにいるわけではなく、ただ遊んでいるだけなのだとわかる。
ぼくは脱力した。
「そんなところにいたら、危ないだろ?」
「あぶなくなくなくないよ」
「どっちだよ」
ぼくの問いかけに答えないまま、少女はにこにこと快活に笑った。放っておけばいいのに、ぼくは彼女の笑顔に見入ってしまった。どこか影を帯びた、その表情。表向きは快活に見えはするものの、実はそうではないのではないかと思わせる何かがある。
「おにーさんも、こっちに来れば?」
「いや、遠慮しておく」
ぼくは高所恐怖症なのだ。高所以外にもいろいろ怖いけど。
「ふうん」
少女は首を傾げた。「おにーさん、弱虫ね」
そのまま、彼女は立ちあがってスカートをはたいた。
「じゃあ、さようなら、弱虫のおにーさん」
手摺をするりと抜けて、少女はぼくの隣を通過し、階段を下りていく。
「あ……」
 その後ろ姿が本当に貝瀬にそっくりで――ぼくは一瞬、自分が何を考えているのか見失った。
 屋上を吹き抜けていく風は、肌寒いながらも少しだけ温もっている。もうすぐ春が来るのだ、と思った。


++++


 が、そんなことよりバレンタインデーである。
 今日は十三日だが、ぼくはどういう風に明日を過ごす予定なのか、まだ決まっていない。
 今は、貝瀬からの連絡を待っている。
 ぼくから連絡したら、催促しているみたいで恰好悪いから――なのだが、貝瀬からは何も連絡が来ない。
 貝瀬のことだから忘れているのかもしれない。
 もしかすると去年のようにサークルのみんなで過ごすつもりなのかもしれないし、いきなりぼくの家に押しかけてきてサプライズプレゼントをするつもりなのかもしれない。そうするとなおさら、ぼくが口を出すとややこしいのではないか。そう思ったので、とりあえずぼくは待つことにした。
 しかし、貝瀬理恵から来たメールはこれだ。
『バレンタインは中止!』
「何故……」
あーあ、またこれか。貝瀬のメールって、肝心な本音部分がクローズ状態なんだよなあ。
「どうしてか説明しろ」と返信する。
数分後、電話がかかってきた。
「バレンタインデーとはチョコレート会社による陰謀行事かつリア充の象徴。そんなムカつくリア充どもをなぎ払い駆逐するための抵抗運動、それがバレンタインストライキである。我々はここに誓う、すべてのオタクたちを裏切らないことを。二次元、万歳」
一方的にまくしたて、電話はぶつんと音を立てて切れた。
――やれやれ。どうしておまえの嘘はそんなに分かりやすいんだろうな。ぼくはため息をついてみる。
 もう、今のぼくには彼女が考えていることくらいわかる。何に悩んでいて、どうして、バレンタインは中止、なんて言い出すのかも。なぜ苦しい嘘でごまかそうとするのかも、わかる。そりゃあ何もかもわかってしまうわけではないのだけれど、貝瀬がぼくの前でしおらしくなるとき、彼女が何を思っているのかというくらいは察することができる。今だって、貝瀬は電話の前で真っ赤になって震えているに違いない。
 ぼくは立ち上がり、コートを着る。もう外はそこまで寒くないのだが、まだ春物のコートを下ろすには早い。マフラーは置いていくことにする。外の空気はさわやかに冷たく、薄青色のヴェールをまとっている。
 貝瀬の自宅に着いて、チャイムを押す。数回押しても反応がなかったが、しばらくして貝瀬が扉を開けた。おそらく彼女の中に、居留守を使うかどうか迷いが生じた。そのためのタイムラグであろう。
「何か用ですか」
貝瀬はむくれた様子で問いかけた。ぼくはそれを無視して部屋に上がり込む。案の定、部屋には焦げたような黒い空気が漂っていて、異臭がする。
「ちょっと……!」
貝瀬が非難の声を上げるのを聞きつつ、台所に向かう。
 ……「ちょっと」、か。それは偶然にも、この間、あの少女に言ったぼくの言葉と同じだった。ビルの屋上で遊んでいたあの子は、今にもそこから飛び降りてしまいそうに儚くて――貝瀬にそっくりだった。
 要するにぼくは、貝瀬のことを今にもビルから飛び降りそうな奴だと思っている。そのイメージはしばらく消えないだろう。実際にあいつは、そういう生き方をしてきたのだ。しかし、いつまでもその印象に支配されるほどぼくは愚かではない。
 ぼくは知ってる。貝瀬は、ちゃんと立ちあがって歩き出そうとしてるってことを。
 台所は惨憺たる状態だった。
 黒っぽいものや焦げ茶色っぽいものがたくさん散乱している。
 どれもこれも、どこか甘い香りがする。たぶん、前世はチョコレート。
 どこにも完全な形をしたチョコレートがないのは、きっと貝瀬が諦めてしまったからだ。
 そのとき、貝瀬が何を考えてぼくにメールを送ってきたのか、考える。
 せつなくて心臓が少し縮まる気がしたが、同時に微笑ましくもあった。
「まったく、世話が焼けるなあ」
思わず嘆息すると、後ろから鍋で殴打された。
「何失礼ぶっこいてんのよ松浦風情が」
後頭部を抑えて振り向いてみると、真っ赤になった貝瀬がうつむいている。
「いや、あのさ。確かに生物兵器は危険だよ。でもそのせいでバレンタイン自体が中止だなんて、本末転倒っつーか七転八倒って感じじゃないかな」
「生物兵器言うな」
鍋がさりげなくフルスイングされるが、ぼくはさっと避けた。一年前はすべて喰らっていた貝瀬の打撃攻撃だが、最近は徐々に避けるスキルを積んでいる。うーん、ぼく、進歩してるなあ。命かかってるからなあ。そろそろ、脳とかヤバい気がするし。
「手作りにこだわることなんてないし、ぼくは貝瀬が作った物なら残さず食べるよ」
もう一度片手鍋をフルスイングしようとして、貝瀬は動きを止めた。
「……あれ、もしかして今、どさくさに紛れて松浦がかっこいいこと言った?」
「…………」
ぼくは黙る。どさくさに紛れてだから言えたわけで、もう一度言えと言われると実はちょっと厳しい。
 今にも「もう一回言って」と言われそうな空気だったので、話題を変えることにする。
「だいたい、悩む前に相談してくれればいい。ぼくだって料理は苦手だけど、手伝うくらいできる」
「そんなこと言いだせるわけないじゃない」
貝瀬は頬を膨らませている。
「去年、岡崎さんにチョコレートもらったでしょう。あれ、すごくおいしかったわよね」
「え? うん」
「あれと比べられたら、呆れられちゃうと思って……それで」
硬直してから思う。ああ、そうだ、貝瀬ってこういうやつだ。気にしなくてもいいどうでもいいところを気にして、その場で動けなくなる。そうして、結果として逃げてしまう。なんだ、考えてみればいつもの貝瀬じゃないか。ぼくは緩やかに笑んだ。
「岡崎のチョコレートと貝瀬は、関係ないだろう?」
「関係ある。松浦は今年も、岡崎さんに手作りチョコをもらうかもしれない」
「貝瀬が嫌だっていうならもらわないよ」
こつん、と貝瀬は鍋でぼくの頭を軽くたたく。
「だめ。松浦は苦手かもしれないけど、わたしにとっての岡崎さんは、大事な友達なの」
ぼくが岡崎を苦手としていることを、貝瀬が知っているのが意外だった。案外、こいつもぼくのことをわかっている。なんだか嬉しかった。
「……まだ、十四日にはなってないよな」
仕方ないので、ぼくは言う。「これから作ろう。チョコレート」
貝瀬は一瞬びっくりしたように黙って、鍋を持った手を下ろす。しばらくして、嬉しそうに笑った。
「うん!」


 チョコレートその他の材料を買いに行って、貝瀬宅に戻ってくるともう日が沈んでいた。
 ぼくは必死に携帯電話で検索をしている。グーグル先生、ヤフー先生、ぼくに力を……!と念じながら。こういうとき、自分の無力さとネットの偉大さを知る。グーグルに「先生」という敬称がついているのは、伊達じゃないのだ。むしろ大先生と呼びたい。
 貝瀬はチョコレートを溶かしている。湯せんで溶かす方法くらいはぼくにもわかったので、とにかく先に溶かしておこうという作戦だ。
「よし、作り方はわかったぞ」
立ちあがって、ぼくは台所に向かう。貝瀬が鍋とにらめっこしながらへらを持って立っている。手つきが危なっかしいが、怪我とか火傷とかはしていないようで、ほっとした。
「この型をここに置いて、バターとチョコレートは――」
ぼくが指示を出し、貝瀬はその通りにちゃんとチョコレートを型に流し入れることができた。
「あとは固まるまで放っておくだけだ」
そう言ってやると、貝瀬はふらふらと居間の方へ移動して、そのままぱたんと倒れた。一瞬焦ったが、よく見ると寝ているだけだった。今まで、寝ずにチョコレート(だったもの)と格闘していたようだ。ぼくは思わず微笑んでしまう。
 貝瀬の感情は、わかりづらくて、見えにくくて、少しでも気を抜いたら見逃してしまいそうに薄い光だ。しかも妙に重たくて度し難くて、扱いにくいことこの上ない。
 でも、だからこそ。
 こいつをわかってやれるのはぼくだけだ、と思う。
 貝瀬にはぼくしかいない。自惚れかもしれないけれど、あえて言い切りたい。彼女が世界に背を向けても、世界が彼女に背を向けても、ぼくだけは貝瀬に背を向けない。いつまでだって見守っていてやる。
 そして、ぼくにとっても貝瀬は唯一なのだ。貝瀬がぼくを必要としてくれるからじゃなくて、ぼくには貝瀬が必要だと思える確固たる理由がある。貝瀬ほどではないけど、ぼくもそんなにできた人間じゃない。完全な人間未満なぼくだからこそ、完全な人間未満の貝瀬にはふさわしいのではないか――そんな失礼なことを考えつつ、ぼくは貝瀬の寝顔を眺めている。寝ている貝瀬を見るのはこれが初めてではないのに、少しだけ鼓動が高まる。
 バレンタインデーまであと数時間。バレンタインデーが過ぎ去る前に貝瀬が起床できることを祈りつつ、ぼくは部屋の窓を開けた。昼間より少し冷たい空気が部屋に流れ込んできて、黒い空気を押し流す。貝瀬が起きる前に、この部屋の黒い空気は全部外に追い出してしまおうと、ふと思った。


100214