正体不明
大学に行く途中で、女の子を拾った。
……とあらためて書いてみると非常に犯罪のスメルがする。
実際はそんなことはなく、ただ、一方的に付きまとわれているだけである。
これは今後、何度か言わなければならないセリフになると思うが、ぼくはロリコンじゃない。
そりゃあアニメに出てくる少女はかわいいかもしれない。多少惹かれるところもないわけではない。けれどアニメはあくまでもアニメであって、実際の女性となると、さすがに中学くらいは卒業しておいてほしいところだ。件の少女に関してはどう見ても中学一年生程度にしか見えない。ぼくとしてはまったくもって対象外……いや、こうやって長々と書くと後ろめたいところがあるように見えるかもしれないが、決してそういうわけではなくて。
少女は東坂あゆみと名乗った。本名かどうかは不明。それ以上の自己紹介をしようともしないので、プロフィール欄は全部白紙である。
ひとつだけ注釈を加えておくとしたら。
彼女は、この間ビルの屋上で出会ったあの謎の少女と、おそらく同一人物だということくらいだろうか。
「何を考えてるの? 弱虫のおにーさん」
「何も考えてねえよ」
顔はうろ覚えだった。声をかけられなければ、たぶん気付かなかっただろう。ただ、『弱虫のおにーさん』などという不届きな人称をぼくに対して活用しているのは、あのときの少女くらいしか心当たりがない。どことなく貝瀬に似ている空気も、あのときと同じだった。
一方的に名乗った少女は、ひたすらぼくの後ろをついてくる。
ぼくは無視して歩く。
「おにーさん、お名前は?」
「松浦だ。松浦、かなめ」
「職業は?」
「学生だよ」
「彼女は?」
「…………」
いい加減にしろよ、とでも言うべきだっただろうか。無理してでも、追い払うべきだっただろうか。でも、ぼくはそうしなかった。結局、少女は部室までついてきてしまった。大学の構内に入らせるのはどうかとも思ったのだが、みんなぼくの妹か何かだと思っているらしく、目立ちこそすれ注意はされなかった。
その日、珍しく片岡碧梧が部室に訪れていた。
彼は特に部室に用事があったわけではないし、印象深い会話を交わした記憶もない。
……東坂あゆみが余計なことを言いさえしなければ、この日は何事もなく過ぎ去ったはずだった。
「……何、その女の子」
貝瀬は少し眉をひそめて言った。
「東坂あゆみです。よろしくぅ」
しなを作りながら、あゆみは貴族がスカートを広げるようにして屈伸する。実際はズボンなので、あくまでふりだけだ。
「なんか知らないけど、ついてきちゃったんだ」
ぼくはそう言い訳をするしかない。言い訳というか、事実だが。
「あゆみ、弱虫のかなめおにーさんが好きなの。おにーさんの彼女さん」
そのとき、微かに違和感を感じた。
ぼくは貝瀬のことは何も言っていない。なのに、どうしてこの子は貝瀬がぼくの彼女だと知っているのだろう?
「好き……?」
貝瀬はますます険悪な表情になる。
「あゆみ、決めた。おねーさんからおにーさんを奪い取ってあげる」
あゆみは勝ち誇ったようにそう宣言する。貝瀬は明らかに不機嫌そうな顔つきになったが、相手が子供なのでぎりぎりでこらえているという感じだ。
なんだ、この唐突な修羅場。とりあえず、ぼくの意思を聞いてから宣言してほしいところだ。まあ、子供の戯言だし、貝瀬も本気にはしないだろうけれど。
「あとさぁ、そこのおにーさん」
あゆみは場の空気が読めないのか、それとも空気を読まない主義なのか知らないが、平然と碧梧さんを指さす。突然指名された碧梧さんは不思議そうに首をかしげた。
「お母さんに、ひどいことをされたのね」
さらりとあゆみが告げた。
その言葉で、貝瀬と碧梧さんの表情が固まったのが見えた。事情を知っているぼくもおそらく、青い顔になっているに違いなかった。それは――こんな場所で軽く口にしていいことじゃない。青木も岡崎も、知らないことだ。きっと貝瀬だって、詳しいことは知らないはずだ。
あゆみはその内容に似つかわしくない顔で笑った。
幼い少女のものとは思えない微笑だった。
「ああ、でも――あなたも彼女にひどいことをした、と思っているのね」
「え……?」
ぼくは首をかしげる。貝瀬もぼくと同じ反応を示している。けれど、碧梧さんは違った。見開いた目であゆみを捉え、数歩後ずさる。「まさか」と声を絞り出す。
「まさか、君は、ぼくの、」
碧梧さんはそこで口をつぐんだ。信じられない、と言いたげに首を横に振る。顔が蒼白だ。今にも泣き出しそうな顔で、彼は何も言えずにただ首を振る。こんなに取り乱している碧梧さんを見るのは初めてだった。
「ありえない……嘘だ、そんなのっ……」
碧梧さんは吐き捨てるように言って、そのまま部室から出ていってしまった。
彼が走り去っていく足音だけが、部屋に響いた。
尋常ではない様子の碧梧さんを追うべきかどうか迷った。ぼくは確かに一連の事情を知っているけれど、貝瀬と碧梧さんの問題に口を出せる身分ではない。それに、ぼくにはまだ、あゆみの言葉で彼があそこまで取り乱す理由がわからなかった。
「どういうことだ」
ぼくはあゆみに詰め寄る。碧梧さんの行動の理由――彼女ならわかるはずだと思った。
「ジョークの通じないおにーさんね」
あゆみの反応は冷たかった。
「ジョークってなんだ。あれは、君――」
あゆみはぼくの言葉を途中で遮った。
「君ごときが口にしていいことじゃない、重大なプライバシーだから、って言いたい?」
「……そうだ」
ぼくが頷くと、あゆみはまたにぃっと笑った。
「ちょっと脅かそうと思っただけよ。だいたい、年が合わない。たぶん、あのおにーさんも、ちゃんと考えればわかること」
「何を言って……」
ぼくがさらに問いただそうとすると、誰かに服の裾を引っ張られた。振り向くと、貝瀬だった。
貝瀬は一言、言った。
「やめて」
「でも、貝瀬」
「やめろっつってんのよ」
貝瀬の声は怒りで震えている。ぼくは黙った。貝瀬は、普段からイライラしているように見えるけれど、その実、本気で怒ることはほとんどない。こんなに怒りの感情を露わにした状態の彼女を、ぼくは知らない。
貝瀬は東坂あゆみをまっすぐに見据えた。
「あんたがなんで兄のことを知っているのか、それは聞かない。でも、これ以上わたしの兄を侮辱するのは許さない」
「あれ、おねーさんマジギレ? 兄妹そろってジョークが通じないのね」
あゆみは飄々と笑っている。異常だ、とぼくは感じる。貝瀬の怒りは、部屋中に伝播している。その怒りをすべて無視して、あゆみは、高らかに笑った。この子は明らかに、変だ。
「子供は知らないかもしれないけど、世の中には口にしていいジョークと、しちゃいけないジョークがある」
貝瀬は凛とした調子で、言いきった。
「あんたがわたしの兄さんにしたことはね、絶対的に後者よ」
貝瀬が、あゆみに殴りかかるのではないか。そうぼくは思った。それくらいしてもおかしくない空気だった。しかし、貝瀬はそうしなかった。あゆみをひときわ強く睨みつけてから、彼女は部屋を出ていった。碧梧さんを追ったのだろう。ぼくらは慄然としたまま、部屋に取り残された。
貝瀬にやめろと言われた以上、これ以上あゆみを問い詰めることはできない。
そこは、ぼくらが立ち入ってはいけない領域なのだ。
「わたしも帰る」
あゆみは一言だけ宣言して、部屋を出て行こうとする。止めるべきなのか迷ったが、何と言って止めればいいのかわからない。ぼくは、ぱたぱたと駆けていく彼女の後姿を、ぼんやり見ていた。青木も岡崎も、同じだった。誰も何も言わなかった。その日、貝瀬と碧梧さんは、部室には戻ってこなかった。
ぼくは家に帰ってから、今日起きた事象の意味をよく考えた。そして、唐突に悟った。碧梧さんに何があったのか、あゆみが何を言わんとしていたか。そして、碧梧さんがあのとき、何を考えたのか。
貝瀬が怒り狂っていた理由も、わかった。
でも、それをここに記したくはない。
だって、碧梧さんを極限まで侮辱する言葉にしかならないからだ。
どんなふうに言い換えても、その事実は、貝瀬と碧梧さんを不幸にするだけだ。
許せない――と、久々にぼくは思った。
事実がどうであったかはぼくにはわからない。誰にもわからないだろう。碧梧さんと、彼の母親にしか。
しかし、ひとつだけわかるのは、東坂あゆみはただの無垢な少女じゃないし、碧梧さんと貝瀬にとって無関係な存在ではないであろうということだ。
もう二度と、彼女には会いたくないと思った。
あゆみが部室から帰ってしまう前に、ぼくは彼女にこう言うべきだった。
もう現れないでくれ。
もう、貝瀬や碧梧さんを傷つけないでくれ。
もう――やめてくれ。
おそらく、ぼくが彼女に直接それを言うことはないだろう。あゆみが怖いからではなく、この間屋上で出会ったあゆみが、貝瀬に似ていたから、だ。彼女には何か、事情がある気がした。ただ無差別に誰かを傷つけたいのなら、こんな回りくどいやり方はしないはずなのだ。
彼女は、貝瀬と碧梧さんを激しく傷つけた。けれど、ぼくには何もしなかった。ただ、貝瀬からぼくを奪うとだけ、言った。あの日、学校へ向かう道中、ぼくについてくるあゆみの表情はそこまで険悪ではなかった。悪い子には――見えなかった。
本来なら、貝瀬を傷つけた人間なんて、ボコボコにしてやりたい。なのに、ぼくはこんなにも甘い。バカだと罵られても仕方ない。相手が子供だからじゃなく、ただ、貝瀬に似ていたからなんて――個人的な感傷にもほどがある。でも、その個人的な感傷が、今のぼくのすべてだった。東坂あゆみのやったことは許せないけれど、それでも彼女と何とか和解したいと、ぼくは思っていた。
その感情がさらに状況を悪化させるなんて、思いもせずに――
100304
碧梧の話を書かなきゃなーって思ってたらこうなりました。
重い話で申し訳ないですが、「東坂あゆみ編」、しばらく続きます。
碧梧はとことん不憫で不幸な人なんで、どうにかして幸せにしてあげたい感じ。