Memento mori

 ああイライラする。男って気持ちわりいな。男全般っていうかロリコン気持ち悪い。ロリコン全般っていうかわたしに欲情するのが気持ち悪い。っていうかそれを気持ち悪く思うわたしが気持ち悪い。あーもうイライラする。
「なんかいいことないかな」
そう口に出してみるけど、二番目の「い」くらいの時点ですでにいいことなんかないだろうと気付いている。
 そうしてわたしはまたあの屋上へ向かうのだ。そこには手摺がない。数年前まで自殺名所だったという。自殺名所なのに、手摺はいつまでたっても作られない。立ち入り禁止にもならない。きっとビルの持ち主は自殺を推奨してるに違いない。そういう潔い優しさっていいなあ、とわたしは思う。死にたい人たちに安らかな死を与えてやるのもきっと優しさなのだ。まあその優しさはどっかの誰かを傷つけるだろうし、本人もそれって優しさなのかな?間違ってねえかなあ?って疑問に思ってるかもしれないけど、誰かが優しさだととらえればそれは優しさになれる。引きとめるのは誰にだってできる優しさだけれど、死を受け入れて与えて黙認するのは誰にだってできる優しさではないから、希少価値はある。わたしはそういう優しさが好きだ。
 跳ね返すでもなく、押しつけるでもなく、ただ受容するだけの優しさ。
 風が吹き抜ける屋上は涼しくて居心地がいい。
「おい」
と誰かが声をかけてきた。振り向かなくても誰かはわかる。
「こんにちは、弱虫のおにーさん」
お兄さん――名前は松浦、とか言ったっけ――はわたしをじっと見据えて動かない。険しい顔。わたしの本性を知ると、みんなこういう顔になる。誰もわたしを好きになんてならない。それが世界の掟だ。
「わたしのこと、嫌いになったのでしょう?」
わたしがそう言って立ち上がると、お兄さんは悲しげな顔になる。
「嫌いになる以前に、ぼくは君のことなんて何も知らない」
「でも、わたしはあなたの彼女さんと、彼女さんのおにーさんを傷つけたよ。それだけで、十分じゃない?」
「十分じゃない。ぼくは、他人を理由もなく傷つける奴は嫌いだけれど、理由もなくそんなことをする奴はいないって知ってるんだ」
お兄さんは揺らがない口調でそう言った。少しだけ――かっこいいな、と思った。もちろんそんなのは一時的な感傷にすぎず、すぐ消える。
「みんな、何か理由があるからそういうことをするんだ。君が貝瀬を傷つけたのだって、きっと」
「うるさいなあ」
わたしは、お兄さんの言葉を最後まで聞かずにそう言った。実際、彼の言うことはちょっとウザいと思う。『いじめられる方にもいじめられる理由があるんです』とか『いじめた側にだってストレスがあったはずです』みたいな、胸糞の悪い正義感に通じるものを感じ取ってしまった。そんな無責任な理由づけのテンプレートに『わたし』をはめ込むのは、やめてほしいものだ。
「わたしはね、何も知らない癖にそう言うことを言う人がキライ。世の中にはね、何の理由もなく人を傷つけて平気な人がたくさんいるの。みんな、他人がどうなろうが知ったことじゃないの」
「君も、他人がどうなろうが知ったことじゃないと思うのか?」
「……別に」
正直な気持ちは言いたくなかった。
わたしは、他人を傷つけるのはあんまり好きじゃない。
でも、自分が傷つくのはもっと嫌だ。
だから、自分が傷つきそうだと思ったら、他人を傷つけてでもそれを回避したいと思う。
――その結果として、あの兄妹のような人たちを傷つける。
それは仕方のないことだし、そんな瑣末な人間関係は切り捨てて、新しいことを始めればいい。
「……ぼくは、ただ」
お兄さんは困ったように首に手を当てる。
「ぼくはただ、君が誰かに助けを求めているような、そんな気がしただけだ」
わたしは、思わず地面を蹴って彼の目の前まで移動した。驚いたお兄さんが一歩後ろに引いた。
「わたしが、かわいそうだと思った?」
噛みつくようにそう言って、わたしは彼のネクタイを強く引っ張った。
「かわいそうな子だから、助けてあげなきゃって?」
お兄さんは首を絞められて苦しげな顔になった。けれど、力強い声でこう言った。
「ぼくはそこまで思いあがっちゃいない。でも、助けられるものなら助けたい」
「優等生ね」
わたしは彼のネクタイを離した。げほ。彼がむせながら何か言う。
「ぼくの彼女もさ」
――なんだ、ノロケか。わたしは少し呆れる。
「わりと他人を傷つけてるっていうか、刹那的っていうか、暴力的なんだけれど」
「で?」
「……でも、だからこそ孤独で、ぼくがそばにいなくちゃだめだって思った」
それで、それがなんだって言うのだろう? もう一度彼のネクタイを引っ張ってやろうかと思った。
「君も、貝瀬と同じように、自分から孤独になってる気がして……放っておけない」
わたしは、どうしたらいいのかわからなくなった。
このお兄さんが正義を気取っている気持ち悪い人だと決めつけてしまうのは、簡単なのだ。
ここで彼を切り捨てて、もう会わないようにするのも、簡単だ。
でも――もしかしたら、この人はわたしを、助けてくれるかもしれない。
この屋上で一人、いいことないかなー、としか言っていられないわたしを。
「それに、ぼくはまだ納得がいかないことがある」
わたしが黙っている間に、お兄さんはさらに何か言おうとする。言わなくても、その内容はなんとなくわかった。
「君は、どうして貝瀬や碧梧さんの秘密を知っているんだ? 二人の身内なのか?」
……やっぱり、本題はそちらなのだ。少しだけがっかりした。
「うーん、」
わたしは一瞬だけ迷って、そのことを言うことに決める。
人間を切り捨てるのは簡単だけれど――この人はまだ、切り捨てるのは惜しい。

「わたし、超能力者なんだよね」

冗談を言うのはやめた方がいい、と言われるだろうと思った。
でも、お兄さんは何も言わなかった。
彼はただ、絶句した。そして、問いかけてきた。
「それって、どういう」
わたしはにっこり笑って、こう言った。
「うまく説明できないけど、人の気持ちや過去がわかるの。ぼんやりだから、正確なところはわからないし、そのときどきによってまちまちって感じだけどね」
お兄さんは、その言葉を理解するためにしばらく考え込んだようだった。
「信じられないけど、その力で碧梧さんの過去を読んだ、と?」
「そう。だから、別にあの人の知り合いとか身内とか、そういうのじゃないの」
わたしの顔を見て、お兄さんは黙った。
信じてくれなくてもいい。
拒絶されたら、切り捨てればいいのだ。そう自分に言い聞かせる。
「……じゃあ、ぼくの過去もわかるか?」
お兄さんは静かに問いかけた。
「わたしが『読める』のは、強烈な幼児体験とか、トラウマとか、そういうのが多いの。あなたに対しては、そういう強い過去は、見えない」
「……そうか」
お兄さんは、わたしの頭に手を伸ばした。そして、子供にするように、優しく撫でた。
今まで出会ってきた男たちとは違う、撫で方だった。
子供のように扱ってくれた。
それだけで十分だったのかもしれない、と今は思う。彼はこう続けた。
「ぼくには、信じられない。でも、ぼくは、君のことをもう少し知りたい。貝瀬には怒られるかもしれないけど、そう思う」
わたしのことを知りたい、なんて言われるのは初めてだった。
即物的な愛でもなく、
欲情でもなく、
ただ、わたしのことを。

そして、単純なわたしは思う。
この人を奪い取って、自分のものにしてしまいたい。
あのとき、奪い取ってあげる、なんて言ったのはただの勢いだった。でも今は違う。
わたしは、こういう人を待っていたのだ。
死を黙認する優しさのような、静かな受容を秘めた人を。
死を前提とした生を思わせる破滅的な恋に、自分が落ちていく音が聞こえた。



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