ずたずた

――考える。
 自分が犯した罪を、考える。
 自分が歌う本当の意味を、考える。
 考えるけれど、その思考からはあらかじめ取り払われているものがある。
 それは、『あの日』のこと。
 たった一日なのに、永劫のように思える不幸のはじまりの日。
 あの日から、自分は一歩も動くことができずにいる。
 進歩だと思っても、それは進歩じゃない。
 ただの逃避だ。
 でも、自分には逃避することしかできない。
 逃げて、逃げて、逃げて。
 どこまでも逃げることしか選択できない。
 そうして逃げつづけているところに、妹が現れる。妹も不幸だった。
 彼女はしかし、不幸から抜け出す鍵を手に入れた。
 自分はそのままだった。
 そのままでいいと思った。
 だって、妹は被害者だけれど、自分は純然たる被害者では、ない。
 自分には幸せになる資格がない。
 そんなことは、わかりすぎるくらいにわかっていて、なのに。


「お母さんに、ひどいことをされたのね」
その言葉が脳にこびりついて消えない。
ひどいことを。ひどいことを。ひどい、ことを。
「ああ、でも――あなたも彼女にひどいことをした、と思っているのね」
ひどいこと。

それは、『あの日』に起きたことだ。

 はっとする。
 そのとき、碧梧はその言葉を放った少女を見た。少女はどこか、妹に似ている。妹に似ているということはすなわち、父や母に似ているということで。それは、つまり。
 事実を悟った瞬間、引き攣るように息をしながらその場から逃げた。自分が何を言っているかなんてわからなかった。呼吸が荒れた。息苦しい。目の前が見えなくなりそうになった。ありえない。こんな現実はありえない。
 ひどいことをした。
 何よりもひどいことを。
 でもそれはもう、ずっと昔のことなのだ。
 時効だとは言わないけれど――忘れかけていた。
 今更、そんな事実が自分に襲ってくるとは思わなかった。
 だから逃げる。
 どこまでだって走って逃げる。
 自分には、逃げるしか能がない。もうずっと前から。
 背後から妹が声をかけているような気がする。
 妹は何も知らない。でも、さっきの言葉で、何かを察するだろう。
 それで、おしまいなのだ。
「兄さん!」
パーカーのフードを強く引っ張られて、碧梧は動きを止める。背中からひっくり返りそうになったが、なんとか体勢を立て直した。息が上がっていたことに、止まってから気づいた。
「兄さん……」
そこに悄然と立っている理恵は悲しげだった。
その悲しげな表情で、彼女にはもうバレてしまったのだと気付いた。
「兄さんは、悪くない。わたしは、知ってるよ」
弱々しい声だ。やっぱり、彼女は『わかって』いる。わかった上で、妹はそう言ってくれる。
極上の優しさで――そして、哀れみだ。
それだけで、心が痛みすぎて壊死してしまう気がした。
「そんな、こと、ない」
息が切れていて、言葉が切れ切れになった。喉が痛い。しばらく声が出なかった。
「あの女の子は、ぼくを憎んでるんだ」
ようやく、そう口にする。理恵は、驚いたように目を見開いて、「それは――」何かを言いかけた。
碧梧はその言葉を聞かなかった。
「ぼくは、約束を破るよ」
理恵は何か言おうとする。しかし碧梧は、聞こえないふりをした。
「ぼくは、幸せにはならない」
差し出された妹の手を、振り払う。
「でも、君だけは幸せになってくれ。もうここには現れない。さようなら」
妹に背を向け走り出してみると、なんだかいろんなものをふっ切った気がした。
 理恵は追ってきたのだろうか?
 追ってきていたとしても、たぶん、男の自分には追いつけずに途中であきらめるはずだ。
 大切な絆だった。けれど、惜しくはなかった。
 碧梧は振り返らなかった。


――そして、狭い部屋の中で思い出すのは『あの日』のことだ。
 当時、自分は疲れていた。疲れきって、半分死んだみたいになっていた。
 毎日のように、殴られる。
 毎日のように、嬲られる。
 毎日のように、痣が増える。
 その日々の繰り返しで、普通の暴力には完全に慣れきっていて、それがいけなかった。
 慣れてしまった碧梧は抵抗というものをしなかった。
 もう痛いとすら感じない。
 母はそれがおもしろくなかったのだ。
 その日の『暴力』は、それまでの暴力とは全く違うものだった。
 ある意味で一番凶悪で無慈悲な暴力を、母は碧梧に向かって投げつけた。
 泣き叫んで、許しを請うた。しかし許してもらえなかった。そのうち、心が死んだ。母は満足したように笑っていた。部屋には碧梧の泣き声と母の笑い声だけが響いた。
 怖かった。
 ただただ、怖かった。
 それから数日、眠れなかった。
 自分がやってしまったことの重大さが、心にのしかかっていた。
 母から逃げだして一人で暮らし始めても、その罪は消えてなくならなかった。
 久々に会った妹は、最初不幸そうだったけれど、そのうちいい彼氏ができた。
 彼女は幸せになれそうな気がした。
 彼女だけは、幸せになる気がした。
 自分は、幸せになれるだろうか?
 そう問いかけてみると、あの日のことがフラッシュバックして、やっぱり無理だという答えが出る。
 けれどそれでも、楽しげに笑っている妹の姿を見ることができるだけで、自分は幸せなのかもしれないと思い始めていた。

 そんなとき、少女が現れた。
 あの少女はきっと、自分を殺しに来たのだ。
 恨み事を言い、おまえなんか死ねと言いに来たのだ。
 だって、自分は彼女にひどいことをした。
 自分はあの少女に取り返しのつかないことをした。
 どうやっても取り返せない『あの日』。
 あの日に生まれたのが――あの少女なのだ。そうに違いない。
 だって、あのことを知っているのは自分と母親だけだ。
 碧梧は、誰にも話していない。
 母だって、人並みの常識があるのなら、誰にも言わないはず。
 だから、必然的に、あのあゆみという少女の正体は――

 ぱりん、と正気の殻が割れそうだった。
 頭が痛い。じくじくと苛むように痛む。
 チャイムの音が鳴っていることに、ようやく気付く。どうやら、さっきからずっと鳴っていたらしい。
 立ちあがって、玄関のドアを開ける。
 そこにいたのは――あの、少女だった。
 碧梧は喘息のように息を激しく乱して、後ずさった。
「碧梧さん、落ちついて」
聞き慣れた声がして、そちらに目をやる。松浦君だった。妹の彼氏だ。相変わらず表情の乏しい顔だが、どうやら心配して来てくれたらしい。

「ほら、謝るんだ。君のせいで、碧梧さんがどんな思いをしたか、わかっただろ」

 松浦君が、軽く少女の肩を押した。
「ごめんなさい」と少女は言った。なんだか映画の吹き替えみたいな声だ。現実味がない。
「わたしは、赤の他人よ。あなたとは何の関係もないの」
息が詰まる気がして、呼吸がおろそかになった。少女が何を言っているのか、よくわからない。
 なぜか、理恵のことを思い出した。最初に再会した理恵も、碧梧とは他人だと言った。
 また、息が詰まる。自分の息は気体ではなくなってしまったのではないかとすら思った。
「碧梧さん、大丈夫ですか?」
松浦君の声が遠くで聞こえる。
「君は、ぼくを恨んでるんだろう。ぼくを断罪したいんだろう」
自分の声ではないような響き。しかし、それは紛れもなく碧梧の声だった。
「違うわ。少しからかっただけ。わたしは、あなたには何の関係もない」
「嘘だ」
「嘘じゃない」
少女は悲しそうに顔をしかめた。
「わたしには、ちゃんとお父さんとお母さんがいるわ」
 お父さんとお母さんが。
――お父さん。
 碧梧はその意味を反芻して、ようやく気付いた。
「君は、『違う』のか」
「碧梧さん。彼女は、ちょっと特殊な子ですけど、あなたとは直接関係ないんです。それに、彼女はこれでも十五才なんです。年が、合わないでしょう?」
優しく、諭すように松浦君が言った。彼もあのことを知っているのだ。そう思うと泣きたくなった。
「そうだね」
碧梧はそう口に出してから、その意味を考えた。勘違い。この少女は、関係ない。あの日起きたことには関係ない。ただ、あの日起きたことを知っているだけ。ちょっと、からかっただけ。年が合わない。関係ない。関係ない。
 泣きそうになった。嬉しいのか悲しいのか、わからない。とにかく泣きそうだった。しかし、この二人の前で泣くのは嫌だ。それで、思いとどまる。涙を抑えて、にっこり笑ってみせた。
「ごめん、ぼくは勘違いしてた、みたいだ」
「わたしは、あなたを追い詰めたかったんじゃない。わたしが『違う』ことには、すぐ気付くと思ったの。ごめんなさい」
少女はしょんぼりしていた。その姿は昔の妹に似ている気がして、また泣きたくなった。
「松浦君」
少女に向き合うことはできなかった。代わりに、妹の彼氏を見た。
「今日は、ありがとう。君が来なかったら、ぼくは死んでいたかもしれない」
その言葉で、少女がびくんと体を震わせた。怯えた目が、こちらを見る。怖がらせるつもりで言ったのではなかったのだけれど、少し悪いことをしたかもしれない。
「碧梧さんが死んだら、カイセは悲しみます。ぼくも、オンサのみんなも悲しむ。それを忘れないでください」
松浦君はそう言って、少女の手を引いて帰って行った。
 碧梧は一人で部屋に残される。ぼんやりとした頭で考える。
 あの少女は、あの日に生まれたんじゃない。
 その事実は、理解できた。
 でも、だからといって、この罪は帳消しになるのだろうか?
 自分が犯してしまった罪は、変わらないんじゃないだろうか。
 この世のどこかには、自分の弱さのせいでこの世に生まれてきてしまった命が――あるのかもしれないではないか。
 自分の子供が、世界のどこかにいるかもしれない。母親に手を引かれて、歩いている。自分と共にいない父親を恨みながら、歩いているのだ。彼、あるいは彼女の憎しみは、世界のどこかに蓄積して、いつか暴発する。その矛先は自分に向けられている。
 そのことを考えると、気が狂いそうな気分になる。
 どうして、思い出してしまったのだろう。
 どうして、今まで忘れていたのだろう。
――――こんな現実は、見たくなかったのに。



100312


副題が「パパがぼくをすてて、ママがぼくをおかした日」でしたが、あまりにも露骨なので却下しました。
テーマが重々しいので書くのに苦労していますし、読む方も大変かと思います。
付き合ってあげるよっていう方はお付き合いください。