嘘の匂い
玄関の小さな穴から見えたのは、東坂あゆみの姿だった。
どうして自分が扉を開ける気になったのだかよくわからない。
妹が来ても、松浦かなめが来ても、絶対にドアを開けなかったこの自分が――なぜ、すべての元凶とも言うべきことをしたあゆみにだけ、そんな扱いをしたのか。どれだけ考えてもわかりそうにない。
「こんにちは、碧梧おにーさん」
「おにーさんはやめてくれ。碧梧でいい」
あゆみは碧梧の顔を見て、寂しそうににっこり笑った。彼女は何を考えているのだろう。とにかく、『おにーさん』という呼称は拒否したかった。なぜならそれは、この間の勘違いのことがあるからだ。あゆみにとって、自分が『お兄さん』であり『お父さん』でもある――そんな、非現実的かつ致命的な勘違い。思い出すたびに背筋がざわついて仕方ない。
「碧梧さん。今、暇?」
「ぼくはいつだって暇さ」
少しふてくされたように言った自分に、驚いた。他人に対してそんなふるまいをしたことは、今までにはなかった。しかも、その相手は家族でも友達でもない、正体不明の女の子。自分で自分がわからなくなる。
「あがって話してもいいかしら?」
「別にかまわない」
そう言ってやると、あゆみは靴を散らかしながらあがりこんでくる。碧梧は玄関のカギをしめ、彼女の後をついていった。
「意外と普通の部屋ね」
あゆみは部屋の中を物色している。古いCDや漫画が散乱しているが、そこまで汚い部屋でもないはずだ。そもそも、汚くなる以前に、物があまりない。
「意外と、ってどういうこと?」
そう尋ねると、「いや、別に。なんとなく言ってみただけ」と返される。
それに対して返す言葉は、特に見つからない。
「何か用?」
碧梧の問いかけに、あゆみは横に首を振ることで答える。「特に急ぐ用じゃないわ」
「でも、一応用事はあるの?」
「ええ、一応ね。あなたに訊きたいことがあるの」
あゆみは部屋の隅から座布団を引っ張り上げ、部屋の中央あたりに座った。碧梧も座布団を手にとり、座る。
「あなたは、他人を不幸にして嬉しいと思う?」
意味がわからなかった。が、この問いかけに対してイエスと答える人間は、まずほとんどいないだろう。
「そんなことは、思わない」
「でも、松浦かなめと貝瀬理恵は、あなたのせいでブルーみたいよ」
――この子は、あの二人とまだつながっていたのか。部屋にあげたことを少し後悔した。
あの勘違い以来、妹とその彼氏には会いたくなくなってしまった。世界中の人たちが、母親が碧梧に行ったことを知ることになったとしても、あの二人にだけは知られたくなかった。二人は碧梧に対してはとても優しくて、親身に接してくれる。だからこそ知られるのは嫌だった。この事実は、トップシークレットなのだ。そして、どれだけ罵られても仕方がないほど大きな罪だ。罵倒されるならまだ耐えられる。しかし、全部知った上で優しくされるのだけは耐えられない。純正の優しさだったとしても、自分はそこに憐れみを読みとってしまう。
それに、あの日のことが、母に対する碧梧の『反撃』だったと捉えられなくもない。少なくとも、傍観者にしてみればそう見えるかもしれない。自分はただ、泣いていただけだ。耐えられないほどの苦痛を負わされた。被害者だ。でも、それは当事者である自分以外にはわからないことだろう。あの場所には、他には誰もいなかったのだから。
「わたしは、あの二人とあなたのことなんてどうでもいい」
あゆみは、そう言った。たぶんそうだろうな、と碧梧は思う。この子は、他人なんてどうだっていいと思っている。そんな気がする。
「でも、わたしのせいであなたたちが会うのをやめたら、ちょっとだけ寝覚めが悪い」
「だから、仲直りしろと?」
仲直り、という単語は妙な響きだった。別に、喧嘩をしているわけではない。自分が、彼らに会わないだけではないか。会おうとしないまま、終わろうとしているだけ。一方的に切ろうとしているだけだ。なのに、『仲直り』だなんて。少し、違和感がある。
「そんなことは言わないわ。わたしが好きなのは、あなたじゃないから」
「……松浦君か?」
「ええ。わたしが必要としているのは松浦かなめ。片岡碧梧も貝瀬理恵も、どうだっていいの」
そこでまた、あゆみが笑った。十五歳だと松浦は言ったが、その微笑は大人びていて女の香りがした。妹に似ているというより、母に似ているのか――その連想が、心を粟立たせた。
母の幻影を追い払いつつ、松浦を妹から奪われるというのは困るな、と少し思う。
自分はこのままでも特に支障はないが、理恵には幸せになってほしい。理恵の幸せには、松浦かなめが必要だ。理由は説明できないが、恋人を奪われるのは、どうやったって不幸だろう。
「二人は、付き合ってるんだ。今のところ、何の問題もなく。それを引き裂くって言うのか?」
できるだけ穏便な単語を選んだつもりだった。あゆみはこう答える。
「引き裂く? 違うわ。奪うのよ。ほしいものは奪えばいい。それがわたしの人生哲学なの」
「それが引き裂くってことじゃないのか」
「引き裂くっていうなら、あの二人は引き裂かれた、いわば被害者よね。でも、彼をわたしが奪ったのなら、奪われた彼はわたしのものになるはずだわ。それなら、被害者は、彼女さんだけよ」
あゆみは平然としていた。碧梧にはよく意味が飲み込めない理屈だった。
「松浦君は、君を好きになったりはしないよ」
――しかし、彼は優しい。それが仇になることはあるかもしれない。そう思ったが、口にはしなかった。
「わたしを好きにならないなんてありえない。でも、それはそれで価値がある」
あゆみはそうつぶやいて、にんまりと嫌な微笑を浮かべた。
立ちあがって、彼女が碧梧に近づいてくる。一歩。また一歩。
何をするつもりだろう。ぼんやりとした思考の中で、黄色いランプが点灯していた。
これは危ない……ふと、本能的な恐怖を感じる。
彼女は母親に似ている。
母親がやったのと同じことを自分にするつもりかもしれない。
そう思考してすぐ、声にならない声をあげて、碧梧は立ちあがって背後に引いた。
「ほら」
あゆみが笑っている。
「男は、すぐにそういうことを考える。それが嫌いなのよ」
「ぼくは……」
「そう、あなたは違うわね。それは欲情じゃない。純粋な恐怖。でも、考えている物事の根本は、同じよね」
それ以上は言われたくなかった。
具体的な言葉を言われたら、自分が崩壊してしまいそうで、怖い。
「具体的に、あなたが恐れている行為を名指しされてしまうのが怖い?」
あゆみが、碧梧の心を読み上げた。やめろ。それだけは、やめてくれ。全力でそう念じていると、あゆみが苦笑した。
「大丈夫。わたしはそこまで意地悪じゃないわ」
「君は何なんだ。いったい、何を――」
碧梧はそう問いかけつつ、そんなことは聞きたくないと思った。
この少女は怖い。自分のすべてを見透かしている。
過去を知られている、なんて生ぬるい話ではない。
全部、知っている。
碧梧の全部を、東坂あゆみは知っている。
それがどんなに強大な恐怖かは、きっと碧梧にしかわからないのだ。
「あなたは今頃、たぶん、わたしに出会ったことを後悔してる」
あゆみが、事実を告げる。
「今日、わたしを部屋にあげてしまったことを後悔してる」
事実は、雪だるま式に膨らんで、そのうち心の中をいっぱいにする。内側から、心が破壊されてしまう――そんな気がした。
「あなたがわたしを部屋にあげたのは、きっと、わたしがあのことを知っているから」
それ以上は、言わないでほしかった。
「あなたは怖がっているけど、秘密を共有するのは、本当はとても素敵なことなのよ」
その声だけが、部屋の中に反響している。まるで音楽のように。
「わたしは、あなたを憐れまない。優しくもしない。そう思ったから、わたしだけは家に入れてくれたのでしょう?」
そうだ。
優しくされたくない。それが真実だった。
あなたは悪いことをしていない、悪いのは全部母親だ、だからあなたは幸せになってもいい――そんな言葉、信用できない。妹も、松浦も、信用できない。何も知らない人間に優しくされたら、余計に不安になるに決まっている。
この少女なら、そんな無責任な言葉は吐かないと思った。
だから、心を許した。ドアを開けた。
自分は悪いことはしていない。それだけは、本当だ。
けれど、その事実を他人によって口に出されると、途端に嘘臭く思える。
そもそも、悪いことをしていないのなら、どうして存在しない子供の影に怯えるんだ?
あの場所から逃げだして、妹を捨てて。
そうやって怯えるのは、罪悪感があるからじゃないのか?
それはつまり、『あれ』は罪だということではないのか?
問いつづける自分は、一体何を考えているのだろう?
「あなたは、あなたがわからないのね」
あゆみの声が、綺麗だった。彼女は悪魔でありながら、聖女にも見える。無意味な言葉を言わない分だけ、その言葉は美しい。研ぎ澄ました刃のようなその美しさから、目が離せない。
「わたしは、あなたを知っているわ」
碧梧はもう、何も言えなくなっていた。声が出せない。
……ただ、東坂あゆみという圧倒的な存在が、心を威圧していることを感じる。
「あなたのことを、教えてあげてもいい」
もう、妹も松浦も関係なかった。碧梧は黙ったまま頷くしかないのだ。それ以外に、選択肢なんてなかった。
「そう、それでいい。それで、あなたは救われる――」
あゆみはそう言って、碧梧に手を伸ばした。あゆみの手は、碧梧には触れなかった。けれどそれで十分だった。世界の終わりが訪れる、そんな兆しが見えた。恋ではない。あえて言うのなら、それは信仰心だろうか。碧梧は彼女を神のように思ってしまった。どうしてだかわからない。心の中に、彼女への何かが芽生えたことは確かだった。世界は終わるのかもしれない。世界が終わるとしても、別にかまわない。だってここにはあゆみがいるのだから――碧梧のやってしまったことをすべて知ってなお、手を差し伸べてくれた、あゆみが。
今、自分が考えていることの異常性は、碧梧自身にもわかった。
けれど、異常だからなんだって言うのだろう。自分は最初から異常ではないか……母親から暴行を受けた時点で、とっくに運命は狂わされていたじゃないか。それなのに正常を気取るなんて、その方がおかしいのだ。正常の側に立とうとするなんて、おこがましかった。被害者でも、罪は等しく同じだ。狂った空間は、なかったことにはならない。
「碧梧さん」
あゆみが、自分の名前を呼んだ。
――それだけで、自分は幸せなのではないかと思った。
妹を見守ることが自分にとって幸せであったように、あゆみが自分を見守ってくれればいいのではないだろうか。
そんなことは無理だとわかっている。
でも、望むことは自由だ。
美しい世界に、美しい言葉と、美しい幻想と、彼女を配置する。
それはありえない世界だったが、自分はそれを望まずにはいられない。
なぜなら、彼女に出会ってしまったからだ。
「ぼくは君を、何と呼べばいい?」
その瞬間、彼は悪魔と契約したのかもしれない。
東坂あゆみは――妖艶な笑いを浮かべながら、呼び捨てでいい、と言った。
100315
「他人の心を読む能力」を持った人がこの世に存在して、その能力を生かす場所を持たないまま、普通の世界に生きていたら――という仮定を突き詰めていったらあゆみの姿になりました。
そしてちょっと歪み気味の碧梧さん、いろいろと踏んだり蹴ったり。