あふれる

――イッツ・ア・ワンダフルワールド。
 そんな風に思えた日々は、自分の過去には存在しただろうか。
 考えるまでもない。
 わたしが『普通』だった頃は、毎日が幸せだったのだ。
 ただ、それが当たり前すぎて、幸せだなんて思わなかっただけで。
 自覚できない幸せなんて、ないのと同じだ。
 わたしは悔やむ。幸せな日々を、取り返したい。今、あの頃に戻れたら、もっと、幸せのありがたさを噛みしめながら生きるだろう。まともな友達がいるだけで、まともな親がいるだけで、まともな恋があるだけで、幸せなのだと。
 でも、今、この瞬間はちょっとだけ、それとは違う幸せを感じられる。
 目の前に、片岡碧梧が座っているから。
 彼のことが好きなのではなく――彼が不幸すぎるからだ。



 わたし、東坂あゆみは、すべての人間の心が見える。
 ある日突然、見えるようになった。大半が、嘆きや悲しみに満ちた思い出だった。人間の数だけ、中空に浮くようにして存在している思い出たち。それらは、流動的だった。放っておいても、勝手に流れ込んでくる。まるで、不透明な水の中で溺れているようだった。吸い込みすぎた情報が、あふれる。一日中吐き気が止まらなかった。楽しい感情よりも、悲しい感情の方が、人間の中にはたくさん存在している。みんな、見ないようにしているだけ。『見えない』人は、もしかするとそのことには気づかないのかもしれない。気付かずに生きていけるなら、それはそれだけでかなり幸せなのだ。
 しかしながら、吐き気が止まらない状況でも、その頃のわたしはこれは特別な力ではないかと期待していた。それが、愚かだった。
 ドラマや漫画の題材として扱われる超能力は、一種の憧れの対象だ。そして、その世界には必ず超能力が存在する意味がある。誰かを助けるため。自分が幸せになるため。物語を動かすため。恋を叶えるため。敵を倒すため。そういう力を持っていれば、自分は特別な人間になって、充実した人生を送れる。そんな思い上がりが、わたしを不幸にした。
 他人の心が見えたって、
 他人の過去が見えたって、
 物語を動かすことなんて、できやしない。
 しばらくして、そのことに気付いた。
 そうして、絶望した。
 わたしが他人の悲しい思い出の中で溺れることには、何の意味も価値もない。ただ苦しいだけ。
 苦しいだけの能力は、能力ではない。障害物だ。
 物語は動かない。
 どうやっても、動かない。
 他人の過去を言い当てられたって、何の得もない。占い師になれば大儲けできるかもしれないが、気味悪がられるのは必至だろう。
 特殊な力でも何でもない。これは、意味のない苦しみだけを与えつづける悪魔の力だ。

 わたしは、不幸なのだ。

 不幸を自覚した瞬間、自分の本質が変わった。その日から、わたしはもう苦しまなかった。
 自分はこんなに不幸なのだから、他人を不幸にしたって大丈夫。許される。
 そう思って他人を陥れると、胸がすっとした。
 陥れた他人を絶望させると、楽しいとすら思った。
「あたしは特別な人間だから、こういうこともできる。あんたの秘密を全部ばらしてやろうか?」
そう言ってほくそ笑むと、相手は怯えた小動物みたいな目でわたしを見る。爽快だ。
 過去が見えるのは、脅迫には便利な力だった。
 しかし、脅迫というのは単純な行為だ。それに、法律にも触れる。少年院には行きたくない。数回やって、飽きてしまった。
 次は何にしよう?――そう思っていたとき、母親が見ていたテレビドラマのセリフが聞こえてきた。
「わたし、あなたの気持ち、すごくわかるわ。だから、元気出して」
これだ、と思った。
 あなたの気持ちがすごくわかるわ。だって、わたしは超能力を持っているのだから。何を考えているのかも、過去も、思い出も、丸見えだ。
 この魔法の言葉を使うと、簡単に誰もが心を許す。
 実際、『気持ち』は全部見えているのだから、嘘をついて騙しているわけでもない。
 人の心が、簡単に手に入る。
 みんな、わたしを好きになる。
 楽園かもしれない、と思った。これで、わたしは幸せになれるんじゃないかとも。
 このセリフを使って、いろんな人の心を手に入れた。
 ……しかし、わたしはその人たちの名前を覚えていない。
 みんな、最初は優しい。笑顔で接してくれる。それは幸せだったかもしれない。でも、男はすぐに、その愛情を性欲にすり替えた。初めてキスをされたとき、わたしはその行為の意味がわからなかった。相手は担任の教師だった。わたしが彼に声をかけたのは、キスをされたかったからじゃない。ちょっとだけ、クラスでちやほやされたかっただけだ。先生の気持ち、わかりますよ。そう一言言っただけ。なのに、その教師はわたしが誘っていると勘違いしたのだ。下種な男だった。死ねばいいと呪った。
 けれど、その気持ちはちょっとした間違いだった。
 男はみんな、同じだったからだ。
 その教師以外にも、男には声をかけたことがある。そのたびに、彼らは愛をすぐに性欲に変えて、わたしに寄ってくる。うっとうしかった。同級生ならともかく、はるか年上の男まで同じことをするのだから――中学生相手に、欲情するなんて。気持ち悪い。
 そのたびに、死ねばいい、なんて思っている暇はなかった。
 これが当たり前なのだと、脳に情報が刷り込まれた。
 男は、みんなこうなのだ。信じられないことに、女の中にも『そういう』行動に出る人間は多かった。わたしが一言魔法をささやくだけで、みんなわたしを求める。最初は快感だったが、だんだん気持ちが悪くなる。繰り返すうちに、「あいつはビッチだ」などとささやかれる。娼婦だと言われたこともある。ふざけるなと思った。男が、勝手に勘違いしているだけなのに。わたしが誘ったことなど一度もない。
 そういうわけで、わたしは一人になった。それが合理的だと思った。他人に体を許してまで得るものがあるとは思えなかったし、一人の人間にいつまでも縛られるのは嫌だった。自由でいたかったのだ。もう、あのセリフを使うのもやめた。一人でいられる場所を探して、そこでひたすら世界を呪って過ごした。
 そうしてたどりついたのが、ビルの屋上だった。手摺のあるビルでも、手摺の向こう側ではなかなかのスリルがあった。いつしか、手摺のないビルの屋上――そこは自殺名所らしいといううわさを聞いて、そこに行った。本当に手摺がない屋上だった。風が吹き抜けるために作られたような。あるいは、誰かがふらりと飛び降りるために作られたような。そんな、居場所だった。
 そこが自分の居場所だと、思った。

 そして、わたしは彼と彼の関係者たちに出会った。

 貝瀬理恵。この人は怖いと思った。目付きが陰気だし、実際、暴力的なのだという。わたしは、肉体に暴力をふるう人は嫌いだ。彼女の過去はけっこう悲惨だったけれど、今は別に不幸というわけではなさそうだ。つまらない。
 片岡碧梧。この人は、不幸だと思った。彼の周りを漂う『過去』は、他の人間の数倍の重さでわたしに流れ込んできた。こんなに不幸な人は、他にいない。わたしは彼に興味を持った。
 松浦かなめ――彼は、特別だった。わたしに欲情しなかった。愛情を性欲にすり替えない。わたしが冷たくしても、わたしを嫌いにならなかった。特別な存在。わたしは、彼と一緒にいたかった。

 今、目の前でわたしを見つめている片岡碧梧は、優先順位的に言えば二位の存在になるだろうか。
 わたしは最近、彼のこの部屋で過ごす時間が圧倒的に多い。
 碧梧が妹とその彼氏を拒絶してしばらく経過したが、彼はあの二人に会う兆しを見せない。
 秘密を知られたから、会いたくない――彼はそう言う。
 それは事実だろう。でも、会いたくない理由は他にもたくさんあった。わたしは彼の周りを飛び回るその理由たちを、いちいち眺めてはため息をつく。放っておけない、と心底思う。どうでもいいことでぐだぐだと悩み、自分を閉ざし、挙句の果てには部屋から出られない。碧梧は、明らかに内向的すぎる男だった。
 本来なら、こんな男は放っておくに限る。関わると面倒だからだ。でも、碧梧に限ってはそうしない。その不幸さが他人に比べてずば抜けすぎているからだ。彼の幼少時のトラウマや、妹とのもめごと、そして現在の苦悩。どれをとっても、そこらを歩いている人間が普通に持っている『不幸』とは次元が違った。ある種、特別な人間だと言えるくらい、彼は異様にふしあわせだった。
 その不幸な境遇が、現在の彼をどういう風に新たな不幸へ陥れていくのか――
 わたしはそれに、興味がある。
 わたしが部屋に遊びに来ると、彼は少し嬉しそうな顔になる。
 それはどうして?――妹と会えなくて寂しいからだ。
 妹に似ているわたしを、妹の代わりにしているわけではない。
 彼はおそらく、誰でもいいから、心を許せる相手がほしかった。
 そこへわたしが現れたから、何の疑いもなく信じてしまったのだ。
 片岡碧梧は、他の男たちとは違った。彼はわたしを手に入れようとはしなかった。
 彼には性的なトラウマがある。そのトラウマのせいで、女性をそう言う対象には、見れないのだ。
 碧梧が普通の男になってしまったら、そのときはもうここには来ないでおこう。そう思っている。
 でも今は、彼のそばにいてやろうと思う。
 碧梧はあまりにも寂しそうで儚げで、そのまま放っておいたら静かに死んでしまいそうだ。

「あなたの気持ち、わかるよ」

わたしが試しにそう言ってみると、碧梧は困ったように笑んだ。
「ぼくの気持なんて、わかりたくないだろうに」
不幸すぎる自分の気持ちがわかってしまうなんて、あゆみにとっては迷惑ではないか――そういう意味合いの言葉だったのだろう。そんなことを言われたのは初めてで、新鮮だった。
「そんなことは、気にしなくていいよ」
と、わたしは言った。実際、わたしは気にしない。誰の過去がわかっても、誰の気持ちがわかっても、そんなものに意味なんてない。もう、わたしはそれを知っている。

 物語に背負われない超能力者に、存在価値はない。
 それでも、わたしは存在している。
 あらかじめ存在する価値を奪われながら、この場所にいる。

 物語は動かさない。
 でも、手に入れたいものは、どうやっても手に入れてみせる。
 そのための最初のステップが、碧梧を幸せにすることだった。
 しかし、案外碧梧と過ごす日々が楽しくて――わたしはちょっとだけ、目的を見失いそうだ。
 別にそれでもいいかな、と少し思う。
 ここが最終地点でも、かまわないかもしれない、なんて。
 
 不幸な青年は今日も、静かにそこに座っている。
 彼に笑いかける。彼もわたしに向かって笑う。
 わたしは彼の不幸について考え、彼はわたしと話している幸せを考える。
 天秤がつりあっているように見える。
 その天秤は、いずれひっくり返って粉々に破壊されるだろう。
 でも今は、もう少し碧梧と話がしたい。
 彼と話していると、不幸という現象の意味が、わかりそうな気がする。


 ワンダフルワールド。
 幼いころから望みつづけた理想の世界は――もしかすると、この極上の『不幸』の中にあるのかもしれない。




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