不協和音
碧梧さんがぼくらに会ってくれなくなってから、数週間が経過していた。
ぼくら三人は、部活動のために部室に集まっている。
青木がPSPを起動し、ぼくも鞄からPSPを取り出す。貝瀬はニンテンドーDSで乙女ゲームをやっているようだ。時折、彼女のDSから声優の声が聞こえてくる。最近のぼくらはひたすら黙々とゲームをするだけで、特に活動することはない。時期的にも、作曲やレコーディングをする必要はない。岡崎がいないのも、そのせいだ。彼女は多分、携帯型ゲーム機なんて持っていないだろう。ここにいても暇なだけだ。
「今日はゲームですか? いつ、まともに活動するんですか?」
そう言ったのは東坂あゆみだった。いつも岡崎が座っているパイプ椅子に腰かけて、あゆみは馬鹿にしたように笑っている。
あゆみが当然のようにここにいることに、ぼくは何も言わなかった。彼女は最近、頻繁にここに来る。
「あんたには関係ないのよ。このクソガキが」
貝瀬は、あゆみを追い出しこそしないが、かなり邪険に扱っている。仕方がないだろう。貝瀬も、碧梧さんにはあれ以来会っていない。しかも、あとから聞いたところによると、碧梧さんに拒絶されてしまったようなのだ。家に行っても、門前払いを喰う。貝瀬にしてみれば、それらは全部あゆみが持ってきた災厄だ。せっかく取り戻したと思っていた兄妹の絆を破壊したあゆみを憎む気持ちは、よくわかる。
だが、クソガキ扱いされてもあゆみはまったくへこたれない。
「わたしがクソガキだったら、おねーさんは腐れ女よね」
「あ? 腐女子舐めてんの? ぶっ殺すよ」
まさに一触即発の空気だ。そこに割って入ったのは、ぼくではなく青木だった。
「じゃあ、ぼくは腐れ男かな」
「イケメンのおにーさん、話わっかるー!おもしろーい!」
楽しそうに笑い転げるあゆみ。
これは、ナイスフォロー、なのだろうか。ただの天然だろうか。判別できない。
ところで、ぼくが『弱虫のおにーさん』なのに、青木は『イケメンのおにーさん』。これはなんか、納得のいかない感じだ。ちくしょう、青木め。
「あゆみ」
と、ぼくが言うと、あゆみはこちらを向いた。「何?」
「碧梧さん、あれからどうしてる?」
「不幸なおにーさんは、相変わらずだよ。超暗い。もうおもしろいくらい」
ぼくとあゆみの問答を聞いていた貝瀬が、驚いたようにぼくを見る。
「ちょっと、なんでこの子が兄さんのこと知ってるの」
「会いに行っているから」
ぼくは簡潔にそう答える。実際、それ以上のことはよく知らない。
「ていうか、なんで松浦がこの子のことを名前で呼んでるの」
「それは……」
別に、意味なんてない。あえて言うなら、東坂、という名字は字数が多くて呼びづらいからだ。
「腐ったおねーさん、焼きもち焼いてるんだ」
くふふ、とあゆみが笑う。いけない、貝瀬をそんな風に挑発すると、危険だぞ。あゆみの安否が心配になってしまう。
貝瀬よ、頼むから、大人として自重してくれ、とぼくは願う。挑発に乗るのも、あゆみを痛い目に合わせるのも、貝瀬の自由だ。しかし今、あゆみをここから追い出してしまったら、たぶん碧梧さんと二度と会えなくなる。それは、貝瀬の望む結末ではないはずだ。
「……別に、そんなんじゃないし」
貝瀬は思いとどまったようだ。ぼくはほっとする。
「なんだろ、でも、不幸なおにーさん、たぶん安定してるよ」
あゆみは少し考えて、そう言った。ぼくは問う。
「安定?」
「そう、安定。わたしが現れるまではちょっと不安定だったみたいね。最近は、テンションが一定になって、ちょっと安定してるの」
そんなことが、どうして君にわかる?――とは言えない。東坂あゆみは、人の心が見えるのだという。にわかには信じがたいが、確かに彼女と話していると、心を読まれているように感じることはある。完全な嘘ではないのかもしれない。だから、その力で碧梧さんの状態もわかるのかもしれない。超常現象でなくても、人の心をなんとなく察することのできる人間と言うのは存在する。彼女はおそらく、そういう人間なのだ。
「わたしや松浦が目の前にいたら、安定しないっていうわけ?」
貝瀬は静かな口調で言った。あゆみはそれを肯定した。
「そうね。でも、あのおにーさんにとって、安定は幸せじゃないの。幸せなときほど、ぐらぐらしてる」
「じゃあ、今は不幸だと?」
「今だけじゃない。あの人はずっと不幸よ。幸せを感じるレベルが低すぎて、背負ってるものが大きすぎる。どれだけ頑張っても抜け出せない不幸に、囚われているの」
あゆみが断言すると、そうなのではないかと思ってしまう。ぼくも、あゆみの言葉に囚われているのだ。しかし、貝瀬は不服そうだった。
「確かにそうかもね。でも、この間まで、兄さんは普通だったわ。あなたが現れるまでは」
「過去に蓋をしていたから、安心してたんでしょうね」
「過去なんて、掘り返す必要はなかったわ。内緒のままでもよかった!」
貝瀬はそう言ってあゆみを睨んだ。あの日の再現のようだった。
「わたしは、そうは思わない。少なくとも片岡碧梧は、今、わたしが自分と秘密を共有していることを、快く思っている」
あゆみが碧梧さんを名前で呼ぶ、その響きが印象的に響いた。ああ、彼女は碧梧さんをよくわかっているのだ。なんとなく、そう思った。
「ならどうして、わたしや松浦には会ってくれないの」
貝瀬は泣きそうになっている。そうだ、秘密を共有することが彼にとっていいことだというなら、ぼくらに会ってくれないのは何なのだ。
「あなたたちが、彼を不安にするから」
あゆみはそう言って、挑戦的に笑む。「半端な優しさでは、彼は救えない」
「わたしは、どうしたらいいのよ」
貝瀬は絶望した風に言った。完全に、あゆみに降伏するような形で。もしもこの会話が何らかの勝負であったなら、敗者は貝瀬理恵であろう。ぼくはそう思った。
「東坂あゆみは――片岡碧梧を幸せにする」
あゆみが、他人事みたいにそう宣言した。
「わたしも、彼に悪いことをしてしまったっていうのはわかってる。少なくともあの人は、過去を思い出したくはなかったみたいだしね。その罪は認めるわ。これで帳消しにしろなんて言わないけれど、今はわたししか彼を幸せにはできないって思うから、わたしはそうする」
あゆみの横顔は凛としていた。
「そうやって、何もかもわたしから奪うの?」
ぼくは思わず、貝瀬の方を見た。貝瀬はうつむいていて、表情が見えない。
「別に、おねーさんに恨みはないけど、結果的にそうなるかもね」
「おい、貝瀬」
ぼくが何か言いかけたのを、あゆみが遮った。
「でも、忘れないで。わたしが好きなのは、あの人じゃなくて、あなた。これは全部、あなたを手に入れるためのプロセス」
あゆみのささやきが、ぼくの心にゆっくりと落とされた。貝瀬の顔色が変わる。
「かなめ」
あゆみは勝ち誇ったような顔で、部室を出ていく。誰も、何も言わない。ぼくは、しばらく呆然としていた。あんな風に名前を呼ばれたのは、初めてだった。貝瀬は、ぼくを名前では呼ばない。青木も岡崎も、そうだ。
急に、どうしようもなく、怖くなった。
これから何が起こる?
ぼくらのモラトリアムは、このまま続いては行かないのか?
どうしてこんなことになった?
ぼくがあの子に出会って、ここに連れてきたのが――いけなかったのか?
でも、あの子は。
あの子はきっと、自分をわかっていない。
人の心は読めても、自分を理解できない。
自分の存在がこうやって空間を破壊していくことの重大さすら、彼女はわかっていない。
ぼくが、教えてやらなくては。
世界には、破壊していいものなど何もないということを。
「ぼくがなんとかする」
つい感情に任せて、そんなことを言ってしまった。そのまま、立ち上がった。あゆみを追うつもりだった。
「なんとかって、どうするの」
貝瀬は小さな声で言う。
「どうしたらいいかわからない。でも、このままじゃだめだ」
「…………で」
貝瀬の声は小さすぎて、何と言っているのかわからなかった。
今にも泣き出しそうな、子供のような顔で、貝瀬はもう一度その言葉を繰り返す。あまりにも大人びたあゆみの表情と比べると、余計に幼く見えた。この二人は、似てなんかいないのかもしれない。初めてそう思った。
「行かないで」
ぼくは、どこにも行かない。ただ、あゆみをなんとかしなくてはいけないから、追うだけ。
だが、青木も貝瀬に同調するように言った。
「ぼくも、行かない方がいいと思う」
「……おまえは、何も知らないだろ」
青木は、まじめな顔になって言う。
「知ってるよ。このまま置いていかれたら、貝瀬さんが不安になることくらいは」
青木の言葉は、正しかった。
ぼくは、椅子に座りなおした。ゲームを続ける気にはなれず、PSPの電源を落とす。
「ぼくは、貝瀬のそばにいる」
貝瀬は黙っている。
「どこにも行ったりしないし、あゆみのところにも行かない」
独白のように告げられた言葉に、貝瀬は頷いた。
「……うん」
そんな約束にどれほどの効力があるというのだろう。自分でもそう思ったけれど、たぶん、言わないよりはずっとましだった。ぼくは、貝瀬を幸せにするって決めたはずだ。その言葉は消えてなくなったりしない。
けれど――なんだか大きすぎる運命が、ぼくらに寄ってきていることは事実だった。
東坂あゆみ。
片岡碧梧。
そして、ぼくたち。
全員が一様に幸せになることなんて、果たしてできるのだろうか?
まるで転がり落ちる球みたいに、ぼくは考える。
この世界は、いったいどこにつながるのだろう、と。
不安げな貝瀬の顔や、破滅的なあゆみの笑みや、ぼくらを拒絶した碧梧さんを、思い出す。
どうしようもなく、不安だ。未来が、見えない。
それでもぼくは、貝瀬を幸せにする。
きっと、碧梧さんの笑顔も取り戻してみせる。
そう誓いながら、ぼくは貝瀬に笑いかける。精一杯、笑顔になる。
――絶対、誰も不幸になんか、しないのだから。
100317
なんか松浦さんが正統派ヒーローみたい。