デイドリーム
ふにふにとした柔らかな感触で目が覚めた。窓から差し込む朝日はいつもどおり、まぶしい。
「ふわあ」
思わずあくびが出る。なんだか声がかすれているような気がするなあ、と思いつつ洗面所へ向かった。
鏡の中に、ティーシャツを肌の上に直で着ている女の子がいた。シャツの上からいろんなものが透けていて、まったくもってけしからんというか、上着でも着ろよと思ったのだが、よく見るとそれはぼくだった。
「って、なんでだよ!おかしいだろ!」
鏡の中に向かって思いっきり突っ込みを入れてしまった。当然のことながら、彼女はぼくに向かって同じように突っ込みを入れるだけで、何も答えはしない。突っ込みに合わせてたゆたゆと揺れる豊満な乳だけが、現実だった。
ぼくは部屋に駆け戻った。大丈夫、誰にも見られてない。弟は高校生だからぼくよりもかなり早く家を出てしまっているし、両親も今日は仕事でいない。長兄は言うまでもなく部屋にいる。
部屋にある小さな鏡を覗き込んでみると、そこにいるのはやっぱり女の子だ。ただし、スキンヘッドの。窮屈なシャツの下にあるのはけっこうな巨乳で、今朝のふにふにの正体はこの胸だったのか、と妙に納得する。そんな納得、何の足しにもならないんだけどな。
これ、今流行りのTSってやつかなあ。うーん、ぼく、そっち系の趣味ないんだけど。ジャンルの性質は知ってるけど、TSが何の略称なのかも知らないし。今度、青木にでも聞いてみるかな。
とにかく、このままじゃ外にも出られないぞ、と思考する。胸に関しては上着を着れば何とかなりそうな気もするけど、それにしたって女がスキンヘッドなのはかなり目立つだろう。
誰かに助けを求めないとどうにもならない。ようやくそう気付いた。
でも、誰に――と落ちついて考えてみるに、頼りになりそうなのは青木しかいないのだった。貝瀬だと事態をひっかきまわして遊びそうだし、岡崎とはあんまり仲が良くない。
メールではこの状況が伝わらない気がするので、青木に電話をかけることにした。
数回のコールのあと、青木が出た。
「あ、青木か?」
「どなたですか?」
ぼくの携帯からかけたのだから、ぼくに決まっているだろう。
「松浦だ!」
青木は一瞬、不思議そうに黙った。「松浦の知り合いの方ですか?」
「なんでそうなるんだよ、ぼくだよ、本人だ」
「……何かの遊び? ドッキリかな」
そのとき、ぼくははっとした。そうだ、たぶん、声まで女になっているのだ。
「落ちついて聞いてくれ。ぼく、朝起きたら女になってたんだ。ドッキリじゃないんだ」
「へえ、そう」
今日の天気は晴れだね、と言われたみたいに平坦な相槌を打つ青木。信じているのかいないのか、よくわからない。
「へえ、そう、じゃねえ。助けてくれ。このままじゃ外に出れない、っていうか学校行けない。困る」
「わかった。何が必要かな」
「え、っと……とりあえずウイッグと、あと、その、」
「下着?」
青木があまりにも平然としているので、この件についての黒幕はこいつなのではないかとさえ思った。何が起きても動じなさすぎるのも考えものだ。この男、地球が明日終わると言われても、「へえ、そう」しか言わないに違いない。
「う……うん。あと、服もできればほしい」
「了解。うちは姉貴がいるから、たぶんなんとかなるよ。じゃあ、これから準備するね」
ぷつん、と音を立てて電話が切れた。今のやり取りは何だったんだろう。
ぼくからかけたのにもかかわらず、イタズラ電話だったような気分だ。
「うひゃあ」
青木は、蛙が車に轢かれかけてぎりぎりのところで跳ね避けたときに出しそうな声をあげた。
「意外と大きいね、それ」
豊富すぎる乳を見て、さすがの青木もちょっとだけ目をそらした。
どうやらホモではないらしいな、とどうでもいいことを考えてみたが、悪趣味なのですぐにやめる。
「とりあえず女性用下着を拝借してきたけど、もしかするとサイズが合わないかもしれない」
男が女性化してしまっているというアバンギャルドでアンビリーバブルな事態はスルーして、青木はかばんの中から不透明な袋を取り出す。このスルー能力はオンサで培われたものだよなあ。うちのサークル、常にスルー検定実施中だから。
ところでその袋の中身、ちゃんと了承を得て拝借したんだろうか……黙って持ってきてしまったとすると、あとあと面倒なことになりそうだ。青木の家の姉弟事情は知らないけど、姉の下着を泥棒した罪で青木が責められたら、ぼくは良心の呵責で苦しむことになる。「同級生のために下着を黙って借りました」って申告して、あっさり許してくれるのなら、それはそれで変人である。この青木の姉だから、どんな変人であっても驚かないが。
袋を受け取って中を見ると、普段はお目にかからない、女性の上半身用下着(名前を口にするのはやめておく)が入っていた。見ただけで、どっと汗が噴き出た。これを身につけないといけないのかよ、ぼく。これ以上ないレベルの羞恥プレイだ。
「なあ、これって絶対つけなきゃいけないもんでもないよな」
と尋ねてみる。シャツを何枚も着れば、下着はなしでもいけるんじゃないか、と思ったのである。
だいたい、どこをどうすれば身体につけられるのかすらわかんないっつーの。童貞なめんなよ。
「貧乳ならそうだけど、それだけの大きさがあるとなると、つけた方が無難じゃないかなあ。揺れると痛いっていうし」
青木は落ちついた態度でそう応じる。
青木の口から「貧乳」なんて言葉が出たのは初めてではなかろうか、とぼくは無駄な部分に感動した。
「……えっと、じゃあ、つけてくる」
ぼくは袋をつかんで立ち上がる。男同士で着替えを恥ずかしがるのもどうかと思うのだが、状況が状況なので、ここで脱いだら青木に悪い。同級生の性欲を無駄にあおっても仕方ない。
「いってらっしゃい」
青木は笑ってそう言った。どことなく気まずそうな笑顔だった。
ブラジャー(伏せるのが面倒になった)をつけるのはものすごく難しかったうえに、サイズが合わずに苦しむ羽目になった。これ、何カップあるんだよ。爆乳とまではいかないがかなりの巨乳である。肩がこるし、重い。この苦労を知らずに爆乳だの奇乳だのを夢見てる男ってほんとおめでたいよなあ、と思う。ぼくは微乳派だからあんまり関係ないけど。
「お待たせ」
「うん」
ぼくが部屋に戻ると、青木は本棚から漫画を出して読んでいた。やはり、いまいち緊張感に欠ける。
「ウイッグもつけたら?」
と彼が言うので、ぼくは茶色のウイッグを頭にかぶせて、固定した。肩まである髪はふわふわと遊離するようで、どうにも落ちつかない。
「なぁ、変じゃないか?」
と聞いてみると、「変じゃないよ。ちゃんと女の子に見える」と淡白な答えが返ってくる。女の子に見えなくても困るのだが、見えると言われても結局困ることに変わりはなかったりする。
「とりあえず、今日のところはそれで大学に行くしかないね」
今日は大教室の授業が多い日だ。たぶん、点呼形式の出席は取られないはず。単位は落としたくないから、この恰好で学校に行くしかないのだろう。前途多難だ。
「とりあえず、ぼくが一緒にいて、フォローするよ」
青木はそう言った。確かに、何が起きるかわからない。一人では対処しきれない気もする。
「でも、カイセとかに見つかったらどうするんだ?」
「従姉妹ってことにしておけばいいんじゃないかな」
「いとこぉ?」
「TSものの定番なんだよ。知り合いに見つかったら、従姉妹、もしくは姉妹って言い訳するの。顔が似てるから、相手もそう思い込む。少なくともぼくの彼女って言うよりは説得力がある。松浦本人がいない以上、家族の関係までは確認できないから嘘はばれにくい」
さすが青木。予想通り、TSには詳しいようだ。
「なんか、青木がいたらなんとかなりそうな気がするよ」
ぼくがそう言うと、青木は目をぱちぱちと瞬かせて、「いや、そんなに期待されても困るけど」と言った。
誰にも会わずに帰れたらいいのになー、と思っていた。しかし、ぼくは教室で貝瀬にばったり会ってしまった。ちくしょう、こいつもこの授業とってるのか。忘れてたぜ。
「君は貝瀬さんのことを知らないわけだから、声はかけちゃだめだよ」
青木が耳元でささやいた。そうだ、ぼくは今、貝瀬の知ってる松浦ではないのだ。
「あ、青木だ!」
貝瀬がこちらに向かって手を振った。青木が笑顔で手を振り返す。ぼくは隣でそわそわしていた。
「そっちの人は誰? 美人さんね」
「え、ぼく?」
無意識にそう言ってしまう。
「『ぼく』じゃない」
と青木が焦った風に言った。そう、今ぼくは女性なのだ。ぼく、なんて言ったら秘密がばれてしまう。
「あ、えっと、わたし?」
ぼくはそう言いなおして、にっこり笑った。
「そうそう、あなた。もしかして、青木の彼女さん?」
「この人は、松浦の従姉妹だよ」
ぼくがテンパって黙っている間に、青木がさりげなくぼくを紹介してくれた。グッジョブ。後で何か奢らせてくれ。
「へえー、松浦と違って美人よね。全然似てないわ」
貝瀬はひどいことを言う。今なら殴ってもいいだろうか。いやいや、ダメに決まっている。
「よろしく」
ぼくが短く言うと、貝瀬もぺこりとお辞儀して答えた。
「ところで、松浦本人はいないの? この授業、とってたわよね」
「今日は風邪を引いたんだって」
青木がすらすらとよどみなく答える。
「へえ、バカでも風邪は引くのね」
「人がいないと思って好き勝手言いやがって」
「え、何か言いましたか? 松浦の従姉妹さん」
「何も言ってませんわ」
おほほ、とぼくは笑ってみせる。危ない、思わず本音が出てしまった。
「松浦の従姉妹さん、名前は何ておっしゃるんですか? 何歳?」
――名前。そして年齢。
やばい、考えてなかった。
女性の名前なんて、急には思いつかないぞ……今の自分が何歳くらいに見えるのかも、わからない。
ぼくは視線で青木に助けを求める。青木は、えっと、と前置きをして、教科書をちらちら見た。次の授業は、環境論。開かれた教科書には、地球温暖化と京都議定書について書かれている。
「えー……CO2……ココ。ココさんです。年は、ぼくらより一個上」
青木も名前までは考えていなかったらしい。江戸川コナン並みのアドリブだった。ごめんよ青木、とぼくは思う。
ココ、という名前はなんか漫画の登場人物のような響きで、貝瀬が嘘だと疑うのではないかと思ったが、貝瀬はふむふむと頷いている。
「ココさんかあ。かわいい名前ですね!」
「え、えへ。ありがとう」
「ココさんも、この授業を受けて帰るんですか? この学校に通ってるの?」
「この学校の学生ではないですけれど、せっかく来たので聴講していこうかと」
ぼくは適当に嘘を言った。この学校だ、と言ったら、後日、『ココ』が学内にいないことを不審に思われる可能性があると思ったからだ。
「せっかくココさんが来たのに、いないなんて松浦も薄情ですよね。ココさん、松浦に会いに来たんでしょう?」
何故勝手に決めつけているのだ、この女。ぼくは薄情なんかじゃない。そう言いたくなったが、こらえた。
「ココさんは、ぼくの友達でもあるんだ」
青木がそうフォローした。
「あ、そうなんだー。もしかして、オタク仲間?」
貝瀬がなぜか小声で青木に質問している。
「え、いや、さあ……どうなんですか、ココさん」
青木が仕方ない風にぼくに尋ねてくる。いや、どう答えたらいいのかわかんねえよ、その質問。
「えっと……よくわからないですね、自分でも。オタクっぽい部分もあるかも」
よし、うまくごまかした。しかし、貝瀬は会話を続ける。
「趣味は?」
お見合いか!と突っ込みつつ、
「ケーキとか、お菓子作りかなあ」
と言った。我ながらなかなかナイスな趣味ではないだろうか。すごく女の子っぽい。
「わあ、イメージぴったりですね。じゃあ、岡崎さんと話が合うかも」
「へ、へえ。そうなの。会ってみたいなあ」
ぼくはもう、自分が何を言っているのかわからなくなり始めている。
この後、もし岡崎に会ったら。どんな話をすればいいのだろう。
岡崎は、貝瀬と違って、いろいろ敏感そうだからなあ。正体がバレてしまいそうで怖い。
「うげ、先生来た」
貝瀬がそう言って席に戻る。青木も黙ってノートを広げ始め、チャイムが鳴る。とりあえずぼくはほっとした。
授業はあまり頭に入らなかった。
「はー、環境系ってだるいわよね。理科みたいで眠たいわ」
授業が終わり、理数系が苦手な貝瀬はそう言って伸びをした。
「あの、わたしはこれで帰ろうかと」
ぼくはすかさず立ち上がって帰ろうとした。さっさと帰りたかった。いつまでも学校にいても、元に戻る手掛かりはつかめなさそうだし、何の前触れもなく元に戻っても、それはそれで困る。
「えー! 部室に寄ってってくださいよ。何もない部室ですけど。ココさんとお喋りしたいなあ」
貝瀬は妙にフレンドリーに絡んでくる。おかしい、と思った。こいつは初対面の人間とこんなに話せる奴だっただろうか。いつもなら、もっと警戒心剥き出しなのに。
もしかすると、ぼくの顔が『松浦かなめ』に似ているから、絡みやすいのかもしれない。実際、ぼくはココじゃなくて『松浦かなめ』なわけだしなあ。
だが、どれだけ貝瀬が親しげであろうと、ぼくはあくまで誘いを断りたかった。
「いや、わたしは」
「何か用事でもあるんですか?」
「……特にないです」
つい、押し切られて正直に答えてしまう。青木の方を見ると、苦笑いしていた。
仕方ない、部室で少しだけ話して、岡崎が来る前に退散しよう。
「……では、お言葉に甘えてお邪魔させていただきます」
どうでもいいけど、なんでこんなお嬢様言葉なんだろう、ぼく。ある意味不審かもしれない。
ぼくは落胆した。
なんと、部室には既に岡崎がいたのである。
「どなたですか?」
「松浦の従姉妹で、ココさんっていうんだって」
今度は貝瀬が答えた。
「ココです。よ、よろしく」
岡崎は不思議そうに首を傾げてから、「顔、そっくりですね」と言った。
「そ、そうですか? よく言われます」
ぼくは笑ってごまかす。もう、どうにでもなれ、という気分だ。
「ココさん、お菓子作りが趣味なんだって!」
「あ、わたしと同じですね。何が得意なんですか?」
岡崎はそう問いかけてくる。何か答えなければ。
「カップケーキとかですかね」
「あ、あれは作りやすいですもんね。わたし、今はクッキーにハマってるんですよ」
「クッキーですかあ」
「ええ、クッキー」
岡崎はそう言って微笑んだ。普段、ぼくと話している岡崎と全く変わらない。
「あ、そうだ、ドロップ食べます?」
そう言ってドロップの缶を持ち出すところも、普段通り。
「なんか、松浦がいないと青木ハーレム状態よねー」
唐突に貝瀬が言った。
「青木ならギャルゲーの主人公にもなれそうだよな」
美形だし、ある種の自由さもあるし、こいつなら前髪を伸ばして目を隠しても様になるだろうさ。
……と、そこまで考えて、ぼくは考えていたことをうっかり口に出してしまったことに気付いた。
部室で、いつものメンツしかいないから。つい、自分が『ココ』であることを忘れてしまった!ヤバい!
案の定、貝瀬が驚いたようにこちらを見ている。
「……ギャルゲー?」
「あ、えと、その」
てめえやっぱり松浦か!と言われることを覚悟した。しかし、貝瀬は嬉しそうに笑む。
「なんだ、やっぱりココさんもオタクなんですね」
……セーフ!
青木に目配せすると、ウインクをかましてきた。キモいから、やめてくれ。
「ココさん、好きなアニメとかあります?」
「え、アニメ……」
ぼくは適当に、自分の好きなアニメの中で、女性も見ていそうな物の名前を挙げた。
「わー、わたしもそれ好きですよー」
貝瀬は機嫌良さげににこにこしている。しばらく、アニメの内容についての他愛ない話が続いた。
「あ、わたし、そろそろバイトなんで帰りますね」
話が途切れたところで、岡崎がそう言って立ち上がった。
「あ、わたしも失礼します」
すかさずぼくも立つ。これ以上ここにいたら、正体がバレる可能性が増すばかりだ。青木も立ちあがるかと思ったが、青木はそのまま座っていた。よくよく考えると、今青木が帰ったら、残された貝瀬も帰ることになる。そうなると、『ココ』の帰り道が貝瀬にバレてしまう。だから、青木はもう少し部室に残って貝瀬の相手をする、という作戦か。ナイスだ、青木。
「ココさん、また来てくださいね」
貝瀬は女の子と話せて嬉しそうだった。
普段、学校で女のオタクと話すことはあんまりないから、なのだろう。
部室から出て歩き出すと、岡崎がこちらにさりげなく寄ってきた。
「松浦先輩、何してるんですか」
岡崎が言った言葉の意味が、よくわからなかった。意味を飲み込んだ瞬間、凍りつく。
「え、あの、わたしは……」
「松浦先輩に女装趣味があるなんて、知りませんでした。コスプレっていうやつですか?」
言い訳をする間もなく、冷やかにそう断定された。ぼくはおとなしく全部白状した。
「はあ、そういうわけですか。納得しました」
青木と同じく、岡崎もあまり驚かなかった。やっぱり似ているよなあ、この二人。
「なんでぼくが松浦だってわかったんだ?」
「見たらわかりますよ。わからないのは貝瀬先輩ぐらいです」
「そうですか……」
本当に、『見たらわかる』のだろうか。貝瀬はまったく気付いていなさそうに見えたが。
「貝瀬先輩は、単純ですから。騙されやすいんです」
「単純……」
「でも、これ以上騙しちゃだめですよ」
岡崎は少し怒った調子で言った。「貝瀬先輩が、かわいそうですから」
「かわいそう?」
「仲間を騙すなんて、最低です。事情があるなら仕方ないので、今回は許しますけど」
「岡崎がそんなこと言うなんて、意外だな」
心底、そう思った。岡崎はもうちょっとドライな奴だと思っていた。
「松浦先輩が騙されても特に興味ないですけど、貝瀬先輩を騙すのはなんか許せません」
「ああ、それはぼくもなんとなくわかる」
貝瀬って、そういうことされると過剰に傷つきそうだからなあ。
ついでに付け加えるなら、青木はどうやっても騙せそうにない。岡崎も右に同じ。
「元に戻れる算段はあるんですか?」
「ないけど、青木いわく、寝て起きたら次の日の朝に戻るんじゃないかってさ」
「その理由は?」
「それがTSもののパターンだから」
「意味わかりません」
「ぼくもよくわからないよ。専門じゃないからね」
なんですか、専門って?と岡崎は怪訝そうな顔になった。
実際、次の日の朝には元に戻っていた。
何の山もオチもなく、ぼくは元の生活に戻れることになった。
元に戻るために努力とかしなくていいのかよ!と突っ込みを入れると、青木が隣で苦笑いしていた。
本当に、何のために女になったのだかわからない。
だが、貝瀬に後日、TSの話を振ってみると、
「TSはカップリングのパターンを増やすための小道具みたいなもんだからなあ。理由とか原因とか、いらなくない? 勝手に女の子になって、都合のいい時に元に戻る。それでいいのよ」
とあっさり不条理を肯定された。
「でも、TSは案外奥が深いものよ。舐めていると不意打ちで萌えたりするから侮れない」
貝瀬はそう言ったが、「じゃあ、ぼくが女になったらどうする?」と訊く気にはなれなかった。
代わりに、ぼくはこう言った。
「ココさんが、貝瀬と話せて楽しかったって言ってたよ。ありがとな」
貝瀬はびっくりしたように、笑顔になった。
「本当!? また会えたらいいなあ」
もう二度と会うことはないだろうけれど、それ以上、ぼくは何も言わなかった。
岡崎には怒られるかもしれないが、この程度の嘘なら許されるだろう。
そう思って、ぼくも一緒に笑うことにした。
100319
松浦を変なトラブルに巻き込みたかっただけの話。
TSとは同人ジャンルの一形態、トランスセクシュアルの略。
平たく言うなら性転換物。
先天的TSと後天的TSがあります。
というのは、非常にどうでもいい解説豆知識。