がらんどう

 流れている。
 人間が、流れている。
 おそらく通勤ラッシュなのだろう。
 さまざまな服装の、さまざまな人たちが。
 流れる。
 右から左へと。
 一様に。
 口数少なく、ただ、流れ、去っていく。
 そんな流れの中に、自分はいる。
 流れずに――立ち止まっている。
 ギターを奏でている。
 誰も、彼の歌なんて聞いちゃいない。
 彼は、ただ歌うだけだ。
 そこには何の意味も対価もない。何も見返りはない。何一つ、ない。
 誰も彼を見ない。誰も、彼に関心を持たない。
 そのことが、彼にとっては救いだった。
 彼は、自分が妹を探すために歌っていると勘違いしていた。確かに、当初の目的はそうだったかもしれない。でも、その目的は徐々に消えて、最終的にはあまり意味のないものになっていた。
 彼はただ、居場所がほしかった。
 誰も目を合わせず、誰も話しかけず、誰も彼に干渉しない。
 それでも存在を許される、そんな居場所を求めていた。
 だから、陸橋の上は居心地がよくて、最高の居場所だった。
 いつまでもいつまでも、そこにいたいと思っていたけれど――それは叶わなかった。なぜなら……


++++


「似てるなあ」
あゆみは、突然そうつぶやいた。おそらく、また自分の心を読んでいるのだ、と碧梧は思う。何の疑いもなく、思う。彼はその事実を疑ったことはない。疑う理由なんてないからだ。また、恐れる理由も特にない。
超能力――確かに、それ自体は畏怖の対象だろう。
けれど、東坂あゆみの能力には、敵意も悪意も感じない。
むしろ、精神を受容される心地よさすらある。
そんな自分は、変わっているのかもしれない。
「何が?」
碧梧は力なく問いかけた。答えてもらえるとは思っていない。ただ、沈黙を埋めたくて聞いてみただけ。
「居場所がほしいっていう、気持ち」
あゆみは短くそう答えて、その場に寝転がった。クッションを抱きしめて、彼女はころころと部屋を転がる。
「わたしも、そういうことを考えてた。誰にも干渉されない、自分だけの居場所があったらいいなって」
「そう」
碧梧は、頷きながら陸橋の景色を思い起こしていた。
「わたしは、ビルの屋上。あなたは、陸橋の上。見えるものは、似てるかもしれない」
「バカと煙は、っていう感じかな」
少しだけふざけて、軽く笑ってみた。あゆみは笑わなかった。
「ねえ、陸橋の上から、何が見えたか覚えている?」
そう問われて、碧梧はあらためて思い返そうとした。人。流れる人。自分に関心を持たない人。思い出すのはそんなものばかりで、陸橋から何かを見た記憶はなかった。
「……覚えていない」
陸橋は彼にとって、景色を見るための場所ではなかった。
ただ、存在を許してもらえる、場所だった。
「そう」
今度はあゆみが頷き、黙った。しばらくして、彼女はこう問いかける。
「そこからあなたを連れ出したのは、誰だった?」

――その歌は、誰の、何という曲ですか?
『彼』はまず、そう言ったのだ。
それがすべての、始まりだった。

碧梧は、その人物の記憶を強く思い起こすことであゆみに答えた。あえて口に出す必要はなかった。
「わたしを屋上から外の世界へ連れ出したのも、同じ人よ」
あゆみは、そう言って唐突に立ち上がった。彼女は、碧梧を見下ろしてつぶやく。
「本当に、あの人は自分のしていることの意味をわかっているのかしら」
「きっと、わかっていない」
松浦があの日、碧梧に出会わなかったら――どうなっていたか。
同じように、松浦があゆみに出会わなかったらどうなっていたかも、考えてみる。
きっと、自分は妹には出会わず、あゆみにも出会わなかった。
いつまでも続く陸橋の上の日常を、享受していられた。
思い出したくないことを思い出すことも、なかった。
人と話す幸せを、感じることもなかった。

「出会ったという事実と、出会わなかった可能性。どちらの方が幸せだったかなんて、誰にもわからない。わたしたち自身にすら、わからない」

わからない。
そう、それがすべてだ。
全部、松浦のせいだということにしてしまえば楽になれるのかもしれない。人生を楽観的に生きる最良の方法は、自分に責任を負わせないことだ。誰かのせいにしてしまうこと、だ。虐待は母親のせい。別離は両親のせい。妹の不幸は妹自身のせい。嫌なことを思い出したのはあゆみのせいで、あゆみに出会ったのは松浦のせい。自分が不幸なのは世界のせい。世間のせい。神様のせい。そう思ってしまえば、きっと碧梧は今より幸せになれる。
そこまで理解していても――松浦に恨み事を言うことだけは、なぜか考えたことがない。
碧梧はぼんやりと考える。
出会わなかった可能性のことと、出会ってしまった現実。
出会ったことを後悔したいとは思わない。
出会ったことは幸福で、出会いというものはどんな出会いにしても価値がある。
出会いは、人を喰う。調理して変質させて、疲れさせて、喰う。
食べられた人間は、軽くなってしまう代わりに充足を得る。たくさんの出会いを得た人間は、空気のように身軽で、充実している。出会わない人間は重い――誰にも食べられない人間は、重たい。
どうしようもなく重い自分は、松浦やあゆみのおかげで少し軽くなることができて、その点に関しては感謝している。
出会わなかった方がいいとは思わない。
しかし――誰にも出会わなかった世界の自分はどんな顔をしているのだろう。そのことは少し知りたい。
きりのいい場所にたどり着いた思考が、いったん途切れる。
碧梧はそこで、松浦のことを考えるのは、やめた。

「世界は、きっと、もっと綺麗なんだ」
碧梧は、特に何も考えずにそう言った。頭の中で、いつも繰り返している言葉だった。
世界は、もっと綺麗なんだ――自分がそう見ようとしていないだけで。
そういう風に見れない自分が、悪いのだ。碧梧の思考はいつも、最終的にそこに着地する。
誰かのせいにはできない。
母親に虐待されるのは自分が悪いからで、
妹が遠ざかるのは自分が遠ざけたからで、
不幸になるのは自分から不幸を招いているから。
全部自分のせいで――誰かのせいではないのだ。

「どうすれば、世界は変わるのかしら」

――世界は変わらないよ。声に出さず、碧梧はそう答えた。
碧梧が碧梧である限り、碧梧の世界は変わらない。
人間は変わらない。そう簡単に、変革されはしない。
他人に影響されることはない。
ごまかされることはあっても。
改革されることは、ない。

「あなたは、本当に……不幸ね」
あゆみの言葉は、悲しげに響いた。
もしかすると、今、あゆみを陰鬱な気分にしているのは自分なのかもしれない。
あゆみは、自分には会わない方がいいのかもしれない。
不幸は伝染する――嫌な気分は、他人に伝播していく。
あゆみを不幸にしてしまうのが自分だとするなら、自分はあゆみを拒絶するべきなのだろう。
もうこんな場所には来なくてもいい。
もうこんな男には会わなくていい。
放っておいてくれていい――
そう言ってもよかったはずなのだが、碧梧はそれを口には出さなかった。
なぜなら、あゆみがここに来なくなったら、自分は寂しいからだ。
ああ、やっぱり自分は自分勝手だ。
自分のことしか考えていない。
自分の寂しさを埋めるために、あゆみを利用している。その醜悪さが嫌になる。
「誰もが誰かを利用している。あなたはそんな風に卑屈にならなくていい」
あゆみは碧梧の心を知った上でそう言うが、碧梧の自己嫌悪はそんなものでは収まらない。
生まれついての自分嫌い。
生まれついての不幸体質。
きっと、虐待も両親の離婚も、関係ないのだ……そう碧梧は思う。
どんな環境に生まれていても、自分はきっとこうなのだ。
抜け殻。
からっぽ。
がらんどう。
存在する価値のない自分自身だからこそ。
他人を不幸にするくらいなら、自分が不幸になった方がましだ。そう確信できるほどに、自分自身には価値がない。中身がない。

「わたしは、自分が不幸になるくらいなら他人を不幸にしてやりたいと思うわ」

あゆみの言葉は碧梧の想いとは全くの正反対で、どこか滑稽に響いた。
他人を不幸にしてまで幸せになりたいなどと、碧梧は思ったことがない。

「あなたも、そうすればいいのではなくて?」
「考えてみるよ」

嘘だった。他人を不幸にする自分というものを一瞬想像するだけで、碧梧は心が竦むのを感じた。すぐに、やめた。
自分の幸福が、他人の不幸より重いはずがない。
秤にかけるまでもない――それが、碧梧の人生論の導き出す、結論だった。
「世界はとても醜い。でも、君はとても綺麗だね」
外見が美しいという意味ではない。
あゆみも、そのことはわかっている。心が読める彼女の前では、余計な言葉を口にしなくていい。誤解されることもない。それが心地よくて、碧梧は目を閉じる。
「ありがとう。あなたの不幸も、これ以上なく魅力的よ」
あゆみの声には感情がこもっていない。
碧梧には超能力がないから、彼女が何を考えているのかはわからない。
ただ、居心地がいいと思った。
まるであの陸橋の上のように――あゆみと二人きりの空間は、とても居心地がよくて、自分にふさわしい場所だという気がする。その気持ちだけは、偽物にしたくない。他のすべての感情が嘘で、からっぽの自分に詰められたおがくずだとしても。彼女という居場所だけは、本物だと思いたい。

「そんな風に思ってもらっても、困るのだけれどね」
――あゆみのそのつぶやきは、聞こえなかったことにした。



100327



どこにも進まない、停滞した二人の風景。