きみと並んで
「貝瀬先輩の、どこが好きなんですか?」
――と、岡崎は軽やかに質問したが、ぼくは答えに詰まった。
さて、ぼくが貝瀬を好きな理由とは、何だっただろう。
改めて考えてみると、よくわからなかった。
「そうですか」
岡崎は変わらない笑顔で、こう言った。
「貝瀬先輩の前で、そういうことを言っちゃだめですよ」
ぼくが、貝瀬を好きな理由――
それは確かにどこかに存在しているのだろうけれど。
心の中の、どこにあるのだか、よくわからなかった。
岡崎の言うとおり、貝瀬の前でそんなことは言えない。
いつか来るかもしれないそのときのために、理由は見つけておかなければ、と思った。
半分夢の世界に行きかけていたぼくの手にあるペンが机に奇妙な模様を描き始めたちょうどそのとき、チャイムが鳴った。講義が終わった。これで今日の講義は終了だった。
鞄から取り出したポカリスエットを飲み干し、貝瀬はぼくの方を見た。
「やっぱり、あの新しい教授は挙動がかわいい。萌えだわ」
「三次元に萌えとか言うな」
「でも好感は持てるでしょう? 松浦も」
「まあね……」
これが新年度、二日目の会話だ。何の進歩もないし、特に新しい出会いもない。サークル活動(新入生歓迎会)に関してはある出会いの出来事があったのだが、今話すといろいろとややこしいので割愛する。
「今日も、あの子は来るのかしらね」
あの子……というのは部室にやってくる東坂あゆみのことだ。
ここ最近は、部室に来て、碧梧がどうしているかを教えてから、何をするでもなく帰っていく。
貝瀬とは相変わらず口げんかに近い会話を繰り返しているが、大きなもめごとはない。
「さあ、ぼくは知らない」
「なんか、最近は部室の備品みたいに思えてきたわ。何の害もないし」
貝瀬はそう言って、にっこり笑った。
これはある種の成長、進歩かもしれない――とぼくは考える。
昔の貝瀬なら、こんな風にあゆみを受け入れはしなかったはずだ。
ぼくは長い間、貝瀬があゆみのことを嫌っていると考えていたけれど、たぶんそれは間違いだ。かなり根本的に間違えている。
そもそも、貝瀬理恵は、他人を嫌わない。誰のことも嫌いにはならない。
それが、彼女の生き方のベースだ。
あゆみに対しては少し怒っていたかもしれないが、それだけだ。
人を嫌わない――という事象だけ見ると前向きな善人に思えるが、そうでもない。
かつて、人を嫌うための負のエネルギーを、自分にすべて向けていただけだ。
自分を愛せない人間は他人を愛せない、という一般論があるが、貝瀬を見ていると、それは間違いだという気がしてならない。
自分を愛せないからこそ、他人を愛す。
自分という人間が大嫌いだからこそ、他人を嫌わない。
何と比べても自分が最悪なのだから――自分以外を嫌っても、仕方ない。
結果的に、誰も嫌わない。
ネガティブすぎる過程によって導かれた、ポジティブな結論。
それが、彼女の唯一にして最大の長所だ。
ぼくが貝瀬を好きな理由も、ここらへんに由来しているのかもしれない――
岡崎に言われていろいろ考えた結果、見つけた答えがこれだった。
もちろん、『自分が大嫌い』なのは二年ほど前までの貝瀬であって、ここ最近はまた違うと、そう思いたいのだけれど。
「兄さん、元気かな」
まるでぼくの思考の暗さに同調するように、貝瀬の声が急に沈んだ。近頃はこんな風に貝瀬が沈み込むことは少なくなったはずだった――が、やっぱりそう簡単にはいかない。
「そのうち会えるよ。そんなに簡単に絆が切れるはずはないんだ」
ぼくは精一杯明るい声でそう言ったが、完全に自信を持って言い切ったわけではない。
碧梧さんのことを何も知らないぼくが、そんな風に言いきることはできない。
ぼくの脳裏に、自分の兄の姿がフラッシュバックする。自分から不幸へと転がり落ちるその細いシルエットは、どこか碧梧さんに似ている。ぼくは自分の兄のことも何一つ知らない。なのに、碧梧さんの深すぎる心の中に踏み込むことなんてできるはずもない。
貝瀬は浮かない顔でつぶやく。
「最初は、あゆみだけが兄さんに会えるなんて理不尽だと思ったけど、今思うと、あゆみに会ってくれるだけ救いなのかも」
「確かに、誰にも会ってくれないよりはいい」
あゆみの定期報告は、ぼくらにとって唯一の情報源になっていた。
こういう状況を作った元凶もあゆみだったが、そんなあゆみがぼくらをぎりぎりのところで碧梧さんとつなぎ止めている。皮肉、というのはこういうときのための言葉だろうか。
「松浦は、さ」
貝瀬は言う。
「迷惑じゃない?」
ぼくは、彼女に最適な言葉を、頭の中から選び出す。
「そんなの、今更だろ。ぼくは、初めておまえに殴られたときからずっと迷惑してんだよ」
心配そうにぼくの目を覗き込んでいた貝瀬が、驚いて目を見開いた。
「それは、知らなかったわ」
貝瀬はふっと笑う。ぼくも一緒に笑う。
季節は春。窓の外には葉桜が見える。淡い色の桜はいずれ消えて、すべて緑色の葉に代わる。人間も、いずれ違う何かに代わってしまうのかもしれない。代わることが、必然なのかもしれない。ただ、貝瀬の隣にいるぼくだけは代わりたくない。誰にも、この場所は譲らない。ずっと前から、そう決めている。どれだけ迷惑を被ろうと、どれだけ不幸になろうと、ここにいたい。
そして、貝瀬には、他人を嫌うくらい、嫌な奴になってもらったって構わないのだ。むしろ、そうなってほしいとすら思う。自分を嫌うので精一杯なんて、他人に興味がないなんて――そんなの、悲しすぎるから。彼女が自分から人を嫌いになれるくらいに生きる余裕を取り戻せる日まで、ぼくはおそらくここにいる。ここで、同じ速さで、歩きつづける。それだけがぼくの、存在理由なのだ。
100418