完璧主義者と不完全主義者
あーあー、世界ってどうしてこんなに綺麗なんだろう。
マジでぶっ壊してやりてえ。
もしも自分がガンダムとかエヴァンゲリオンみたいなでっかいロボットに乗って戦う戦士だとしたら、絶対に人類を助けたりはしない。都市部の中枢をぶっ壊してから、世界を全部海に沈めてやる。
そんなことを考えてしまうほど、平城啓太郎は暇だった。
誰もが何かしらの幸せを抱いて誰かと笑いあいながら生きていて、世界というものはどう考えても綺麗すぎる。「リア充爆発しろ!」と言っている人間も、啓太郎が見たところ、八割は自覚のないリア充だったりする。てめえが爆発しろ、と啓太郎は常に心の中で呪詛を唱えている。
啓太郎は大学一年生だが、年は二十一歳。周囲のキャピキャピした新入生に比べると、かなり暗いオーラをまとっていることくらいは自覚している。入学式の間も、早くこの四年間が無事に過ぎればいいな、と思っていた。
これまでの啓太郎に、楽しい青春時代は訪れなかった。小学校も中学校も、なんとなくずるずる過ごしてしまったし、高校に至っては世を儚んで中退した。その後数年間ひきこもった末、大検をとって大学に進学した。予備校にも行ったことがない啓太郎に、友人はほとんどいない。
今更になって、楽しい青春を探し求めても、たぶん裏切られる。
そんな風に思いながらも、なぜか大学には入学してしまった。その心理的メカニズムは啓太郎自身にもよくわからないのだが、「もしかしたら自分にも幸せな学校生活が存在するかも!」というような願望が、根底に微弱ながらあるのかもしれない。
しかし、こんな笑顔と幸せに満ち溢れた場所で、自分みたいな人間が存在してもいい場所なんてあるのだろうか。ほぼ全員が初対面のはずなのに、自分の周囲にいる新入生たちはもうすでに親しげに笑い合っているではないか。
……出遅れている?
……あるいは、仕組まれている?
疑心に囚われた啓太郎は、頭が真っ白になりそうな気がした。
和やかにオリエンテーリングが行われる中、啓太郎はただ黙々と考えつづけ、周囲の笑い声は増すばかりであるように思えた。
これではいけない。
これでは、ここにいる意味がない。
「大学生活を、全力で楽しんでください」
オリエンテーションを締めくくる教授の言葉が、脳に消えない痕を刻んだ、ような気がした。その後、オリエンテーリングが終わって教室を出た啓太郎は、広場でサークルのビラをまいている人々の群れに遭遇して、めまいを感じながらも、この中のどれかのサークルに入らなければ、と思った。
「テニスサークルでーす!」
「演劇やりませんかー」
「軽音楽部!音楽やりましょう、音楽!」
「落研入りませんか?」
怒涛の勢いでビラを差し出され、啓太郎は津波に巻き込まれているような錯覚に陥った。
しかし、どのサークルも自分がなじめるようには思えなかった。
そのとき、人の波にもまれながら、啓太郎はふと、視界の端に奇妙な一団がいることに気付いた。
「ちょっと松浦、あんたビラ配ってきなさいよ。面倒だから、あんまりやる気なさそうな子にね!」
「おまえはなんでそんなにやる気ないんだよ! 後輩がいなかったらそのうち廃部になるぞ」
「廃部になってもいいし……」
「岡崎のこと考えろよ」
松浦、と呼ばれた方はスキンヘッドに白衣の怪しげな男だ。廃部になってもいい、と言っているのはショートカットの女。二人の横で同調するようにニコニコ笑っているのは、茶髪の男と金髪の女。白衣を着ているということは、化学や実験に関するサークルか何かだろうか。
「あ、わたしは別にかまわないですよ。廃部になっても」
金髪の女――岡崎というらしい――は、やわらかににっこり笑ってそう言った。
「ほらほら、本人がそう言ってるんだし、松浦も、単位足りなくて留年する可能性が高いわけだし、二人で頑張ればいいじゃない!」
ショートカットの女はそう言って、スパーン!と松浦の頭を叩いた。非常に痛そうだが、松浦は特に気にした様子もなく、
「ぼくは、単位が足りなくはない。どっちかというと、それは貝瀬の方だろ」
と冷静な突っ込みを入れた。
「本当に単位が足りない人には、単位が足りないって言っちゃいけないのよっ!常識でしょ!松浦マジ最悪!」
貝瀬と呼ばれたショートカットの女はそう言って鋭く松浦を睨む。
見れば見るほど奇妙なサークルだった。松浦という男と貝瀬という女の掛け合いはまるで喧嘩みたいだし、その隣で何も言わずに笑顔で存在している二人の存在性も、かなり不可思議である。そんな中、啓太郎の視線は、岡崎という金髪の女の方へ吸い寄せられていた。美人だし、スタイルもいい。使い古された表現ではあるが、モデルのようだ。そつのない笑顔は女神じみている。しかしその笑顔は決して本心を読ませない、一種のシールドであるようにも思える。
綺麗、だった。
単純に、その金髪やスタイル、顔、そんなものだけではなく――彼女を彼女たらしめているすべてが、ただただ絶句してしまうほどに美しかった。
啓太郎は、自分でも気付かないうちに、不思議な四人組の方へ歩き出していた。
「あのー」
啓太郎が声をかけると、茶髪の男が気付いてこう訊いてきた。「あ、ビラ、いります?」
手渡されたビラに書かれた文字は、『音楽研究サークル』。女子がギターを掲げた絵が中央に描かれている。
「何をするサークルなんですか?」
「音楽CDを制作するのが主な活動ですかね。たまにライブなんかもします」
「へえ」
何と答えたらいいのかわからず、適当に相槌を打ち、ビラに視線を戻した。
「内輪なサークルではありますけれど、わりと楽しいですよ」
横から突然声を掛けられて、啓太郎は背筋を伸ばした。さらりと揺れる金髪が視界の端に見える。岡崎、という彼女だった。
彼女はそつのない笑顔を保ちつつ、「音楽を制作すると言っても、普段は部室で遊んでいることが多くて。みなさんゲームやアニメなどに詳しいので、いろいろ教えてもらったりするんです」と説明した。
「あっ、でも、わたしはあんまり詳しくないんです。教えてもらってばっかり」
そう言って苦笑する彼女は、なんだかとても魅力的に見えた。
「あの、入部したいんですけど」
思わず、勢いで言ってしまってから、啓太郎は自分が何を言ったか――その内容に気付いた。しかし今更その言葉を撤回することもできない。彼はずるずると部室まで引きずられていった。もちろん引きずられていると思っていたのは啓太郎だけで、男女四名にとっては、ただ歩いていったように見えただろう。
「見学とかじゃなくて、入部でいいんですか?」
部室にたどり着き、松浦は事務的な口調でそう言った。近くで見ると、スキンヘッドというのはわりと怖い。無表情な顔もあいまって、かなり威圧的だ。新入生が入部することを想定していなかったのか、部室には四つしか椅子がない。松浦は立ったままで、他の三人と啓太郎が並んで着席している。
「えっと、じゃあまず自己紹介からさせていただきますね」
松浦は、なめらかに場の進行を開始した。
「ぼくが松浦、こっちの男みたいなのが貝瀬。そこの茶髪のが青木、そちらの女性が岡崎です」
「なんで松浦はわたしが女性ではないかのような紹介の仕方をするの?」
ビシッ!と音がして松浦の頭に貝瀬のチョップが決まったが、松浦はそれを完全にスルーした。
「岡崎以外は四年、岡崎は三年。以上の四人がメンバーですので、どうぞよろしく」
「は、はあ、よろしくお願いします」
啓太郎はそれだけ言ったが、どう考えても先ほどのチョップは、スルーできるレベルの打撃ではなかった。正直、戦慄している。
一種のプレイなのか? それともこの場所ではこういうコミュニケーションが日常なのか?
混乱する啓太郎を置いて、松浦は説明を進めていく。
「音楽研究サークルは、文字通り音楽を研究する創作系サークルです。しかし、どちらかというと暇なオタサーとしての要素が強いです。イベントの前には忙しくなりますが、それ以外のときは部室でダラダラすることが多い。また、ライブとしての音楽よりも、CDなど、形に残るものとしての音楽を尊重することがこのサークルの唯一のポリシーである、と言えなくもないでしょう。軽音楽部との相違点はそこにあります。ライブを行うこともありますが、どちらかというとCDを売ることの方が本業です」
そこで言葉を切り、彼はこちらを見やった。啓太郎がどう答えていいか迷っている間に、彼は啓太郎に質問をした。
「これは一応、入部者に最初に尋ねる決まり文句なのですが……楽器の経験はありますか?」
「あ、いや、あんまり。ピアノが少し弾けるくらいです」
「人前で演奏ができる必要性はないですし、もっと言うのなら、楽器の経験なんてなくてもかまいません。演奏以外にも仕事はたくさんありますし、それらの仕事を分担して全員で担っていくのが、このサークルのやり方です」
「具体的に言うと、この間の文化祭ではゲーム制作をした。プログラムの専門家はいなかったから、難しいことはなかったけど、音楽以外にもそういう雑多な仕事はたくさんあるし、正直楽器の演奏も、そこまで専門的に踏み込んだ技術を持っている人はいないんだ。たぶん、そういった面で置いていかれることはないはずだよ」
横から青木が注釈を入れた。さっきから言いしれない堅苦しさを感じていたのだが、それは先輩であるはずの松浦が終始敬語で話していたからだと、敬語で話さない青木を見て啓太郎はようやく気付いた。松浦はそんな啓太郎を一瞥しつつ、
「まあ、そんな感じだ」
ぶっきらぼうにそう言って、黙った。
「松浦ってわりと人見知りっていうか、初めて会う人と話すのが苦手なのよね」
貝瀬がそう言って、にっこり笑った。先ほどまでの邪悪さとはうってかわって、少し女性的な微笑だ。
「人見知り、っていうのは貝瀬にだけは言われたくない」
ぼそり、と低音で松浦は言う。たぶん、その声こそが彼の地声なのだろう。
「あーあー、きこえなーい」
貝瀬はふざけたようにそう言って、松浦を小突いている。
その光景を見て、ああ、この二人はもしかして――と考えていると、
「ちなみにこの二人は、この間成立したばっかりのでこぼこカップ――」
青木がさわやかな笑顔でそう発言したが、カップル、という単語の最後が何かにかき消された。
見ると、青木の隣に座っていた貝瀬の足が、器用に青木の鳩尾に食い込んでいる。そして、ドア付近に立っていた松浦も、青木を制止するように、彼の頭部を手でつかんでいる。啓太郎は思わず、ひっ、と言いそうになった。
「青木に暴力をふるうのは久々ね……」
暗黒微笑、としか言いようのない笑い方で貝瀬は言った。かなり怖い。
「ぼくも殴ってやろうかと思ったけど、その蹴りがあまりにも痛そうだからやめたよ……」
松浦はそう言いながら、青木の頭部から手を離す。「青木、空気を読まないのは勝手だが、わざと空気を読めないふりをするのは犯罪だから気をつけるように」
ひんやりとした言葉だったが、松浦の頬はかすかに赤かった。
要するに、サークル内恋愛を部外者にばらされて恥ずかしがっている二人、という図のようだ。先ほどから松浦が妙にしゃちほこばっているのも、貝瀬が同じ空間にいるからなのかもしれない。
微笑ましいような、苛立たしいような、奇妙な気分になる。
啓太郎はとりあえず、金髪の美女、岡崎の方を見た。
視線に気づいた彼女は困ったように苦笑する。その控えめな笑い方が、彼女にはとても似合う。
「あ、の」
そのとき、啓太郎は、自分が言おうとしている言葉の意味を考え直し、そして口に出すのをやめた。
――あなたたち二人も、恋人同士なんですか?
そうだとしたら――そうだとしたら、自分はどうすると言うのだろうか。
茶髪の青木は、啓太郎とは比べ物にならないほどの美形男子だ。背もすらりと高く、岡崎と並んでいても、美男美女として非常に絵になる。勝ち目なんて、なさそうではないか。
「あ、ぼくらはそういうのじゃないよ。ていうか、そういうことになると、君はかなりいづらくなるしね」
「そうです、わたしは青木先輩とカップルになるくらいなら、松浦先輩と不倫カップルになった方がましです」
啓太郎が何も言っていないというのに、すでに青木と岡崎は啓太郎の心を読んでいるようだった。しかも、どうやら岡崎は青木のことがかなり嫌いなようだ。岡崎は無害そうな可憐な女性に見えるのに、その彼女にここまで嫌悪をむき出しにされるとは、青木というこの男はどれだけ極悪人なのだろうか。
「あ、別に青木さんは悪い人じゃないんですよ。ただ、他のお二人がいい人すぎるだけです」
岡崎はそう青木を弁護し、青木は苦笑している。その内容が弁護になっているのかどうかは、よくわからないが。
「ところで、あなたのお名前は?」
呆然と事態を傍観していた啓太郎にそう尋ねたのは、貝瀬だった。不機嫌なようで、視線も合わせようとしない。
「平城啓太郎です。平らな城に、啓蒙主義の啓に、太郎です」
たどたどしい啓太郎のあいさつに対し、「よろしくおねがいしますね!」と言って笑った岡崎の顔が非常に魅力的だったので、啓太郎は惚れ惚れとしてしまった。
「よろしく、おねがいします」
その言葉を口にすることで、平城啓太郎はこの場所に、岡崎早苗と共に存在することを許されたのだった。
岡崎の下の名前や、彼女の癖がサークル員にドロップを配ることであること、そして彼女がサークルの中でひときわ異様な存在だということを彼が知るのは、その一週間ほど後の話であるが――それからさらに二週間が経過した今、啓太郎は、とても複雑な気分で部室の五つ目の椅子に腰かけている。
不完全な世界、というものを意識したことは、これまでには一度もなかった。
世界は常に完全な正体を晒して存在しているものだと、盲信していた。
しかしよく考えてみると、この世界はとても不完全だ。
物語は完結せず、人間関係に終結はなく、人は妥協して自己完結することでしか生きられない。
岡崎早苗と過ごす時間は、幸せではあるもののとても不完全だった。
優しくて、いつも柔らかい物腰で、いつだってにこやかに笑っている――岡崎は、そういう人間だ。
まるで、仕事をこなしているデパートのナビゲーターのように。
電話をかければ答えてくれる時報の声のように。
彼女は、どんなときも同じだった。
いつも同じであることは、身勝手なふるまいをする人間より、突然怒り出す人間より、ずっと素敵なはずだった。
――でも、そうじゃなかった。
啓太郎は、新しい生活を楽しんでいる。松浦と貝瀬は喧嘩ばかりしている。青木と岡崎はいつもにこにこしているだけで、別段困ったことは何もない、平和なサークル。
でも、増殖していくのは楽しさよりも不安だ。
岡崎が何を考えているのか、わからない。
イメージが不変であるということは、相手の新しい魅力に気づくこともなく、相手の正体を知って失望することもないということ。
プラスでもマイナスでもないということ。
どこまでも不変であるということは、何も進まないということ。
停滞している。
世界は、不完全なまま滞っている。
止まったままで動いている。
時だけが進んでいく。
居心地が、悪い。
音楽になんて興味がなかった。
ただ、あの日の岡崎の笑顔に惹かれた。
そんな理由でサークルに入った自分は、不純であろうか。
しかしそれが自分なのだ。
他のいくつものサークルよりも、彼女の笑顔の方が魅力的だった。
どんなカラフルなチラシも、どんな文言も、仲間も、笑顔も、彼女にはかなわなかった。
陳腐な言葉を使ってもかまわないならば、岡崎早苗との出会いは運命だった。
啓太郎は、彼女の笑顔を思い出しながら顔をあげた。誰もいない部室。誰も座っていない四つのパイプ椅子。部屋に貼られたアニメとゲームのポスターは、貝瀬と松浦と青木の所有物だ。部室の中に散乱している漫画とゲームも、何が入っているのかわからない箱も、全部あの三人のものであって、岡崎のものではない。この場所に、彼女を示すものは何もない。それが奇妙に悲しいことに思える。岡崎がいないとき、岡崎を指し示すものはこの場所には何もないのだ。
どうして自分は、こんな奇妙な恋をしているのだろう。
岡崎は、いつも丁寧で、綺麗で、静かで、そして何もない。
まるで空白のように優しい。
その存在に、自分が近づくことが、どうしてもできない。
ああ、どうして、どうしてこんな――
その先の言葉を口に出しかけたとき、部室の扉が開いた。啓太郎はそちらに目を向けた。知らない少女が立っている。中学生くらいだろうか。
「こんにちは」
優雅に挨拶した少女は、そのまま部室に入ってきて、啓太郎の前にある椅子に座った。わがもの顔、という単語がぴったりくる。
「……君、誰? 松浦先輩とか、貝瀬先輩の知り合い?」
びくびくしながら啓太郎が話しかけてみると、少女は黙って、にぃっと笑った。
心を見透かしているような笑い方だった。背筋を生ぬるいもので撫でられたような、悪寒を感じた。生理的嫌悪感、と言い換えてもかまわない。岡崎と話しているとき感じるものとは真逆の、感覚だ。
「ぼくは――」
「ヘイジョーケータロー」
啓太郎が名乗る前に、少女はそう言った。
「なんで、ぼくの名前を?」
驚いて尋ねる啓太郎の言葉を無視して、彼女はくすくす笑った。
「うーん、あなたは中途半端ね。あの人みたいに不幸でもないし、貝瀬理恵みたいに邪魔でもない」
「何を、言ってる?」
「あー、混乱してる混乱してる。そういう風に普通に混乱されるの、久々。ちょっと嬉しいかも」
またくすくすと声を立ててから、彼女は椅子から立ち上がった。
「えっと、はじめまして。わたしは東坂あゆみっていいます。サークル員ではないけど、たまに居座ってる厄介者って感じ。それでもって、チョーノーリョクシャ」
「超能力者?」
あまりにも異質な単語が飛び出したので、啓太郎は眉をひそめる。
「信じる信じないは勝手だけど、いわゆるテレパスっていうか、『サトリ』ってやつ? 他人の心がなんとなく読めちゃうの」
「ははっ、そんなのあるはずない」
啓太郎はそう言って笑おうとしたが、うまく笑えなかった。背筋が粟立つ感覚がまだ消えない。
「えーっと、もう一度言うけど、信じないのは勝手。信じたうえでわたしを利用するのも勝手。どうぞ、ご自由に」
「利用する?」
啓太郎のことを軽く見てから、東坂あゆみ、自称超能力者は微笑んだ。
「平城啓太郎。一年生。恋愛のためにサークルに入った。岡崎早苗があまりにもいつも同じ態度で、関係に進展が見られず、ちょっと凹んでる。世界は不完全。人生は完結してて、無理矢理完結させられてて、それなのに世界は――完結しない」
すらすらと、平家物語を暗唱するようにあゆみは言った。啓太郎がたった今思い描いていた心の中を、そのままに。なんらかのいたずらであるという可能性を考えたが、誰にも言っていない情報を知ることのできる方法はない、という結論に達した。本物の超能力か、心の中などというものは誰が見てもそこそこ読みとれるものなのか……そのどちらかが真実なのだろう。しかし、今の啓太郎には、それ以上のことを考える余裕はなかった。
「ぼくが、君を利用する、ってのはどういう意味?」
「あなたが岡崎早苗という女の子のことを知るために、わたしが彼女から読み取った情報を伝えてもいいということ。あなたが一番知りたい、彼女の内面を教えてあげる」
「それ、君には何か得があるの?」
「うん、あなたにもわたしの恋のために多少動いてもらう」
「何をすればいい?」
あゆみはすっと目を細めた。「それはまた、後で考える」
「君の恋っていうのは?」
「うーん、それはまだ秘密。自分でもどちらが好きなのか、よくわからないの」
どちらが――というのは、松浦か青木かということなのだろうか。それとも、まったく別の人物か。
「わかった。でも、ぼくも少し考えさせてほしい。ぼくは、まだよくわからない。彼女に対して、自分が、何を望んでしまっているのかが」
「わかった。わたしとあなたの共同戦線の始まりね」
東坂あゆみは、トントンと床を何回か鳴らして、「あ、そうだ」と何かを思い出したように言った。
「恋のためにここにいる、っていうの、わりと難しいし、心の準備が必要だから、頑張ってね。自分の意地で同じ場所に居座り続けるのって、案外つらいものよ」
「は、はあ」
よくわからず、適当に頷いた啓太郎を見て、あゆみは呆れたような顔をしたが、そのまま黙って出ていってしまった。
「何だったんだ……」
呟いてみるものの、答えが分かるはずもない。しかし、この先、おそらく『不変な日常』が終わりを告げる。そんな気がする。岡崎の絶え間ない笑顔も、終わってしまうかもしれない。そう考えるととても怖かった。もちろんこのまますべての状況が終わらずに続いていく方が怖いに決まっているのだけれど、どちらにしても啓太郎は怖いのだった。変わることも変わらないことも、すべて、恐怖と縁がないということはなく、生きることは怖いことなのだと啓太郎は思っている。誰も完璧に生きることなどできないのに、どうしても完璧を求めてしまう。それで傷つく。完全になろうとする人間と、完全になることのできない世界。その狭間で、完璧主義者たる人間は苦しみ続けるのだ。自分がそんな地獄の住人であるということに、ようやく啓太郎は気付き始めていた。
100824
ずっと出そうと思っていた新キャラ、啓太郎さんのターン。
岡崎という人の人格についての掘り下げもやりたかったんで、わりと楽しく書けました。この調子で、おそらく、しばらく続きます。