来来世世
そのとき、カラオケの一室で、平城啓太郎は岡崎早苗と二人っきりだった。
もちろん、完全な二人きりではない。ドリンクを取りに行った三人が、なかなか戻ってこないというだけである。
「平城さん、先ほどは何を言いかけたんですか?」
岡崎はリモコンを操作しつつ、そう問いかけた。
先ほど――カラオケに入る前のことだ。金髪の男女が手を絡めて平気な顔でいちゃついているのを見て、思わず啓太郎は舌打ちをしてしまった。何か言いかけた啓太郎の言葉が、件の男女の笑い声で遮られた――という、つまらない出来事だった。そのときの啓太郎が何を言おうとしたか、彼女は知りたいらしい。
「リア充爆発しろ、ってことですよ」
憎々しげに言った啓太郎に対し、岡崎はゆっくりと首を傾げた。
「りあじゅう、ってなんです?」
啓太郎はその答えを聞いて、息を呑んだ。次の瞬間には既に、深く納得していた。
そう、啓太郎の知る『岡崎早苗』はそういう人間だ。
あなたのような人のことです、とも言えず、他の表現も見つけられず、彼は笑ってごまかすしかなかった。
その単語の意味を、どんなふうに表したとしても――自分の矮小さが強調されるだけではないか。
とても嫌な言葉だ。もう、彼女の前では使わないようにしよう。
「そんなことより」啓太郎はメロンソーダを飲みながら言った。
「先輩たち、遅いですね。何してるんでしょう、三人そろって」
「きっと、ドリンクバーで盛り上がっているんですよ」
岡崎はこともなげに言ったが、意味がよくわからない。
「ドリンクバーで? 盛り上がる?」
ドリンクバーとは、人が盛り上がるための場所であったのだろうか。しかし、啓太郎はカラオケには今日初めて来た。ドリンクバーで盛り上がるという現象が通常なのかどうかはわからない。
「たぶん、貝瀬先輩が首謀しているのだと思いますけど、ドリンクを混ぜて新しい味をつくるのが好きなんですよ。さすがに飲めないものは作らないはずですが」
そう言う岡崎は、アイスティーを少しずつ飲んでいる。彼女はオリジナルドリンクの創作には興味がないらしい。
「何か、歌います?」
岡崎にそう問いかけられて、啓太郎は無駄にドキドキした。今、この空間には自分と彼女しかいない。それだけで胸が高鳴る。自分の顔が紅潮していないか、心配になる。ただでさえ初めてのカラオケなのに、この状態でまともに歌など歌えるはずもない。
「えーと、ぼくは特に。岡崎先輩こそ、歌ったらどうです?」
「じゃあ、お言葉に甘えて」
彼女が選んだのは、少し古めの有名アニメソングである。オタクである他のメンバーに気を使った選曲なのだろう。
「ただいまー!」
歌い始めて少し経って、貝瀬理恵が勢いよくドアを開けた。
二人きりの幸せ空間は消滅した。啓太郎は安心しつつも、少しだけ残念だった。
「あー!岡崎さんちょっと待って! かわいい子の歌う『はじめてのチュウ』は男女問わずハートを打ちぬくのに最適だと知った上でのあざとい選曲!ずるい!最初から聞きたかった!」
「おい貝瀬、ちょっと落ちつけよ。そうやって最初から飛ばすから、途中で歌えなくなって死んでるんだろ、いつも」
横でギャーギャーと騒ぐバカップルを極力無視して、啓太郎は岡崎の歌を聞いていた。好きな子の歌う歌っていいなあ、と心底思う。しみじみと嬉しさを噛みしめていると、リモコンが回ってきた。
「あ、次、平城君どうぞ」
貝瀬がそう告げたが、何を入れたらいいのやら、さっぱりわからない。リモコンの使い方は何となく理解できそうだが、他のメンバーの選曲を一通り見てから空気を読んだ曲を選ぼうと思っていただけに、この展開は予想外だ。
「何入れたらいいっスか」
と問いかけてみるものの、「何でも」と返答された。困る。
一応、アニメソング的なものを入れた方がいいのだろうか。しかし、そういうものにはそこまで詳しくない。悶々と悩んだ末、啓太郎は少し前のガンダムのテーマソングを入れた。「お、ガンダムか」と松浦が反応する。
岡崎の歌が終わり、啓太郎にマイクが回ってきた。イントロが始まり、目を白黒させながら啓太郎は無我夢中で歌い通した。岡崎が聞いている、と考えるだけで緊張してしまい、ちゃんと歌えたかどうか、自分でもよくわからない。
「よーし、次は青木な」
マイクを手放した瞬間、思わずため息をついてしまった。大変だな、カラオケって。
しかし、啓太郎が想定していた、まっとうなカラオケの風景は一時間も持たなかった。
「シャフト風アニメとシャフトアニメの間にはちゃんと一線を引いておくべきだとぼくは思うよ。ポストシャフトと言い換えてもかまわない」
「シャフト以降、シャフトっぽいアニメが増えてるのは事実かもね。でも、それはシャフト信者が勝手な物差しで他のアニメを計ってるだけで、信者以外から見たら滑稽なのよ。アニメがシャフト的な映像技術を取り込んで成長する過程で、たまたまシャフト作品が目立ってた、っていうだけの話でしょう。シャフトだけを特別視するから、シャフト信者は痛いっていう話になるわけ」
「最近のシャフト風アニメにシャフトの影響が顕著に見られるのは確かだろ」
「トリッキーな映像芸術という分野をつくったのがシャフトオンリーだというその価値観が気に食わないの。そもそもアニメ以外の分野では普通にあったものだし、他のアニメでも、エヴァのオープニングなんかはすでに『シャフト的』よね」
「でも、最近のシャフト『風』はまさにシャフトから持ってきた感が丸見えっていうか、おいしいところだけパクってる感がすげえムカつくんだよ。そもそも、シャフト『風』アニメの悪いところは、シャフトのまねをしているところじゃない。シャフトのやっている『オタク的萌え』と『映像芸術』の融合という表現を崩して、『萌え』を取り払ったただの『映像芸術』にしてしまってるところだ。それだとトリッキーなだけの自己満足じゃないか。受け手の事を考えてないよ。シャフトはオタク向けの娯楽としてアニメをかみ砕いて見せる努力をしているけど、シャフト風アニメはその努力を怠っていて、結局ライトサブカル層という、本来と異なる層にしか支持されない代物が生まれるわけだ」
「だからさ、さっきから論点ずれてない?」
貝瀬はそう言って、眉間にしわを寄せる。「イライラしてきた」
「青木はどう思う?」
「うーん、シャフトはあんまり見ないからわからないな。でも、ぼくもシャフトアニメとシャフト風アニメは目的自体が異なるものだと捉えてる。やっていることは同じだけど、シャフト『風』はたぶん、『オタクに受けないアニメ』が作りたいんじゃないかな。その極端な形が『空中ブランコ』と『四畳半』」
「でも、『空中ブランコ』は声優の顔出しアニメというニッチなオタク向けでしかなかったし、『四畳半』もイマイチ締まらない印象にしかならなかったのよね。そもそも、オタクに受けないアニメを作りたいなら、伊良部の美形設定っていらなくない?」
「あの伊良部は全編をサブカルチックなイメージで塗り固めるのには必要だったんじゃないか。そもそも受け手として、通常のオタクを想定してないんだよ」
「あと、映像芸術を重視して萌えを軽視、サブカル層に大ウケ、っていうと『サマーウォーズ』かしら。あれもあんまり好きじゃないわね。映像がどうこうっていう以前につまらなかっただけだけど」
「サマウォはむしろ萌えには積極的じゃないかと思ったけどなあ。カズマ関連はすごくよかったよ」
「『パンスト』なんかは、そういう点では正しくシャフト的なんじゃないか?」
「映像が斬新だったら何でも『シャフト的』なわけ? なんか基準があいまいで気持ち悪い。これだから信者は」
「だからシャフトの話は荒れるって最初に言っただろ。信者以外がシャフトを語ろうとしたら荒れるのは当たり前だ。シャフト単体ですら評価が分かれるってのに、シャフトっぽいアニメまで包括して、サブカル層とオタク層の領土問題にまで踏み込むのは藪をつついて蛇を出す所業だ」
「松浦がシャフト好きなのはよくわかったけどね」
「貝瀬さんがシャフト嫌いなのもよくわかったよ」
「シャフトはねー、誰にでも楽しめるアニメっていうスタンスじゃないのがなんか好きになれないのよ。シャフト好きが一定数いるのは分かるんだけど、シャフト嫌いも一定数いるわけで。それも、個人的な私怨ではなく、そもそも映像演出が受け付けないっていう理由で嫌いなわけだし。まあ、その点に関してはノイタミナも同質だけどね」
「ぼくとしては、シャフトとノイタミナを同じようなもの扱いしてほしくはないけどな」
「ノイタミナには萌えがないから、だっけ?」
「シャフトは娯楽だが、ノイタミナは自己満足だ。有名な原作なしで同じことができるのか?結局は原作の知名度に寄りかかって好きなことをしてるだけじゃないか?と問いたいね」
「わたしには、シャフトアニメこそ原作に寄りかかった自己満足に見えるけどね」
「まあまあ、そんなことで喧嘩しないで」
……と、そこまで真剣に話を聞いてはいたものの、啓太郎には何を話しているのかよくわからなかった。「シャフト」がアニメ会社の名前で、「ノイタミナ」もそれに準ずる何かなのだろうということくらいしかわからない。岡崎も同じなのだろう、黙々とリモコンで曲を検索している。
「いつもこんな感じなんですか?」
と小声で訊いてみると、岡崎は顔をあげた。
「ケースバイケースですね。まあ、カラオケは歌うだけの場所ではないですから」
「はあ、そういうもんですか」
外に声が漏れない個室としての需要もある、ということだろう。もちろん、妙な意味ではなく。
「平城さんは、アニメには詳しくないのですか?」
「アニメは見るけど、会社とか声優とかはちょっとわからないです。なんとなく流し見しているだけ」
「わたしは何も見ないので、全然わからないんですよね。まあ、たぶん、見ていても先輩たちの会話にはついていけなさそうな気がしますけど」
「ぼくもそう思います」
岡崎がいて良かったな、と啓太郎は思った。彼女がいなかったら、この意味がよくわからないオタクトークをどんな顔で聞いていればいいのやら。
「ぼくが来る前、岡崎先輩はどんな感じでここにいたんです?」
「普通の感じです。今と変わらないですよ」
そうだろうな、と啓太郎は思う。彼女はいつだって変わらない。
不変こそが岡崎早苗の最大の個性であり、最大の特性なのだ。
「平城さんは、ここへ来る前はどんな感じだったんです? 高校時代とか」
「ああ、えーと」
高校を中退した引きこもりだったとは言えず、啓太郎は黙った。
「中途半端な奴でしたよ。オタクでもないし、リア充でもないし」
と言ってしまってから、先ほど「リア充という単語は使わない誓い」を立てたことを思い出す。
「あ、いや、今のはなしで」
岡崎早苗は、その言葉が聞こえなかったように自然に笑った。
「わたしも、自分って中途半端だなって思いますよ。特に、このサークルにいると、みなさんがとても輝いて見えるんです。趣味に全力な人ってかっこいいです。貝瀬先輩なんて、自分で本を作っちゃうんだそうですよ。すごいですよね」
「そう、ですよね」
なんだか申し訳ないな、と思う。岡崎早苗が『中途半端』なのと、平城啓太郎が『中途半端』なのはまったくもって別次元なのだ。むしろ彼女は中庸の美しさを持っていて、自分はただ半端なだけだ。しかしそれをここでいちいち口に出しても仕方がない。啓太郎は顔をあげた。
「よし、先輩。俺と歌いましょう」
「え、今ですか?」
「はい、今です」
「デュエットですか?」
「なんでもいいです。二人とも知っている曲で」
「はあ……いいですよ」
岡崎は少し面食らった顔をしてから、薄く微笑んだ。
曲のイントロが鳴り始め、貝瀬達が画面を見た。
啓太郎は半分怒鳴り散らすように歌った。
横目で岡崎を見ると、彼女ははにかみながら歌を口ずさんでいる。
その歌声が、綺麗な響きで脳に浸蝕してくる。
いつもどおりの岡崎早苗……ではあったが、今はそれでいいのだと初めて思えた。
彼女を無理矢理変える必要も、自分が変わる必要も、ない。
ただ、いつのまにか、自分が気付くことすらないままに――生まれ変われればいい。
ダメ人間で高校中退でヒッキーの平城啓太郎は、なかったことにはならないが。
啓太郎という人間は、それだけでは終わらないはずなのだから。
――歌の最中、啓太郎はさりげなく、他の三人には見えないように、岡崎にブイサインを送る。
軽く微笑んで、岡崎はそれに応える。
そんなやりとりが、とてつもなく幸せな何かに思えて。
啓太郎は曲の終わりに思い切り、シャウトをした。
101121
「カラオケネタ」「シャフトとノイタミナネタ」「啓太郎さんの恋愛について」という三つをどうにか合わせてみたくて頑張りました。
自分個人としてはシャフトもノイタミナも結構好きです、とさりげなく注釈を置いておきます。別にdisりたいわけではないんだぜ。
たぶん本人たちも、議論がしたいだけで、本気でdisしたいとは思っていないだろうと思う。オタクなんてそんなものさ。
貝瀬はシャフト嫌いというか、ややこしい映像のアニメが嫌い。
松浦はシャフトが大好きであるがゆえに、シャフトっぽいサブカルアニメが嫌い。
青木はおもしろければなんでもいい。会社とか気にしない。
が、基本的に見やすいアニメが好きなので、シャフトはあんまり見ない。