温室

 寒空の下――僕ら三人は公園に集っている。
 聞こえてくるのは、僕の好きな女の子の歌うジングル・ベル。
 僕は、それを聞きながら思うのだ。
 この世界はどうしてこんなに、嘘くさいのだろう、と。

 答えはもう分かっている。

 ポケットベルを使ったことのない人間に、携帯電話のメールの便利さは分からない。
 コンビニのない田舎に住んだことのない人間に、コンビニの便利さは分からない。
 静寂を聞いたことのない人間に、雑踏のわずらわしさは分からない。
 輝かしかった未来を見たことのない人間に、輝かない現実の絶望は分からない。
 死にたいと思ったことのない人間に、生きたい気持ちは分からない。
 そして、『僕』より役に立たない人間を知らないやつには、『僕』の価値がわからない。
 よって、『僕』と友達になってはくれない。
 以上が、僕が今までの人生で学習したことのすべてだ。
 まったくもって、内容のない人生。
 分厚いノートに見えるのに、ページをめくったら何も書いていない。
 この世界が嘘くさいのは、世界が悪いのではなくて、僕の世界があまりにも薄っぺらい、つまらないものだからだ。
 世界なんて言葉で自分を誤魔化そうとする愚かしさが、すでに薄い。
 そう、僕こそがこの世界を薄っぺらくしている元凶だったのだ。
 しかしだからこそ――僕は彼女を発見できた。
 彼女はとても綺麗で、透き通って、純粋で……まるで理想のようだった。
 そんな抽象でしか表現できないほどに、岡崎早苗はイレギュラーだった。
 あまりにも美しいものを前にして、僕は美しいという表現以外の表現を奪われている。
 美しいとしか言えない。
 岡崎早苗は美しい。
 そこには何の意味もない。
 ただ、僕は美しくない人生を知っているから、彼女の美しさを知ることができたという――それだけの話。

「ジングルベル、ジングルベル、鈴が、鳴る」

 岡崎早苗の歌声が聞こえる。
 この場にはもう一人、青木泰輔がいるが、彼も僕と同じく、彼女の唄を聞いている。
「ねえ、」
と、唐突に僕の鼓膜に声が滑り込む。彼女の声ではない。青木だった。
「君は、彼女のことが好きなんだよね?」
思わずむせそうになった。慌てて岡崎の方を見やる。幸い、青木の声は聞こえていないようで、岡崎はただ中空を見ながら歌いつづけている。先ほど飲んだ酒のせいかもしれない。ふわふわとした視線を漂わせて、彼女は上機嫌に歌う。僕の意識も、そのうち中空に流れだしそうに浮足立っている。
「そうだったら、どうだって言うんです」
面倒くさいので、開き直ってみた。青木は「難しいと思うよ」と言った。
「岡崎さんは、空気みたいな人だから」
む、と僕は一瞬顔をしかめる。空気みたい、というのは、僕が常々、彼女をあらわすもっとも端的な単語として思い浮かべているもので、彼女の本質を的確に捉えている言葉である。そんな風に「的確に」彼女を捉えているのは自分だけだろうと思っていた。けれど、そうではないらしい。考えてみれば当たり前で、彼らは自分よりも長く岡崎とサークル活動をしていて、この青木という男はそのメンバーの中でも一番、鋭そうな感じなのだ。松浦と貝瀬は、この男に比べると、人間関係に鈍そうだ。青木は、サークル内のバランサーとして影で活躍していそうな感じがする。
 そして自分も、松浦や貝瀬と同じく、人間関係の機微というものには非常に疎い――というか、精神的にひきこもって鎖国していたせいで、経験値がべらぼうに低いのである。こればっかりはどうにもならない。
「人間は空気がないと生きていけない」
とりあえず、そう返してみた。
「違いない」
青木はそう言って笑った。そして不意に真顔になった彼は、
「――オンサはもともと、閉じられた世界だった」
そんな、中二病っぽい言葉を発した。それまでの青木はあまりオタクっぽい単語を使わない印象だったので、少し意外だった。
「でも、岡崎さんが入部して、開かれた世界に変化したんだ。彼女がいなかったら、僕らはもっと未熟なまま、閉じられた世界の中で満足して生きていたはずだ」
「意味がよくわかりません」
僕は、返答に困って、ようやくそう言った。
「オタクっていう生き物は、どうやって生きても、自分で完結して閉じてしまうところがある。友達同士で意気投合したとしても、アニメや漫画という作品と直接向かい合い、作品と直に語り合う作業は結局、閉じられた箱みたいなものだ。自分で創作に身を投じようとすれば、尚更『閉じる』。そういう風にできている」
僕には、その説明は、わかりやすすぎるくらいにわかった。そもそも僕も閉じた人間だったし、非オタクか、オタクか、で分類するならオタク側である。世界を『閉じる』ためにオタクになったような部分はあるが、僕もおおむね、彼の語るオタク像に当てはまる。
「でも、オタクのコミュニティの中で閉じているだけでは、創作者にはなれない。ただの自己満足、自分と語り合う作業に終始して、誰も楽しませることなんてできやしない。僕らは一度、業者にスカウトされたことがあるけど、あんな風に他人に影響を及ぼすためには、ただ閉じているだけではいけない」
「それと、岡崎さんと、どういう関係があるっていうんです?」
「岡崎さんは、オタクじゃない。音楽に対する愛はあっても、オタク文化に執着することはしない。いわゆる『リア充』サイドの人間で、彼女はきっと、僕ら三人にとっては劇薬みたいなカルチャーショック、だったんだ」
それは、自分だってそうだ。
岡崎早苗に出会わなかったら、そもそもこのサークルに入ることもなかった。
カラオケも、飲み会も、音楽も、知らないままだった。
「僕だって……岡崎先輩に出会わなかったら、こうはならなかったんですよ」
たぶん、彼女がいなかったら、このサークルに『僕』はいなくて。
松浦や貝瀬の独特な個性に触れることもなく。
もしかすると、こうやって個人を認めてもらえることも、なかったかもしれない。
そう。
今更のように、僕は気付いてしまった。

「僕は……ようやく、『僕』を認めてもらえた。それがすごく嬉しいんです。それまで、僕っていう人間は存在しないんじゃないかと思うくらいに、生きてる心地がしなかった。もう、ずっとそうだった。このサークルに入って、僕はようやく人間になれた。そのきっかけをくれたのが、岡崎先輩だったから、僕はこんなにも――」

こんなにも彼女が好きなんだ。
それは、何かのインプリンティングのように幼稚な、恋心だった。
「ほんと、君たちはすごく原始的な恋心で動いているよね。僕は、そんな君たちがうらやましい」
青木は、心底呆れた、と言いたげな顔でそう言った。
「君、『たち』……って、誰のことですか?」
「君と、松浦だよ。貝瀬さんは……ちょっと、違うかな」
「松浦先輩、ですか」
松浦の、無表情な顔を思い出す。
無感動な男に見えるが、貝瀬理恵に関することになると目に光が戻ることを、僕は知っている。
「松浦はねえ……なんか、一種の呪いみたいな感じで、貝瀬さんが好きなんだよね。ちょっと周りが見えなさすぎてて危ないところもあるんだけど、それだけ好きだってことだと思うと、微笑ましい」
「僕は、松浦先輩に似てるんですか?」
「似てる、っていうのとは違うかな。原始的な、根源的な……簡単に言い換えるなら、純粋な恋。二人とも、そんなイメージでくくれるように見えるっていうだけだ。僕は打算でしか動けないから、失格だね」
小さな声で言って、青木は寂しそうに笑んだ。
「僕は、先輩よりも、自分こそが打算で動いているように思えますけどね……」
そもそも、女性目当てでサークルに飛び込んだ時点で、純粋さとは縁がないように思える。青木の言っていることは、僕の価値観で測れば、かなり的外れだ。でも最近の僕は、そんな他人とのすれ違いこそが、人生の楽しさなんじゃないかと思い始めている。
「他人の恋というものは、きれいに見えるものだからね。当事者にしてみれば、そんな風には見えない。僕はうらやましがってばっかりだけれど、松浦や貝瀬さんが、僕が思うような幸せな環境に置かれているかどうか……幸せな気分でいるかどうかは、わからない」
「そう、ですね……」
僕は、彼との会話に夢中で、彼女の歌声がいつのまにか途切れていることに気付かなかった。

「何を、話しているのですか?」

自分のそばでそんな声が聞こえたとき――背筋が凍るかと思った。
「うわっ、岡崎先輩!」
思わず立ちあがってしまったが、岡崎早苗は特に反応を示さない。
ふわりふわりと浮いた足取りで、彼女はこちらへ寄って来た。
「ふあー、今日はすてきなクリスマスですね」
ろれつの回らない舌で、彼女はそんなことを言った。
「そうだね」と青木が言った。同じことを言おうと思っていたのに、先を越されてしまい、僕は黙る。
「ああ、世界が、回転している」
彼女が歌うように言った。よろよろと歩いて、ベンチに腰掛けた僕らの隣に座る。
「岡崎さん、ちょっと飲みすぎじゃないかな。そろそろ、帰ろうか?」
青木は如才ない口調でそう言い、立ちあがった。その口調のさりげなさは、僕にはないものだ。誰よりも好きな彼女の前なのに、僕はこんなにもかっこわるい。少し、自己嫌悪に陥りそうになったが、首を振って追い払った。人と比べても、仕方ない。自分は自分らしく、歩んでいけばいいのだ。
「ふふ。そうですね。寒くなってきましたし、帰りましょうか」
彼女は紅い頬のまま微笑んだ。まるで女神のようだ、という、非常に陳腐な感想が導かれたのも、たぶん酔いのせいだ。

真冬の深夜の気温はとても寒々しいのに、どうしてだろう、僕はとても温かい気持ちだった。
まるで、彼女が存在するこの空間には、見えないビニールシートで温室が築かれているようだ。
僕は今まで、閉ざされた温室で育ってきたようなものだったけれど――その『温室』と、今僕がいる『温室』は、まったく別種のものに思えてならない。
これが、青木の言う『閉ざされた世界』と『開かれた世界』の違いなのだろうか。
もしそうであるならば、僕の世界を開いてくれたのは、間違いなく目の前にいるこの女性なのだ。
偶像のように美しく。
空気のように透明な。
そんな岡崎早苗は、僕の気持ちに気付くそぶりすら見せないまま、ふらふらと妖精のような足取りで、この世界の上を歩いて行くのであった。



110210