さようなら 

 東坂あゆみは、屋上からぼんやりとすべてを眺めていた。
 地上を歩く人間たちの思考が見える。
 あゆみは彼らの考えていることなど、知りたくはない。
 彼女が本当に知りたいことは、ひとつだけだ。
 どうしたら、片岡碧梧を救いだせるか。
 彼の終わりのない不幸に、出口を作り出すにはどうしたらいいか。
 どれだけ考えてもわからなかった。
 碧梧の心を読んでも何もわからないし、碧梧以外の人間の中に答えがあるとも思えない。
 八方ふさがりだ。
 だからもう、この屋上にいるしかないと思った。
 ここにいれば――いずれ、あの人が来てくれるだろうから。

「おい、あゆみ」

 心地の良い声が聞こえて、あゆみは振り返る。
 もう何日も待っていて、もしかするともう来ないのではないかとすら考えていた。
 長い長い待ち時間が終わって、あゆみは思わず微笑む。
 その人物は、あゆみの顔を見てため息をついた。

「何やってるんだよ。オンサに来ないから、みんな心配してたぞ」
「かなめを待ってたの」
松浦かなめは、ふしぎそうに首をかしげる。
「なんで、わざわざここでぼくを待つんだ。部室に来ればいつだっているのに」
「かなめに話があるから。あそこだと、誰がいつ来るかわかんないし」
「ぼくに……話?」
怪訝そうな顔で、松浦はあゆみを見据える。
「あのさあ、かなめ。わたし、どうしたらいいのかな」
「そんな漠然としたことを聞かれても困る」
「わたしね、かなめのことが好きだった」
あゆみがそう言うと、松浦は露骨に嫌そうな顔をした。否、そう見えるのはあゆみが、透けて見える彼の『心』に合わせて、彼の表情を捏造しているせいであろう。本当は、この表情は『露骨に嫌そうな顔』などではないのだ。彼はそんな顔はしないはずだ。
あゆみは、彼の反応にはかまわずに続ける。
「でもね、もうそんなことはどうでもいいの。わたしが本当にやりたいのは、かなめを手に入れるとか、理恵おねーさんを不幸にするとか、そんなことじゃないってわかった」
あゆみは、姿勢を正しながら、こう言った。

「かなめ。わたし、碧梧を助けたい。碧梧が幸せになれるなら、なんでもする。それがわたしの、今、一番したいこと」

松浦は黙ったまま、大きく目を見開いた。

「碧梧さんを?」
「碧梧がああなったのは、直接的にはわたしのせいかもしれない。わたしが一番悪くて、一番裁かれるべきなのかもしれない。でも、わたしは碧梧の心の中を知ってる。碧梧は、ずーっと前、わたしと出会う前からあんななんだよ。自分の心の部屋の中から出られなくて、こわくて、震えてるだけなの。陸橋で歌ってた頃から、ずっとそう」
「陸橋で、歌ってた頃から……か」
陸橋での出会いを思い出しているのか、松浦は少し考えるそぶりを見せた。
「わたし、碧梧を助けたい。けど、今のままじゃダメ。だからかなめに会いに来た」
「ぼくは、碧梧さんのことなんて詳しくは何も知らないんだ。ぼくに会っても、彼のことなんてわからないよ。それこそ、貝瀬に会った方がいいんじゃないか」
松浦の返答を聞いて、あゆみはかぶりを振った。
「違う。それじゃ解決しない。わたしや、おねーさんじゃダメなの……あのね」
あゆみは、その言葉を口にするかどうか、一瞬悩んだ。あゆみの決定的に弱い部分をさらけ出す言葉だ。しかし、それを口にしなければ、話は進まない。あゆみは、意を決して口を開いた。
「わたし、かなめと出会ったとき、憧れてたものがある。死を許容する優しさ。死ぬなっていう言葉はすごく無責任で、残酷。生きてるのが死ぬほどつらい人に、つらいなら死んでもいいよ、って誰かが言ってくれるなら、それはすごく大きな優しさだって思ってた。死ぬな、なんて誰にでも言えるけど、みんな、言うだけで何もしてくれない。死んでもいいよ、死んでも受け容れるよって、そう言ってくれたら幸せになれる人はきっといる。それが、倫理的に間違ってるなんて思わない。無責任に死ぬなっていうより、ずっと優しい。……碧梧に出会うまでは、それで正しいと思ってた。わたしは、誰かに死ぬななんて言うだけの大人にはなりたくなかった」
でも、とあゆみは続ける。
「でも、わたし、本当につらい人生を送ってる人が何を考えて、どんな心を持ってるのか、知らなかった。碧梧みたいな人がいるって、知らなかったの。碧梧は、本当に、本当に、毎日つらいことばっかり。自分と向き合うだけでも傷ついて、過去を思い返してまた傷ついて……そんな碧梧を見て、わたしは、彼が死んでも受け容れるなんて思えなかった。死んでもいいよ、なんて、言えなかった」
「そんなの、言えなくて当たり前じゃないか。死ぬな、っていう言葉は、命を扱う責任から逃れられる言葉だ。死んでもいい、というのは、その逆だ。死んでもいいと言った瞬間に、その人は相手の命を背負わなくちゃならない。相手の死を、背負っていかなくちゃならない」
「でも……碧梧は、彼の心は、死にたいって言ってた。わたしは、毎日その心を見てた。毎日、毎日、彼と語り合って過ごした。そうしたら、彼は死んだ方が幸せかもしれないって思ってしまうの。わたしが碧梧を殺してしまっても、きっと碧梧は泣き言なんか言わない。にっこり笑って、優しい碧梧のままで死んでいくんだわ。それが最善かもしれないって、思っちゃうの。このままじゃダメだって、思った。泣きたくなった。ねえ、」
あゆみは、涙声で彼に告げる。
「助けてよ、かなめ。どうしたらいい? 彼の心の軋みは、もう聞いていたくない。このままじゃ、わたしは碧梧をダメにしてしまう。そうならない自信がない」
「……あゆみ」
松浦かなめは、悲しそうな顔をした。彼の悲しい心の音が聞こえる。もう、最近は聞きあきてしまった、人の心の軋む音。
「ぼくには何もわからない。このままじゃダメだってことしかわからない」
風が吹き抜けていく。さらさらとあゆみの髪を玩びながら。
「でも、ぼくはあゆみを放ってはおかないよ。碧梧さんもだ。ぼくは、ぼくの目の前で誰かが不幸になっているのに、何もできないなんてのはもう嫌だ」
そのとき、あゆみは彼の心の中に、貝瀬理恵の顔を見た。彼女は泣いていた。松浦にとって、一番不幸で、つらくて、思い出したくないと思う記憶は、貝瀬の泣き顔なのだ。これまでの人生で、もっとも繰り返してはならないと思う過ちが、彼にとっては、貝瀬を泣かせたこと。遊園地。彼女の部屋。白い病室。どこかはわからない、大きな木の下。貝瀬と過ごした日々のすべてが、彼を後悔させ、彼を前進させるための原動力になっているのを、あゆみはようやく確認した。
 うらやましいと思うと同時に、あゆみは彼に共感した。
 目の前で大好きな人が苦しむのは、何よりもつらい。
 その気持ちは、あゆみが碧梧を前にしたときに生まれるものと、全く同じだった。
 ならば――と、あゆみは考え始める。
 もしも、松浦が貝瀬を救い出した方法で、自分も碧梧を救いだせるとしたならば。
 かすかな光が見えた。
 その光をつかみ取れば、自分は行きたい場所に行ける。
「わたし、今、答えを見つけたような気がする」
「……! お、おい、あゆみ……」
あゆみは、手すりを乗り越えて、呆然と立ち尽くす松浦の隣を駆け抜けた。
「ありがとう、かなめ! わたし、頑張ってみる。もしダメだったら、そのときは助けてね!」
「はぁ!? ちょ、ちょっと待てよ……!」
そのまま、彼の顔を見ることなく、あゆみは走った。

 一度でも振り返ったら、後悔してしまいそうだ。
 だから、自分は振り返らない。
 彼への恋の始まったこの場所で――その恋は、今、あゆみ自身が終わらせる。
 松浦かなめへの想いは、捨ててしまおう。
 自分は碧梧のところへ行かなければならない。
 松浦への恋は、確かに恋だった。嘘ではなかった。
 他人を許し、受容する優しさ。
 かつて、あゆみが何よりも憧れた価値だった。
 松浦の受容は優しかった――理想のように美しかった。
 でも、あゆみはもう受容されることにはあこがれないと決めた。
 死を受容することは、正しい優しさではなかった。
 自分が何よりも正しい価値だと思っていたものは、自分が本当に求める価値とは矛盾するものだった。
 無気力な死は、受容してはならない。
 自分は、碧梧が死ぬことなんて絶対に許さない。
 そんなのが本当の優しさだとしたら、そんな優しさは切って捨ててやろう。

「さようなら」

全力で駆けながら、あゆみはそうつぶやいた。
自分の抱いていた価値観と、彼に対して抱いていた恋心。
その両方に別れを告げて――東坂あゆみは自分のいるべき場所へと、駆ける。



110215