生きて。生きて、生きて!
あのねありがと、いつも嬉しい。そういう風に言ってくれるのは。
君は優しい、すごく優しい。理由はただそう感じてるから。
だけどダメなの。とてもダメなの。何がダメだか全部がダメなの。
自分自身が、脳の中身が、このままじゃイケナイ気がするのだ。
――グルグル映畫館『そのままでいいよ。』
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松浦かなめは超能力を信用しない。そもそも理系的な思考をもっているからというのもあるし、そういう性格だともいえる。
けれど、東坂あゆみを信じない――とは絶対に言わない。
彼女は嘘をついていない。そんな気がする。
人の心を読むことは不可能でも、読めるかのように装うことは可能だ。
そして、その彼女自身ですら、おそらく『心を読める』超能力の存在を疑ってはいないのだろう。
自身の力を信じているからこそ、全力で力を発揮できる。
おそらくその先は、心理学の領域だ。ホットリーディング、コールドリーディング、その他――生身の、通常の人間でも可能な巧妙な心理操作の連鎖をもって、彼女はそれをやり遂げる。
その力は、どれほどの重みを彼女に背負わせているのか。松浦にはどれだけ考えてもわからない。
ただ、とても悲しく重い力であることは想像できる。
東坂あゆみの目は、他人を信用できない人間の目だ。
自分以外を、疑うことしかできない目。
松浦にとっては馴染み深いものだ。
貝瀬も、碧梧も、あるいは青木や岡崎も――みんなああいう目をしていた。
もしかすると自分自身ですらも、そういう人間なのかもしれない。
普通に生きている人間とは違う、などというと笑われてしまいそうだが、そういう風にしか生きられない人間は確かにいる。そうなるだけの人生を生きてきた――という言葉は、綺麗事めいて響いてしまうからあまり使いたくない。
何があっても幸せそうに前を向いている人間というものは存在する。何があっても下を向くことしかできない人間も同じように存在していて、それが貝瀬理恵であり、東坂あゆみであり、片岡碧梧なのだ。
『不幸のどん底からはいあがった』人間というのはよくテレビ番組に出てくるけれど――今を不幸に生きている人間は、そういう番組にはあまり出てこない。彼らは自己を語らない。語るときには別種のマスコミの力を借りて、世界への呪詛を吐き出す。世界を呪うくらいしかできない彼らは、本当は幸せな人間を根こそぎ殺してしまいたいのかもしれない。そういうことを言うと、幸せな人間に逆に根こそぎにされてしまうから、黙っているだけで。
世界を根こそぎにすることはとても難しく――世界に根こそぎにされてしまうことはとてもたやすい。
そんな世界だからこそ、ますます憎しみが募る。
憎くて憎くてたまらなくなる。
世界に根こそぎにされる人間の気持ちなど、まったく知らないまま回っていくこの世界は、憎い。
『彼女』にとっての人生は、その憎しみをどうにかしてごまかしていくこと。
『彼』にとっての人生は、その憎しみを全部自分の内側に向けること。
どちらが不幸かなんて言わない。
どちらも一様に報われない、思いなのだから。
そんな思いを抱えた彼らと共にいる松浦は、祈らずにはおれない。
――彼女たちのその気持ちが、何かのはずみに暴発してしまいませんように、と。
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松浦は、走り去るあゆみの後姿を見ながら思う。
あゆみは、松浦が貝瀬に対して与えたものが、正しいと思っているのだろう。
松浦かなめが、貝瀬理恵を助けた、救済した、真実に愛したと、彼女は考えたのだろう。
でも、そんなのは幻想だ。
松浦が貝瀬に与えたのはただの依存関係だ。そもそも、オンサという存在自体が大きな依存の一環のようにも思える。
松浦は毎日のように悔やむ。貝瀬が幸せになりますように――そんな願いは自分のエゴではなかったかと。
自分の幸せすら管理できない癖に、なぜ他人の幸せなんてものを祈ることができる?
愛なんて幻想だ。本当は、共依存に落ちていくことしかできない。
愛、救済、幸せ。
そんなものは全部、幻。
松浦と貝瀬が得たのは依存だけだ。
愛と依存の違いなんて知らない。
自分にはこうするしかなかっただけだ。
貝瀬を放っておくことなんてしたくなかった。
彼女が二度と泣かないのなら、何でもすると思えた。
その行為が正しい恋だと、誰が断言してくれるだろうか。
これは、恋なんかじゃないのだ。
共依存という名の、牢獄だ。
お互いがいなければ何もできないダメ人間の模型だ。
「あゆみ……」
走り去った彼女の名前を呟きながら、松浦は思う。
このままではダメだ、なんて言ってみたけれど。
このままでダメだなんて、そんな都合のいい言葉はいつまで有効なのだ?
いつだって、このままではダメだと思ってきたじゃないか。
いつだって、状況を打破するために動いてきたじゃないか。
今だって、貝瀬の憂鬱そうな顔を見るたびに後悔してばかりなのに、
――どの口が、現状を改革すべきだなどと、そんな戯言を抜かす?
そのままでよかったのかもしれない。
前進すればするだけ傷つくのかもしれない。
前進することをやめて、停滞していた方が幸せだったのかもしれない。
貝瀬理恵に告白しなかった方が。
片岡碧梧に声をかけなかった方が。
走り去るあゆみを、引きとめた方が。
そのままでいいよ……なんて、誰も言ってくれない。
そう。
先ほどまで、自分は知らなかったのだ。
東坂あゆみは、死を受容する優しさに焦がれたという。
死んでもいいよ。そう口に出すことも優しさであるという。松浦はそんなことは考えたことがなかった。
だが彼女は、碧梧を見ていて、その優しさは嘘であると悟った。
「死んでもいい」という言葉は、暴力であると知った。そのことは、あゆみにとっては前進だっただろう。
松浦は逆に、彼女のその悟りによって、自分の優しさが嘘である可能性に気付いた。
誰かに死ぬなと言うことは、絶対の正義だと思っていた。
だが、そうではないのかもしれない。
停滞を切り開くことは、必要だと思っていた。
だが、停滞したままでいいものもあるのかもしれない。
依存はいけないというけれど、
依存していた方がいい人間もいるのかもしれない。
少なくとも松浦は、依存関係にあるからといって、その関係の打破のために、貝瀬を自分から切り離すようなことはしようとは思えなかった。それは停滞であろうか。甘えであろうか。
死を受容する優しさのような、間違いであろうか。
松浦にはわからない。
自分の思考すら、絡まりすぎて終わっている気がする。
他人をどうにかしようだなんて、おこがましい。
そのままでいいと、ただその一言を必要としている人間だっているはずだ。
それでも自分は、彼や彼女たちに働きかけようと思うのだろうか。
余計な御世話かもしれないのに――彼らを変えようとするのか。
松浦が今、この場で出せる結論は一つだけだった。
自分は、絶対に貝瀬理恵に「死んでもいい」などとは言わないのだ。
死んだ方が幸せだったとしても、そうすることが最善だったとしても。
生きてくれと言おう。
自分勝手なエゴだったとしても、受容の優しさを失ったとしても、ただ――生きてほしいと。
おそらく、あゆみはそんな松浦の想いなど知らないままで、今、彼の元へと走っているのだろう。
――誰かに生きていてほしい、その純粋で原始的な、誰もが持っている気持ちだけを伝えるために。
110220