おやすみ
人の気持ちが読めるのは、超自然的な能力ではなく、単なる観察と統計的な処理による推測です。
――真賀田四季
あゆみが部屋に入ったとき、聞こえてきたのはシャワーの音だった。
嫌な予感がした。
彼がシャワーを浴びるような時刻ではない。
慌てて浴室に入ると、錆びたような赤色が視界に入る。
彼女はその事態をすでに予想していた。取り乱すことはなかった。
とめどなく流れるシャワーを浴びながら、服を着たままの碧梧があおむけに横たわっていた。意識はなく、目を閉じたまま、ぐったりとしている。錆びたような赤は、彼の手首から流れる血の色だった。
あゆみは彼の名前を大声で何度も呼びながら、状況を確認する。
出血は多くない。手首を切るだけで死に至ることは少ない、という知識はあゆみにもある。
大丈夫。まだ、彼は死にはしない。死なせはしない。
こういう事態を見越して、あゆみは彼に対して、『自殺』の知識をあえて与えないようにしてきた。心を読めば、彼がどんな自死のビジョンを抱いているのかはわかる。自殺をしようとするものの、それに関する知識がない人間の場合、そこまで多彩な自死のイメージを持ってはいないものだ。彼の場合、自殺という単語から想起する行為は、手首を切って死ぬことだった。「手首を切ったって、人は死にはしない」――そんな言葉を、あゆみは絶対に口にしなかった。彼がいつか、そうやって死ぬかもしれないから。
その行為は無駄ではなかった。
大丈夫、彼はまだ生きられる。
シャワーを止め、彼の手首を布で止血した。ぱっくりと傷が開いてはいたものの、静脈しか切れていない。動脈が切れると大量の出血が起こり、貧血や失血死の可能性があるが、静脈を切っただけでは人間は死なない。
深呼吸をして、救急車と、松浦の携帯に電話を入れる。
あゆみのすべきことは、それで終わりだった。
++++
やがて、目を覚ました碧梧は、静かに語りだす。
ベッドに横たわった彼の話を、あゆみは黙ったまま聞いていた。
彼はその日、自分のいなくなった世界の夢を見たという。
碧梧の存在しなくなった世界で、みんな、楽しそうに笑っていた。
もちろんあゆみも、何事もないかのように笑っていて、それで彼はぼんやり思った。
ああ、やはり君は。
『ぼく』がいなくても、何もなかったように、笑えるんだね。
自分がいない世界の美しさに、彼は気がついた。
世界が美しくない原因になっていたのは――やはり自分の存在だったのだ。
「ふざけんな」
碧梧の話を最後まで聞かず、あゆみはそう言った。自分の声が震えているのに気がつく。
「そんなのあなたの妄想だって、気付かないの?」
そう、あゆみは、彼がいなくなったからって、何もなかったように笑えるほど器用じゃない。
「夢は夢。妄想は妄想。あのさ、自分の不幸と他人の不幸、どっちを優先させればいいかっていう話、したよね。わたしは自分が不幸になるくらいなら他人を不幸にしてやればいいと言った。あなたは真逆のことを考えていた。わたしたち、二人とも間違ってたの」
彼女は、碧梧の虚ろな目をまっすぐに見た。
「両方とも、幸せになればいいじゃない。わたしとあなた、どちらかを不幸にする前提なんていらない。わたしは、あなたと幸せになる。これはもう決定事項なの」
「そんなの、」
「そんなの無理だって言う? でも、認めない。わたしはね、あなたの心を読める。あなたの言うことなんて全部わかる。それゆえに、あなたの心に直接干渉することができてなかった。あらためて、言わせてもらうけど」
あゆみは語調を強める。
「あなたは、逃げてばっかり。嫌なことから逃げて、目的をすり替えて、逃げることしか考えてない。そんなんじゃダメなの。根本から、改革しないとダメ」
「改革なんて無理だ」
「あなたはそう言うって、わかってる。でも、わたしは認めない。あなたの心を認めない」
戸惑ったように視線をそらした彼に、あゆみは言う。
「あなたの腐りきった根性は、わたしが叩きなおしてあげる。わたしはね、あなたが死んだら泣くの。あなたがいない世界で、何もなかったように笑う人間なんていない。わたしも、かなめも、貝瀬理恵も、みんな泣く。そんなことすら、あなたには理解できない?」
「理解、できないよ、そんなの」彼は、困ったようにつぶやく。
「理解できないのなら、これから理解させてあげる。わたしは、あなたが……」
あゆみは、そこで一度言葉を切って、溢れてきた涙をぬぐった。
「あなたが、好きなの」
情けない涙声ではあったが、その告白が彼の心の中に浸透していくのを、彼女は確かに見た。
大丈夫。
まだ、彼の心には、手が届く。
「だから、死なないでよ。生きてよ。他には何もなくっていい。つまんない碧梧のままでいい。ダメダメな碧梧のままでいい。ただ、碧梧が碧梧でいてくれればそれでいいの」
「……ごめん」
彼は、かすれた声で謝ってから、続ける。
「ぼくは、君を大人だと思ってた。ぼくのことなんて、自分の恋の道具として扱ってるだけで、何とも思っていなくて。いつか切り捨てられてしまう……そう思うと怖かった。だからそのままでもいいと、思った」
彼の声も、涙声だった。
「でも、そうじゃないんだね。あゆみは、まだ子供で……ただ、ぼくの心を分かってくれるだけなんだ。ぼくは、君に重いものを背負わせすぎていた」
「わたしは、あなたが思ってたほど、万能じゃないの。ただ、あなたが考えてることが分かるだけ」
「うん」
「でも、碧梧にはわかんないかもしれないから、もう一度だけ言ってあげる。わたしは、かなめじゃなくて、あなたが好き。もう、かなめの恋の邪魔なんてしない。だから」
あゆみは、碧梧の手を取った。冷たい手だった。
「一緒にいて。それくらいなら、望んでもいいでしょう?」
彼は、一瞬だけ迷った。その逡巡こそが、あゆみには、彼がまだ完全に幸福にはなれない証に思えた。
「……うん」
彼の手が、あゆみの手をぎゅっと握る。
彼とこんな風に通じ合うのは、初めてだということに思い至る。
今まで、ずっと、一方通行だったのだ。
碧梧の心をあゆみは知っていたけれど、あゆみの心は碧梧に届かなかった。
これからは、違う。
碧梧を知った分だけ、あゆみは自分を彼に伝える。
そうして、ふたりで、生きていく。
切り捨てるのではなく、修復する。
そういう風に、生きていく。
「おやすみ、碧梧」
泣き疲れて、もう一度寝てしまった碧梧に向かい。
あゆみは、そう言って微笑んだ。
子供をあやす母親のような、澄んだ笑顔で。
110601
いろいろありましたが、一旦終了。
絶賛何も書けないモードなので、碧梧やあゆみに助けてもらえたらいいなと思っています。