【 時間旅行 】

「いやー、俺んとこの学食、すげえおいしくてさ。もう毎日幸せ」
にっこりと嬉しそうに微笑んで、僕の友人はそのとき、そう言った。
「特にチャーハンがすっげえうめえの。最高」
 うひひ、と彼は笑った。とても幸せそうに。
 しかし僕は笑えなかった。どうやったって、笑うことなんてできるはずがなかった。
 そのときの僕の中にくすぶっていたのは、高校中退と、それに付属する無職生活による精神的ダメージだった。
 バイトはしていたものの、学歴最悪のフリーターであり、家族にすらつばを吐きかけられるようなゴミ人間であった。
 目の前で笑っている男は、現役で有名大に合格した幸運な奴だった。僕より外見もいいし、頭もよくて、他人にも好かれる。親だって僕より金持だった。彼女だっている。友達だってたくさんいて、僕はその中の一人だ。僕みたいなゴミとは違う。
 そんな男が、いくら知人であるからといって、無職野郎の前で学食の話をする。その他にも、彼の大学での生活についてはたびたび語られていた。そんな話は聞きたくなかったけれど、拒絶することもできず、聞きながらイライラを蓄えていた。サークルの先輩の話。同じ大学を卒業したOBの話。近所にある店の話。学校の名物スポットの話。みんなみんな、聞きたくない話ばかりだった。なにせ、こちらにはそんな話題はないのだ。一方的にそんな話をされて、僕にはない『キャンパスライフ』を語られて、楽しいわけあるかよ。そんなこともわからねーくせに、高学歴気取ってんじゃねーぞ。そんな気づかいもできねーのに、よくいい大学に行けたもんだな。
 肥大化していた自分のコンプレックスは、もはや取り返しのつかない大きさになって僕を苦しめていた。
 彼の言葉のすべてが、嫌味だとしか思えなかった。
 というか、嫌味だと決めつけることでしか、僕は僕を守れなかった。
 彼が幸せな大学生活を語るたび、僕は不幸な自分自身を確認するのだ!
 大学に行くことすらできない、最悪な自分を、見せつけられるのだ!
 そんなの、耐えられるわけがない。
 僕はある日、とうとう叫んでしまった。

「てめえの話なんか聞きたくねえんだよ。なんで学校の話なんかするわけ? 学歴自慢かよ。僕はそんな風にニコニコしてられる状況じゃねーんだよ! 死ねよ!」

……死ねよ、というのは言いすぎだった。そして彼は怒らなかった。ただ、すまねーな、と笑った。
 そのときの僕には、それすらも高学歴の余裕に見えた。僕には余裕なんてものはなかった。
 死のうと思った。
 彼を傷つけるようなことをした、自分が大嫌いだった。
 今考えると、僕のイライラは正当だったと思う。僕みたいな人間の前で、学校の話を振ること自体が無神経なのは当たり前だ。
 そのイライラを彼にぶつけることも、まあ少しくらいは許される。
 でも、それを実行することは僕という人間を大幅に貶めたし、何よりも彼を傷つけた。もっと、言い方を考えなくてはならなかった。僕も傷ついたし、僕の自己嫌悪メーターは針が振り切れて壊れてしまった。もうこの世界に価値なんかないと、僕はそのときに考え始めたのかもしれない。世界ってやつはめちゃくちゃくだらねーのだ、実際。僕という人間自体がくだらないのも事実だけど、だからって、世界が美しくないのが僕だけのせいだなんて到底思えない。


++++


 さて、そんな胸糞悪い過去を思い出しながら、僕は考える。
 はたして、あの日から、僕という人間は進歩しているであろうか。
 そろそろ、気付いている。世界というものは劇的に美しくなんかならないし、世界なんて単語は使わない方がいい。僕はあれから、フリーターを脱出するため、そして自分を変えるため、必死に勉強して、金を貯めて、大学に進学した。サークルにも入った。好きな女性もできた。だが、本質的な部分で僕は変化していない。あの日、友人を口汚く罵ったことも、後悔していない。あのまま我慢していたら、僕の精神の方が崩壊していたに違いないのだ。僕は正しかった。正しいことを主張する人間は、たいていの場合煙たがられる。それも世の中の摂理だ。彼が間違っていたわけではなくて、間が悪かった。それだけだ。
 そもそも、誰かが間違っていることなんてない、という気分にすらなりつつある。
 間違っているとか正しいとか、そんなの、どうやったって主観でしかない。「自分は正しかった」と、人は誰だって思いたい。間違っていると分かっていて行動する人間は極悪だが、正しいことを信じて行動する人間だって、時には悪だ。客観的に正しいと評価された行動が、いつでもどこでも、誰にとっても正しいなんてことがあるものか。
 僕は認めない。自分がいつも正統だと考えて行動する人間の正義を、認めない。
 なぜなら、それを認めたら僕は駆逐されてしまうからだ。
 自分が正しいとは思わない、その代わりに他人の正しさも認めない。
 それが僕、平城啓太郎の、唯一にして不定のモットーだ。


「……唯一にして不定のモットーだ、とか厨二病よねえ」
僕の話を聞き終わってから……ではなく、僕が話し始める前に、東坂あゆみはそう結論付けた。これにはびっくりした。彼女には心を読む能力があるのだということを、あらためて認識せざるを得ない。
「厨二病厨二病ってさあ、みんなバカみたいに言うけど、厨二の何が悪いってんだよ。具体的に指摘してみろよ」
「気持ち悪いから悪いんでしょ」
「…………」
そう言われると、何も言えない。気持ち悪いのは悪いことだ。
「でもまあ、自分が正しいとは思わない、その代わりに他人の正しさも認めない――その考え方自体は、同意してもいいかもね」
あゆみは微笑する。
「みんな、自分が正しいっていう事実を証明するために生きてるみたいな空気だしねえ。正しさなんて、主観の中にしか存在しないってのに。不毛よね」
「君とは気が合いそうな気がするよ」
「やめてよ、気持ち悪い」
「…………」
…………僕、嫌われてる?
「あー、嫌いじゃない嫌いじゃない。そんなに気にしなくていい」
と、またもあゆみは僕の心の声に返答をした。
テレパスだったか、サトリだったか。
心が読めるというのは、とりあえず本当らしい。
「このサークルって、なんでこんなによどんだ空気の人間だけが集まってるのかしら。ある種の奇跡よね」
「……よどんだ空気の人間、……『だけ』?」
僕は語調を強めて問い返す。松浦や貝瀬がそういった人間なのは分かる。しかし――
「『青木さんとか岡崎さんがそういう風には見えない』?」
「ああ、うん。そうだ」
僕は頷きながら、なんだか嫌な方向に話が進んでいきそうな予感を覚えていた。
「明るいことしか考えてない人間なんていない、っていう大前提を、啓太郎は知った方がいいかもね。ただ、『その人の思考の中の明るいことと暗いこと』を数値化して平均できると仮定して、その平均数値よりも大幅に暗い人間が集まってるのがこのサークルなの」
「どうしてそんなことになったんだろうね」
「このサークルができた経緯をわたしは知らないから、何とも言えないわ。類は友を呼ぶ、ってやつなのかしらね。……みんなが同等に惹き合っているというよりは、啓太郎以外の部員は『貝瀬理恵』に惹かれて集まってきたようにも思えるけれど」
「……貝瀬先輩に?」
彼女の何が『他人を惹きつける』のか、僕にはよくわからなかった。
「あなたは例外因子だから、わからないんでしょうね。おにーさんたちは、そしてあなたの大好きな岡崎早苗は――きっと、貝瀬理恵という存在がなかったら、こんなところには来なかったのよ」
「なぜ?」
「さて、どうしてでしょう。おそらくどうとでも言える。貝瀬理恵が魅力的だから、あるいは彼女の不幸が放っておけないから、自分より性格が悪くて安心するから、オタクだから……好きな理由を選べばいい。全部、正解よ」
模範解答を把握しきったあゆみは意地悪く笑った。彼女がそういうからには、すべて正解なのだろう。
「貝瀬っていう人はさ。別に特殊でもなければ善良でもない。ただ、一度人生に負けたことがある。それが魅力なの。誰にも負けたことのない人間は、残酷なことしか言わないから」
僕は黙る。黙らざるを得ない。僕も一度、人生に負けたことがある。胸糞悪い過去を思い出す。最低だった自分と、そんな自分に否定された『彼』。だが、僕は今も彼には謝らない。正しくないと一度認めてしまったら、ずっとその引け目を背負って生きていかなければいけない。その後、誰も何も与えてくれなかったら、そんな人生だったら。僕は負けっぱなし、間違いっぱなしの人間になってしまう。そんなのは絶対に嫌だった。そうなるくらいなら、間違いを認めない人間になりたかった。
「そうやって自己防衛しようとするのが、負けた人間ってやつなのよ」
わたしは違うけど、とあゆみは付け加える。
「もう、わたしも結構長くここにいるから、オンサの人たちの内面や心的外傷に関してはプロフェッショナルよ。貝瀬理恵が、松浦かなめが、青木泰輔が、岡崎早苗が、そして平城啓太郎が――何に怯え、何を欲し、何のために生きているのか。全部知ってる。知ってたって何の役にも立たないけれど、わたしだけはそれを知ってるの」
あゆみはどこか寂しそうにそう口にした。人の心的外傷がすべて見える彼女は、何を考えて生きているのか。啓太郎にはさっぱりわからなかった。
「あなたは、あの四人の内面を知りたいと思う? 知りたいのなら、教えてあげてもいいよ」
口調はあっけらかんとしていたが、ひどい露悪趣味だと僕は思う。自分の心的外傷を他人に語られて、幸せな人間がいるだろうか。僕ならお断りだ。
「それはまったく正しい考えね。しかし、正しさを認めないあなたがどれだけ正しくとも、そこに意味はないわ」
「そりゃそうだな」
僕は憎々しげにそう言った。まだ中学生の癖に、この少女は妙に大人びていて、たまにとても腹立たしい。すべて見透かされている、というのも不愉快だ。
「でもな、ここで岡崎先輩の情報をもらったって、俺は嬉しくなんかねえ。たまたまその情報を活用して彼女とうまくいったとしても、『あゆみのおかげでそうなった』んだと俺は思うに決まってるんだよ。そして、自分はずるいことをして愛を手に入れたんだと思うだろうさ。そうやって正しくないものを抱え込んで生きていくのが、俺は一番つらい」
あゆみは僕の言葉を聞いて、なぜかにんまり笑った。「そう、それがあなたの本質なのよ」
「は?」
「自分では、『自分が正しいとは思わない、他人の正しさも認めない』、そんな中立のポジションを保っていると思ってる。でも、本当は正しくない自分が嫌で嫌で仕方がない。『自分は間違っている!』ただただそう思う。間違っている自分が嫌いだから事実にふたをする。それ以上間違わないためなら何でもする」
あゆみは白い指で僕を指した。
「あなたは、正しくないものを抱え込んでるのよ。すでに、大量にね。その事実を突き付けられてもまだ、わたしの情報はいらない?」
「……いらない」
一瞬だけ迷ったが、そう答えた。
「大量に抱え込んでいるからって、これ以上増えたっていいってことにはならない」
「まあ、それもそうね。勘違いしないでね、押し売りがやりたいわけじゃないわ。欲しい人には与える、欲しくないなら与えない。欲しい気持ちにふたをする人間は嫌い。それだけだから」
「そりゃあ、他人の秘密は知りたいさ。身近な人間ともなればなおさらだ。岡崎先輩に限らず、サークルの人たちの秘密がわかるなら、僕は知りたいと思うだろう。みんなそう思う。でも知ったあとに何が待ってるのか、無知な僕には分からないんだ。途方もない不幸が待ってるかもしれない。そんなものを無駄に抱え込みたくはないね」
「殊勝でよろしい」
あゆみは初めて僕を褒めた。僕はくすりと笑う。これは彼女なりの親切なのかもしれない。
「あ、そうそう。わたしばっかりがあなたのことを知ってるのは不公平よね。最近、そういう不公平が許せない年頃なの。だから、わたしのことを教えてあげる」
あゆみはわくわくしたような顔になった。
「わたし、自分っていう存在は誰の役にも立たないと思ってたわ。超能力なんて、無力なんだって。でも、あなたとか碧梧を見てると、もしかすると役に立てるかもしれないって気がする。そういう意味で、わたし、今すごくはりきってるのかも」
「それで終わり?」
僕はあえて冷たい声音で聞いてやった。あゆみは頷いた。
「うん、だから、わたしの力が必要ならいつでも言ってね。ちゃんと手伝うから」
「おう、その代わり、僕の力が必要ならいつでも言えよ。なんでもしてやるよ」
「うん、了解」
さて、そんな子供っぽい言葉の応酬の中で、僕は思った。こうやって誰かが他愛ない会話をしてくれる、そんな小さな幸せこそ、僕が欲していたものかもしれない。そして、こういった会話を積み重ねて、いずれ人は自分の間違いを忘れていく。不幸を風化させるために、幸せを積んでいく。だからまあ、東坂あゆみには超能力以外にも人間的価値というものがあり、おそらく彼女自身はその価値には気付けていないのであろう。気付いていたとしても、自己を信用できないのだろう。僕が自分を間違いだと判じたのと同じように、彼女は自分を超能力によって歪めて見ている。ある種、似た者同士なのかもしれない――僕はそんなことを考えつつ、にっこりと笑ってみせた。



110618


啓太郎さんの啓太郎さんらしさを全開にしてみよう、と思ったらこうなりました。自分的にはわりと満足。
あゆみの能力はチートなんですが、チートであるがゆえに通常の物語ではできない形式の展開ができると信じてます。