incendiarism

 爪切りと指きりという単語の響きが似ていることに気付いた。爪を切るように気軽に、ぼくは彼女と指きりをしてしまった。
 今になって考えると、ひどく気が重い約束だった。
 人はなぜ、爪をぱちぱちと切り離すような気分で約束をすることができないのだろう。
 否、「人は」という仮定は傲慢だ。他人と自分が同一の感性を持ち、同じ思考をしているかのような錯覚から来る傲慢は、それこそ爪を切るように切り捨ててしまうべきであろう。
 ぼくは、他人とは違う。
 選ばれた人間、なのだから。


「何考えてるの?」――と、彼女は笑んだ。ぼくの思考はそこで停止する。
「特に、何も」
そう答えてはみるものの、何も考えていない人間などいるはずもない。「あっそ」とつまらなさそうな答えが返ってきた。
「ね、わたしの言ったこと覚えてる?」
「覚えてない」
「うそつき」
ぼくは数分前に言われたことを忘れるほどの阿呆ではないので、彼女の罵倒は正しい。
「『わたしはあなたの心を読むことができます。憶測ではなく、文字通り読みとることができる。だからわたしに服従しなさい』」
先ほど自分が言った言葉を律儀に復唱してから、彼女はにんまり笑った。
「はい、もう一回言ってあげたわ。そして、それに対するあなたの答えは?」
「……『別にいいよ、服従してやる』」
ぼくも、さっき自分が言ったことをそのまま反復した。
「お利口さん。今日からあなたはそうやって生きていくの。それはとても幸せなことでしょう」
その言葉に対して何か答えるためには、幸せという言葉の定義から始めなくてはいけない気がするね。


++++


 この危険な少女の名前は、東坂あゆみというらしい。
 ぼくの知人に平城啓太郎という男がいるのだが、彼が突然紹介してきたのがこの少女である。
 キナ臭い、と思った。というのも、ぼくは、平城などという男のことはすでに忘れていた。
 平城は高校時代の同級生だったが、高校を中退して、そのまま音信不通になっていた。それからもう五年は経過しているのだから、忘れるのは当然だった。

 精神を病んで中退する人間は、ぼくの学校では珍しくなかった。
 勉強のカリキュラムの過酷さや教師のスパルタっぷり、そして同級生を蹴落とすためなら何でもする生徒たち……そんな状況に耐えきれなくなった人間は、どの学年にも一定数いた。ぼくは他の学校の事情はあまり知らないが、ぼくらの学校では、学校を休むという行為は自殺行為である。普通に毎日学校に来ている人間ですら、悲鳴を上げたくなるほどのカリキュラム。一日休んだだけでも、その日に出された課題や、その日の授業の内容を把握できなくなる。フォローしてくれる友人や教師がいればまだましだが、そうでない人間は蹴落とされて消えていく。友人や教師も暇ではない。仲がいいからといって必ずフォローしてもらえるはずもない。結局は休んだ人間が悪いということになる。休むと一口に言っても、病気、入院、過労、ストレス、ずる休みなどいろいろな理由はあるのだけれど、特別な理由があるからと言って苦労が免除されることはない。ある意味、平等である。

 ただ、平城はそういうパターン化された理由で高校をやめたのではなかった。
 少なくとも、彼は学校をやめる前の日まで、ぼくの隣で笑いながら勉強していたのだから。
 一度だって休んだことはなかったし、勉強に対して文句を言ったこともない。
 平城が腹の底で何を考えていたのかは知る由もないが、少なくとも彼は、進学校という体制に負けたのではなかった、と思う。
 学校による絶対的な支配に、他人を蹴落とすのが当たり前のような世界に、そして何よりも勉強という名の暴力に――そういったものに負けたのであれば、誰も軽蔑などしない。むしろ戦死した人間を扱うように尊く思われるはずだ。受験戦争を勝ち抜き、たどり着いた場所で行われるのが高校生活という名の闘争で、その先に待つのは大学受験という名の新たな戦場ではあるのだが――どこで負けたとしても、ちゃんと戦ったのなら誰もバカにはしない。ぼくはそう思う。

 そんな中、当然ながら、平城は非難を浴びた。
 彼は大きな戦いに負けたのではなく、戦う前に白旗を上げたのだということにされた。
 ぼくもそう思った。彼は元気だった。精神を病む暇なんてないくらいに普通だったのだ。他の脱落者はみんな、暗い目をしていたり、連日学校を休んだり、保健室に駆け込んだりしてから学校を止めるのがセオリーだった。もちろん、精神の均衡なんて、外からはわからないから、すべて憶測ではあるのだけれど。

「弱虫」「戦う前に逃げるなんて最低だ」「もうあんな奴なんて知るものか」

――周囲の評価はさんざんだった。ぼくはといえば、特に平城を嫌悪することもなく、冷静に考えていた。彼のような人間がそうして逃げたことを、この場から逃げられない自分たちが非難することが義務であるかのように、一様に彼らは平城を罵倒した。ある意味で、平城は勝ったのだ。生徒たちは、自分が理不尽な戦争を強いられることから逃げられない。平城はそこから逃亡してかき消えた。平城の履歴書には中退という文字が刻まれるが、生徒たちにしてみれば、平城はうらやましい存在でしかない。睡眠時間を削っても終わるかわからないような量の課題をこなしながら、「テスト勉強なんてしてない」と笑って同級生を騙し、いざというときのために教師の機嫌をとる。統率された軍隊よろしく、ぼくらは毎日を戦った。そしてそんな当たり前の生活に、常に疑念を抱いていた。

 当たり前であるからと言って、苦痛が苦痛でなくなることなんてない。
 寝る間も惜しんで勉強することを強要されて、楽しいはずがない。
 あの学校は、誰がどう見ても、牢獄でしかなかった。
 もちろん、戦うことが好きな人間はいる。他人を蹴落とすのが大好きな人間だって、蹴落とされることでアイデンティティを確立する人間だって、いた。他人を殺傷することが大好きな兵士だって、銃で撃たれることに快感を覚える兵士だって、きっと世界のどこかにいるんだろう。
 だが兵士は所詮兵士である。「自分がもし戦場にいなかったら」。そんな仮定に焦がれることはやめられない。
 こんな高校には入らないで、髪を茶色に染めて、同級生と毎日呑気に過ごして、カラオケやボーリングにいそしみ、バイトに明け暮れるような――そんな人のあふれる学校に行っていたら、自分はどうしていただろうか。勉強のことなんて考えず、定冠詞と不定冠詞の違いすら知らないままで生きる。微分も積分も、フランス革命も、元素記号も、物理法則も、全部どうでもいいものとして、無視して生きる。
 それはとても楽しいことじゃないか?
 知らないということは最高の価値なのだと、今、大学に通うぼくは思っている。
 不幸という概念を知らないのなら、不幸な自分を知らずに済む。
 自分より幸せな他人を知らなければ、自分が不幸であると気付かずに済む。
 確かに知ることは楽しいだろう。知りたいことを吸収することは楽しい。でも、知りすぎたら不幸だ。
 知る必要のないことを知ることは、幸せなんかじゃない。
 こんな学校が存在することや、他人を蹴落とさなければ生き残れない現実を、ぼくは知りたくなかった。

 だからまあ、ぼくもおそらく、平城のことをうらやましいと思っているのだろう。
 彼は、最後まで戦い抜いた後に何も残らないことを、知らずに済んだのだから。
 他人を蹴落としつづけて大学に入ったぼくと、他人と戦うのをやめて去って行った彼との間に――優劣なんて存在していないと、ぼくは気付いてしまった。知ってしまったから、平城を憎悪せずにはいられない。
 ああ、知らずにいるということはずるい。
 何の理由もなく逃げることは、こんなにも罪深い。


++++


 そんな考えを持つぼくであるので、平城がいきなり連絡してきたときには驚いた。この男は、自分が同級生たちに憎まれ、蔑まれ、人でないかのように罵られた事実など知らないのである。だから、あっけらかんと、何もなかったかのようににこにこ笑いながらぼくの前に登場し、あまつさえ女子を紹介するなどという意味不明な行動に出られる。無知とは最高に幸せな状態であるのだと、しみじみ思った。
「おまえに会わせたい女の子がいるんだ」――平城の第一声はそんな感じだった。
「女の子? そんなもん、おまえに斡旋されなくても間に合ってるさ」
現実がどうだったかはおいておいて、ぼくはそう答えた。無駄なプライドが、そういう言葉をぼくに言わせた。
「いやいや、そういう意味じゃないんだ。まあとりあえず会ってみてくれ」
そんな胡散臭い相手に会う気などなかった。
 しかし彼に指定された日を迎えてから、妙にその女の子というのが気になってきた。というか、元来、ぼくは理屈で行動する人間なのだ。平城がそういう行動をとった以上、どれだけ意味不明に見えたとしても、そこにはなんらかの理由があるはず。もしもそれが取り返しのつかないほど重大な理由だったらどうする。
 そんな強迫観念に憑かれた結果、ぼくは東坂あゆみと真正面から対面するという過ちを犯したわけだ。


++++


「で、心が読めるってのはどういう冗談なんだ?」
あゆみにそう問いかけると、彼女は含み笑いをした。「そのまんまの意味だけど?」
「大人相手にふざけてると痛い目を見るぜ。平城は笑って許してくれるかもしれないが、ぼくをあいつと一緒にすると……」
「一緒になんかしてない」
少しむっとした調子で彼女は言った。「けーたろはあなたみたいなクズじゃないわ」
一瞬、何と言われたのかわからなくなった。
「は?」
「あなたの考えてること、全部見えてるの。けーたろの考えてることも見える。けーたろはどうしようもない負け組コンプレックス野郎だけどね、あなたみたいなひどいことは考えてないの」
そんな少女の言葉を聞いて、ぼくは彼女の顔を見るのをやめた。話すことも、それ以上その場にとどまることもやめにした。
不愉快だ。
「ふっざけんなよガキ。ぼくがどんなことを考えているか、てめーみたいなガキにわかるわけねーんだよ」
「……そう信じたいなら信じてればいいよ。わたしは否定しないから」
 上から目線。
 しかも憐れまれている。
 ぼくは踵を返して駆けだして、そのまま家に帰った。
 そして平城を恨んだ。
 あんな意味のわからない侮辱を受けたのは初めてだ。
 許してはおけない。


++++


 ぼくは、自分で言うのもなんだが育ちがいい。都会の私立進学校に通うような人間はだいたいが金持ちであり、また、飛び抜けて偏差値の高い学校であるなら、医者の息子や財閥の跡継ぎも当たり前のように在籍している。ぶっちゃけて言ってしまうと、少なくともぼくの周囲において、成績上位の私立校に進学するような人間というのは、ほとんどが中流階級か上流階級に属しているのである。「どれだけ貧乏でも、努力次第でいい学校へ通うことはできる。人間は平等だし、貧乏だから進学できないと思うのは甘えだ」という一般論があるが、これは正確でないと思う。

 もちろん、これはぼくの主観だ。押し付けるつもりはないし、例外もあるだろう。客観的な情報が必要な場合もあるだろうが、今はぼくが物語をしているのだから、ぼくの主観だけで語らせてもらう。

 人間にはそれぞれ、まったく別の環境というものがあり、狭いアパートに家族四人で雑魚寝し、クーラーすらない、生活費を自分で稼がなければならないような貧乏学生と、防音設備の整った自室でのんびりとお茶でも飲みながら勉強し、食事はすべて家政婦に作らせ、バイトなんてしたこともない裕福な学生とでは、スタート地点も勉強時間も異なる。両者が同じように努力すれば同じ学校に入ることができるというニュアンスの理屈はまったくもって間違っているとしか言いようがない。というか、ぼくはそんな貧乏人なんかと一緒にされたくはないし、貧乏人だって、ぼくみたいな調子に乗ったお坊ちゃまと一緒にはされたくはなかろう。

 誤解されるとまずいから付け加えておくが、ぼくは貧乏な人間が優れた学校に入ることを否定しているわけではない。そんな美しい苦学生もいて当然だろう。
 でも、あらかじめ選別された世界で、裕福な子供が、貧乏な子供よりも恵まれた環境のもとで学習し、優れた大学に入れるのは事実だ。塾や予備校に行くのも、おいしい飯を食うのも、優しい親に保護されるのも、裕福な家庭の特権なのだ。ひとつひとつは些細なことでも、積み重なれば大きなアドバンテージになる。努力でその差を埋めることは可能だが、一分一秒を争う戦いの中で、その努力をする時間すらも足かせになることは想像に難くない。

 高校の授業の内容だって、教科書にある内容をなぞるだけで応用問題を解かせない底辺校と、受験を前提に大量の宿題を出し、ハイスピードで授業を進めていく進学校ではまったく違う。「大学受験の問題は同じなのだから、平等」なんて主張する人間はおかしいと思う。きっとその人は恵まれているのだろう。ぼくのように。

 だいぶ話がそれたが、ぼくは金持ちの家に生まれたことに誇りを持っているし、過酷な受験戦争を勝ち抜いたことにも同じく誇りを持っている。だからこそ、東坂の言葉が許せなかった。平城がぼくよりもマシな人間だと、ぼくは平城よりも腐っていると、彼女はそう言った。

 ぼくはすべての人間が平等だなんて言葉は信じない。金持ちは金持ちとして生まれて誇り高く死ぬし、バカはバカとして生まれてバカみたいに死んでいく。平城は戦争が始まる前にドロップアウトしたクソ野郎だ。ぼくよりあいつが上だなんて、そんなことがあるはずがない。その理屈を認めたら、ぼくは最後まで戦いぬいた兵士の誇りを折ることになる。絶対に認めない。



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 「勉強」とか「環境」とか偉そうなこと言ってるけど、あなたは「人間性」の話は一度もしなかったよね。世界には、「いい人」と「悪い人」っていうのがいるわけ。まあ、たくさんコンプレックスを抱え込んだ人間は歪みがちだから、確かにあなたのような、コンプレックスのないお金持ちの優等生には、「いい人」が多いのかもね。実際、学校を途中でやめた啓太郎は、心の歪んだムカつくやつになっちゃったし。

 東坂は、そこでにんまりと笑った。

「でもね、金持ちだろうと、血の滲む努力をしていようと、あなたがクズであるという事実は揺るがないわ。あなたは受験戦争を勝ち抜いたことを誇りとか呼んで、戦わなかった啓太郎を蔑んでいるけど、そんな差にしがみつかなければいけない時点で、あなたが小さな人間であることははっきりとわかるわ。あなたの蔑む『貧乏人』だって、あなたの大学には存在していると思うけれど、仲良くできているのかしら」

 完全に喧嘩を売られていることに、ぼくはもう気づいていた。
 だからその問いに返事をしなかった。こんなクソガキに返す言葉などない。


「ぼくはもう君の話を聞かない。どうせ、平城の差し金なんだろ。彼はぼくが妬ましいんだ」
「あなたなんかを妬ましく思うほど、彼は落ちぶれてない」
「それ以上ぼくを貶めると、大変なことになるぞ」
「貶めなくても、大変なことをするつもりなのでしょう?」


 彼女が、あまりにもさりげなくそう言ったので、意味がわからなかった。
 ………今、こいつは何を言った?
 ぼくは一瞬固まってから、問いかけた。
 必死だった。汗でシャツが肌にはりついて、気分が悪い。


「大変なことって、なんだ?」
「さあ。あなたの胸に聞いてみたら?」


 ざわざわと、嫌な予感がする。
 風で木が揺れているような音が聞こえる気がする。風なんて、まったく吹いていないのに。
 いやしかし、ぼくの心のなかのことは、ぼくしか知らない。誰にも話してなどいない。物的証拠もない。
 初めて会ったときに東坂は「心が読める」などと言い、ぼくはそんな彼女に「服従する」なんて言ってしまったが、それは軽い冗談のはずだ。頭の悪い、品のない、笑えない冗談だろう。科学的でない。ありえない。そんなのは、知らない。

「君は、ぼくにどうしてほしいんだ?」

 その言葉は明らかに、譲歩だった。
 ぼくはこのとき、少女に対して膝を折ったのだ。
 その時点で全て終わっていた。

「あなたはわたしにどうしてほしいの?」
少女も同じように一歩下がった位置から問いを発した。ざわざわした音が、頭のなかで鳴り止まない。
「どうもしてほしくない。ぼくはもう君に会いたくない。放っておいてほしい」
「いい返事ね。わかった、あなたがもうこの校舎に近づかないのなら、わたしもあなたを放っておくわ」

 その言葉で、ぼくは気づいてしまった。
 彼女はほんとうに心が読めるのだ。
 こぶしに力がこもって、思わず、彼女を殴りつけそうになった。
 ぼくの高貴な理性はそれを押さえつけて止めた。
 立ち上がれなくなるまで、ボコボコにしてやりたいとすら思ったが、もちろんそれもやめた。
 きっと今、ぼくは鬼のような顔をしている。

 ぼくと東坂あゆみが出会ったのは、とある大学の校門の前。もちろんぼくの通う大学ではない。
 今話している場所も――否、彼女と会話していたのはいつも、この場所だった。
 平城の通う大学の門の前。
 まるで、ぼくがこの学校に入るのを防ぐかのように、いつだって、この幼い少女はぼくの前に立ちはだかって。

 ――ぼくの犯罪を阻止しようと、するのだ。


+++++


 満遍なく油を撒けば、古い校舎が簡単に燃え落ちることはわかっていた。
 学生の姿を偽装し、顔を隠せば、部外者であるぼくに容疑がかかることもない。夜中、警備が手薄になるのも調査済み。
 あとは、校内に隠した油を学校中に撒いて、ライターの火を慎重に落とせば完璧だ。
 ぼくは頭がいい。痕跡など一つも残さない。火が校舎を覆う頃には、とっくに遠くへ逃げている。
 鳴り響く火災警報器を尻目に、ぼくは安全圏へ逃亡するのだ。
 防犯カメラも目撃者も何もかも、燃えてなくなる。
 三島由紀夫の「金閣寺」を思い出す。
 大事であるはずのものを燃やし尽くす炎というのは、なぜあんなにも美しいのだろう。
 そびえたっていた巨大なアイデンティティが消失する瞬間に、ひどく焦がれる。
 校則を破ってサークル棟に残る学生たちも、くだらない机の落書きも、図書館に埋もれた本も、校庭にある巨大な樹も、すべてすべて、等しく灰になるはずだった。
 オレンジ色の強大な炎が、学校を覆い尽くして無に帰す。
 それはとても崇高な理念だった。
 誰にも邪魔できない、新たなぼくの、生きる目的だった。
 もはや、今のぼくにはそれしかなかったと言ってもいい。

 なぜこの学校なのか、などと問いかけても意味がない。
 平城が憎いからか、と問われれば、そうでもないと答えられる。
 ただ、ぼくは何かが燃え尽きて消えていくのが見たかった。
 ぼくの闘志が、受験の成功と共に行き場をなくして燃え尽きてしまったように。
 あんなにも燃えていたはずの自分の心が、
 失われてしまったなんて考えたくもなくて。

 完全犯罪。
 完璧にして美麗な、そんな計画だったはずだ。
 なのに。

 ぼくはいつのまにか戦意を折られ、立ち上がれなくされていた。
 もはや、余裕のあるいつもの自分――選ばれた特別な自分はどこにもいなかった。
 いるのはただ、汚い犯罪者になりそこねた一人の男だけ。
 やはり少しの風も吹かない夏空の下で、
 完全無欠だったはずのぼくは、いつのまにか目の前の少女の超常性に屈していた。


+++++
 

 平城啓太郎は、東坂あゆみの話を最後まで聞いて、ため息をついた。雲をつかむような話だった。
 今回、この音楽研究サークルが、大学もろとも炎の海になりかけたという事実を知るものは、平城とあゆみしかいない。
 すべてを聞いた平城ですら、あゆみの作り話なのではないかと思っているくらいだ。
 
「で、宮藤はなんでこの学校に火をつけようとしたんだ?」

 宮藤彰二。平城の高校時代の同級生だ。ルックスも成績もピカイチ、地元では有名な財閥の息子らしい。平城と違い、無事高校を卒業し、進学したはずの男。この五年間、平城とは関係のない世界で生きていたと思われる彼が、この学校に火を放とうとしていたなんて、やはり信じられない。平城のようなドロップアウト組のひきこもりならばともかく、宮藤の人生には、汚いコンプレックスも、醜い苦悩も、存在しないように見えていたのに。彼はいつだって自信満々で、明るくはきはきとしていて、正直なところ、当時の平城は少しだけ彼に憧れていた。あんなふうになれたら、自分ももっといい人間になれるかもしれない、と。

 平城があゆみから相談を受けたのは一ヶ月前だ。それが、「宮藤に自分を紹介しろ」というものだったので、平城はひどく驚いた。宮藤なんて男の名前は、言われるまで忘れていた。そういえばそんなやつもいたなあ、というくらいのものだ。何かわけありだということを察した平城は、嫌々ながら宮藤に連絡をした。
 それからはまったく音沙汰がなかったのだが、今日になって、あゆみは「宮藤を学校から追い払った」という事実を平城に告げてきた。
 そして、宮藤がこの大学に火をつける計画を練っていたと言う。ふと大学を訪れた彼の心のなかの闇を垣間見てしまった彼女は、彼の心を折るため、その能力を存分に発揮した。結果、宮藤は尻尾を巻いて逃げていった。
 バカみたいな、空想めいた、物語だ。
 できれば、嘘であってほしいと思う。

 だが、そんなことがあるはずがない……とは、言い切れなかった。
 なぜなら、平城には宮藤の気持ちがわかるからだ。
 すべてをぶち壊してやりたい、みんな殺してやりたい、世界中をめちゃくちゃにしてやりたい。
 そんな反社会的欲望を、高校をやめてひきこもっていた頃の平城はすでに知り得ていた。
 もちろん、実行に移すはずもなく、大学に入ってからはそんな危険なことは考えなくなったのだが、そういった他愛もない物騒な妄想が、人の頭のなかには簡単にわいてくる。まだ、脳内にはその風景が残っている。
 巨大ロボットに乗り、すべての都市を破壊する自分のビジョンは、鮮明なままだ。

 何の問題も失敗もなく人生を歩んできた人間でないからこそ、平城は自分の心に闇があることを知り得た。
 一度、失敗したまま立ち上がれなかったからこそ、立ち上がれない者の苦悩を理解した。
 数ヶ月、家から出ないだけで、人は妬みと自己嫌悪で簡単に歪んでしまう。
 そんなことは知りたくもなかった。
 だが、知ってしまった以上、なかったことにはできない。
 何も知らないまま生きていければ、どんなに幸せだろうかと思う。
 きっと、宮藤もそれと同じで――何か知ってはならないことを知ったのだ。

「そう――宮藤さんは、知ってしまった。知ってしまったことから、逃れられなくなった。それでおしまい」

 あゆみは平城の思考に対して返事をするだけで、平城の問いに直接は答えなかった。いつものことだ。
 しかし、それで十分かもしれないと思った。
 他人のどす黒い欲望の断片なんて、
 知らないほうが幸せに決まっている。

「さて、そろそろ先輩たちが部室に来るだろうから、辛気くさい話は終わりだ」
「そうね。戦うことから解放されて、何をすればいいかわからなくなった兵士の話なんて、つまらない」

 そうして、彼らは日常に回帰していく。
 窓から外を見ると、早くも大きなセミが飛んでいくのが見えた。
 これから燃えるような夏の暑さがくるのだと思うと、目の中で火花が散るような気がする。平城はそっと目を閉じた。
 真っ赤に燃え落ちた学び舎の断片が、自分の心の端をかすめて消えていくのが見えた。



20130522

平等、平等、と口うるさい人間に限って差別主義者であったりするもので、しかしだからといって、彼が悪いとは誰も言い切れない。
差別主義者の敵は平等主義者ではなく、実はまったく別種の差別主義者であったりします。
そんな感じでオンサ49話でした。

この話を書き始めたのは2011年。
これがEvernoteの中で「書きかけ」というタグをつけられたまま、二年も眠っていたという事実にけっこう驚いています。
もともとは「外伝」的な位置づけだったのですが、なんだかんだでシリーズ内におさまってしまいました。

音楽研究サークルに属している彼ら彼女らはまったくもって、「善人」とは程遠い性格をしていると思います。
その中でも啓太郎は特にねじまがっている人です。
そんなねじまがったコンプレックスだらけの彼と対峙するのは、コンプレックスのない完璧超人ではなく、やはり別のコンプレックスを抱え、同じように歪んでしまった誰かであるべきだと思うのでした。

宮藤くんのねじまがったダブルスタンダード&矛盾っぷりは、レギュラーキャラだとあまり実現できない感じなので楽しかったです。