cinders
放火は殺人よりも重い罪だと、昔、聞いた。
実際、どんな刑が課せられるかは知らない。
確かに、人が一人消えてなくなるよりも、建物ごと人がいなくなる方が喪失感は大きいのかもしれないとは思った。だから、罪もきっと重いのだろう。
もしもあゆみがいなかったら、この学校は今頃、火の海になっていたのだろうか。
今、自分と彼女がいるこの部室も、焼失していたのか。
まあ、中学生の話なんて、そもそもまじめに聞くべきものではないのかもしれない。
すべてが夢物語で、嘘で、宮藤だって平城の知っているまっとうな男で――
きっと、そうだ。
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一九九九年、七の月――というフレーズにピンとくる人間は、そろそろ少なくなってきているだろうか。
あの頃、平城は破滅を夢見ていた。ノストラダムスの大予言、それがいったいどのような形でこの世界を滅ぼしてくれるのか、楽しみで仕方なかった。一部の人間が理不尽に死ぬのならば一大事だしネタにはできないが、みんな滅ぶのであればそこまで不謹慎でもなかろう。いや、こういう思考回路自体が悪趣味か。そんなことをつらつらと考えていた。
しかし今。目の前に唐突につきつけられた破滅の可能性――宮藤彰二の放火未遂事件には、当たり前だが、まったくわくわくできない。できるはずもない。
その秘密を、自分だけが知っているというのも、ひどく心がざわつく。せめて、全学生が知っている事実だったなら、笑ってごまかせたかもしれない。
だが、現実はそうじゃない。このことはあゆみと自分しか知らない。この平和なモラトリアムが、何の前触れもなく終わっていたかもしれないということを、誰も知らない。
当然、サークルの日常に変化はない。唯一、このことを知っているあゆみにも変化はない。乱されているのは自分だけだ。今日は岡崎とふたりきりで部室にいるというすばらしいシチュエーションに出会っている最中だというのに、何一つ楽しくない。
「平城さん、どうしたのですか?」
あんなことがあっても、岡崎は変わらない。知らないのだから当たり前だし、不変こそが彼女の象徴だけれど、しかしこの環境が変わる可能性を知ってしまった平城には、彼女が変わらないことがひどくつらい。
「どうもしませんよ」
平城は努めて明るい声で答えつつ、こう付け加えた。
「今日は、他の先輩方は来ないんですね」
「そうですね、今日は水曜日だから。きっと、アニメで忙しいんですよ」
岡崎にそう言われて思い返してみると、水曜日にはこうしてふたりきりになることが多かったかもしれない。まったく意識していなかったが、貝瀬の好きな児童向けアニメの放映は水曜日だ。
「アニメかあ……」
自分は、今はそんな娯楽に興じていられる状態ではない。変わらない日常を生きる仲間が、ふと恨めしく思えてしまった。まったくもって、自分の思考はいつだって、卑しい。手に入らなかったものを羨むくせに、自分の手に入れたものは大切にしない。しかしそれが自分らしさでもあり、変わることはできない。改善したら、それはもはや平城啓太郎ではないのだ。コンプレックスの塊という個性を、身につけてしまったから。子供なら、そんな足かせは捨てて新しい自分になれると夢見てもいいだろう。黒歴史、とかいう便利な単語だってある。コンプレックスなんて捨て、黒歴史は忘れ、明るく快活な人間になったっていいだろう。
しかし、平城はもはやそんな風に自分の身を切って捨てられる年齢じゃない。この性格のまま二十歳を過ぎてしまったせいで、もはや黒歴史なんて言葉で切り捨てるのには重すぎる精神の淀みが、この身に宿っている。
「あの、先輩」
自分はこの放火未遂事件の情報を誰かと共有したかったのだと思う。自分の心のうちに秘めておくにはあまりにも重すぎるし現実的でない、この話を、誰かに伝えたかった。それだけだ。相手はだれだって良かった――彼女でなくても、きっと、よかった。ただ、彼女と秘密を共有するのは、確かに以前からの夢だったかもしれない。
「この学校が、突然なくなってしまっていたかもしれないとしたら――先輩は、どうしますか?」
「どういう意味なのか、わかりかねますけど。この学校が、明日になったら『なかったこと』になっていたら、跡形もなく消えてしまっていたら、というようなお話でしょうか」
平城の言う想定とは少しずれていたが、平城は頷いた。
「そうです」
「それはまた、ネガティブな上にファンタジックな想像ですね。わたしは、たぶんみなさんの家に行って、安否を確認します。そして学校ごと消えてしまったのではないのなら、安堵します。でも、もう二度とこうして会えないのかと思うと、同志を失ったような気持ちに、なるでしょうね」
まっとうな答えだった。平城の想像通りの、彼女らしい距離感だった。同志を失って、悲しい――けれど彼女はそれ以上の行動はしないんだろう。失われたものを悲しむことはしても、失われたものを取り戻すために何かをすることは、ないんだろう。根拠のない妄想だったが、それが彼女であるという気がした。
「……平城さん、なにかあったんですか」
ハッとする。いつのまにか、彼女は心配そうに平城のほうをじっと見て、いや、覗きこんですらいた。息が止まりそうになった。そんな風に見られたら。心臓が暴発しそうだ。
「あなたは、何の意図もなく、そんな負の夢物語を語る人では、ありませんよね」
その言葉で、カーッと顔が熱くなった。今まで、自分は彼女を見守っていると思っていた。彼女を近くで見て、知っている。そのことが誇りだった。誰よりも彼女を知っている、そう思っていた。でも。
彼女が自分をどう見ていたかを考えたことがなかった。
自分が彼女を見ていたのなら、
彼女が自分を見ていないはずないのに。
どうして自分だけが彼女をよく知っているなんて思ってしまったのか。
彼女が自分を知っていると、なぜ意識しようとしなかったのか。
この透き通ったガラスの瞳を持つ女性が――平城の本質を見抜いていないわけがないのに。
「あ……」
何か言わなければ、と思って口を開いたが、まぬけなうめき声のようなものしか漏れなかった。
「ぼくは、ぼく、は」
「……平城さん?」
一瞬、すべての真実をぶちまけてしまおうかと思ったが。
東坂あゆみの超能力について、起きなかった事件のことについて、話すことがはばかられた。
――否。自分が話したくなかったのは、むしろ宮藤彰二のことだろう。
だって、宮藤がこの学校に火をつけようとしたのは、平城がここにいるからではないのか。
彼とこの学校の間に、他の接点があるとは思えなかった。
音楽研究サークルが火の海になる原因を、
ここにいる自分が生み出したかもしれないなんてことを、言えるはずがない。
「あ、噂を聞いたんですよ。最近、不審者がうろついているって。そいつは、校舎に放火しようとしているって。他愛のない噂です」
さらりと嘘をついた。口にだすのは簡単だったが、あとから罪悪感が背中から覆いかぶさるようにして襲ってきた。今、自分は最愛の人に嘘をついたのだ。その実感が、重く重く、のしかかる。
「へえ……それは怖いですね。いったい、何のために放火なんてするんでしょう」
「犯罪者の考えることなんて、わかりませんからね」
本当のところ、宮藤の気持ちもはっきりとはわからなかった。破壊衝動に対しての共感はできても、情報が少なすぎて理解には至らない。彼が何を考えていたのかは知らない。あゆみに聞いたら教えてくれるかもしれないが、進んで聞きたくはない。岡崎は納得した風に頷いて、
「それで、学校が放火されて、次の日に灰になっていたら……そんなふうに思ったのですね」
「そう、そうです。くだらないセンチメンタリズムなんです、忘れて下さい」
「忘れませんよ。平城さん」
妙に強い口調で、彼女がそう言った。違和感があった。彼女がそんな言い方をするのは、珍しい。
「平城さん、なぜわたしにその話をしたのですか? きっと、他の先輩方のほうが、盛り上がる答えを返してくれたと思いますよ」
「なぜ……?」
なぜか、と聞かれたら、心の荷を下ろすついでに、彼女と自分だけの秘密がほしかったのかもしれないという答えが適切だろうか。秘密を共有するちょうどいい機会だから、と判断したのかもしれない。無意識でやっていたにしろ、やっぱり打算的な自分が、嫌になる。
「岡崎先輩なら、まじめに答えてくれると思ったからですよ」
すこし論点をずらして答えた。これは、嘘ではない。
「それは、買いかぶりというものですよ」
「え?」
予想外の答えだ。平城が戸惑いつつ彼女を見つめると、岡崎はどこか寂しそうに笑った。
「わたしは、まじめであったことなんて一度もない。いつだって利害でしか動いていない、そういう、汚い、人間なのですよ」
その悲しげな、どこか自虐的な様子は、平城の知る岡崎の態度とはまったく違っていた。
「先輩は汚くなんてない」
平城は、震える声で、思わず――叫んでしまっていた。
「ぼくは……先輩が、まるで澄んだ空気みたいに美しいから、そんな先輩が好きだから、ここにいるんだ」
叫んでしまってから、それはもはや秘めた思いの告白だと気づいた。
その言葉や思いに対し、岡崎はあまり驚いた様子ではなかった。そういうことは、言われ慣れているのかもしれない、と思うと少し腹がたった。彼女は、無表情のまま、平城を見つめて、こう問いかけた。
「平城さん。一言だけ、言ってもいいですか?」
「へ?」
不穏な空気が、口から肺に流れ込む。
嫌な予感がする、この先は聞かないほうがいい――そう思ったが、もちろんもう、遅かった。
「わたしは、一人の、生きた、人間ですよ。そのことを、わかっていますか?」
彼女の言葉は、まるで心でも読んだみたいに、的確に平城のまんなかに突き刺さった。
自分は今、あゆみと話をしていたのだったか、と一瞬錯覚するくらいに、鮮やかな論破。
彼女は人間だ。生きている。息をしている。そんなのは当たり前だ。見ればわかること。
でも。
自分は、彼女をどう認識していただろうか。
空気のように透明で。
理想のように、美しい。
そんな岡崎早苗のイメージが、平城の中には常にあった。
でも、それは、人間に用いるべき言語では、ない。
理想のように美しい――ありえない。
空気のように透明――馬鹿な。
理想も空気も目に見えない。
自分はそんな可視化できぬものを愛していたのかと、狂いそうになる。
結局、彼女を勝手に偶像にしていただけなのではないか。
自分の理想を、真っ白な彼女の上にペイントして――眺めていただけ。
自己満足に、浸りきっていただけ。
ブラウン管越しにアイドルを眺めているのと同じだ。
大学に入って、引きこもりから完全に脱したような気がしていた。
それにより、少しはマシになったとおもっていた自分は愚かだった。
自分は新たな殻を見つけただけではないか。
ぬるま湯に咲く理想という花には実態がなく、
その『美』なるものはただの妄想の産物だったと知る。
モラトリアムにありがちな、夢想による快楽を、貪り続けてここまで来た。
それを恋だと錯覚した。
その愚かさを、そばで見ていた彼女は、もう知っていた。
他の誰が知らなくても、ほかならぬ彼女は、知り得ていた。
「平城さん。あなたが、わたしを好きだと言ってくださることは嬉しいのですが……」
その後、彼女が何を言ったのか思い出せなかった。そもそも聞いていなかったのかもしれない。
何も答えられないまま、平城は黙って彼女を見返した。
もう、彼女は平城を見ていなかった。
その瞳が自分を捉えることは二度とないのかもしれない。
『どうか、一度だけでいいから、こっちを向いて。何かを言って。お願いだ』
その一言が言えない自分は、やはり昔通りの負け組だった。
++++
その日、彼は偶像崇拝をやめた。
自分の求めていた幸福は、実は幸福を模しただけの邪悪だと、ようやく気づいた。
だが、引き返すことは叶わない。
彼女に知られてしまった以上、もう今までのようにはいられない。
変わるということはこんなにも苦痛なのか。
もはや何も変わらなくていいとすら思ってしまう。
大事にしていた殻が壊れたせいだろうか、
弱いこころの奥のほうで、代わりとなる新しい殻をつくろうとしている音が聞こえた。
きっとまた自分は逃げるのだろう、
根拠もなくそんなふうに思った。
20130601
久々に不穏な感じになって来ましたが、オンサ50話でした。
長らく放置だった「平城啓太郎編」、ようやく動き出すかもしれません。