星の国
20XX年、宇宙の旅。
星闇を抜けると、そこは宇宙だった。
過程は省略するが、ぼくは大好きな女性と二人で、宇宙鉄道に乗り、月へと旅立つことに成功した。
空をとぶ蒸気機関車はスローモーションで地球へ帰って行き、ぼくたちは月に残された。
「ねえ、岡崎さん」
先輩、という呼称は使わなかった。もうここは学校でもなければ地球でもない。先輩なんて呼ぶ必要はない。ここには、ぼくらしかいない。
「なんですか、平城さん」
「爽快だったね、宇宙旅行ってやつは。まさか、科学がここまで進歩するだなんて、子供の頃には考えたこともなかった」
地球から脱出することに成功したぼくは、きっと晴れ晴れとした顔をしていたことと思う。
今となっては思い出すことすら無駄だが、地球って星は腐っていたと思う。つらいことばかり起きるし、ちょっとでもつらいことから目をそらすと、「現実を見ろ」なんて言われたりして。「教科書のP99を見ろ」なら納得もできるけれど、『現実』って何なんだ。そんな実態のない抽象物、見えるわけがないじゃないか。もっと具体的に言いやがれ。
しかしそんな地球上の流行語は、もはやぼくには関係ない。
科学は発達し、ぼくと岡崎早苗はふたりきり、宇宙へ飛ぶことができたのだから。
もう、ぼくに「現実を見ろ」なんて吐き捨てる馬鹿はいない。
学歴を自慢するやつも、恋人を見せびらかすやつも、いないのだ。
もちろん学校に放火しようとする頭のおかしい人間もいない。
自由になるってとても素敵なことだ。
「地球は青かった、って本当だったんですね」
「ああ、とても綺麗だ」
まるでキミみたいに、という陳腐な言葉は飲み込んでおくことにした。こういう、頭のなかには当たり前のように存在しているが、口に出してしまうと途端に煙たがられるようなセリフを、うまく口に出さずに処理するのが、ぼくはとても大事だと思っている。
「綺麗なものが、好きだった。ずっと昔から」
ぼくは、しみじみと、種明かしのように語りだす。
「キャンプの時に見上げた星空とか、初めて見た携帯電話の液晶の輝きとか、嫌なことがあった日の青空とか、そんな理由もなく綺麗なものが、好きだった。だから綺麗なものがほしいと思ったし、綺麗なものだけ食べて生きていきたいと思った」
自分が彼女を欲したのも、彼女は「綺麗なもの」だったからだろう。
世の中には汚いものがとても多く、それにまみれなければ生きてはいけない。けれど、本当はそんなものは見たくない。
綺麗なものだけ、欲しいものだけ、見たいものだけ。
『空気のように透明で』、『理想のように美しい』。
そんなフレーズで称される彼女は、自分が見たい彼女だけを抽出して、再構成した結果だったのだと思う。
一緒に宇宙までやってきてくれた、ここにいる彼女も――おそらくはそんな再構成の成果だ。
「お腹すきませんか、平城さん。ごはんにしましょう?」
彼女は、星屑でできたカップラーメンに、お湯を注ぎはじめる。
ラベルには「TARUHO社」と書かれている。
3分経過する間に、カップの中は光に満たされる。
二人で食事をするのは初めてであっただろうか。
星屑ラーメンはとても美味だ。星の光は、口の中でぱちぱちと音を立てながら、夢のようにとろけて消えていく。
食べ終わって息をつくと、その息の中から小さな流星がはじけて夜空に飛んでいった。
彼女とくすくすと笑いあう。
些細なことだけれど、とても満足だった。
やっぱりここに来てよかった。
地球という星を捨て、重力すらも捨て、こうして果てまでやってきて、よかった。
――しかしながら、このような幻想風景がいつまでも続くはずはない。
なぜなら、ぼくはずっと、目の前の風景を疑うことで自分を証明しつづけてきたからだ。
学校をやめたのも、周囲の人間たちにとっては不可解な行動だったかもしれないが……きっと、「疑ってしまった」からだ。
こんな勉強に意味はあるのか?
苦労して他人を蹴落として、なにか得られるのか?
そう思い始めてしまったら、もうみんなと同じような勉強なんてやってられない。
ぼくが高校で勉強して名門大学に合格した分だけ、
同じように勉強したどこかの誰かが、不合格になる。
そんなシステムが本当に正しいのかと……「疑った」。
そうして、ぼくは高校をやめた。
進学校で勉強して、有名大学に入学し、優良企業へと滑りこむ、そんな出世コースを自分から捨てた。
それによって家族に失望されたし、宮藤には逆恨みされたのかもしれない。少なくとも、ぼくにとっていいことは何もなかったと断言できる。
けれど、それでも、あのままあの学校に行っていればよかったとは、実は思わない。
ぼくは、逃げつづけてここまで来た。その生き方を後ろめたいとは思っていない。
嫌な人間関係を避け、勉強を避け、家族を避け、現実を避け、汚いものを避けた。
綺麗なものだけ、好きなものだけ、自分に都合のいいものだけ、心地いいことだけ、選んできた。
「それは間違いだ」なんて、言うやつがいるかもしれない。
そりゃあ、そいつがそう思いたいだけだ。
きっとそいつは、汚いものを我慢して生きてきたから、ぼくのことを許せないんだろう。
ただの嫉妬だ。
ぼくはぼく自身を間違いだなんて思っちゃいない。
好き好んで汚いものに触れたがる人間なんて、いない。
逃げて、何が悪い。
現実を見なくて、何が悪い。
これは、ぼくの生き方だ。
ぼくは生きたいように生きる。
常に何かを疑い、何かから逃げ、そうして生き延びる。
今も、『現実』とやらを見るためにこういうふうに考えているのではない。
ただ、疑うべきだと思うものを疑っているだけだ。
ここでぼくが疑っているのは、
今、自分がいる世界そのものだった。
疑う必要なんてない。
疑わなければ、たぶん、ずっとここにいられる。
でも、ぼくは疑う。
それが自分の生き方だからだ。
少し息を吸って、ぼくは隣にいる彼女にこう問うた。
「ここにいるのは、本当にぼくたちだけなのかな。だって、おかしいじゃないか。地球から月へ飛ぶための技術を、ぼくらみたいな一般人が独占できるなんて。不自然だよ。星屑のラーメンは確かにおいしいけれど、こんな食べ物があるはずない。こんなありえない世界を創りだしたやつは、極上の馬鹿だ」
そのとき、微笑む彼女の口から、こういう言葉が発せられた気がした。
――『そうだ、現実を見ろ』。
もちろん、実際には彼女は何も言っていない。幻聴だ。
しかしこのとき、きっとぼくは初めて『現実』とやらの姿を見たのだと思う。誰かに強制されたわけではない。自分から、それを見ようと思った。
ぼくの隣で微笑んでいた岡崎早苗――理想の結晶、女神、天使、どんな言葉でも現し尽くせない幻像の彼女は、もうそこにいなかった。
クレーターの合間、月世界の闇の中にたたずんでいたのは、もっと幼い、中学生ほどの少女だった。
「啓太郎、」
と彼女はぼくに語りかけた。なんだかその名前は久々に聞くものであるような気がする。岡崎早苗はそんな呼び方でぼくを呼ぶことはない。
「宇宙旅行の邪魔をして申し訳ないとは思うんだけれど、少しだけお話してもいい?」
「地球人と話すことなんて、もう何もないよ」
そう返す自分の声はなんだか冷淡だった。
少女は闇の中からすっと一歩踏み出して、実体になった。
「あのさ、この間、約束したよね。覚えてる?」
「さあ」
「わたしはあなたの力になる。その代わり、あなたもわたしの力になってくれる。そう、言ったよね」
そういえば地球にいた頃、この子とそんな約束をしたかもしれない。遠い昔のように思えるが、実はそう昔のことでもないのかもしれない。ぼくは慎重に返答する。
「確かに、約束したね。でも、今のぼくがキミに助けを求めているなんて思うんだったら、そいつは間違いだ。わざわざこんなところまで来てもらっておいて非常に申し訳ないけれど、ぼくは地球に帰りたいなんて思っちゃいないんだよ」
この世界の存在を疑ってはいるが、という一節をぼくは飲み込む。
「いや、そういう意味で、啓太郎の邪魔をするつもりはないの。啓太郎が何も言わないうちから『啓太郎をたすけないと』って言い出すみたいな、そういう思いあがった親切心は捨てたいと思ってるところだから。今回は啓太郎を助けるために来たんじゃない」
少女は、目を伏せて――物憂げに続きの言葉を紡いた。
「わたしを、助けてほしい。これは、啓太郎にしか頼めない」
はっとした。
そう、地球にいた頃、放火事件のことで苦しんでいたのは、ぼくだけではない。
あのことを知っているのは、この世で二人。
ぼくがいなくなったら、あのことを知るのは彼女だけだ。それは幼い少女にとって、どれだけ重い秘密だろうか。
この子はきっと、ぼくの気持ちをすべて知っていて、あえてこの言葉を言ったのだろう。
もし、「啓太郎を助けるために来た」と言われていたら、ぼくは耳を貸さなかったはずだ。
彼女のやり方は、ある意味では人間関係における禁じ手であろう。でも、ぼくは嬉しかった。
綺麗なものがほしい、と願った。
そして、こうも考えていた。
世界を救うためにロボットに乗るなんて、まっぴらだと。
ロボットに乗る機会があるなら、世界を壊すに決まっている。
でも、それはロボットに乗って戦う確固たる動機を持たないぼくだからこそ、持ち得た思考だったのではないか?
もしもぼくに、
「世界を救う」なんて曖昧模糊とした理由でなく、
大切な家族を守る、
あるいは傷ついた仲間を守る、
または泣いている少女を救う、
そんな具体的な理由があったら。
きっと自分は、戦うことができるのではないか。
「現実を見ろ」という言葉は、現実的ではないと思った。
なぜなら、具体性がないから。
「世界を守れ」という架空の命令には、従えないと思った。
自分には世界への愛着はなく、「世界」なんて概念は抽象でしかないから。
「綺麗な彼女」も、「それに焦がれる自分」も、考えてみれば具体的ではなかった。
ぼくはずっと、目に見える、手に掴める、足で踏みしめられる、この肉体と無関係ではない現実がほしかった。
でも、『現実』と向き合ったことは今までに一度もない。
怖くて、逃げて、逃げて、逃げて、ここまで来たから。
「現実を見ろ」という言葉に逆らったのは、自分が『現実』と向きあいたかったからでもあり、逃げたかったからでもある。
今まで。ぼくの手に入れた「きれいなもの」とは、「抽象」だった。
「抽象」とは、ぼくにとって現実の代替品だ。
現実が怖ければ怖いほど、ぼくは「抽象」を欲した。
逃げれば逃げるほど、綺麗な「抽象」がほしくなった。
そうして、綺麗なものを追い求めて、とうとう月まで来てしまった。
本当は、代替品ではなく、ちゃんとした本物の現実が欲しかった。
綺麗で、なおかつ現実で、抽象的でない、具体的な生きる価値が、欲しかった。
だから。
今、自分の目の前につきつけられた二択。
「地球に戻って少女を助けるか」。
「少女は放っておいて、このまま月で過ごすか」。
いつものぼくならば、きっと月に残ったと思う。
逃げて、疑って、切り捨てて。
最後には自分一人しか残らないような、そんな結末を迎えたと思う。
でも、今のぼくは、少女の――東坂あゆみの、手を握った。
月の世界を捨て、地球へ戻ろうと思った。
その瞬間、ぼくの体に重力が戻ってきた。
ぱらぱらと、作られた舞台装置が剥がれ落ちた。
絵画のような、映画のような、月の世界が終わる。
無重力の中で人間は生きられない。
そんな当たり前の事実を、ぼくはようやく踏みしめる。
「おかえり、啓太郎」
空の色は淡い紫色だった。
夕暮れの部室の中で、あゆみが笑っていた。他の部員たちはいなかった。
この風景は、久々に見たような気がする。
右手でVサインをつくりつつ、彼女ははにかむように言う。
「呼び戻してごめんなさい。もしかしたら、とてつもないおじゃま虫だったかもね」
「……いや、そんなことはない」
きっとあゆみはもう知っている。
あゆみがいなければ、「平城啓太郎」はもうこの部室には戻ってこなかったかもしれないことを。
ぼくが新たに装備した「殻」を、破ったのはあゆみだった。
その「殻」は、稚拙な妄想でできた月世界旅行の幻惑だ。
本物の彼女とは似ても似つかない、人形のような代替品の恋人との、めくるめく――
「くだらない妄想は、そろそろ終わりにしたい。嫌なことから逃げるのはぼくの生き方だから今更やめられないけど、今は逃げないでここにいるよ。そう、ぼく自身が決めたんだ」
少しだけ姿勢を正してぼくがそう言うと、少女は黙ってぼくにウインクをした。
重力はぼくの体には重すぎるけれど、その重さも悪くはないと、ふと思った。
夏の夕暮れはまっくらな夜へ落ちようとしている。
まるで空を焼き払ったあとにできる灰のように、徐々に、グレーになり、そして黒へ。
ああ、これが現実なのだ。
ずっと見つからないと思っていたけれど、実は単純にして明快な答えは、もうすぐ見つかりそうな気がした。
20130624
今回も例に漏れず想定外の事態が多発していますが、オンサ51話は地球の外っぽいどこかからお届けしました。
この続きは、おそらく地球から。