- Fragments of the end -

 わたし、貝瀬理恵にとって、大学生として迎えた最後の夏は、つまらない夏だった。
 というのも、今夏の音楽研究サークルは実質的に活動休止状態だったせいだ。
 わたしは、単位の数え間違いによる「五年生」という不名誉な肩書きにふさわしく、就職活動以外は非常に暇だったのだが、ほかのメンバーはそろって用事があった。
 ここで念のため、メンバーの学年と、現在の状況を振り返ってみよう。

 松浦と青木は、そこそこ優秀な成績ゆえ、今年の春に院の修士課程に入った。たまたま同じ大学の院だったので、まだ音楽研究サークルに在籍中だ。ただし、遊んでいても単位がとれた学部時代とは違い、院のカリキュラムは厳しいらしい。去年までに比べると、活動への参加はかなり減っていた。
 六月に入って、松浦は教職課程のための実習へ行ってしまった。青木は春からずっと院の課題や学会発表に追われて、サークルの活動までは頭がまわらないという。オンサのサークル活動以外の、バンド活動や音源の作成なども、彼らがいなくてはなりたたない。必然的にこちらも活動休止というていである。
 岡崎は四年生なので、学士論文を書いている。彼女は非常にまじめなので、学部生だからといって手を抜いてはいない。これまた、サークルどころではない状態である。
 唯一、用事が特になさそうなのは二年生の平城だったが、わたしは彼とはあまり親しくなく、連絡先も知らない。夏休みに部室に集合しようにも、号令がかけられない。彼やあゆみはひっそりと部室に来ているのかもしれない。ただ、わたしは彼らと鉢合わせても、うまく接することができるか、自信がないのだった。

 この夏にようやく気づいたのだが、このサークルにおいて、催し物を計画するのはいつだって、松浦か青木かわたしだった。
 岡崎と平城は基本的に受け身であり、自分から何かをしたいとはほとんど言わない。松浦と青木が忙しい以上、わたしが言い出さなければ具体的な催しは行われない。ただ、わたしは、同属でない彼らふたりに対しては弱腰になってしまうところがあって、新しい企画などを言い出してもいいのか悩んでしまっていた。
 一言で言うのならば、もはや今年、音楽研究サークルは終わりのただなかにあった。
 新しいメンバーをひとりしか迎えないまま、五年目まで存続しているという事実だけで、ある意味奇跡なのだが、その奇跡もそろそろ期限切れといったところだろう。
 わたしは、秋にはこの学校からいなくなる。卒業論文はすでに提出済みで、残りの必要な単位を半期で揃え、九月に卒業する予定だ。
 来年の春には、岡崎が卒業するだろう。その次の春には、松浦と青木が。
 その間に新しいメンバーが入ってくれば存続は可能だ。が、現在のメンバーが積極的に新入生を集めるとは、あまり思えなかった。そして、存続するかどうかは、これから卒業するわたしにはあまり関係のないことだった。

 大学生活は、四年間しかない。中学や高校の三年間よりはすこし長いけれど、小学校の六年間に比べたら、ずっと短い。
 大学院に進学したとしても、六年ほど。さほど長くはない。
 わたしはずっと、いつまででもこのサークルで楽しく過ごせるような気がしていた。永遠のような心地よさが、この場所にはあった。でも、そんな現象は、この大学には絶対に存在しない。
 大学も、サークルも、一時的だからこそ、夢のように楽しいのだから。

 
 +++


 それは、八月十八日のことだったと思う。まだ蒸し暑さの残る日に、サークル棟へ向かった。
 そこには、松浦と平城がいた。
「先輩、こんにちは。お久しぶりです」
「やあ、貝瀬。暑さにやられてるのかと思ったよ」
礼儀正しい挨拶をする平城と、柔和な笑みを浮かべる松浦。ふたりはどうやら、この夏休みに部室に定期的に訪れていたらしい。「活動休止」と思っていたのは、実はわたしひとりだけなのかもしれないと思うと、すこしヒヤリとする。
わたしは二人の方を見ながら、こう言った。
「松浦、あんた、変わったね」
隣にいる平城も、前とはすこし印象が違うような気がした。が、松浦の変化はそれよりも劇的だった。
平城と同じくらいの、長髪とは言わないまでもそこそこに伸びた黒髪。教職関連の用事でもあったのだろうか、すこし着崩してはいるが、彼にしては珍しく整ったスーツ。人見知りだった一年生の頃とは比べものにならない、他人を思いやった目つき、口調。彼はもう大人だ、とわたしは直感した。今までだって年齢的には大人だっただろうが、精神的にはかなり幼い部分があった。その幼い部分というものが、この夏のあいだに、消えていた。
「ああ、これはウィッグ。教職実習のために、あの髪型はやめにしたんだ。今は伸ばしてる途中」
髪型のみを指して言ったと思ったのか、彼は指で髪に触れつつ、そう答えた。子どもたちにバカにされちゃあかなわないからね、と苦笑しながら。
「もう、前の髪型には戻さないの?」
今までさんざん彼の髪型を茶化してきたというのに、不思議と、髪を伸ばしている彼を茶化そうとは思わなかった。そういう子供の遊びのような関係は、この彼には似つかわしくない。そんな気がする。
松浦は照れたように苦笑する。
「そうだな、あれは大学デビューにはりきって、やっちまったやつだから。若気の至りさ」
「今だってまだ、じゅうぶん若いじゃない」
と言ってみたものの、そういう気持ちでいられないことは、もうわかっていた。モラトリアムの終焉。もうすぐ卒業が近い。就職、論文、最終試験。学生気分でいられるお遊び期間は、もうかなり前に終わっていた。わたしたちは、口に出さないだけで、それに気づいている。唯一、平城とあゆみだけは気づいていないかもしれないが。松浦の変化は、その終焉を象徴するもっとも具体的なものだ。
「平城くんは、」
と口に出してみて、自分がどんなふうに平城のことを呼んでいたか、思い出せないな、とわたしは思った。
「この夏は、何してた? 部室には来た?」
わたしの問いかけに、平城は複雑そうな顔をしながら答えた。
「そうですね。部室には、何度か来ました。あゆみがいたり、松浦先輩がいたり、誰もいなかったり。ぼくはひとりでいるのが好きなので、誰もいなくても、読書しに来たりしていました」
平城はよどみなく答えた。あまりにもすらすらと答えるので、逆になにか隠しているのではないかと邪推してしまう。特に根拠はないため、こういった思考は彼に失礼なのだが。常日頃から、あまり正直に自分の気持ちを述べているとは思えない男である。
「そっか。みんな忙しそうだから、来ないかと思った」
わたしのこの発言に対しては、平城ではなく松浦が答える。
「ぼくは、おまえや青木が来るのを待ってたんだけどな」
松浦はすこし残念そうにしていた。彼もまた、平城と同じく、この部室で本でも読んでいたのだろう。
「ぼくの教育実習は六月で終わったから、八月くらいはみんなで遊べるかと思ったんだけど」
まだ八月は終わっていない。が、これから新学期までの期間にみんなで集まろうとは、彼は言わなかった。みな、そういう気分ではない、ということなのだろう。誰もが、この終わりに近い気分を共有していて、なんとなく、遊んでいる場合ではないと思ってしまうのだ。さんざんにわたしたちを苦しめていた猛暑はいつのまにかどこかへ去り、この学校には秋の空気が漂っている。部室から見た紫色の空のなかを、鮮やかな色をしたトンボが、気まずそうに横切るのが見えた気がした。


+++


 この世界に存在するものは、みんな、一時的にそこに置いてあるだけだ。いつかは別の場所へ移し替えなければならない。そのことを、この数年間、ずっと忘れていたように思う。
 卒業を目前に、ようやく、学校とは入学したらいずれ卒業しなければならないものであるということを、思い出す。
 今はもう八月の終わりだ。九月になれば、卒業式がくる。三月の卒業式に比べると、おそらくはかなり小さな規模のものになるだろう。それが終わったら、わたしは、もう学生ではなくなる。

 この日、部室で平城と松浦に出くわした後、わたしはひとり、静かに帰路についた。濃い紫色の宵闇を内包した夜は、涼やかに更けてゆく。夏のあいだに顔を合わせなかった松浦の様子が劇的に変化していたことを思い出しながら、わたしは、このままではいけないと思った。大学生活は残り約一ヶ月――そのあいだに、わたしは悔いの生まれないような生活をおくるべきだ。これまで、まるで時間や金に終わりがないかのように怠惰に消費しつづけてきたモラトリアム期間のことを、考えなおさなくてはならない。松浦、青木、岡崎、そして平城、あゆみ、碧梧。彼らと、もう一度話をしなくてはと、妙に気が急く。特に目的があるわけでもないのだが、行動をしなくてはならないという気がする。

 もちろん、どれだけ慌てて実行に移したとしても、この行為は無駄である。というか、大学のサークル活動というものは、基本的に八割以上が無駄で成り立っている。部室で繰り広げられる談話やゲーム。文化祭の出し物。仲違い。創作。どれだけ楽しかったとしても、それらは人生に絶対に必要なパーツではない。なくたって立派に生きていけるだろうし、もっと有効な時間の使い方はたくさんある。ただ、わたしはそれらの無駄な時間を愛しているがゆえに、これから、その領域を、すこしだけ自己満足のために拡張しようというだけだ。

 八月十八日の深夜。わたしは涼しい夜の空気を吸い込みながら、考えていた。この四年間と数ヶ月は本当に短かった。流星のように一瞬で消え、願い事をこめる時間すらないような、うつくしいゆめまぼろしの風景。このまま放っておけば、それは蜃気楼のごとく、なかったことになってしまうような気がする。まったくもって大げさなセンチメント。だが、わたしは、このまぼろしを少しだけ心に残しておきたくて、翌朝から、音楽研究サークルの部室へと足を運ぶことになる。


20140903


「放火未遂事件編」が終了したので、新しいエピソードの幕開けといったところです。
以下、読み飛ばしても特に問題のないあとがきです。


コミュニティとは、たいていの場合、特に大きなきっかけがなくてもゆるやかに崩落していくものであり、終わりの前兆を感じるころにはすでに終わっていたりします。今回の貝瀬が感じ取ったのはそうした「終わりの前兆」です。

オンサにおいて、卒業や終わりを描くかどうかというのは、シリーズを始めた頃からずっと悩みの種で、「あくまでもモラトリアムの話なのだから、学校を卒業する必要はない」とも思っていました。
が、最終的に、少なくとも貝瀬に関しては、卒業を見届けようという方向に落ち着きました。
ということで、八月の終わりから、九月の卒業式までの短い期間の貝瀬を主人公にした「最後の夏編」をしばらくお送りします。