my friend



 わたしが部室で松浦と会った翌日、八月十九日。
 学校へ向かう前に、ふと行こうと思い立った場所があった。
 友人から勧められた、小規模な同人誌即売会である。
 ネットでもほとんど宣伝や評判を見かけず、友人に言われるまで、その場所にイベント会場があることも知らなかった。
 大学から電車で二十分ほどの、目立たない駅のそばだ。
 
 友人曰く、同人誌即売会という名はついているものの、同人誌以外のものを売ってもよいとされているイベントだという。大半を占めているのはオリジナルの創作同人誌、その次に多いのはいわゆる同人CDと呼ばれる音楽やドラマCDの類。ハンドメイドのアクセサリーを売っているサークルもあるらしい。
 会場の入口では、入場券として、五百円のパンフレットが売られていた。
 それを買って中へ入ると、こじんまりとした会場のなかで、サークルの机が円状に並べられていた。コミックマーケットのような大規模なイベントのにぎわいとくらべてしまうと寂しいものに見えるが、小規模イベントとしては、まずまずの客入りだと思う。
 創作小説の同人誌を数冊、同人ノベルゲームのロムを一枚買って、アクセサリーを売っているブースへとやって来た。そういえば、即売会でアクセサリーをゆっくりと見ることはあまりない。わたしのよく行くイベントでは、グッズを売るサークルと同人誌を売るサークルはかなり離れた場所に配置されており、同人誌を中心に買い集めていると、グッズの棟まで行く暇がないのだ。一度、グッズ棟まで行ったことはあるが、時間が遅かったせいでほとんどが売り切れていた、ということもあった。
 今日はかなり時間に余裕がある。はりきってハンドメイドアクセサリーを見ることができるだろうと思うと、胸が躍る。

「どうぞ、ゆっくり見ていってくださいね」
やわらかなサークル主の声を受けて、わたしはアクセサリーを注視していく。スプーンの形状をしたレジンアクセサリーが、このサークルの目玉であるらしい。スプーンの先にはジャムか紅茶をイメージしているのか、透き通った赤色やピンク色のレジンがおさまっていて、宝石のように輝いている。わたしはアクセサリーに詳しくないが、とても出来がいいものに見える。非常にかわいらしく、わくわくした気分になった。他の参加者も同じように思ったらしく、もう半分以上が売れてしまっていた。
「これ、ひとつください」
と言って、わたしは赤いレジンのついた金色の匙を指さした。
「はい、袋に入れますから、すこし待っていてくださいね」
顔をあげて、わたしは、あ、と声を出した。
スプーンのアクセサリーを売るサークル主は、わたしのよく知っている女性、岡崎早苗、その人であった。

「気づいているのに無視をされているのかと、一瞬、戸惑いました」
と岡崎は苦笑いで応じたが、わたしはアクセサリーを受け取りつつ、驚いていた。
 彼女がこんなところにいるはずがない、という先入観があったからだ。
 音楽研究サークルにおいて、岡崎早苗とは、「まっとうな非オタク」の象徴だった。
 オタクと呼ばれる人種の一部は、オタクでない人間に対して厳しいことがままある。特に、「リア充」と呼ばれるものに対しては獰猛にすらなっている。「クリスマスを中止せよ」、「リア充は爆発せよ」など、彼らが当然のように口にする無自覚な暴力的語彙は、時に争いの火種になりうるだろう。たとえそれが、仲間内の冗談の一環だったとしても。

 鮮やかに染めた髪、誰とでもすらすらと流暢に話すスキル、そして平城啓太郎を一目惚れに追い込んだ、美貌と魅力。
 岡崎は、「リア充」と呼ばれるにふさわしい素質の持ち主である。もっとも、恋人はいなかったが。
 ただ、わたしとしては、彼女をそういうふうな呼び名で呼びたくはない。
 あくまでも、岡崎は岡崎であり――「リア充」だとか「非オタク」だとか、そういう概念的なものに帰結させたくなかった。

 しかし、やはり、彼女はわたしたちという団体の中では異質ではあった。それは「リア充」だからというよりも、肯定的な意味で「オタクでないから」だ。オタクというのは視野狭窄である。少なくとも、わたし、青木、松浦の三名はそうだ。だから、岡崎という「オタクでない」人間が冷静な判断をすることで、視野を狭くしすぎない活動ができると思った。
 それゆえに、こんなところに彼女がいるというのは、意外なのだった。
 それも、一般参加者ではなく、サークル参加者として。

 思わず、苦笑する。もう卒業するというのに、この人とは別れるというのに、わたしは、後輩のことなんて、たいして理解してはいなかったのだとわかったからだ。
 大学の人間関係というのは、ひどく希薄なものであると思う。人間関係なんてのはみんなそんなものなのかもしれないが、多数の人間が、一箇所に集まり、広く浅く交際するなかで、一人ひとりと一緒に過ごす時間はごくごく短いものだ。サークル、大教室での講義、食堂、研究室、放課後――そのすべてに共通する知人などいない。細切れのような時間をすこしずつ共有しながら、わたしたちは広く浅い人間関係を、四年間つづける。
 たったの四年間。そのなかで、本当に理解し合える相手がどれほどいるだろう。

「貝瀬先輩、どうかしましたか?」
岡崎は相変わらず流暢に話す。
「こんなところにいるなんて、意外だと思って」
わたしが本心を吐露すると、彼女は寂しげに笑って、こう言った。
「わたしも、みなさんのような趣味を見つけたということかもしれません。ちょっと、考えたいことがあったので、手芸を始めたんです。何か作っていると、落ち着いて考えごとができるから」
「考えたいこと?」
「ああ、その『考えたいこと』というのは、手芸には無関係なことなんですけどね」
すこし言葉を濁すところからして、どうやらわたしには言いたくないことらしい。
なんとなく予想ができるような気もするが、それ以上は詮索しないでおいた。
「わたし、今までみなさんを、遠くから眺めていたかもしれません。でも、手芸を始めてから、ちょっとだけ近づけた気がするんです。わかったこともありますし」
「わかったこと?」
「趣味の世界は、孤独ですね。どれだけ仲間がいたとしても、最後には孤独な世界で手さぐりしなくてはいけません。そうは思いませんか?」
わたしは、一瞬、否定しようかと思った。趣味は、孤独で寂しいものなんかではなく、仲間と一緒に、楽しめるものだと、言いたかった。
しかし、よくよく考えると、やはり彼女の言うとおりだ。
趣味とは孤独。仲間に同調するために趣味を楽しむようになってしまったら、つまらない。
友だちが薦めてくれた漫画だから読まなくてはいけないとか、友だちが褒めているアニメだから褒めなくてはいけないとか、そんなことを考え始めたら、もう楽しくはなくなってしまう。あくまでも、中心で孤独に楽しむ自分が確立されているからこそ、その周辺にいる友人たちとも対等に渡り合えるのだ。
無趣味だからこそ他人のフォローが得意だった彼女が、そんなことを言うなんて、これまた意外で、わたしは打ちひしがれるような思いだった。
「岡崎さん、変わったね」
ぽつりとそう言いつつ、頭のなかでは別の人のことを考えていた。
変わったのは、岡崎だけではない。
髪を伸ばし始めた松浦、どこか大人びた平城。
みんな、変わった。
もしかすると、わたし自身も。

「貝瀬先輩、もうすぐ卒業してしまうんですよね」

 岡崎が、急に寂しそうな顔で言ったので、わたしははっとした。
 もう彼女と会うことは、ほとんどないだろう。
 おそらく、多くても、あと数回。
 今が八月の下旬で、卒業が九月……もはや、こうして一対一で話す機会は、これが最後かもしれない。
 言いたいことは言っておかなくてはいけない。
 自分の背後に列ができていないかどうか、すこし気にかかったが、わたしはこう言った。

「わたしたち、友だちになれたかな?」

 それは不適切な問いかけだったかもしれない。
 岡崎は、不敵に笑みながら、こう返した。
「わたしなら、友だちにそんなことは聞きません。ずっと前から、お友だちだと、思っていますよ」
 それを聞いて、彼女にこう質問してよかったと思った。

「お買い上げありがとうございます、先輩」
 まだ即売会には慣れていないのだろう、ぎこちない口調で彼女はそう言った。
「このアクセサリー、大事にするから」
 彼女が自分の友だちだから買ったのではない、本当にこれが気に入ったから買ったのだ、と主張したくなったが、それは逆に失礼だと思ったので、黙っておいた。我ながら発想がせせこましい。
「ええ。わたしも今日という日を、大事にします」
 大仰で古めかしいその言い方で、わたしはドロップを配り歩く岡崎の姿を思い出した。
 リア充だとか、非オタクだとか、そんなレッテルを越えて。
 岡崎早苗と、わかりあえた気がした。


+++


 ――岡崎早苗は、いつも自転車で学校へと通っていた。
 岡崎の自転車はどこにでもあるありきたりなフォルムで、パッと見ただけでは、自転車の群れのなかに埋もれてしまう。
 それゆえ彼女は、自転車を停めるときは、赤いロードバイクや、痛車などの周囲にわざと停めるようにしていた。
 非常に発見しやすいのだが、当然、その目立つ自転車の持ち主が先に帰ってしまうと、もう自分の自転車がどこにあるのかわからなくなってしまう。
 特徴がなくて見つからない自転車は、まるで大衆に埋もれる自分のようだと、岡崎は思った。
 個性がないから、誰の目にもとまらない。
 輝かしい誰かの隣でしか、自分を主張できない。
 岡崎は、そのような人間だと自分のことを評していた。

 音楽研究サークルのメンバーを初めて見たとき、彼女は思った。
 彼らは、輝いている。個性的だ。自分にはないものを持っている。
 だから、その隣にいたいと願った。
 彼らにしてみれば、岡崎のほうがよほど個性的だったのだということには、後から気づいた。
 とても不思議だったが、心地良いすれ違いだと感じた。
 数年経った今は、彼らのおかげで、自分は新たなものを手に入れたと思う。
 アクセサリーを買っていった貝瀬の後ろ姿を見ながら、彼女のサークルに入ってよかったと、岡崎は考えていた。


20141205