【 海と風の幽霊 】

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夕方になった時,舟は海の真ん中にあり,彼はひとりで陸にいた。風が彼らに逆らっているために,彼らがこぎ悩んでいるのを見ると,夜の第四時ごろ,海の上を歩いて彼らに近づき,そのそばを通り過ぎようとした。しかし彼らは,彼が海の上を歩いているのを見て,幽霊だと思い,叫び声を上げた。というのは,みんなが彼を目にして,動転したからである。しかし,彼はすぐに彼らに語りかけ,彼らに言った,「しっかりしなさい。これはわたしだ! 恐れることはない」。

 『マルコによる福音書』より


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 海から吹いてくる風は、いつだって死んだ色をしている。
 疲れた目をした彼は、そう云っていた。
 どこかネガティブな彼のことは苦手だった。が、その気持ちはわからなくもない。
 彼の名前は平城といって、高校をやめて、今はニートだと云っていた。

 平城は、よくこの海辺にやってきて、散歩をしていた。
 わたしは、彼よりも先にこのスポットを見つけ、根城のようにしていたのだけれど、彼がやってきてからは、彼とふたりで話すことが増えた。彼のことが気に入っていたわけではない。単に、この場所を譲りたくなかっただけ。
 白い貝殻を拾いながら、彼の話を聞いた。

 水のある場所には霊が集まるという話があるけれど、一般家庭の台所や洗面所で人が死んだわけではあるまい。だが、同じ水場でも、海では、確実に命が失われていく。人は溺れ、鮫に食べられ、船は難破する……何十年何百年という昔から、ずっとそうなのだ。こんなに死のあふれる場所が他にあるだろうか。もしも水場に幽霊の怨念があふれるのだとするならば、より多くの死者が沈んでいる海がこんなに静かなのは、不自然だ。――云々。

 平城は、そうやって益体もない意見を主張しては、海に向かって、バカヤローだのチキショウメだのと叫ぶ。
 それを見て、恥ずかしいからやめてほしいなとわたしは思った。

「その貝殻も、死んだ貝の成れの果てじゃないか」

 と、演説を終えた彼は、こちらを向いて云うのである。
 わたしは貝殻を集めるのが趣味だったので、気分を害した。

「あなただって、死んだような目をしてるじゃない。学校にも行かずに、こんなところで現実逃避して。死んだ貝のほうがどれほどましだと思う?」

 罵倒された平城は、両手を挙げて降参の意を示した。
 彼は諦めるのが早い。言い返すことなんていくらでもできるのに、すぐ白旗をあげる。

「そうだな、貝はちゃんと生きてたんだからな。おれは生きてない」
「生きてないなんて、そこまでは云ってないわ」
わたしは、彼の傷ついた目にうろたえた。そのまま身投げなどされてはたまらない。このデリケートな男は、身投げのために海辺をうろうろしているのではないかと、内心、気が気でない。
「海から吹いてくる風は、いつだって死んだ色をしてるんだ。それを見ると、自分の色に似ているから、安心する」
平城は、何も持っていない手で、たばこをくゆらすようなしぐさをして、こう付け加えた。
「おれは、ばかなんだよ」
わたしは、力強く頷いた。
「ええ、ばかみたいね。そんなあなたに付き合っているわたしも、愚かだわ」
「そうだな、きみはおれと違って、本当に死んでいるんだからな」
「えっ?」

 その言葉が大切な真実を言い当てたような気がして、はっとした。
 時折、平城という男はもっともらしいことを云う。
 だが、それがなぜもっともらしいのか、そのからくりももうわかっている。
 彼の云うことは、何の中身もないからこそ、もっともらしく聞こえるのだ。

「きみは水場に寄ってきた幽霊なんだろう。貝殻は、自分と同じ抜け殻みたいで、安心するんだろう。この場所にいるのは、この世に未練があるからだろう。違うか?」

 と云って、彼はエアたばこのけむりを、わたしのほうへ向ける。非常に行儀が悪い。
 わたしは、そんな彼の動作に、愛着を覚えているような気がした。

「他人を幽霊扱いなんて、失礼よ、あなた」
「だって、こんなおれの話に付き合ってくれる女の子なんて、幽霊くらいしかいないだろうから」

 どこまでも卑屈な彼のほうを、まっすぐに見た。
 彼はすこしだけ狼狽したようだった。
 わたしは貝殻をパイプのようにして、存在しないけむりで、彼をくるくるとまこうとした。

「じゃあ、幽霊でもいいわ。人気のない海に集まっているのは、いつだって幽霊ばかり。あなたもわたしも、幽霊なんだわ」
「いいね、おれは幽霊になりたい。海に漂って、人を脅かしてやるんだ」

 あはは、とわたしは生きている人間の声で笑った。

「幽霊はね、人を脅かしたりしないわ。風のように、けむりのように、空気中を漂っているだけ。砂浜でさまよっているだけ。もしかすると、時には、気まぐれで親切にしてくれるかもしれない。海の上を歩くMessiahみたいに」
「きみは、幽霊事情に詳しすぎるね」

 やっぱり幽霊なんじゃないか、と彼が云うので、とびきりの笑顔で頷いておいた。
 わたしが幽霊なのかどうか、決めるのはわたしではない。
 わたしはいつだって、幽霊の気持ちでいる。

 海から吹いてきた風は、彼とわたしの周囲を困ったようにまわって、海へと帰っていった気がした。きっと、この風は、本物の幽霊だったのだろう。偽物の幽霊がふたりもいるものだから、怖気づいてしまったのだ。



20141211


大学に入る前の平城啓太郎と、名もない貝殻好きの少女の交流。
平城さんはたぶん、年下の女の子と気が合うメンタルをしている気がするな、と思いつつ。

冒頭の引用は、「電網聖書(http://www.cozoh.org/denmo/)」さまよりさせていただきました。
また、ネタ出しの段階で「即興小説トレーニング(http://sokkyo-shosetsu.com/)」を利用させていただきました。お題は「灰色の海風」。

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