片岡碧梧は、古びた遊園地の入場ゲートの前でぼんやりと立ち尽くしていた。
今日は二月十四日。
世間は何かと騒がしいが、碧梧の心はいつもどおり、薄いもやがかかっているようだった。
彼は、東坂あゆみに呼び出されて、ここにいる。彼女とは一週間に一度ほど会って、他愛ない会話をしたりする。
碧梧が自殺未遂をしたあの日から、いつのまにか一年近くも経過していた。その間、碧梧の心は案外静かだった。薄いもやのようなものは晴れなかったが、これまでに比べれば、かなり良い状態になったと自負している。
「碧梧!」
聞き慣れた少女の声がしたので、碧梧はその声の方へ目を向けた。
待ち合わせに三分ほど遅刻してきたあゆみは、明るい笑みで謝るようなポーズをとった。スカートやポシェットなど、全体を淡いピンク色でまとめた、明るい色のコーディネートがひどく眩しい。
「ごめんね、遅れちゃって」
「こんなの、遅刻のうちに入らないよ」
碧梧はさらりとかわして、「チケットを買いに行こうか」と言った。このように積極的に、すらすらと言葉が出てくるなんてことは、昨年は考えられなかったことだ。こういうとき、自分は回復しているのかもしれない、と思う。もちろん、それを深く考えすぎると、余計なぬかるみに足を取られることはすでに知っている。
「碧梧、ジェットコースターとか苦手そう」
「そうでもないよ。というか、たぶん、乗ったことがないな」
「じゃあ、乗ってみましょう? 気分が悪くなったら、わたしがお世話してあげるから」
二人分のチケットを買って、ゲートをくぐる。遊園地は閑散としていた。最近、近くに新しいテーマパークがオープンしたせいだろう、古くからあるこちらの遊園地にはほとんど人がいない。本来はがっかりするところかもしれないが、碧梧にしてみれば、これくらい人がいない方が気楽だった。
「ほらほら、早く!」
あゆみがせかしながら碧梧の右手を引っ張って、迷路やら、コーヒーカップやら、さまざまなアトラクションへと引きずり込んでいく。めまぐるしすぎて、何がなんだかわからない。次から次へと違う乗り物に乗るせいで、初めて乗るジェットコースターも、いまいち記憶に残らなかった。しかし、彼は非常に楽しい時間だと思った。
「ねえ、あゆみ」
「何?」
「次はあれがいいな」
と言って、碧梧が指さしたのは、『動物ふれあいパーク』という看板だった。
あゆみは、くすりと笑って、こう言った。
「碧梧、女の子みたい」
「おかしいかな」
「おかしくないわ。あなたらしいと思う」
僕らしいとはどういうことだろうか、と一瞬思った。しかし、今、それを追求してもしかたがない。彼は口の端を吊り上げてにっと笑った。
こんなふうに、追求すると深みに嵌るような話題を前もって回避するのが、最近の自分はとても上手になったと思う。
『動物ふれあいパーク』は、この遊園地にしてはそこそこのにぎわいを見せており、子どもやカップルが数名、人参などを持って並んでいた。
「このうさぎ、碧梧みたい」
と、あゆみは嬉しそうに人参をやりはじめる。
「僕はそんなに人参ばかり食べているかな」
冗談めかして言ってみると、「あなたも食べる?」と言って、人参を差し出された。
「せっかくだけど、遠慮しておくよ」
「ふふ、それが賢明ね」
そんな会話を交わしながら、ふと、最近の彼女は普通だな、と思う。
普通というのは、超能力者だという感じがしない、という意味だ。
一年前のあゆみは、常に碧梧の心の声を拾い上げては、勝手に返事をしていた。一時期は、自分が口に出して物を言ったのか、心のなかで吐き出しただけなのか、よくわからなかったほどである。
最近は、心を読まれていると感じることすらほとんどない。碧梧が口に出した言葉に対して、彼女が応答する。その繰り返し。
もしかすると、彼女はもう超能力者ではなくなったのかもしれない。
「……碧梧」
「何かな」
うさぎの瞳をじっと見ながら、あゆみはぽつりとこう言った。
「わたし、去年、あなたの前では、どこにでもいる凡庸な女の子になりたいと思ったの。それが、あなたのためにも、きっといいと思った」
さらさらと透明な風が、彼女の髪をすこしだけ乱していく。
乱れた髪のままで、あゆみは碧梧のほうをじっと見つめる。
「君は、最初から普通の女の子だったよ」
碧梧は、すこしだけ飛躍しているかもしれない答えを返した。
それは偽りのない本音だ。
初めて出会った時の東坂あゆみは、サディスティックで、悪魔のようで、超能力者で……確かに、普通ではない少女だったかもしれない。でも、彼女を悪魔に変えるのは、彼女を歪めて見ている大人の方であったり、彼女の能力に畏怖を覚える碧梧のような人間であったりする。本来の彼女はただ、心が読めるだけだ。それは、少女の手には少々余るものではあるし、現実離れした特技でもあるが……少女とこうして当たり前のように会話できる今となっては、単なる個性の一部だと言えないだろうか?
少なくとも、今、こうして彼女と遊園地にいる碧梧は、そう思っている。
あゆみは、心を読んだのだろうか。それ以上は何も言わなかった。言葉がなくても、碧梧はなんとなく彼女と通じ合った気がした。もう、これ以上、何も言わなくてもいい。親しくなればなるほど、無言の時間が増えていく気がする。緊迫した時間ではなく、心地良い無言の時間を適度に共有するのが、碧梧は好きだった。
「碧梧は、変わったね」
「そう?」
「変わったよ。きっと、これからも変わっていくの」
その彼女の言葉は不可解に思えたが、碧梧は軽く笑みながら、
「そろそろお昼ごはんにしようか」
と提案した。
この遊園地には、小さな露店がいくつか出ているようだった。焼きそばやフランクフルト、フライドポテト、ソフトクリームなど、さまざまな軽食が売られている。
二人は、この出店で何種類かの軽食を買って、ベンチに座って食べることにした。
おそらくバイトの店員が作っているのであろう焼きそばやフランクフルトは、それなりの味だった。それでも、室外で食べていると、なんとなく非日常の香りがして、これはこれでとてもおいしく感じられる。
「あ、ソフトクリームは買わないで」
昼食を食べ終わって、看板に書かれたデザートの名前を目で追い始めた碧梧を、あゆみは慌てて止めた。
「え、どうして?」
あゆみは、何をどう言おうか迷っているような素振りで、
「今日、何日か知ってる?」
と問いかけた。
「二月、十四日……あ、もしかして」
得意気に笑ったあゆみは、ピンク色のポシェットの中から、小さな箱を取り出した。
「はい、本命チョコレート」
「……ありがとう」
不思議だった。自分が、こんなふうに女の子にチョコレートを差し出されて、笑顔で受け取っているなんて。
心のなかの薄いもやが、一瞬、晴れかけたような錯覚に陥った。
一年前、死のうと思った自分は、どこへ行ってしまったのだろう?
あまりにも不可思議で、言葉が出なくなりそうだったので、碧梧はごまかすように、
「お返しは、三倍?」
と茶化すように言ったが……その声が、不自然にかすれる。
頬を冷たいものがかするように通って、一瞬のちに彼はそれが涙だと知った。
「碧梧、だいじょうぶ?」
あわてて彼の涙をぬぐうあゆみの手は、冬の空気でかなり冷たくなっていた。
「だいじょうぶだよ。……つい、嬉しくて」
「おおげさすぎるよ、碧梧はいつだってそう」
しょうがないな、と言いたげに笑ったあゆみは、碧梧の手をとって、ぎゅっと握ってみせた。
「でも、わたしはそんなおおげさな碧梧が好き。とても大事に思ってる」
彼女のそんな声を聞いていたら、ますます涙が止まらなくなった。
どうしてだろう、近頃の自分はまともだなんてうそぶいていたくせに。
やはり、自分は情けない男のままではないか。
「おおげさでも、情けなくても、碧梧は碧梧だよ」
――あゆみは、彼の涙が止まるまで、ずっと彼の手を握っていた。最初は冷たかった彼女の手が、徐々にぬくもりを帯びていくのがわかる。
どうやら、こんな自分の手にも人間の血が、あたたかさが、あるらしい。
「後で、紅茶でも入れて、一緒に食べたいな」
涙声のままの碧梧は、できるだけ明るい表情で、そんなふうに提案した。
あゆみは、その様子を見て、ほっとしたように手を離した。
「ええ。そうしましょう。毒入りの紅茶を入れて、不思議の国の、いかれたティーパーティーを開くの」
「『なんでもない日、おめでとう』って?」
「そう。碧梧にとって、なんでもない日が一番幸せでしょう?」
唐突にそう言われて、碧梧は彼女の突拍子もない言葉が、自分の心のなかの本音と一致していることに驚いた。
毎日毎日、不幸と向き合っていたら、『なんでもない日』なんてものは感じられない。
この一年間、この少女が、必死に自分と向き合ってくれたから――不幸から目をそらさせてくれたから、なんでもない日常の尊さがわかった。
碧梧は、やはりこの子にはかなわないなと思いながら、今度は自分から、彼女の手をとって歩き出した。
「じゃあ、帰ろうか。この遊園地、けっこう早く閉園してしまうみたいだし」
「帰る途中で、とびきりおいしい紅茶を買いましょう? 碧梧のおうちで、ゆっくり飲むの」
あゆみがはずんだ声で言うので、碧梧も釣られて声をはずませる。
「そうだね、毒入りの紅茶、売っているといいけど」
毒入りの紅茶のような悪魔めいた少女だった東坂あゆみは、いつのまにか、人ごみのなかに違和感なくまぎれるような、普通の高校一年生となっていた。少なくとも、碧梧には、彼女が前ほど異常者には見えなくなった。
それと同じく、自分のなかに毒を抱いた碧梧自身も、いつしかなんでもない無害な青年になりつつあるような気がする。涙が勝手に滲んでしまうようなことはまだまだあるけれど、これなら前に進んでいけるかもしれない。そんなふうに、碧梧は思った。
20150213