音九Romantic

 王子様は死んでしまいました。
 しかし、お姫様は王子様を愛しつづけました。
 めでたし、めでたし。

 ぼくが夢想し続けた理想的なストーリー。
 なぜだろう、その中で、いつも王子はすぐに死んでしまう。
 残された姫は嘆き悲しむこともあれば、けろりと日常に戻ってしまうこともある。けれど、彼女は王子を忘れない。王子が死んだからこそ、王子を絶対に忘却しない。それは、生き続けて忘れられてしまうより、ずっと理想で、奇跡なのだ。
 ぼくは、死にたいのではなく、死んでもなお、誰かに記憶されたいという願望を持っているのかもしれない。
 死んでも、そこに残されたままで――愛され続ける。
 それって、とても理想的な愛の形なのではないだろうか?
 そういえば、ぼくは幼少時、屍蝋化に憧れていたっけ。
 腐らず、干からびず、そこにとどまり続ける永久死体。
 死んだ瞬間、人は魂と肉体に分断されると言う。通常、魂が本体であり、肉体は入れ物と認識される。だが、ぼくはそれは間違いであると思う。人間の本体は、肉体だ。理由は特になく、ただぼくはそう確信できるというだけの話である。
 目に見えないものよりも、
 目に見える価値を。
 触れられないものよりも、
 触れられる価値を。
 優先しようと思う。
 愛撫しようと思う。
 それは、そんなに異常なことなのだろうか?
 屍を愛好したいのではなく、屍として愛好されたいと思う、どうしようもなく渇望する――そんなぼくは、性的倒錯者なのだろうか。
 しかしそんなレッテル、そんな社会的立ち位置、どうだっていいことじゃないか、とも思うのだ。
 社会的に間違った欲望だとしても、社会に否定されることによって、欲望が消え去ることはない。人間が何かをしたいと思う、何かをまっすぐに愛することを、社会が否定することはできない。殺人願望、屍愛好、カニバリズム、小児性愛。間違っていても、消えないゆがんだ欲望たち。彼らはそう生まれついてしまったのだから、仕方ないのだ。誰かを傷つけても許されるかどうかはまた別の話だけれど、欲望を禁止することは誰にもできない。だからぼくも、このままの形で生きていこうと思う。ぼくの見る夢の中で、王子はまず死んでしまう。姫は王子を最適の環境で、保存する。王子は王子のまま、そのままの姿を残して屍のまま蝋になる。王子は明らかにぼくの顔をしているけれど、姫の顔はよく見えない。死んだぼくを屍のまま愛好してくれる「姫」は、いつかぼくの前に現れるのだろうか。それはまだわからない。


 ぼくの人生について、ぼくは語るべきことを持たない。
 あえて言うならば、ぼくの人生は絶望への布石だ。
 考えてみれば当然で、ぼくの前に理想の女性が現れる確率の低さときたら、もう天文学的なのである。たとえば、一人の女性と出会い、恋に落ちる確率。それだけでもけっこう低いと思う。加えて、ぼくの願望ときたらどうだろう。死にたい。死んだ状態のまま保存されたい。屍蝋になって、彼女と永遠に暮らしたい。そんな願望を受け入れる女性なんているだろうか。もし受け入れられたとしても、ぼくは彼女に、ぼくを殺してくれと頼まずにいられるだろうか。ぼくは生きている間の恋に興味がない。王子は死ぬことが前提なのだ。しかし、死体と暮らしたい、なんて都合のいい願望を持った人間はそうそう存在しない。存在するとしても、ぼくと彼女はどうやって出会うというのだろう。
 わからない。
 わからない。
 わからないわからない――と繰り返しているうちに、ぼくはだんだんと生きる意味を見失っていく。
 願望を満たせない人生に何の意味がある?
 たったひとつ叶えたい願いが叶わない世界に、意味はないのではないだろうか。
 生きていきたいと思う、なんてどうして言えたのだろう。
 苦しむ時間は短い方がいい。
 願いがかなわないのなら、いっそ終わってしまった方がいい。
 それに、死体になりたいという当初の願望も変わらず、ぼくの内側に存在している。
 人生を終わらせたいと言う願望と、屍になりたいという欲望。二つの望みは同じ方向を向いており、一番叶えたい願い――一人の異性との劇的な出会いと恋愛――は叶いそうにない。そうなれば、ぼくが自殺するのはどこまでも明瞭な結論である。誰にだって計算できてしまうだろう。いずれ自殺する自分自身、というものが見えてしまった瞬間に、ぼくの人生は終わりへ向けて転がり落ちる以外の何ものでもなくなっていた。
 そして、ぼくは崖の上に立って、下を見下ろしながら思っていた。
――ぼくを愛してくれる人が、世界のどこかにいるのなら。ぼくが死んだ後でもいい、いやむしろ死んだ後の方がいい、ぼくをそのままの形で愛してはくれないだろうか。
 そんなのは無理だよ、と誰かが囁いた。
 その声を合図に、ぼくは空中に自身を踊らせ、重力に身を任せた。落ちる。岩に叩きつけられて死ぬ自分のイメージが見えた。このとき、ぼくは未来を予知していたのかもしれないが、そんなことはどうでもいい。
 ただ、ああ、人生は簡単に終わるのだな、と思った。


 そのとき、彼女と目が合った。


 彼女は崖の下に裸足で立っていた。白い足が露出している。その白さが目に焼きつく。
 にっこり、と。
 落ちてくるぼくを見ながら、彼女は笑った。
 最高の笑顔、最上のほほ笑み。
 その瞬間、ぼくは奇跡というものの存在を知った。衝撃と共にぼくの体が崖に叩きつけられて破壊される。そんなことはどうでもいいと言いたげに、彼女はぼくの方へ寄ってきた。もう一度目を合わせて、半分しか顔のないぼくに、彼女はこう言った。
「ねえ、はじめまして」
彼女の声だけが世界の構成物になったかのように、声が脳を外側からガンガン叩いて、うるさい。なのに世界はとても静かで、それは声以外の音が何も聞こえないからだと知る。ぼくがずっと出会いたかった、たった一人。彼女はそんな存在だと、ぼくは知る。どうして理解できるのか、そんな理由はなかった。否、いつだって、理解に理由なんてなかった。理解は感覚であり、論理じゃない。
「あなたの名前は、何ですか?」
ぼくの意識はもう遠のきつつあった。だが、ぼくは全力で自分の名前を告げた。
 言い終わった瞬間、もう生きているぼくの仕事は終わったのだと感じた。彼女が返した言葉は、ぼくの耳に届く前に空中で瓦解し始めていた。音が、分裂しているのが見える。音は全部で九個。言葉はもう形を失っている。音はさらに分解されて、空気に溶けて消えていく。ここは、何も聞こえない世界だ。
 魂と肉体が同時に存在する世界の終わりは、すぐそこにある。
 ここから先、ぼくの魂は肉体に干渉することができない。だがそんなの、些細な問題だ。
――求めあう二人が、まるでおとぎ話のように出会い。その衝撃で世界に切れ目が入り、中身が露出して流れ出す。世界の中身はどこかどろりとしていて、人間の体液に似ている。もしかすると、世界とは人間そのものなのかもしれない。それまでの世界なんてただの入れ物、皮にすぎなかったのだと、世界の中身を見て確信する。死んでから、本当の世界が始まる。
 世界は、世界の中身を入れるための、入れ物にすぎなかった。それと同じで、魂は肉体を入れるための入れ物だ。複雑な入れ子構造。魂を裏返して、中身を確認して初めて、人間はそれに気づくんだ。本当に大切で美しい本体は、魂じゃない。身体だ。
 そんなことを今更のように確認するぼくと、顔が半分しかないぼくを笑顔で見据える彼女の世界は、どこへも続かない。どこへもつながらないし、どこへも行かない。だからこそ価値がある。不変であること。ぼくが今まで求め続けた価値だ。いつまでも存在するということは最高の、価値だ。いつまでも触れられるものに、ぼくはなりたかった。
 魂には触れられない。魂には価値がない。肉体には触れられる。肉体にこそ価値がある。
 最後のわずかな力で顔をあげると、彼女とまた目が合った。視線で接続する。彼女とぼくの世界をつなぐ。生きている彼女と死んでいるぼく。二人はとても美しく類似形で、釣りあっている。素敵で死的なロマンティシズム。
 そんな奇跡的な出会いの瞬間、ぼくは、死んだ。死ぬことを不幸だとは思わない。あくまでも、本番はここから始まるのだから。王子が死んでから始まるとても理想的なおとぎ話は、今この瞬間に幕を開ける。
 倫理なんて関係ない。
 論理なんて意味がない。
 ただ、大好きな人を大好きな物として愛する生活が始まるだけだ。
 ぼくの魂の存在しない場所で、ぼくは生き続けるだろう。
 願わくば、この身体が美しい屍蝋にならんことを。





091017